世界の時間

 保健室を出ると、僕はほぼ真っ暗な廊下に吐き出された。保健室のすりガラスからしか、ほぼ光は発せられていなかった。

 僕は、亜黒の話を聞いた後、あることが疑問になっていた。

 それは、亮二はこのことを知っているのだろうか、というものだ。

 廊下の窓から校門への道が見える。そこにはまだ、生徒の影がぽつぽつとある。亮二は、まだ帰っていないと思い、校門へ僕は向かおうとする。

 すると、廊下を歩く詩織先生に見つかった。廊下の暗さのせいで顔に翳りができていても、のんびりしていて優しそうな表情は変わらない。

「あ、眞白君、亜黒君大丈夫だった?」

「はい、顔色もよくなってます」

「そう、良かった。これから帰るの?」

「はい」

 僕は、左手にさげたバッグを見下ろす。中には濡れてしまった制服が入っている。その重量を感じながら、僕は言った。

「じゃあ、あの、早く帰らないといけないんで……」

 そう言うと詩織先生はふふっとほほ笑んだ。

「そうね、もう外暗いから、気を付けてね」

「はい」

 そう返事すると、僕は玄関へと向かい始めた。


 校門に差し掛かるところに、亮二はいた。外はもう暗くなり、街中に電気が灯りはじめ、そろそろ夕食だとうきうきしているような雰囲気が住宅街を包んでいて、寒い夜の風が、それをかき乱していた。

 周りの生徒たちも、家に帰ったらゲームしようなんていう話題で盛り上がり、解放感に浸っている。

「亮二くーん!」

 僕は走りながら亮二の背中に手を振る。亮二は僕の声を聞きつけ、振り向いて目を見開いた。

 僕の所まで走ってきた亮二は、僕の姿を見て訊いた。

「あれ、なんでジャージ?」

 そんな気の抜けた質問に答える余裕も、頭も持ち合わせていない。僕はただ、目の前のことに必死でそれどころではない。

「とにかく、訊きたいことがあるの! ついてきて!」

 そう言って僕は亮二の腕を掴んだ。

「え、ちょちょちょちょ……!」

 

 亮二が、亜黒がオーバードーズをしていることを知っているのではないかと疑っているのは、とある出来事があったからだった。

 あの日、亜黒への告白ができずに帰宅して、僕は布団の上でただただ天井を見つめていた。心の中に巣食った虚無感のようなものが、だんだん僕を蝕んでいくように思えたのを覚えている。

 ハイイロさんの言葉を思い出しながら、僕はため息をついた。何が正しいのか、何が悪いのか、そんなことを考えるのに疲れ切っていた時、携帯の軽快な着信音が、冷たく暗い空気を乱暴にかき乱すかのように鳴った。

 スマホの画面には、亮二からの着信と書いてあった。

 スライドで応答。そんな文字をなぞり、僕は電話に出た。

「もしもし……」

 僕の機嫌を伺うようで、どこか暗い印象のある吐息交じりの低い声に、僕は驚いた。何か重たいものを抱えているんじゃないかと思って、かき乱された冷徹な空気はだんだんともとに戻っていく。

「もしもし?」

「あ、まーくん……。今、もう帰ってきてる?」

「うん……」

「亜黒は、大丈夫だった?」

 そう言われて、今日見た亜黒のことを思い出す。カラオケで泣きじゃくる亜黒、マックで倒れかける亜黒、トイレの中で嘔吐する亜黒、僕の肩に寄りかかる亜黒。

「うん……。ごめん、せっかくの機会作ってくれたのに」

「大丈夫だよ。俺がまたとびっきりのやつ考えてくるから!」

「……ありがと」

「うん、まあ、あんまり思い詰めすぎんなよ。まーくんは悪くねえんだから」

「そうだね……」

 僕の返しには、なにか悪い現実から目を背けようとするような、小さな笑みが含まれていた。一気に冷や汗が湧き出るような感覚を覚えた。

「ねえ、亜黒の体調が悪くなった理由、何か知ってる?」

 そして僕は、そんな質問をした。

 なぜか亮二は、そのあと黙り込んだ。息を呑むような音が微かに聞こえ、動揺のようなものが感じられた。


 今思えば、あの動揺は亮二が亜黒のことを知っているから出てくるものだったんじゃないか?

 だったら、どうして亮二はそれを止めなかったんだ?

 僕は、亜黒のやっていることを止めてほしいと思っている。自分を傷つけてもどうにもならないと思っている。

 だけどそう思うたびに、お前はどうなんだと誰かから問われている気分だった。


 誰も使わない体育館の裏。住宅街に明かりがともる中、僕達だけはその流れに逆らうように、真っ暗な苔の生えた地面を踏みしめていた。

 僕はそこまで亮二を連れてきて、問い詰めた。

「あのさ、今日、亜黒が倒れたんだ」

「えっ……」

 亮二の瞳がぎゅっと小さくなり、電話の時よりも何倍もの動揺が伝わる。やっぱり、亮二はこのことを知っている。

「それでさ……」

 僕は手に下げたバッグのチャックを開ける。中にあるブレザーを取り出して、内ポケットから睡眠薬のブラスターパックを取り出す。銀色の紙が、遠くからの街灯の光を反射する。

「これが、亜黒のポケットに入ってたんだけど」

「……っ⁉」

「僕はこのことを先生に隠し通したけど。ねえ、これってどういうこと? 亮二、もしかしてこのこと、知ってるんじゃないの?」

 低い声で僕は問い詰める。あれ、君に亮二を問い詰める権利なんてあったっけ? と、心のどこかで僕は自問自答する。だけど、僕は僕を止められない。

「俺は、止めようとはしたんだ! でも!」

 そんなことを言っても、今の僕の耳にはもう届かない。僕の好きな人が、自分で自分を傷つけていた。何度も何度も僕は自分を傷つけて、何回も何回も痛みを味わって、僕が分かったのは、亜黒は僕と似ているようで似ていない人間だったということだけ。

 亜黒の奏でる音色にあったのは、多分、亜黒自身の背負った罪なんだ。僕は今まで、ずっとそれに手を伸ばそうとしていたんだ。

 そんな現実を、僕はどう受け止めればいい?

 僕はこの世界にとって異物である以上、僕は僕がどういう存在であり続けるべきか、ずっと自問自答してきた。時には自分を責め、時には無意味に希望を持ち、最終的には自分の心を壊してまで自分は自分を受け入れてきた。

 でも、もう疲れたんだ。

 何もかも壊してしまいたい。罪を犯してしまう前から戻りたい。誰だって、そう思うだろ?

 もう僕は、正気ではなかった。自分の中に溜まりに溜まった気持ちのはけ口を、僕はずっと求めていた。

「ごめんまーくん! 俺がちゃんと、本気で止めなかったから!」

「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいっ!」

 だめ、感情的になっちゃ。また、繰り返してしまう。僕の理性が、何とか引き留めようとする。でももう届かない。

 僕は亮二の肩を強くつかむ。その中の骨組みの感触が伝わるくらいに。


 しかしその時、世界が白黒になって、亮二の、いや、世界の時間が止まった。

 そして、地面が轟音を立てて揺れ始めた。


 

 

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