第11話「外法」
ハーヴェンはイリスレイヤを救おうと全力を尽くしていた。
後になってみれば、夜の贄池で神聖魔法など不毛だったのだとわかるが、このときは只々必死だった。
必死さは普段より力を増幅させるが、状況を正しく判断する目を曇らせる。
贄池から漂う強力な魔の〈気〉のせいで、聖なる魔法の効果が阻害される状況。
噛まれた者の体内で、通常より早く回ってしまうゾンビの毒。
毒のために意識を失ったばかりの彼女が、すぐに目を覚ましたことの意味……
彼女を復活させたい一心のハーヴェンはこれらをよく考えず、目を覚ましたことを単純に喜んでしまった。
「それでいい、イリス! 意識を保つんだ!」
だが……
「ウォアァァァッ!」
イリスレイヤは完全にゾンビに変異していた。
彼女にとって目の前にいるのは夫ではなく、ただの肉だ。
回復したと勘違いしたハーヴェンは顔を近付けていたので、彼女は首筋目掛けて襲いかかった。
「うわぁっ!?」
驚いたハーヴェンは後ろへ仰け反って第一撃を回避できたが、そのまま仰向けに倒れてしまった。
そこへ勢いが止まらないイリスレイヤだったものが覆い被さる。
「グォアアアッ!」
「やめろ! やめるんだイリスッ!」
彼の胸に顔を埋めるような姿勢で服の上から胸板に噛み付こうとするが、うまくいかない。
二、三度やってもうまく噛み付けそうにないので、剥き出しの首筋に向かって這いずり、前進を開始した。
……神殿では、こういうときの対処を指導している。
とにかく噛み付かれないよう、ゾンビの顔面を正面ではなく横から全力で殴れ、と。
しかしハーヴェンにはできなかった……
妻の横面を、他のゾンビと同じように殴りつけることはできない。
左手で彼女の顔を押しのけようとした。
だからその左前腕を掴まれてしまった。
彼女はまるで骨付き肉を食べるように両手で掴んで、
グシュゥッ!
「ぐわあぁぁぁっ!」
彼女の歯は腕の肉に食い込んだ。
激痛と絶望が彼に襲い掛かる。
ブチッ、ブチブチッ!
彼の中で腕の筋が千切れ、剥がれていく音がした。
そこでようやく彼女を突き飛ばし、距離を取ることに成功した。
食い千切られた腕を庇いながら、
「イ、イリス……お願いだ、やめてくれ……」
名を呼ぶ声も制止の声も、彼女にはもう届かない。
ゾンビ化してしまった者が、二度と生前の人物に戻ることはないのだ。
神殿でそう習っている。
だが、そんなに淡々と割り切ることはできない。
リーベルで一緒に暮らすはずだった妻なんだぞ。
離れるまで横面を拳で殴り続けるなんて無理だ。
〈祈り〉で撃退しろなんて無理ダ。
彼の体内でも毒が回り始めた。
足に力が入らず、その場にへたり込む。
「どうシて、こンなこトに……」
聖剣泥棒ノ濡れ衣を着せラレ、反論を許サれないまま死刑にされた。
誰カニ陥れられタのだ。
デも誰ガ、何のタメに?
わカラナイ……
へたり込む彼のところへ沢山の呻き声が近付いてくる。
「アァァ……」
「オォォォ……」
追い払ったゾンビたちが戻って来た。
もう逃げることも〈祈り〉を詠唱することもできないが、神官だったせいか、毒の回りが彼女より遅いようだ。
つまり奴らにとって彼はまだ肉なのだ。
これから寄ってたかって貪り食われる。
「……疲レタ」
ハーヴェンは横に倒れた。
イリスがゾンビになってしまい、彼ももうすぐ後に続く。
彼には抵抗する気力も、生に執着する理由も残っていなかった。
集まってきているゾンビたちに貪り殺されるのが早いか、彼のゾンビ化が早いか。
どちらであってもこの惨劇を画策した者の思惑通りに終わりそうだ。
そのことだけが、
「悔シイ……」
最後にそう呟くと静かに目を瞑った。
視界はまだぼやけてはいなかったが、残酷な世界をもうこれ以上見ていたくはなかった。
…………
……?
ゾンビ共が群がってこない。
目を開くと、まだ視界がぼやけていなかった。
奴らは彼を取り囲むように直立している。
イリスも。
「???」
ゾンビが獲物まであと数歩のところで人形のように立ち尽くし、頭上の悪霊も旋回を止めて空中で静止している。
こんなことはあり得ない。
ハーヴェンが初めて見る現象だった。
毒のせいで朦朧としながらも、彼はキョロキョロと周囲のゾンビ共を見回す。
ゾンビも悪霊も肉食獣のように襲い掛かってくるはずなのに、なぜ寸前で動きが止まっているのか?
残念ながら、直立中のゾンビをいくら眺めても答えは見つからない。
彼がこれまで学んできた神聖魔法の中にはないのだ。
神聖魔法は正しい魔法だ。
正しい魔法があるということは、その逆もあるということ。
正しい道から外れている魔法……
人はそれを、外法と呼ぶ。
求める答えは、その外法の中にあった。
***
ゾンビや悪霊の動きをすべて止める外法とは……
死霊魔法だ。
本来、安らかな眠りに就かせてしかるべき霊や屍を、死霊魔法使いの都合で自在に操る。
死者を冒涜しているとしか思えない魔法なので、人々から外法と忌み嫌われていた。
だから自分こそがその術者だと名乗る者はいない。
正体を隠して人里で暮らすか、隠すのが面倒な者は人目を避けて暮らしている。
その術者の一人が贄池を囲む森の中で暮らしていた。
黒いマントを身に纏い、フードを目深に被っている如何にも死霊魔法使いといった風貌……
名を、ユギエンという。
彼はまだ壮年の男性で隠遁生活を送るには早いが、人嫌いだった。
死霊魔法使いにとってゾンビや霊を従えるのは容易いし、人は恐れて近付かない。
彼にとって贄池は静かに暮らせる場所だった。
ところが今日は夕方から池がうるさい。
きっとヘイルブルから罪人を捨てに来たのだろう。
執行日は我慢して〈終わる〉のを待つしかなかった。
どうせすぐに静かになる。
……と思っていたのだが、日が沈んでも静かになるどころか大騒ぎになってきた。
それで様子を見にきたのだった。
池に着くと、ゾンビ共が罪人を取り囲んで距離を詰めているところだった。
ということは、罪人がまだ生き残っているということだ。
ユギエンは面倒そうに溜息を一つ吐き、集まっている死者たちに命じた。
「止まれ」
それほど大きな声ではない。
でもこの場にいるすべてのゾンビと悪霊の動きが一斉に止まった。
ハーヴェンを救ったのは彼だった。
死霊魔法使いが人命救助?
意外な光景だが、もちろん人情からの行いではない。
人命が尊いから救ったのではなく、ゾンビが増えすぎるとやがて皆腐って、ここが強烈な悪臭に包まれてしまうからだ。
生きているなら、自力で街へ帰ってもらう。
置き去りの刑など、贄池で暮らしている者にとって迷惑でしかない。
街へ帰り、何か別の死刑にしてもらえ。
面倒でも罪人に帰るよう伝えなければならないが、囲んでいる死者たちが邪魔で近付けない。
そこで今度は「散れ」と命じた。
死者たちは命令に従って森へ帰っていき、少しずつ囲みが解かれていく。
中から現れたのは、若い神官の男と同年代の女だった。
「ん?」
ユギエンは首を傾げた。
いま彼はこの一帯のすべての死者を支配下に置いている。
たとえるなら、ユギエンが〈親〉で死者たちは〈子〉だ。
〈親〉の命令に〈子〉が従う関係だ。
女はゾンビだった。
左肩の傷が新しいことから、ゾンビ化したばかりのようだ。
……ということはユギエンの支配域にいる以上、彼女も〈子〉ということになる。
なのに、
「散れ」
「…………」
妙だった。
〈親〉の命令に従わない。
いや、直立不動なのだから「止まれ」という命令には従っている。
「散れ」という命令にだけ従わないのだ。
ずっと倒れている神官の方を向いたままだ。
「イ、イリス……」
そして彼女の足に手を伸ばしているこの神官も妙だ。
贄池の周囲は魔の〈気〉が満ちているのでゾンビ化が早い。
にも拘わらず、どうしてこの若者は持ち堪えているのか?
——もしかすると、こいつは……
ユギエンは毒に抵抗している若者に興味が湧いた。
彼に近付き、片膝をつく。
「助けに来た。おまえ、名は?」
「……ハーヴェン」
顔色は悪いが目は白濁しておらず、受け答えができるのだから意識もしっかりしている。
「ハーヴェンよ、ここでは神聖魔法の効き目が弱い。それよりも——」
ユギエンは死霊魔法〈霊場〉を発動した。
〈霊場〉は死霊魔法の基本的な魔法だ。
効果範囲内にいる死者を術者に従属させる。
これにより、「止まれ」と命じれば死者たちの動きが止まり、「散れ」と命じればその場から退散する。
対象はすでに活動している死者だけでなく、安らかな眠りについていた死者もだ。
地中から呼び起こして活動させる。
また〈霊場〉による従属化は、ゾンビの毒に対しても及ぶ。
よって、噛まれた者の体内から毒を消し去ることはできないが、これ以上全身を巡らないよう命じることはできる。
ここは〈魔〉の力が増幅されるので、外法の効果はすぐに現れ、ハーヴェンは立ち上がることもできるようになった。
「ありがとう。私はリーベルの神殿魔法兵ハーヴェンだ。あんたは一体……」
「俺か、俺は——」
名乗りかけたが、そこで言葉が止まった。
いきなり死霊魔法使いだと名乗るのではなく、世間向けの生業である霊媒師と名乗ろうとしたのだが、結局ややこしくなりそうだと気付いたのだ。
ゾンビがあちこちにいるが、霊媒師がどうやって身の安全を?
……と尋ねられたら返答に困る。
よって、いまは霊媒師だと名乗るのをやめた。
ただ簡単に、
「俺は、ユギエンという」
***
ユギエンの先導でハーヴェンたちは森へ入っていった。
ハーヴェン〈たち〉というのは、彼とイリスレイヤだ。
二人は身一つだし、ユギエンも様子を見に来ただけなので手当ての道具を持ってきてはいなかった。
そこでユギエンは二人を住処に連れて行くことにしたのだった。
森を進むとすぐに佇んでいるゾンビと遭遇する。
その度にハーヴェンが神聖魔法を詠唱しようとするので、ユギエンも同じくその度にやめさせた。
怪我をしているのだから、余計な体力は使わない方が良い。
それに、神聖魔法の効き目が弱いというのもあるが……
ユギエンを中心に〈霊場〉が展開されているので効果範囲に入った死者はすべて彼の支配下に入る。
死者がうろつく森は気味が悪いだろうが、危険はないのだ。
……但し、最後尾を付いて来る彼女を除いて。
彼女は「散れ」と命じられても従わず、ハーヴェンの後ろを大人しく付いてくる。
彼は振り返り、
「イリス、左肩は大丈夫なのか?」
大丈夫なわけがない。
そのことは彼もわかっている。
左肩を食い千切られ、傷口から湧き出た黒い血が背中と胸を染め上げているのだから。
わかっていながら、それでも尋ねたのは彼女の声を聞きたかったのだ。
それだけだった。
だが……
「…………」
返事はない。
彼女はただ黙々と夫の後を付いて歩くだけだった。
二人のやり取りはユギエンの耳にも届いていたが「うるさい」と止めはしなかった。
このイリスという個体は「止まれ」という命令には従ったが、「散れ」という命令は拒否した。
強めに〈霊場〉をかけても無駄だった。
このような個体は初めて見るが、師匠から聞いたことがある。
生前の強い思いが死後も残り、死霊魔法の支配を上回る場合がある、と。
即ち怨恨や渇望、そして愛だ。
ハーヴェンとイリスのやり取りを聞いている内に、二人の関係がわかった。
完全なゾンビになっていることを知った上で「イリス」扱いする男と、離れたくない思いから死霊魔法の支配を凌駕する女……
愛だ。
ゆえに「散れ」と命じるのをやめた。
無理に追い払おうとすると、愛が〈霊場〉を破るかもしれない。
下手に刺激しない方が良いだろう。
人間の親子同様、あまり頭ごなしに命令し続けていると〈子〉が反抗してくるかもしれない。
その後もハーヴェンは話しかけたが、彼女が何かを返すことはなかった。
ついに会話は途絶え、三人は黙々と森の中を進む。
やがて黒々とした洞窟の入口が見えてきた。
「入れ。傷の手当てをしてやろう」
洞窟に入って何度か曲がると急に明るくなり、広くなった。
曲がり道のせいで光が外に漏れにくいようだ。
洞窟の中は……
薪が燃え、寝床がある普通の生活空間だった。
三人はユギエンの住処に着いた。
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