それだけは

 僕と亜黒のいるカラオケルームの中に響いているのは、画面から流れるチャンネルの司会のお姉さんの声だけで、彼女はなんだか気まずくなってしまった場を盛り上げようとする人みたいだった。

「一番の盛り上げ役がいなくなっちゃったわけだけど……。何か歌う?」

 目の前に座っている亜黒が、ようやく声に出す。

「俺、そんな歌う気分じゃないし。好きな曲歌っていいよ」

「ええ、でも、僕もあんまり曲には詳しくなくて……」

 亜黒は歌う気力がない。僕はそもそも曲自体に疎い。隣の部屋からまるで歌い手さんなんじゃないかと思うほどの歌唱力のある男性の声が聞こえてくる中、僕達の部屋は段違いに静かだった。亮二がいないと、こんなに盛り上がらないのかと僕は思う。

「じゃあさ、電車で聴いた曲を歌ってみれば?」

 亜黒が曲を検索しながら、いたずらっぽく言う。

「えっ? でも僕英語の発音苦手だし、そもそも歌うの得意じゃないし……」

「大丈夫だって、馬鹿にしたりしないからさ」

 そう笑いながら、亜黒はタッチペンで予約を済ませる。瞬時に画面が切り替わり、亜黒がよく弾いている曲の題名が表示される。

 小さなギターの音が流れ、カタカナの読みが振られた英語の歌詞が表示され、だんだん僕は緊張していく。亜黒の演奏を聴き続けた僕ならいけるはずだ。マイクを握りながら僕はそう思って、声を出した。

 カタカナ的な英語の発音が、マイクを通して部屋を包む。これ、中学生がカラオケで歌うような曲じゃないよね? と僕はそれなりに歌えている自分にびっくりしながら思う。部屋の前の廊下を歩いている人は、少しは驚いているんじゃないだろうか。そんなことを妄想し、いつの間にか僕はその曲の世界に入り切って歌っていた。亜黒は、コーンポタージュを飲みながら僕の歌声を聴いていた。

 曲が終わり、またチャンネルが流れ、司会のお姉さんの声が聞こえると、僕は席に座った。

「どうだった? あっくん」

「めちゃくちゃいいよ。全然下手じゃない」

「よかった~」

 そう安心して、僕はあることを思いつく。

「ねえ、あっくんのピアノの演奏で、僕が歌ったら面白そうじゃない?」


 僕は、単純に面白そうだと思って、何も悪意のない意味でそう言った。


「えっ……」

 僕がそう訊いた時、亜黒はこれまで見たことのないくらい、胸を一気にえぐられたような、今にも泣きだしそうなくらいに切ない表情をしていた。その顔は、なにかに追い詰められているようでもあり、申し訳ない気持ちでいっぱいになっているようでもあった。

 そして亜黒は俯く。顎が襟に隠れ、目元は前髪に隠れて影がかかり、きつく結ばれ震えている口だけが目に入る。

「あっくん?」

 僕はそう声に出す。

「ごめん、それは無理……」

 亜黒がそう言った途端、僕は亜黒の触れてはいけないことにもう一度触れてしまったのかもしれないと思った。

「あ、ごめん。いやだよね……」

 僕はとっさに謝る。自分が傷つくのは良くても、亜黒が傷つくのだけは、それだけは、絶対に嫌だ。

「別に、まーくんは悪くない……。ごめん、ごめん……」

 その言葉を聞いて、僕は、亜黒は自分を責めているように見えた。

 亜黒の頬を、涙が伝っているのが分かり、僕は席から立ち上がる。

「あ、あっくん⁉」

 僕はテーブルを回って、亜黒の所へ行く。

「え、どうしたの⁉ 大丈夫⁉」

「うっ……。はっ……うぅぅぅ……」

 僕は亜黒の隣に座って、亜黒の肩に手を当てる。呼吸が荒くなっていく亜黒を見て、僕はどんどん焦っていく。亜黒が泣いてるのを見るのなんて初めてで、涙でぐしゃぐしゃになった亜黒に対して、どう接すればいいのかわからなくなる。

「ごめんまーくん……。ほんとにごめん……」

「え、どうして謝るの? あっくんは何も悪くないよ! とりあえず落ち着いて……。呼吸が荒いよ……」

 僕はそう言って、亜黒の背中に手を当てる。画面の中のチャンネルでは、司会のお姉さんと新人歌手が仲睦まじく場違いに明るく話している。

 今日の亜黒はいつもと違うと、僕は背中に手を当てながら思った。今日はいつもより、亜黒はなんだか弱々しくて、痛々しい。僕にはその理由が分からない。なぜ、亜黒は自分を責めているのかもわからない。だんだん不安定になっていく亜黒に耐えられなくて、僕は言う。

「とりあえず、カラオケ出よう?」

「うん……」


 僕は会計を済ませ、外へ出る。肌寒い空気に触れ、曇り空や目の前のショッピングセンター、止まることなく流れていく車やバスが目に映る。亜黒はハンカチで涙をぬぐい、僕と一緒にカラオケを出た。

「さっきは、大丈夫だった?」

 ピアノのことについて話した瞬間、亜黒は泣き出してしまった。その理由は分からないけど、僕はそんな感情の起伏がおかしくなってしまったような亜黒を心配した。

「うん、心配かけてごめん。じゃあ、マックでも行く?」

 そう言うと、亜黒はさっきまでの泣き顔を振り払おうとするみたいに、ぱっと笑顔になった。僕にはその笑顔が、なんだか無理をして出されたような気がして、ちょっとした寒気を覚えた。それでも、また亜黒を心配してしまうのも違うと思い、

「うん」

 と、亜黒がどんな気分であるかも知らないで言った。


 僕たちはショッピングセンターのマックの中で、多くの人が行き交うがやがやとした空気の中、二人で向かい合って適当に注文したハンバーガーを食べていた。

 壁側の席に座る僕はポテトを食べながら、スマホで今の時間を確認する。

 丁度十一時。早めの昼食だけど、まあいいかと思い、スマホを閉じてショルダーバッグに入れる。

「ねえ、映画とかまだあるけど、無理しなくてもいいからね?」

 僕は目の前の席に座っている亜黒にそう言った。亜黒は咀嚼しているハンバーガーを飲み込み、

「うん」

 といった。

「ねえ、映画まで結構時間があるんだけど、どこかで時間つぶせないかな?」

 僕は今までと同じように何か他愛のない話をしたくて、亜黒に言った。

「あ、じゃあ本屋さんとかどう?」

「ああ、いいかも!」

 そんな話をできることに安心しきって、僕達はハンバーガーを食べ終わった。コーラを最後まで飲み切り、僕は言った。

「じゃ、行こっか」

 僕はそう言って、立ち上がる。

 トレイを持とうとした、その時だった。


 机に手をついて立ち上がろうとした亜黒の体が、くらっと傾いた。


「あっくん‼」

 僕は、そう叫んでいた。

 ピクルスを残して食べる子供をしつけようとする母親、テストの成績の話をする女子高生、一人ハンバーガーを食べるおとなしそうな女性。僕達の周りの人達の手が一瞬止まり、僕達を見る。マックの店内だけが、やけに静まる。

 亜黒の体を、僕の両腕は何とか受け止めた。

 亜黒の体重がすべて僕の両腕にゆだねられているのを感じて、僕はあることを思う。

 これは、亜黒の気分が悪いとか、精神的に疲れているとか、そんなレベルの話じゃない。もっと、事態はひどいものになっているのではないか?

 亜黒の顔はだんだん青ざめていき、十二月の皮膚とは思えないほどに冷や汗が流れている。呼吸は荒く、僕の両腕から、必死に意識を紡ごうとしているのが伝わってくる。

 ねえ、あっくん。どうしてそんなに、自分を責めているの? どうしてそんなに苦しそうなの?

 罰欲センサーで生み出したこの時間の中で、僕は痛みに慣れてしまい、告白ができるまで亜黒の温もりに浸かっていたかった。だけど、今の亜黒の体温は、訳の分からないほどに上昇している。僕は、亜黒が本当にどこかに行ってしまいそうに思えて思わず涙を流す。亜黒が苦しいのは、僕が死ぬことよりつらいと、僕はどんなに否定されようともそう言える。

 僕は、亜黒なしでは生きていけない。だから、今はどこにも行かないでと、僕は亜黒の、今にも意識が飛んでしまいそうな苦しい表情を見てそう思った。

 亜黒を殺してしまった僕は、本気でそう思っている。

 

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