第10話「死への抵抗」

 贄池の畔で、遠ざかる馬蹄の音と入れ替わるように不気味な笑い声と呻き声が近付いてきた。

 笑い声は悪霊、呻き声はゾンビだ。

「フフフ……」

「ヒヒヒヒヒヒ……」

 先にハーヴェンの前に現れたのは悪霊だった。

 霊は実体がないので物体をすり抜けることができる。

 彼のところへ最短距離で到達できた。

 一体が憑りついてやろうと距離を詰める。

 ところが彼の身体に接触した途端、

「ヒィィィッ……!」

 悪霊は悲鳴を上げて仲間のところに戻った。

 神官が悪霊共に囲まれた場合、広域に効く〈祈り〉で追い払う。

 だが、彼はいま猿轡を噛まされている。

 悪霊にとって、詠唱できないなら神官も一般人も違いはなく、容易に接近することができる。

 しかし憑りつくことはできなかった。

 詠唱はできないが、心の中で〈祈り〉を唱えることはできた。

 悪霊は触れた途端、理解したのだ。

 ハーヴェンの中で〈祈り〉が反響していることに。

 ずっとそうしてはいられないが、応急措置としては上出来だった。

 悪霊たちは憑依できず、彼の頭上をグルグルと旋回している。

 けれど体内の〈祈り〉では、ゾンビを止めることができない。

 接触すれば嫌がって離れるだろうが、そのときは噛まれた後だ。

 悪霊に遅れて、呻き声が四方八方から近付いてきている。

 猿轡さえ外せれば詠唱できるのだが、後ろ手に縛られている状態では……

 そのときだった。

 一際大きな音を立てて下草を掻き分け、人間大の何かが飛び出してきた。

「ハーヴェン様!」

 なんと、人間大の何かはイリスレイヤだった。

 ゾンビたちが気付いて彼女へ手を伸ばすが、うまく避けながらハーヴェンに駆け寄る。

 急いで夫の両手を拘束する縄を解こうとするが、

「ん! んん!」

 彼は首を激しく横に振って拒絶し、顎を前に突き出す。

 先に猿轡を解いてくれという訴えだった。

「アァ……」

「ウゥゥゥ……」

 ゾンビ共の接近は止まらず、ついに木々の間から姿を現した。

「んんんっ!」

 集まってくるゾンビを見て、更に必死になって顎を前に突き出す夫。

 ハーヴェン様……神殿魔法兵……神聖魔法……

「ハッ!」

 彼女は夫が何を訴えているのかわかった。

 彼は「先に猿轡を外してくれ!」と訴えているのだ。

 さもないと神聖魔法を詠唱できない。

 理解できた彼女は即座に猿轡を顎下へ下ろした。

 間髪入れず、夫の詠唱が始まる。

 神聖魔法〈祈り〉が集まってきたゾンビや悪霊を襲う。

「ウグォアァァァッ!?」

「ヒィィィッ!」

 ゾンビ共は急に始まった〈祈り〉をもろに浴びてしまった。

 あちこちで凄まじい悶絶の叫び声が上がる。

 頭上を漂っていた悪霊は突風に吹き飛ばされるように四散した。

 二人共人間なのでわからないが、ゾンビにとって〈祈り〉はかなり苦しいものらしい。

 包囲網の外側にいた者は悲鳴を上げながら真っ先に退散し、内側で受けた者は何かドス黒い液体を吐きながらヨロヨロと逃げていった。


 ***


 ハーヴェンの〈祈り〉はしばらく続いた。

 悪霊の気配はすぐに消えたが、ゾンビたちの足は遅く、完全に遠ざかるまで詠唱を続ける必要があった。

 しばらく呻き声と下草を踏む音があちこちからしていたが、次第に小さくなっていった。

〈祈り〉が終わったのは、周囲から何の音もしなくなった頃だった。

 辺りはすっかり夜になっていた。

 次にハーヴェンは〈暗視〉を自分と彼女にかけた。

〈暗視〉は神聖魔法ではない。

 暗闇を見通せるようになる通常魔法だ。

 本来は魔法初心者が習得するものなのだが、巡礼の旅にも有益なので神殿でも教えていた。

〈暗視〉のおかげで二人は互いの顔をよく見ることができた。

 イリスレイヤは無事だったが、ハーヴェンの顔を見た彼女は驚いた。

 彼の瞼は腫れ、顔中赤痣、青痣だらけだ。

「酷い……!」

 彼女の目に涙が滲むが、いまは泣いている場合ではないと思い留まった。

 倒れたままだった夫の身体を起こして座らせると、後ろに回って縄を解き始めた。

「んっ……結び目が……固くて……!」

 それはそうだろう。

 成人男性の兵士が力一杯に縛った結び目だ。

 解くより切る方が早い

 しかし二人共、刃物を持ち合わせていなかった。

 神官だからではない。

 そもそも礼拝所で最後の祈りを捧げていたのだ。

 鎚矛も短銃も、野宿で使う調理用ナイフも、祈りに必要ないものはすべて部屋に置いてきてしまった。

 ここは彼女の頑張りに期待する他なかった。

 彼女は〈暗視〉のおかげで見えるようになり、結び目が一つではないことがわかった。

 どうせ解くことはないからと、兵士が二重三重に結び目を作ったのだ。

 苦労しながら何とか一つ目を解くことに成功し、二つ目に取り掛かる。

 ハーヴェンも少しずつ両手の拘束が緩んでいくのを感じ取っていた。

「…………」

 静かに時間が過ぎていく。

 ゾンビの声はしないし、悪霊の気配も感じない。

 だからといって、ここが安全ではないことはわかっている。

 静穏は一時のことだ。

 早く立ち去らねばならない。

 それでも心許せる人が傍にいると、人はつい安心してしまうものだ。

 ハーヴェンは前を向いたまま、イリスに話しかけた。

「無事で良かったが、どうやって——」

 どうやって君の身に迫る危険を知ったのか?

 彼女は結び目との格闘を続けながら答えた。

「今朝、ハーヴェン様が神殿へ出発した後……」

 イリスレイヤはいつも通り、彼の部屋を掃除しようと向かっていた。

 すると部屋の前に正室が佇んでいた。

 室内には父上と兄上もいるらしい。

 廊下の彼女のところまで三人の声が聞こえてくる。

 何かについて怒っているようだ。

 ——ハーヴェン様が出掛けたばかりだというのに、お部屋に何の用だろう?

 訝しく思い、廊下を少し戻って角に隠れた。

 一家はいつも何かに怒っている。

 朝から怒鳴っているのも珍しくはない。

 ただ、その怒鳴り声がなぜ夫の部屋でしているのか?

 室内で何をしているのかは、廊下の角からでは見えない。

 必死に話し声に聞き耳を立てていると、次第に三人の用がわかってきた。

 室内を捜索しているのだ。

 聖剣泥棒の容疑で。

 ——聖剣泥棒? ハーヴェン様と私が?

 あり得ないことだった。

 昨晩、夫が聖剣を台座に戻し、二人揃って神殿を後にしたのだ。

 お互い、手に何も持っていなかった。

 だからベッド下から聖剣が出てきたというのはおかしい。

 きっと誰かが私たちを陥れる目的で忍ばせたのだ。

 昨晩から今朝まで、夫はずっと部屋にいたわけではない。

 夕食や朝食で部屋から離れるので、その隙に誰かが忍ばせることは可能だ。

 彼女は角から飛び出して真実を伝えようと思ったが、寸前で踏み留まった。

 どう話せば信じてもらえるか、一家に理解してもらえる言葉が浮かんでこなかった。

「ハーヴェン様は誠実なお方です! 盗みなど働きません!」と訴えても無駄だ。

 父上は〈お宝〉に目が眩んだ〈人〉だった、と彼の誠実さに疑問を抱いているのだから。

 ベッド下から聖剣が出てきたという事実の前では、余所者は無力だ……

 しかも彼女は共犯者だと目されているのだ。

 共犯者が主犯者を庇っても説得力がない。

 説得を諦めた彼女は身一つで館から逃げた。

 ……間一髪だった。

 逮捕命令を受けた兵隊が踏み込んできたのは、彼女が館から脱出してすぐのことだった。

 彼女は脱出には成功したものの、せっかく整えていた旅支度を館に置いてきてしまった。

 これでは長旅ができない。

 どうしたら良いかと悩んでいると、広場で大騒ぎが。

 一体何事だろうと落ちていたボロ布を被って見に行くと、ハーヴェンが晒されていたのだった。

 あまり近くに寄ると見つかってしまうので立札を読めなかったが、周囲の人々から贄池へ置き去りの刑だと知った。

 そこで池へ先回りしていて、夫の到着を待っていたのだ。

 そしていまは固い結び目と奮闘中だ。

 話している間も休みなく手を動かし続けた甲斐あって、結び目が少しずつ解けていった。

 ハーヴェンも両手の拘束がかなり緩んできた気がする。

 同時に、彼女の涙腺も緩んでしまったようだ。

「イリス?」

「……グスッ……ごめんなさい」

 結び目が固くて早く解けないから?

 そうではない。

 自分のせいで夫が痛めつけられ、挙句、殺されるところだったからだ。

 原因は昨晩、聖剣が光ったことだろう。

 誰にも見られなかったと思っていたが、あのときは動転していた。

 きっと遠くから見ていた神官がいたのだろう。

 目撃した神官が父上か兄上に報せたのだ。

 つまり夫は彼女の近くにいたから巻き込まれたのだ。

 それが我慢できなかった。

 彼女は自ら望んで勇者の血を引く子として産まれてきたわけではない。

 それでも運命と思って受け入れてきた。

 自分一人が我慢すれば済む問題だと諦めてきた。

 でも自分と一緒に聖剣の光を見てしまったばかりに、彼はあと少しで死ぬところだった。

 これではまるで呪いではないか。

 勇者の血は自分だけでなく、一緒にいる者にまで災いが降りかかる呪いだ。

 愛する夫を巻き込んでしまったことが悲しくて、悔しくて……

「……ごめんなさい……あなたを巻き込んでしまって……」

「いや、君は何もわ……」

 君は悪くない。

 言いかけた言葉はこれだけだったが、彼は後にこう付け足す。

 悪いのは警戒を怠った未熟な私だ、と。


 ***


 あと少しで結び目がすべて解けるときだった。

 ハーヴェンは背中に急な圧力を受けた。

「あっ!?」

 圧力の正体はイリスだった。

 彼女は短い驚きの声を上げて、背中に覆い被さってきた。

「イ、イリス?」

 男なら、愛する女性が抱き着いてきたら、気恥ずかしくも嬉しいものだ。

 このときのハーヴェンも嬉しかった。

 だがすぐに顔を顰める。

 彼女の良い香りのすぐ後に、異臭を感じたからだ。

 イリスレイヤは抱き着いたわけではなく、彼女も後ろから倒れ込んできた何者かに押し倒されたのだ。

 異臭はその何者からだった。

 異臭は、動物の死骸のような腐敗臭……

 ゾンビだ。

 さっきの〈祈り〉で、近くの草むらの影に倒れたゾンビが苦しくて起き上がれずにいた。

 大ダメージでずっと動けなかったが〈祈り〉が止み、夜になったことで回復したのだった。

 夜は〈光〉の力が弱まり、〈闇〉の力が強まる。

 ゾンビは〈闇〉の住人だ。

 人間が日の光を浴びると元気になるように、夜の闇はゾンビたちに力を与える。

 起き上がったゾンビは近くで背を向けている二人に気付き、静かに接近した。

 ゾンビは皆「アァァ……」とか「ウゥゥゥ……」といった呻き声を上げている印象だが、全員がそうしているわけではない。

 中には無言で襲い掛かる者もいる。

 今回がそうだった。

 後のハーヴェンがこのときの自分に下した評価は正しい。

 未熟だった。

 神殿魔法兵は〈暗視〉以外にも初歩的な魔法を使える。

 周囲に探知円を展開することもできた。

 もしそうしていたなら草むらの影で倒れているゾンビに気付き、縄を解くのは後回しにして逃げることもできた。

 けれど、未熟なハーヴェンはそうしなかった。

〈祈り〉によってゾンビと悪霊をすべて追い払ったと確信していたからだ。

〈探知〉を怠った。

 だから……

 愛する妻を守れなかった。

 イリスを後ろから押し倒したゾンビは、彼女の左肩口に噛み付いた。

 グシュゥッ!

「あ、あ……!」

「……イリス?」

〈暗視〉のおかげでよく見える。

 振り返ったハーヴェンが背中越しに見たものは、肉が所々腐り落ちているゾンビの顔面と、彼女の左肩からあふれ出る鮮血だった。

「…………」

 ハーヴェンは放心状態に陥った。

 頭の中は真っ白になり、彼だけ時が止まったようだ。

 しかしそれは彼だけの事情だ。

 肉にありついている最中のゾンビには関係ない。

 相手が村の不良であろうが、勇者の末裔であろうがこの後やることは共通だ。

 噛み付いた後は食い千切る。

 ゾンビは噛み付いた顎に力を入れ、頭部を勢い良く上に撥ね上げた。

「ガウゥゥゥッ!」

「痛い、痛いぃぃぃっ!」

 ゾンビはハーヴェンの放心を気にしなかったように、彼女の悲鳴も気にしない。

 ブチブチブチッ!

「あああぁぁぁっ!」

 人間の苦痛と悲鳴が良い味付けになるのか、ゾンビは新鮮な肉をおいしそうに咀嚼して飲み込んだ。


 一口目が終わったら二口目だ。

 鮮血吹き出す傷口に再び噛み付こうとする。

 だが、そうはいかなかった。

 彼女の悲鳴で正気に戻ったハーヴェンが、至近距離で〈祈り〉を唱えた。

「ガァァァァッ!?」

 たまらずゾンビは彼女から離れ、森へ逃げていった。

 彼は〈祈り〉を続けながら必死にもがいてロープを外した。

 イリスが懸命に解いてくれていたおかげだった。

 両手の自由を回復したハーヴェンは彼女に〈浄化〉を施すことにした。

 左肩からの出血が酷いが、ゾンビ化を防ぐのが先だ。

 傷口に手を翳して詠唱を始めようとする。

 ところが、

 ——おかしいぞ、なぜだ!?

 彼女の傷口がドス黒く変色している。

 まだゾンビに噛まれたばかりだというのに、変異寸前の症状ではないか。

 リーベルの魔法使いたちは噛まれた人間のゾンビ化を〈呪い〉だとする説と〈毒〉だとする説で争っているが、ここでは便宜上〈毒〉としておく。

 毒が全身に回る速度は個人差があるが、早い者でも一時間位は猶予があるものだ。

 なのにどうして彼女だけこれほど早いのか?

 疑問は感じるが、とにかく〈浄化〉だ。

 すぐに詠唱を始めた。

 けれども彼女は悪化していくばかり……

〈浄化〉の効き目が弱いのだ。

 ゾンビの毒が全身に回る速度が上回っていた。

 思うに、愛する女性がゾンビ化しそうなので、彼が魔法に集中できなくなっているのではないか?

 いや、それはない。

 むしろ「絶対に彼女を救ってみせる!」と普段より気合いが入っている状態だ。

 にも拘わらず〈浄化〉が弱いのは場所と時間のせいだった。

 ここは呪われた贄池。

 いまは夜だ。

 神聖魔法は効力を打ち消されてしまう。

 最後に追い払ったゾンビに〈祈り〉が効いたのは、至近距離だったのと一体だけだったからだ。

 いまの〈祈り〉に夕方までの力はない。

 なので〈浄化〉が弱まるのも当然だった。

 逆に、場所と時間が味方してゾンビ化をより一層促進する。

 必死の〈浄化〉にも拘わらず、彼女の顔は土気色になってしまった。

 ……ウェンドア神殿の場合、ここで諦めて鎚矛を用意し、〈剛力〉を発動する。

 人を食う魔物に変異する前に、一撃で救ってやるのも神官の務めだから……

 手の施しようがない?

 糞くらえだ!

 ハーヴェンは諦めなかった。

 彼女と約束したのだ。

 酷い仕打ちばかりのヘイルブルを捨て、リーベルで一緒に暮らそう、と!

 神聖魔法が打ち消される夜の贄池で、必死に神聖魔法を詠唱し続ける……

 何と頑固な男か。

 どうしようもない石頭だ。

 でもイリスレイヤは、そんな石頭のことが大好きだった。

 もう目が良く見えないが、自分に向けられるぼんやりとした光だけは辛うじて見えた。

〈浄化〉の光だ。

 感覚がなくなっている右手を、光の掌に合わせた。

「ニ、逃ゲて、ハーヴェンさマ、生きテ……」

 生きて、私の勇者様……

 思いのすべてを伝えることはできなかったが、最後に白濁した目でニコッと微笑んで意識を失った。

「ダメだ、イリス! 君も一緒に逃げるんだ!」

 彼は涙目になりながら、〈浄化〉を続けた。

 まるで別れを全力で拒絶するかのように。

 果たして、天に願いが通じたのか。

 イリスレイヤは再び目を開いた。

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