第17話 本契約


 冥界から戻った俺は魔王――レイラのウォーターベッドで丸一日を過ごし、肉体的にも精神的にも苦痛が和らいだ。


 冥界に潜っていた半年間ですっかり伸びてしまった銀髪。首筋に触れるくらいまで伸びた襟足を撫でながら私室を目指す。



「お゛え゛ぇ゛え゛ぇ゛ぇ゛」



 ……起床してすぐに他人のえずく姿を見たくはなかった。


 魔宮殿の廊下でえずいている下位の悪魔。


 二本の角、尖った尻尾、コウモリのような翼と個性のない悪魔は俺に気づく様子もなく、えずき続けている。

 吐けないから余計に辛いのだろう。



「おい、大丈夫か? 金平糖、食べるか?」

「た゛べ゛る゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛」



 青白い顔で、無防備に開けられた口の中に金平糖を一粒放り込んでやる。

 すると、さっきまでの絶不調が嘘だったようになくなり、小さな翼をはためき始めた。



「おぉ……!」



 驚きのあまり言葉を失ってしまった俺の背後から音も立てずに這い寄る気配に気づき振り向くと、フルーレが飛び上がった。

 その姿はまるで猫だ。


 これまでと異なる感覚に戸惑う。


 フルーレの中で渦巻く魔力は膨大で、それを豹の姿で押し留めているような雰囲気だ。


 世界が色づいたような感覚だった。

 魔力を知覚できるとこんなにも世間の見え方が違うことに面を喰らってしまった。


 二年前に魔王国にきた時は周囲に化け物しかいなくてもちろん恐ろしかった。でも今は自分の体の変化が怖い。



「見間違えたぞ」

「おはよう、フルーレ。こいつ、なんで吐きそうになってたの?」

「現世酔いだ。契約者に触れることで緩和できる」



 人間でいう船酔いみたいなものか。


 と、いうことは昨日から今まで、こいつはずっと気持ち悪かったってことか。



「ごめん、悪魔っ子。辛かっただろ?」

「そんなことはないと思うぞ。さっきまで気絶していたからな」



 なんだよ。俺の心配を返せよ。



「下位の悪魔に冥界の瘴気は毒だ。もちろん、鬼人族にとってもな。それで、潜ったからには収獲があったのだろうな?」

「………………」

「まさか、潜り損というわけでは」

「……分からない。なんで、冥界に行っていたのか。自分でも分からないんだ」



 半分は嘘だ。

 実際にはボーンちゃんが引っ張って行った。



 でも、半分は本当だ。

 なぜ冥界に潜ったのか理由は知らない。



「……そうか。それはそうと早く本契約した方がいい。下位の悪魔は存在が不安定だから、仮契約では肉体を維持できないぞ」



 仮契約? 本契約?


 頭の上にクエスチョンマークを浮かべる俺に、ため息をついたフルーレが同情するように悪魔っ子に目配せする。



「早く名前を与えた方がいい」



 名前ね。

 悪魔界ではボーンちゃん騒動でそれどころではなかったからな。



「そんなことでいいなら――」



 と、悪魔の名付けをしようした矢先、押し潰されるような気配を感じて、口をつぐんだ。



「おやおや、これはこれは」



 踵を鳴らしながら、石造りの廊下の向こう側から歩いてくる人影。


 俺の額から冷や汗が流れ落ちた。



「悪魔界で迷子になった小鬼が戻ったという噂は本当だったか。貴様のようなゴミがレイラルーシスの婿候補とはこの国も終わりだな」



 幻魔四将げんまよんしょうの一人、ドゥエチ。


 膨大な魔力を隠そうともせずに、全身から溢れ出させている魔族のイケメンだ。

 正直、下品だと思った。


 魔王――レイラは堪えても溢れてしまう魔力を恥じるような素振り見せる。対して、こいつは見せつけるように魔力を放出している。


 魔力量を正確に知覚できるようになったから分かるが、これを前にして膝が震えない方がおかしい。


 横目で見れば、フルーレは毛を逆立て、悪魔っ子は俺の背中に隠れている。



「ラゲクから一本取ったからと言って、いい気になるなよ。レイラルーシスの婿候補はオレ様だ」

「……なんだよ」



 ビビってはいるが、俺は呆れて鼻で笑ってしまった。



「レイラのことが好きなだけかよ」

「は、はぁ!?!?」



 目に見えてドゥエチが動揺すると、放出されている魔力も大袈裟に揺れた。

 


「素直にそう言えばいいだろ。今から魔王様の部屋に行くか? ついて行ってやるぞ」

「ぐっ! き、貴様っ」



 親切心なんだけど。

 人間の俺に魔王の婿なんて荷が重いって。


 むしろ、お前らがよろしくやって警戒心が解けている間にコソコソ動きたいんだよ。



「分かった。じゃあ、俺が代わりに伝えてやるよ」

「なんたる非常識な振る舞い。もう我慢ならん! カスラ!」



 地団駄を踏みながらの呼び出しに応える落ち着いた声の持ち主――からす顔の魔物が颯爽と現れた。



「無礼なオーガに口の利き方を教えてやれ」

「承知いたしました、殿下」



 目にも止まらぬ突進を受け止めた俺の足が宙に浮く。俺の服を掴んだまま渡り廊下から上空へと舞い上がったからすの魔物が手を離した。


 当然、俺は落下する。

 背中には仮契約中の悪魔っ子付きだ。



「お、落ちるぅぅぅぅぅ!!」

「なんで、翼があるお前がそんなにビビってるんだよ」

「あんたはなんでそんなに落ち着いてんのよ! 落ちてるのよ!?」



 その通りなんだけどさ。


 思い出したんだよ。

 幻魔四将げんまよんしょうのドゥエチは、2代目魔王の息子――いわゆる魔王子だ。


 本来であれば跡を継いで3代目魔王のはずなのに、なんで四天王をやってるのか不思議だったんだ。


 まだ俺たち人族の知らない情報がある。

 そう思うとワクワクしてきた。



「そうか、レイラが欲しいのか」

「ちょ、ちょっと! もうぶつかるって!!」

「一人で飛べばいいだろ。俺のことは気にするな」

「まだ現世の感覚に慣れないから、飛べないぃぃィィィ!!」



 情けない奴め。


 じゃあ、と小指の指輪の効果を発動させる。


 肌身離さない簡易飛行魔法の指輪で魔宮殿の屋根に着地した俺は、効果を失って砕けた指輪を捨てて地上に下りた。



「ぶん殴りに行くの?」

「なんでちょっと嬉しそうなんだよ。逃げるんだよ」

「なんで!? あんたの方が強いじゃん!」



 まだコツを掴めないのか、不器用に俺の周りを飛びながらごちゃごちゃ話しかけてくる悪魔っ子を振り払う。



「空を飛ぶ相手に素手で勝てるわけないだろ。それにこっちは病み上がりだぞ」

「それなら、なんで煽るのよ」

「煽る? 俺は気を遣っただけだ」



 こいつダメだ、みたいな目を向けられても理由が分からない。


 告白できないなら、一緒について行ってやるって言ったんだよ!?


 中学生男子みたいにうじうじしてる魔王子が悪いだろ?



「向こうは逃してくれないよ。後方、あと4秒で追いつかれる」



 俺の動体視力では、とんでもないスピードで飛び回る奴の姿は捉えられない。


 こいつ、本当に目が良いんだな。


 真っ暗な闇魔界でも出口が見えていたみたいだし。


 手持ちの魔道具と呪具を使ってもいいが、これらは時間稼ぎにしか使えない。一発で決めるとなると悪魔っ子の言う通りぶん殴るしかない。



「右に飛んで」

「っ!」



 冷静な指示に反射的に体が動いた。

 伏せた顔を上げると、本来であれば俺が走っていた場所に飛行機雲が残っていた。



「あぶねっ」

「また戻ってくるよ」

「伏せて廊下まで戻るぞ。奴が飛行できない場所まで行けば、どうにでもなる」



 しかし、俺の思惑通りにはいかず、からすの魔物の翼から落ちた羽が視界を覆い尽くす。


 広大な魔宮殿の敷地が黒一色に染まった。



「厄介な術だな」



 だが、俺は魔宮殿の地図は全て頭に入っている。

 このまま直進すれば、何にもぶつからずに廊下にたどり着けるはずなんだけど。


 どの方角に進めばいいんだろ?



「きゃあ!」



 悪魔っ子の小さな悲鳴に続き、喉を締め上げたような笑い声が聞こえた。



「この下位悪魔グレーターデーモンがいなければ、こちらの姿は見えないのだろう?」



 両手を伸ばして何か掴めるものはないかと、恐る恐る一歩を踏み出す。

 魔力探知しようにも、情報が遮断されていて何も見えない。



「クヒッ」



 汚い声に続き、風が通り過ぎた直後、腕に激痛がはしった。

 生温い、ぬるっとした液が指先を伝う。


 薄く腕を切られたのだ。


 さすがにこの距離まで近づかれると奴の魔力を知覚できたが、あと少し反応が遅れていれば腕を切り落とされていただろう。


 そういえば、鬼人族の血は何色なんだろ?


 俺と同じ赤ならいいけど、全然違う色だったら、そこからバレるんじゃないか?


 それは凡ミス過ぎるな。



「おい、悪魔っ子! 聞こえるか!」



 耳を澄ませて、空気の震えだけに集中する。

 すると、かすかに「んー、んー!」という音が聞こえた。


 口を押さえられている。

 距離はそう遠くない。

 俺に攻撃できる位置には必ずいる!


 どうせ、やるつもりだったんだ。

 早いか遅いかの違いしかない。



「結ぶぞ、本契約」



 上空からの「クヒッ!?」という不快な声。


 俺はからすの魔物の攻撃も、悪魔っ子の意志も無視して叫んだ。



「お前の名前は『シュガ』だ!!」

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