痛みで塗り固めた世界

「えっ……⁉」

 亮二の肩を掴んだ瞬間、亮二から色が消え、焦った表情のまま亮二の体が固まった。

 僕はとっさに手を離す。

「え、何……。どうして……」

 時間が止まる現象……。もしかして、罰欲センサーが発動したのか? でも、僕は痛みなんて感じてない‼

 そう思っていると、地面が大きな音を立てて縦揺れを始めた。轟音が僕の鼓膜を大げさに刺激する。僕は立っていられず地面を這いつくばる。でも、建物は崩れない。亮二は戸惑った表情のまま動かない。

「ええっ⁉」

 地震? この世界の時間が止まったはずなのに? どうして?

 少しすると、地震は止まった。白黒の世界は崩れることなく存在している。まるで、パソコンで画面をマウスで動かしたみたいな揺れだった。

 この状況に混乱していると、背後からくすくすと笑い声が聞こえた。

「ハイイロさん⁉」

 僕は立ち上がって振り返り、フードを被った少年のシルエットを目に捉える。

 ハイイロさんは、街からの白い光の逆光を受け、くすくすと笑っている。地面には、人ではないものであると強調しているように、ハイイロさんの影がない。

「えっ……」

 そしてまた、僕はありえないものを目に捉える。嫌でも目に入ってくる。

 ここから見渡せる住宅街。その営みが灯す光の温かさはどこにもなく、まるで世界は白黒に印刷されたように、色を失っていた。しかし、白と黒以外にもう一つ、はっきりと色が存在していることが分かる。

 それは、上空に存在している。

 黒い夜空に浮かぶ白い星々。神秘的とは程遠い星空の前には、巨大なひび割れがいくつも生まれている。そのひび割れはまるで人の肌の赤切れのようで、今にも血が流れてきそうなほどに、この世界を赤色に浸食し始めていた。

「な、何これ……」

 この世のものとは思えない光景に、僕は声を上げる。

「キミの痛みで塗り固めた世界が、崩れようとしているんだよ。そう、タイムリミットがもうそこまで迫ってきているってことだね」

 ハイイロさんのにやりと口角を上げた口が、完全な白色として真っ黒なハイイロさんの表情に浮かんでいた。

「どうして⁉ 制限時間は七日間のはず! まだ三日間しか経ってないのに! うわあっ⁉」

 また、さっきと同じ地震が起きる。僕は金網につかまり体制を整える。上空では、更にひび割れが大きくなっていく。

「あっははははっ!」

 大きな揺れの中、ハイイロさんはまるでこの世界に一体化しているみたいに、ピクリも動じず笑っている。この地震で揺らされているのは自分だけなのだと自覚する。

 揺れが収まると、ハイイロさんは言った。

「どうしてタイムリミットが七日間だなんて思い込んでいるんだい?」

「だって! あの時僕は包丁で……!」

 僕は、四日前のリビングの光景を思い出しながら言う。

「ふふっ、それだけで? キミ、ボクに制限時間を聞かなかったじゃないか」

「え……もしかして最初から?」

「ああ、そうさ。キミが三日前目を覚ました時点で、三日間の制限時間が設けられていたんだ」

「なんで⁉ どうして制限時間が減っているの⁉ うっ⁉」

 これ以上質問はさせまいとでもいうように、また地震が起きる。僕はまた金網につかまる。上空の赤切れのようなひびがさらに大きく口を開け、そこからどろどろとした赤い液体が垂れてくるのが分かる。

 そして、揺れが収まる。

「そんなことより、キミはこれからどうする? まだこの世界に居座る? 元の世界に戻る?」

「えっ……」

「すべてキミの判断に任せるよ」

 そう言ってハイイロさんは口角を上げ、この世界の陰に隠れていくように消えていった。

「そんなこと言われたって……」

 まだ僕はこの世界にいたい。その意志は、僕の中に根強く存在している。でも、どうして? と自分の中で疑問になる。

 亜黒の話を聞いた後に、僕は思ったじゃないか。自分で自分を罰するなんて、自分勝手なんだって。

 自分を傷つけても、何も変わらないんだって。

「あああああああああああああああああああああっ‼」

 僕は誰にも届かない叫び声をあげる。自分勝手とかどうにもならないとか、もう嫌だ。僕はただただ許されたいんだ。亜黒に告白できるような自分になりたいんだ。

 僕は金網から手を離し、グラウンドへと走った。

 自分を傷つける選択肢を、僕はとった。

 体育館や部活倉庫の裏を走って、グラウンドへ出た。

「あああっ……」

 そこにいたのは、帰宅し始めようとした生徒たち。時間を止められて、微動だにしない。

 そして、グラウンド中に、赤い液体が上空からばらまかれた。

「あっ⁉」

 僕は上空を見上げる。グラウンドの丁度真上に、そのひび割れは浮いている。傷が開ききった赤切れのように、血のような赤い液体を垂らしている。

 これが、僕の今まで受けてきた痛みの象徴なんだと、僕は理解する。

 こんな地獄のような光景から逃れたくて、僕は校舎へと砂を蹴って走る。

 土足で校舎に入り、真っ黒な廊下に入る。その廊下を駆けながら、自分を傷つける方法を模索する。

 反射的に、頭の中で包丁のシルエットが浮かぶ。

 包丁のあるところ……。と考え、家庭科室しかないと思い、別校舎へと渡る廊下へと走ろうとする。

「ああああっ⁉」

 そんな僕の行く手を阻むように、また世界が揺れる。

 僕は廊下の隅に投げ出され、うつ伏せになる。

 揺れが収まって、目を開けると、教室のガラスに何か赤い線が映っているのが見えた。

「これって……」

 そこに映っているのは、僕の記憶だった。

 交差点から伸びる坂道。坂道の、一軒家の石垣に突っ込んで醜い形へと変貌した自動車。バッグから散乱する教科書やノート。石垣や歩道に着いた血痕。それらを照らす信号機や車庫の明かり。そしてその下の交差点の歩道で、僕がうつ伏せになって倒れている。そして、だんだんと赤い糸に世界が包まれる。

 初めて魔法が発動した時の光景が、鮮明に何枚ものガラスに防犯カメラ映像のように映し出されていた。

「いや、いやだよ……」

 そうだ、ここから始まってしまったんだ。でも、こんな光景を見せられたって、どうにもならない。

「んっ‼」

 そう言って僕は、別校舎へと駆け出す。廊下から見える外の景色は、だんだんとひび割れに包まれていく。

 そのまま僕は家庭科室のある校舎まで走る。

 家庭科室と書かれた札が見えたと思ったとき、また世界が揺れる。

 僕はトイレの入り口の壁につかまり、何とか体を安定させる。

「はっ……」

 そしてまた、僕は息を呑む。揺れが収まり、僕はトイレの入り口の鏡に映っている映像に目を凝らす。

 あれはまた別の、自分を傷つけた記憶。

 いつかのホテルのユニットバス。血だまりがこびりつく空の浴槽。白い床に放り投げられた真っ赤なカッターナイフ。バスタブの縁に置かれた、切り傷のついた腕。そこから伝う、涙のような流血。詩織先生のドアのノックに、力なく膝から崩れ落ちる僕は震えている。

 そして、ユニットバスの部屋がだんだんと、ペンキで塗り固められたみたいに真っ赤になっていく。

「やめて、やめて……」

 僕は冷たい壁から手を離し、家庭科室へと向かう。

 ガラガラと引き戸を開け、誰もいない家庭科室の中に入る。外の赤い光が、真っ暗な家庭科室へと差し込んでくる。

 何台もの調理台を通り越して、僕は奥にある食器棚へと走る。

 その食器棚へと手を付けると、目を逸らさせないとでもいうように、食器棚のガラスがまた別の記憶を映す。

「……」

 僕はもう、声が出ない。

 そこはいつも通りのはずのリビング。キッチンの戸棚に僕は背中を預け、その左腕からはだらだらと馬鹿みたいに血が溢れ、平和なはずのリビングが痛々しい色の血液に浸食される。シンクの縁には真っ赤な包丁が置かれ、刃を外側にむき出しにして、キッチンマットに血液を垂らす。リビングの入り口にはしゃがみ込んで絶望の表情をしたまま時間を止められたお母さん。

 赤い糸がニュルニュルと血だまりから生えてくる中、僕は狂ったように笑い、こんなことを言う。

「ぼく、こうやって傷ついて、みんなからゆるされてるんだ……。だって、当然でしょ? こんなに痛いんだもん……。これで七日間、みんなからゆるされるんだよ? 悪いことをしたひとは、ちゃんとした痛みがひつようになるんでしょ? 僕はそれをじぶんでうけてるんだよ? もう少し、もうすこしで亜黒に告白ができる。それまで、僕はこのいたみでゆるされてもいいでしょ?」

「アハハハハハハ‼ もう苦しくも悲しくも、なんともないよ? そうすれば、僕は幸せだけ感じることができるでしょ?」

 僕は赤い糸の流れに身を委ねながら、狂ったようにそんなセリフを吐く。

「いやあああああああああああああああああああっ‼」

 僕はそう悲鳴を上げ、両手で食器棚の取っ手を掴んで右に引く。

 中の食器はその衝撃でがしゃんと悲鳴を上げる。

「んっ!」

 ほぼ半泣きで、僕は食器棚の中に手を突っ込み、中から包丁を取り出す。

 強引に取り出したせいで、中から皿が何枚も溢れ出し、割れていく。

 あの時僕は、なんてことを言ってしまったんだろう。自分を傷つけるのは苦しいことなのに。悲しいことなのに。

 あの時の記憶は、まだ食器棚のガラスに映っている。

 あの時の僕はもう、心を壊していくしか方法はなかったんだ……。この時、僕はこの罰欲センサーが自分勝手な魔法であることくらい、分かりきっていたんだ……。本当はただただ、その事実から目を背けたかっただけなんだ。どうして自分勝手なのか、僕はその意味をうまく呑み込めなかったんだ。

 僕は皿の破片が散らばった床に、包丁を持ちながら、力なく崩れ落ちる。

 破片が僕の膝や足に刺さる。

 痛いと、僕は思っている。苦しいと、僕は思っている。悲しいと、僕は思っている。

 僕は震えた手で、包丁を腕に当てる。

「あ、ああああああ……」

 声が、震えている。

 今まで、自分を傷つけるときにどうしていたのか、僕は思い出せなくなる。

 まだ赤色に染まっていない包丁には、涙の伝う自分の顔が映し出されている。

 ……あれ、今まで僕は、どうやって……。

 自分を傷つけるのは怖い。こんなことしてもどうにもならない。この魔法は自分勝手だ。そう、自分の理性が叫んでいる。傷つくのを拒んでいる。

 でも。

「でも今更、どうしたらいいって言うんだよっ!」

 僕はすべての理性を振り払って、包丁を引いた。

 そうか、そうかと、僕は理解し始める。

 何も、僕は考えていなかったんだ。何も、僕は考えたくなかったんだ。ただ、許されたかった。亜黒のいない世界が怖かったんだ。

 ……なんだ。全部、僕の私利私欲じゃないか。

 ……正当な罰だとか言い張っておきながら、僕のやっていることは、罪から逃げ続けようとしていることと一緒だったんじゃないか。

 床に寝転がって、皿の破片が散らばる床の上に、包丁で切った跡のついた腕を眺める。散らばった破片の上に血液が流れ始め、意識の抜けていく感覚を味わう。

 そうだ。こうやって、いつも発動するのを待っていたんだ。

 そうして、僕は感覚を取り戻そうとする。

 しかし。

 何秒経っても、あの赤い糸が現れない。

「えっ……、どうして⁉」

 僕は上半身を起き上がらせる。血液がだらだらと流れる、切り傷のついた左腕を持ち上げる。

「ねえ、ハイイロさん‼」

 泣きわめくように僕はそう叫ぶ。

「なんだい?」

 後ろから声が聞こえ、とっさに僕は振り返る。

 ハイイロさんは、教壇の前に立って、フードをかぶってポケットに手を突っ込みながら無表情で僕を見下していた。

「どうして、魔法が発動しないの……?」

 そう尋ねると、ハイイロさんはこれ以上ないほどに口角を上げ、答えた。

「さあ、まだ痛みが足りていないんじゃない? あと二回ぐらい腕切れば、丁度いいくらいになるんじゃないの?」

「えっ……。どうして……」

 ハイイロさんはその質問には答えず、僕の傷を見ているのがおかしくてたまらないというように笑い、消えていった。

 その時、外が真っ赤な色に変わった。

「え……」

 家庭科室の窓を隔てて存在しているのは、もうただの赤色だった。そして、家庭科室の調理台や天井、黒板、蛍光灯、食器棚、すべてのものが、皮膚がただれていくみたいにどろどろとした赤い液体へと変わっていく。

 もうすぐ、タイムリミットが終わってしまうんだと分かる。

「もう、いや……。いやだよ……」

 僕はどろどろになっていく床に、涙を落とす。その涙はどこに落ちたのかさえ分からなくなっていく。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ‼」

 僕はすべての理性を吹っ飛ばし、そう叫びながら二回腕を切った。


「はあ、はあ、はあ……」

 まるで猛獣に引っかかれたかのような、いや、切れ込みの入ったウインナーのような腕を見ながら、その切り口から赤い糸がうじゃうじゃと生えてくるのが分かる。

 罰欲センサーが発動したんだ。

 そう分かると、僕はどろどろの床に身を委ねて、世界を赤い糸が包むのを待った。


 気が付くと僕は、自室のベッドの上で目を覚ましていた。

 

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