第5話「イリスレイヤの勇者様」

 ヘイルブル領内の徒歩の旅は順調に進み、ハーヴェンはロンゼラート王国で予定していた聖地をすべて訪れることができた。

 後は二日間礼拝所で祈りを捧げれば、この地の巡礼が終わる。

「…………」

「…………」

 ヘイルブルへの帰路、ハーヴェンとイリスレイヤは会話がなかった。

 二人共、別れのときが近付いていることを知っていた。

 巡礼はまだ二国目なのだ。

 まだまだ他の国が残っている。

 だからイリスレイヤは怖くて口を開けなかった。

 口を開けば、これまでの道案内に対する感謝とこれからの巡礼を頑張れと激励して会話が終わってしまう。

 会話が終わったら、お別れだ。

 彼女は館に帰ったら侍女に戻り、私語厳禁だ。

 ハーヴェンはまだ祈りが残っているので二、三日はヘイルブルにいるが、最中は礼拝所に篭りっきりになる。

 よって誰の目も憚らずに会話できるのはこの帰路だけであり、そのままお別れになるのだ。

 感謝と激励は最後の言葉だ。

 最後の言葉を口にしなければお別れを先延ばしできる。

 二人共そんな思いに駆られていた。

 そんなわけがないのに……

 沈黙など無駄な足掻きだ。

 目的地へ向かって歩き続ければ、嫌でも〈終わり〉に辿り着く。

 帰路の途中、ヘイルブルの前に峠が一つある。

 とはいえ、それほど高くはないので、簡単に越えることができる。

 坂道を上り切ると、街が視界に飛び込んできた。

 楽しかった旅がもうすぐ終わる。

 モンスターや獣の襲撃はあったが、それでも二人は楽しかった。

 道中、お互いにいろいろ語り合って親しくなれた。

 初めは「イ、イ、イリスど……」とぎこちなかったのに、いまは「イリス」と呼べるようにもなった。

 せっかく仲良くなれたのに……

 イリスレイヤは俯いてしまった。

 隣に立つハーヴェンも気持ちは同じなのか、黙って街を見下ろしている。

 ヘイルブルまであと少し。

 感謝と激励はここで済ませるべきだ。

 落ち着いて別れの挨拶をするならここしかない。

 彼女は緊張でうまく喋れそうにない。

 そこで彼が先に口を開いた。

「イリス」

 名を呼ばれた彼女の身が微かに強張る。

「は、はい……」

 後に続く言葉はわかっている。

 ついに〈終わり〉のときがやってきた。

 辛いが、やはり別れは館よりここで済ませるべきだ。

 ハーヴェンは正しい。

 だから彼女も覚悟を決めた。

 ところが、名を呼んだ後に続く彼の言葉は意外なものだった。

「一緒にリーベルへ付いてきてくれないか?」


 ***


 イリスレイヤの予想はハズレだった。

 ハーヴェンの口から飛び出した言葉は別れの感謝ではなく、これからも一緒に旅を続けようという提案だった。

「え……でも巡礼……」

 と、混乱している彼女の言葉は片言で文章になっていない。

 仕方ないことだ。

 あまりにも急な話だった。

 何かが気に入らなかったというのだろうか。

 一度も道に迷うことなく、行きたいという聖地には皆辿り着いた。

 道案内として何の落ち度もなかったはずだが……

 彼女はハーヴェンの役に立てなかっただけでなく、巡礼を取り止めにしなければならないほどの邪魔をしていたのかと、悲しくて俯いてしまった。

 お別れを告げられるという緊張状態の中、予想もしなかった言葉を投げかけられ、彼女が混乱するのも無理はない。

 無理はないが、彼の言葉をよく聞くべきだった。

 彼は「リーベルへ帰る」ではなく「一緒にリーベルへ付いてきてくれ」と頼んでいるのだ。

 この旅の道中、ハーヴェンは考えていた。

 彼女を、酷い境遇から救うにはどうすれば良いか?

 人として正しい道を説いても一家は聞くまい。

 一家は勇者の末裔だ。

 人として最も正しい血筋であるという自負がある。

 その自負がある限り、間違っているという指摘は耳に入らない。

 教義に基づいた説教も無駄だ。神官の身分で司祭に説教をすることはできないし、できたとしても不遜であると片付けられて終わりだ。

 いくら考えても、余所者の神官に打つ手はなかった。

 それでズルズルと旅を続けてきて、この最後の聖地巡りで気が付いたのだった。

 別に悩むことは何もなかったのだ。

 自分に正直になるだけで解決する問題だった。

 愛する人と一緒に暮らしたい。

 勇者だ、血だ、と閉鎖的で口うるさいヘイルブルから離れ、彼女の身の上を誰も知らない大都市ウェンドアで暮らそう。

 そう伝えるだけで良かったのだ。

 つまり、これはハーヴェンからイリスレイヤに対する求婚だった。

 彼女は巡礼のことを心配してくれるが……

「巡礼のことは気にしなくていいんだ。君と出会っていなくても、帰国後に神殿を去るつもりだったから」

「!?」

 海にも悪霊がおり、神聖魔法の出番はあった。

 魔法艦に神聖魔法の使い手は必要だった。

 しかし、これは体験したからわかったことだ。

 体験していないウェンドア神殿が、一神官の言葉を聞き入れるだろうか?

 決して神殿に改革を求めたり、教義の新解釈を訴えようというのではない。

 けれども神殿上層部は理解せず、異端者だと早とちりするだろう。

 だから神殿魔法兵をやめるのだ。

 そうなれば巡礼は必要なくなる。

 よって彼女が気に病むことはないのだ。

 ラキエー大陸へ渡る途上で生まれた新たな夢のためだ。

 頭の固い神殿の説得は諦め、兵団に転向する。

 自らが兵団初の神聖魔法使いの魔法兵になるのだ。

 尤も、これはすべてハーヴェン一人の考えだ。

 兵団も神聖魔法の必要性を理解せず、元神殿魔法兵の入団を拒むかもしれない。

 そのときは夢を引き摺らず潔く、

「〈聖医〉になって治療所をやろうと思っている」

 聖医——

 私事都合により神殿を去った元神官が、神聖魔法を活かして治療所を営む場合がある。

 彼らは通常の医者と区別して〈聖医〉と呼ばれた。

 神〈聖〉魔法の〈医〉者だ。

「いけません! それではハーヴェン様のご実家での立場が……!」

「ああ、そのことか。私は——」

 ハーヴェンは自らの伯爵家での立場を明かした。

 一応伯爵家公子ではあったが、正室が産んだ兄が急死でもしない限り、家督を継ぐことはない〈予備〉の男子。

 彼が兵団に転向しようが、聖医になろうが、家にとっては波風どころかそよ風にもならないだろう。

 ゆえに彼の立場を気にする必要はないのだ。

「ウェンドアで細々と治療所を営んで暮らすかもしれないが——」

 そこで話を一旦区切り、身体ごと彼女の方を向き、右手を差し出した。

「私の妻になってほしい」

 イリスレイヤを酷い境遇から救うにはどうすれば良いか?

 これがハーヴェンの出した答えだった。

 彼女に酷い仕打ちをし、それを認めず、ゆえに改めることがない一家に付き合っていることはないのだ。

 ろくでもない家からは去ればいい。

 ウェンドアは国際都市だ。

 ネイギアス連邦のロミンガンほどではないが、様々な国の人たちが暮らしている。

 最近は北方諸国との交易が増えており、ロンゼラート人の彼女がいても誰も不思議がらない。

 ウェンドアこそ、彼女が安心して暮らせる場所だ。

 夫婦で帰国すれば、リーベル王国も彼女を市民として受け入れてくれる。

 あとは、イリスレイヤの気持ち次第だ。

 繰り返しになるが、彼女にとって急な話だった。

 あと数日で生まれ育った祖国を去って、外国で暮らそうという。

 普通の女性なら躊躇う。

 考える時間が必要だろう。

 だが、彼女は躊躇わなかった。

 躊躇わず差し出されている右手を取った。

「はい!」

 彼女はずっと考えないようにしてきたが……

 本当は、勇者が嫌いだった。

 勇者の直系だという父と兄、一家はいつも威張っていて何事も強引で……勇者らしくない。

 祖先がかつて人々を救ったという伝説も彼女は信じていない。

 子は親に似るという。

 親の親の……親は勇者だが、魔王退治は本当だろうか?

 子孫たる父や兄を見ていると、真実とは思えなかった。

 彼らなんかより、ハーヴェン様の方が余程勇者らしい。

 その真の勇者様が地獄から救い出してくれるのだ。

 彼女が躊躇うはずがなかった。


 ***


 ハーヴェンとイリスレイヤは夫婦になった。

 結婚は二人が合意することで成立する。

 よって誰が何と言おうと二人はすでに夫婦だ。

 あとはリーベルへ帰るだけだが……

 ハーヴェンはこの街での巡礼をやり遂げることにした。

 イリスレイヤの旅支度のために時間が必要だったのと、途中で投げ出してしまっては、これまで世話になってきたヘイルブル神殿に申し訳ないからだ。

 そして気は進まないが、結婚を領主夫妻に報告しなければならない。

 領主は血を分けた彼女の父なのだから。

 娘を無断でリーベルへ連れて行ったら、人攫いだと誤解されてしまう。

 誤解を防ぐためにも、リーベルで暮らすことを告げてから旅立つのだ。

 その報告をいつするかだが、祈りが終わった日の夜に決めた。

 それまでの間……

 ハーヴェンは神殿で祈りを捧げ、イリスレイヤは侍女を続けることになった。

 祈りの一日目はいつも通りに過ぎていった。

 夕方までは。

 途中で昼休みを挟み、朝から夕方まで続く長い祈りが終わったとき、礼拝所にハーヴェンを訪ねてくる者がいた。

 ウェスキノだ。

 はっきり言ってハーヴェンはこの男の言動、行動が嫌いだ。

 去る日までなるべく関わり合いになりたくないのに、一体何の用なのか。

 彼の無表情を意にも介さず、ウェスキノの機嫌が良い。

 誰かが失敗して処罰されるところを見たのか、あるいは勇者の末裔の素晴らしさを示せる場面でもあったか。

 いまは後者だった。

 正確には、素晴らしさを示しに来たのだ。

「せっかくこの街へ来たのだから見せてやろう」

 と、ハーヴェンの横を通り過ぎて真っ直ぐ祭壇へ。

 正面に祀られている聖剣を台座から無造作に取り、鞘から引き抜いて見せた。

「っ!?」

 驚いているハーヴェンに対してウェスキノが、

「これは我が家の所有物なのだ」

 と鼻で嗤う。

 ここの神官から聖剣についての話は聞いている。

 かつて勇者が魔王を退治したという聖剣。

 勇者曰く「魔王はいつか蘇るが、そのときは我が子孫が聖剣の力を蘇らせ、必ずや魔王を討ち滅ぼすであろう」

 この言い伝えを信じている領民たちにとっては、勇者の血だけでなく、聖剣も信仰の対象だった。

 そこで勇者一族から聖剣が神殿に預けられていた。

 安置場所は礼拝所の祭壇。

 こうしておけば、領民たちは神と勇者の両方に祈りを捧げることができる。

 無暗に動かして良い物ではないことは確かだ。

 なのにウェスキノはお構いなしで素振りをしてみせている。

「…………ハッ!」

 ハーヴェンは暫し放心状態で素振りを眺めていたが、すぐに正気を取り戻して慌てた。

 剣の素振りというより、棒切れを乱暴に振り回しているようだ。

 ただの古い剣にしか見えないが、人々の祈りが込められた聖剣なのだ。

 柱に当たって刃毀れしたら大変だ。

「わ、わかりましたから、振り回すのをやめて下さい!」

 制止の声が大きくて驚いたのか、素振りが止まった。

 ホッと胸を撫で下ろすが、安心するのはまだ早い。

 彼は少年の頃から無茶ばかりしてきたので、周囲の制止には慣れていた。

 ハーヴェンの制止如きで怯んだわけではなかった。

 同じ年頃の少年の中には付き合いの良い者だけでなく、何かにつけて「やめよう」と水を差してくる奴もいた。

 そのような奴は強引にやらせて巻き込んでしまえば良いのだ。

 ウェスキノはハーヴェンに聖剣を差し出した。

「おまえもやってみよ。素振りは良い運動になるぞ」

「はぁぁぁっ!?」

 この馬鹿公子様は何を考えているのか!?

 刃毀れ以前に、余所者が信仰の対象物に触れること自体が許されることではない。

 こちらが遠慮しても、彼は「遠慮するな!」と返してくるだけだ。

 もう言葉を選んでいる場合ではない。

 はっきり「嫌だ」と断らねば!

 ハーヴェンが拒否を明確に告げようとしたときだった。

 正面玄関の外から悲鳴が聞こえてきた。

「早く助けてくれっ! 司祭様、神官様っ!」

 礼拝所の二人が駆け付けると、そこには農民たちが集まっていた。

 殆どの者は立っていたが、地面に寝かされている者たちがいた。

 見ると、その者たちの腕や肩が血で赤黒い。

 傷はついさっき負ったばかり。

 まだ〈浄化〉が間に合うはずだと、農民たちは大急ぎで神殿へ連れて来たのだった。

 そう……

 普通の怪我ではないので、必要なのは〈治癒〉ではなく〈浄化〉だった。

 倒れている農民は嚙み千切られたのだ。

 ゾンビに。

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