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 土曜日は幸いにして快晴で、気温も少し上昇した。ダウンジャケットにマフラー、手袋という装備で外に出ると、息こそ白くなったものの、体感的にはさほど寒くはなかった。

 集合時刻は九時半、と琉夏さんに指定されていた。彼女にしては破格の早さだ。まず間違いなく、普段なら起きてさえいまい。しかしそれほどじっくり調べるべきことが、あの公園に残っているだろうか――。

 約束の五分前に現地に辿り着くと、酒入さんの姿はすでにそこにあった。私に軽く手を振って寄越す。「おはよう。わざわざ私の依頼のために集まってもらっちゃって」

「いいよ。私たちも竜の秘密は気になるし。肝心の部長はまだなのかな」

「もう来てるよ。ちょっとコンビニで買い物だって」

 なんと私が最後だったとは。「今回はずいぶん気合が入ってるんだなあ、あの人も」

 ややあって、ポリ袋を携えた琉夏さんが道路を渡ってきた。私たちの姿を見とめると、足早に接近してきて、

「お待たせ。じゃあ調査に入ろうか」

 酒入さんと視線を交わしたのち、同時に頷いた。三人で園内に足を踏み入れる。

「『宇治拾遺物語』の『蔵人得業猿澤池ノ龍ノ事』には、鼻蔵と綽名される僧、恵印が登場する」

 琉夏さんが急にそんなことを語りはじめたので、私は思わず、

「なんですか? 前回の模試の話?」

「手塚治虫のキャラっぽいこの鼻の大きな坊主は、何月何日にここから竜が昇る、と書いた看板を池のほとりに立てる。この話では単なる悪戯で、竜は現れない。でものちに芥川龍之介の書いたバージョンだと、ちゃんと出てきて昇る。それは舞台である猿沢池に、もともと龍神の伝説が存在したことに由来する」

「――と、楠原さんがお昼休みに解説していた」

「していた。あいつの言葉を引っ張ってくるのは癪だけど、腹立たしいことに必要な情報が纏まってる。物語があるんだから、竜が昇るのは必然。それがいつなのかは、看板によって予言されている。私たちが対峙してる状況とそっくりなんだよね」

 私は腕組みをし、「竜をモチーフとした創作物を数多く残した芸術家、天沢清雲がデザインした公園が舞台である、という物語。それはいいです。でも看板は?」

「あるじゃん」と琉夏さんは笑った。「あれ」

 彼女が指差したのは、斜めになった円盤の中央から突起が伸びている、パラボラアンテナを思わせる謎のオブジェだった。話を聞いたあとだからだろう、僧の恵印の顔であるかに思われてくる。ふたつの目、特徴的な高い鼻、歯を見せて笑っているかのような口。尖った二本の牙は、この見方だと八重歯といったところか。

「鼻の大きなお坊さん――に見えなくもないオブジェがあるからって、予言とまでは言えないのでは」と酒入さんが指摘する。「古典と照らし合わせた文脈を理解してもらうこと前提で、天沢清雲はあれを作ったということなんですか?」

「いや、ぜんぜん。話はもっと単純。あのオブジェ自体が、竜の出現をちゃんと示すようになってるんだよ。でも一目見ただけじゃ、その仕組みには気付けない」ここで琉夏さんが私を振り返り、「皐月、先週ここに来たときの滞在時間はどれくらいだった?」

「五分か、せいぜい十分でしょうね」

「そんなもんだろうね。あの寒さじゃ、誰だって長居はしたくない。だけどそれじゃ駄目だったんだよ。竜を見るためには、竜を信じる心が必要だから」

 さて、と人差指を突き立てる。私と酒入さんを順番に見つめながら、

「竜に会いたい気持ちをみんなで届けようか。どうすればいいと思う?」

「どうって、どうしようもなくないですか?」

 困惑気味に問い返すと、琉夏さんは微笑して、「これはまさに、どうしようもないときにどうするかって話なんだよ。竜という伝説の生き物に会いたいと願うとき。試験時間が有り余ってるのに問題が難しすぎて手が出ないとき。そう、祈るしかないね」

「祈るって――」私はさらに困惑して、「祈ってなんになるんですか?」

「とりあえずやってみよう。やり方は自由でいいよ」

 促されるままに、ひとまず両手を胸の前で組み合わせてみた。「これでいいですか?」

「まるで良くない。祈りパワーが足りてない」

「強く祈れと?」

「そうと言えばそうだけど、本質はそこじゃない。つまり祈るって行為はさ、同じ場所で同じ姿勢を、ある程度の時間に渡って維持するものでしょ? 白紙に近い回答用紙を睨みながら、奇蹟を待ちながら」

 ようやく合点がいった。「五分や十分じゃ駄目って、そういう意味ですか。いや、でも、言ってしまえばそれも本質じゃないですよね。いい加減に種明かししてください。じっと待ったら、いったいなにが変わるんですか?」

「ただ待ってるだけでも動くものがあるんだよ。今日なんかはいちばん分かりやすい日だね」琉夏さんはアンテナのオブジェに近づいていき、その突起の下方を指差した。「これだよ」

 ああ、と酒入さんが反応した。「影ですね。その顔は、大きな日時計なんだ」

「その通り。地球は二十四時間で一回転するから、一時間につき十五度ずつ影が動く。だけどただ平置きした円盤の中心に棒を立てただけじゃ、時計としては使えない。北極以外の場所では緯度の影響が出るからね。修正する方法はいくつかあるけど、いちばんシンプルなのは棒を地球の軸と同じ角度に、つまり北極星に向けて、文字盤は赤道と並行にすること。要するに、こんなふうに文字盤自体を傾ければいいわけ。日時計は太陽が出てる時間帯にしか機能しないから、目盛りは下半分にだけあれば充分。笑った口の形に見えるのはそういう理由だね」

 滑らかに説明したのち、琉夏さんは体を反転させた。日時計の両目と同じ方角に、自身の顔を向ける。

「単なる日時計なら、影を作るための軸と、目盛りだけがあれば用は足りる。わざわざ目まで作ったのは、別の意図があったから。そしてもうひとつ。目盛りになってる歯のうち、二本が犬歯なんだよね。これにももちろん意味がある。鼻の落とす影が犬歯、つまりは矢印の示す時刻を指すとき、目の見つめている場所を見ろ――そういうメッセージなんだよ」

 私たちは一列に並んだ。厳粛な祈りを捧げながら、そのときを待つ。もっとも琉夏さんはコンビニで調達してきたお菓子を平然と摘まんでいたので、やや信心が足りていなかった感じがあるけれど。

「時間だ」

 なんの変哲もない公園の、平坦な砂地に現れた光景を、私は生涯、忘れることはないだろう。翼を雄大に広げた、黒々たる影。それはまさしく、いままさに空へ飛び立たんとする竜の姿そのものだった。

「輪郭の記憶だけが鮮明で、どうしても顔を思い出せなかったのも、これで説明が付く。竜は空想と現実の、ちょうど狭間の存在ってわけだ。そして矢印がふたつあるってことは、一日に二回見えるはず。それぞれ違った見え方をするんだと思うよ。朝に舞い上がっていったなら、きっと夕方には舞い降りてくるんだろうね」

 影を映し出している立役者は、パイプを捻じ曲げて組み合わせたかに見える、もうひとつのオブジェだった。特別な時間に、特別な場所にいた人間のみが、竜と巡り合う僥倖に恵まれる――それこそが、天沢清雲という芸術家の仕掛けたイリュージョンだったのだ。

「竜は物体として存在していたとも言えるし、してなかったとも言える。空を飛んでいたとも言えるし、地上にいたとも言える。動いてたとも言えるし、動いてなかったとも言える――」

 部室での琉夏さんの言葉をそっくり反芻すると、彼女は得意げに、

「竜は決していなくなったりはしません。会いたいという思いさえあれば、必ずその姿を見せてくれます。竜はいつでも皆さんと一緒なのです。いやあ、分かりにくいね。でも魔女は最初から、その秘密を知っていた。でしょ?」

「久しぶりだね」魔女の末裔が、十一年越しの再会を祝してそう呼びかける。酒入さんはじっと影の竜を見つめたのち、空へと視線を投げて、「私たちの旅は、これからも続く。ねえ、お祖母ちゃん」

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竜を見るには竜を 下村アンダーソン @simonmoulin

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