第16話 帰還したスパイ


 ボーンちゃんは止まらなかった。

 一心不乱に平泳ぎを続け、とにかく深く潜った。


 気づけば、契約悪魔は気絶しているし、俺は酸素を求める魚のように口をパクパクしていた。


 重苦しい圧のかかる空間――恐らく闇魔界を抜けたのだろう。


 星の煌めきのない、ただの闇がそこに広がっていた。


 燦然さんぜんと輝く星が無数にあった悪魔界、数は少ないけれど大きな光を放っている星が存在していた闇魔界。


 そして、ここには何もない。



「ボーンちゃん、ここ冥界だよね? これ以上、進んでも化け物に遭遇するだけで俺たちは何も得られないよ?」



 子供を諭すように言ってみても、ボーンちゃんは聴く耳を持ってくれない。


 だって、頭部がないから。

 耳がないなら聞こえなくて当然だからね。


 今のは全面的に俺が悪い。



「ちょっとは言うことを聞けって!」



 平泳ぎする片手を掴み、俺の胸へと押し込んでみたが、駄々っ子のように暴れられて失敗に終わった。


 ここが現世であれば、地に足が着いているからもう少し踏ん張れただろうが、この異空間では無理だ。

 それに恐ろしい程に力が入らない。


 悪魔っ子は俺が尻尾を掴んでいないとどこかへ飛んでいきそうになっているし、ボーンちゃんは一生懸命だしで、俺はお手上げ状態だ。



「……あいつが何か言ってたけど、なんだっけ? あれ、あいつって誰だ。俺、なんでここにいるんだっけ」



 いよいよ記憶まで混濁してきた。

 頭の中にもやがかかったみたいで考えがまとまらない。



「なんで、骨が飛び出てるんだろ? なんで、尻尾を掴んでるんだろ? 俺、誰だっけ?」



 海を漂うワカメのようにされるがままになっている俺の体が急停止した。

 首がもたげ、一瞬だけ意識が飛ぶ。


 俺の胸から飛び出ていた骨は両手で空間を掴み、這い出てきた。


 何もない真っ暗な空間にへたり込む俺の前を這いずる骨は、やがて青白い球体の前で止まった。



『あった』



 頭の中に浮かび上がる文字。

 何があったのか俺には分からなかった。



『きっと、ここにいる。もっと深みへ。付き合って』


「……無理、だよ。魂が……悲鳴を。軋む、音が……うるさ――」


『ツダ。もう限界? 私はまだ潜れる』


「頭……見つける、から…………また、戻って……来よう、か」


『それなら許す。約束』



 まだ何かを探していた骨に胸ぐらを掴まれて、引っ張られる。

 もう意識は朦朧としていたが、左手に絡みつく尖った尻尾だけは離さなかった。


 数個の大きな光と、無数の小さな光の景色をぼんやりと眺めながら進んでいく。


 やがて頭がすっきりして体に力が宿り、俺が何者なのか思い出した。



◇◆◇◆◇◆



「ツダっ! おい、ツダ! 起きろ、へっぽこ鬼!」

「誰が……へっぽこだよ」



 一瞬だけ目を閉じたつもりだった。


 眼前には必死の形相のクーガルとフルーレ。傍らにはダークエルフのメイド――カイナも控えている。

 他にも使用人たちが勢揃いしていて、彼らが道を空けると魔王まで出てきた。



「魔王様、ツダが戻りました」

「分かっている」



 先日と同じ、冷ややかな碧色の瞳で頭部から足先まで舐めるように見つめられる。魔王にならって俺の隣を見ると、契約した悪魔が丸まって何やら唸っていた。


 どうやら俺は廊下の壁に体を預けて座っているらしい。



「これは?」

「下位の悪魔になります。おそらく悪魔界の中程に発生した者かと」



 と、丁寧に説明するフルーレ。



「貴様はこの状況をどう説明する」



 魔王の鋭い視線にすくむ豹の悪魔は言葉を濁した。



「ツダをパールの部屋へ」

「よろしいのですか?」

「構わん。余の婿だぞ」



 俺は候補だろ?

 いつ確定したんだよ。



 そんなことを思っていると、困惑した様子のクーガルに背負われて、魔王の一室に押し込められた。



 ラッキー。

 これで2つ目の部屋の情報をゲットできるぞ。



 魔王の指示に従い、俺をベッドの上に寝かせたクーガルがそそくさと出て行く。


 俺の契約悪魔はフルーレが連れて行ったから室内には俺と魔王の2人だけになった。


 パールの部屋は、何の変哲もない石造りの部屋だ。

 そこに質素な作りのベッドと椅子が一脚置かれているだけ。


 魔王が好むとは思えない部屋だったが、ベッドは一級品だった。


 全身を包み込むような感触が心地良い。

 これはまるで、ウォーターベッドだ。



「気持ちいいでしょ?」

「はい。あ、違う。あぁ」



 スイッチを切り替えた魔王――レイラの態度にはまだ慣れない。



「ラゲクに作らせたの。あ、ラゲクっていうのは幻魔四将げんまよんしょうの一人ね」



 聞かなければ良かった。

 なんか、触手にうにょうにょされているみたいで気持ち悪い。



「このベッドに横になると一瞬で回復するよ。余の魔力を練り込んだ特製のベッドだからね」



 どおりで良い香りだと思った。



「ツダ」



 配下の前に立つ魔王の時とは違う、神妙な面持ちのレイラが慎重に言葉を選ぶように聞いてきた。



「どこまで潜ったの? あのクシャリカーナの庇護下にあっても尚、ここまで魂が損傷するほどの魔力を浴びたの?」

「多分、冥界まで降りた。その辺の記憶は曖昧なんだ」

「でしょうね。冥界は時間も空間も全ての理を絶する場所だから」

「レイラも行ったことがあるのか?」

「いいえ」



 レイラは首を振り、呆れたような顔を見せた。



「冥界に降りたのは悪魔界、闇魔界、冥界と名付けた初代魔王様だけよ」



 ……は?

 じゃあ、俺が史上2人目ってこと?



「よく戻ってこれたね。初代様も帰還後は一時的にバラバラだったらしいよ。体が残ってて良かった」



 何やってんだよ! ボーンちゃん!!

 危うく死ぬところだったよ!?



 引きこもってしまったボーンちゃんからのレスポンスはない。


 本当に気分屋なお骨様だ。


 ウォーターベッドもとい、ラゲクの触手ベッドに埋もれる俺を何をするでもなく、椅子に腰掛けて見つめている魔王レイラ。


 何か企んでいるのか。



「何か?」

「ううん。ツダの顔を見るのが久々だったから」

「昨日会ったじゃないか」



 あ、そっか。とレイラが手を打つ。



「ツダは半年も戻って来なかったんだよ。だから久々で合ってる。ツダが間違ってるんだよ」



 は、半年?

 感覚的には数時間なんだけど……。



「悪魔界でも時間と空間の概念が歪んでいるからね。冥界なら想像もつかないな」



 うーん、と可愛く唸るレイラを見ても半年経った実感が湧かない。



 何も変わってないし。

 強いて言うなら、少し髪が伸びたか?


 髪といえば、クーガルのタテガミは生えてなかったな。



「ぷっ」



 突然、吹き出した俺にレイラが飛んでくる。



「どこか痛む? 魔力注ぐ?」



 そんな、お薬飲む? みたいなテンションで言われても……。



「大丈夫、大丈夫。クーガルの奴、本当にタテガミ生えないんだなって」



 キョトンとしたレイラが顔を背けて、肩を震わせている。



「一部タテガミなし男」

「ぶふぅっ!」



 や、やめて! と涙目のレイラ。



「それはツダが悪いんでしょ! まさか、むしり取るなんて思わない!」

「俺だって二度と生えてこないとは思わなかったし。毛根を鍛えてないから悪いんだ」



 我ながら無茶苦茶なことを言っていると思うが、くだらないことを言えるくらい回復できたのはこのベッドのおかげだ。


 不本意だが、ラゲクにも感謝しないと。



「よかった。ほんとによかった」



 心の底から安堵したような吐息混じりの言葉。


 ……そこまで気に入られる理由が分からないんだよな。



「あ、そうだ。さっきの『余の婿だぞ』ってのはちょっと過激な発言すぎないか? 俺は候補なだけで、もっと良い人が見つかると思うんだよ」



 だって俺、人間だし。

 任務達成したら、元の世界に戻るし。



「余のこと嫌い……なの?」



 初めて見る不安そうな顔。


 これも演技だと思うと、女の人はつくづく恐ろしい生き物だと思う。



「例えば、幻魔四将げんまよんしょうのドゥエチとか」



 ぴくりと眉が動き、レイラの瞳が怒気がはらむ。


 人間の俺でも分かるくらいなのだから、ここに魔物がいたらとんでもないことになっていただろう。



「ツダが悪いんだよ。余の縁組み計画をややこしくしたのは君なんだから」

「はい?」



 ウォーターベッドに沈み込む俺を更に押し込むように、馬乗りになったレイラ。

 鼻先が触れる距離まで詰められても、回復中の体は全くと言っていいほど反応が鈍かった。


 しかし、内心はドキドキだ。


 金髪美人が目の前にいるという異性を意識するドキドキと、こんなに間近で見られて人族だとバレてしまわないかという恐怖によるドキドキが混在している。



「候補者受付は締め切ったの。だから、ツダが余の婿で決定。これは君が不在の半年間で決められた最重要事項だよ。ツダの回復を待って全国民に通達する予定だから」



 は……?

 い、いや、待て待て。


 俺は人間だぞ!?

 何の力もない。ただの凡人なのに。



「満場一致ではない……よな?」

「ドゥエチは最後まで異議申し立てをしてきたけど、全部拒否したよ。ツダは悪魔界で死んだとも言われた。でも、余の元の帰ってきてくれた。だから――」



 レイラは顔を離して、悪戯っぽく舌を出しながら手を合わせた。



「ツダが黙らせてよ」

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