第32話 不倫随想〈茉莉児シン〉

 トシエと白無垢とかいう幽霊を封印するという儀式は順調に進んでいるようだ。



 俺だってこんな夜中に最大限協力してる。


 二見のおばさんが三角の頂点の角で真剣な顔で正座してる。


 さっきは、目覚めたらいきなり巫女さん装束に変わっていたから誰かと思ったじゃねーか。


 金持ちだかなんだかで、高飛車だし嫌みっぽいんだよな、この人。好きになれないタイプ。


 ま、タダでこの事態を何とかしてくれんなら、この際ありがたいね。



 ろうそくで揺らぐ薄暗い明かりの部屋に響く、お経みたいな朗読。


 底辺の向こうの角では、隣のヒヨった小僧が、揺らめく明かりの中で背筋を伸ばして正座し、手を合わせて祈っている。


 トシエはこの小僧のこと、えらいウザがってたなぁ‥‥‥


 自分に似てない美形で、前の奥さん見てるみたいで、いるだけでムカつくって。


 あのガキが今じゃこんなにひょろひょろ背が伸びやがって。前髪ウザくて目がはっきり見えねーし、見ててイラつくよなぁ。体、風で飛んできそう。メシ食ってんのかよ?



 真夜中だけど眠さは感じてはいない。感じるのはうすら寒さと後悔だけだ。




 ──マジビビった。


 あの夜。



 シャワー浴びて戻ったら、頭から血を流したトシエが部屋で倒れてるし。


 ついさっきまでは普通にしてたのに。


 呼び掛けたけど、意識は無い。体には温もりがあったし、息は微かにあるようだった。


 誰かにやられたのかと見回したけど、誰かが侵入したような形跡は見た感じ無かった。争うような音も声も全く聞いてはいない。


 電気つけて部屋をよく見ると、テレビ台の角に血がついていて、足元には俺のダンベルが転がってた。



 ──あれは事故だ。単なる事故だった。



 けど、あのシチュエーション、第三者はどう見るよ?



 ──あれって俺がやったって言うんじゃない?



 痴情のもつれかなんかで俺がカッとなって突き飛ばしたとかって。


 これって不倫だし。



 バレたら、世間では気遣い不要のストレス解消ターゲット。バッシングの標的だ。


 警察では?



 あいつら、せこい点数稼ぎのノルマだってあるし、事件作るのが仕事だし、手柄立てたいし、事件性の無い事例だって犯罪に仕立てあげてるような事例は時折ニュースに流れて来る。冤罪を晴らすのに人生使ってる人だって実際何人もいる。


 たぶんこういうのって世間で知られてるケースは氷山の一角。不当な目にあったって庶民はほとんどは泣き寝入りだろ? 上級国民なら事件や事故を起こしてもうやむやに終わらせるくせに。


 事件にされて、俺の顔がネットに溢れる悪夢が浮かんだ。一生消えないデジタルタトゥーとなって。



 俺が対処を迷っていたほんの10分の間にトシエは息を引き取っていた。


 これじゃ、救急車呼んだところで助かったわけもないじゃん。



 俺は覚悟を決めた。



 ──全て無かったことにしよう。



 だって俺たちのことは誰にも知られてはいない。


 もちろんすぐ流出するようなSNSで会話なんてしてはいない。


 ある下書きを共有して、書き込みを確認したら消す、をお互い繰返してるだけ。


 GPSの心配があるからトシエはスマホだってここには持ち込んではいない。


 トシエは安泰な生活を手を放す気は全くなかった。不幸な親の家庭に生まれたトシエは、ごくごく普通の家庭に憧れていたからね。


 美人のトシエだったらもっと金持ち捕まえりゃいいと思ったけど、金持ちセレブ男をキャッチしても、親族からは身元調査されるし、キャバ嬢バレると親兄弟外野が激うるさいそうで。だからって、家族と縁切りしたら、本人セレブじゃなくなるし、男に価値無し。いっそのことセレブなジジイの愛人になれば楽だけど、金で拘束されて若さを無駄に消費するのは嫌だって。



 うるさい親族無しでOKで、ほどほど自分で稼げる、バツイチ子持ちながら普通の男と取り敢えず結婚して落ち着いたものの、トシエには物足りなかったようで。


 仕事柄、体目当てにちやほやしてくる男に囲まれて生活してたから、いつまでも姫気分が捨てられなかったトシエ。


 そして、この俺もその浅ましい男の一人に加わった。



 俺たちの関係なんてお互いに軽薄なものだった。バレそうでバレないスリルが快楽を高めてくれた。ちょっとした遊び。


 そんなどうでもいいもののために犯罪者にされるなんてまっ平だ。


 きっと、トシエだったらわかってくれるし、反対の立場だったらトシエだってきっと俺に同じことをしたはずだ。


 そうなってたとしても、俺はトシエを恨んだりしないと思う。



 俺は当時、産業廃棄物を運ぶトラック運転手をしていた。都市部からそこまで遠くない山間部にクズを山盛り運び、谷間に落とす。俺はただ、社長に指定された場所に運んでいただけだけ。



 そこを利用させて貰った。


 一応、花だって添えたんだぜ?


 申し訳ないけど、トシエがこうなるのもお互い様ってことで許して貰った。


 俺のせいじゃない。俺は悪くない。



 ──それで終わったはずだった。



 最初はトシエが死んだ部屋を気にして、ずっとビジネスホテルやら、ネットカフェで過ごしていたけれど、金もかかるし、ひと月で家に帰った。


 テレビも台も全て棄てた。部屋の中身全取っ替えして掃除して模様替えしたらすごくスッキリして、一日そこで無事過ごしたら、もう平気になってしまった。



 あれから、間もなく運転手の仕事も辞めた。どうせ会社の雲行きも怪しくなって来てたし。俺らがやらされていたのはやはり不法投棄だったみたいで。


 俺は悪くない。上の指示に従っただけ。



 最近、記憶を辿ってあの場所に行ってみたけど、もう木と藪がすごくて、どこだったかよくわからなかった。


 とりあえず花だけ投げておいた。



 今となっては後悔しかない。あんな女と出会わなきゃよかった。



 二見さんにトシエの幽霊が俺の家にいるって聞いてから、俺はお祓いを受けたし、高価な護符を貰って家に貼っておいた。


 俺自身、幽霊の存在なんて感じたことは無かった。



 生前、親父にそれとなくそんな話を振ってみたことがあった。


 現実的な親父はそんなものは信じてはいないって言ってたけれど、不思議なことと言えば、繰返し同じ夢を見ることがよくあると言った。


 徐々に痩せて来てたし、心配になって悪夢なのか聞くと、それは幸せないい夢だと言った。


 親父の口許がちょっとにやけたように思えて、どんな夢なのか聞くと、はぐらかして行ってしまった。


 どうやら俺には言えない夢らしい。



 そんな親父もあっけなくおふくろと共にあの世に行ってしまった。



 親父は激務のせいか虚弱体質になってしまっていた。おふくろは心配して親父の健康管理に一生懸命で、俺には普段、絡むこともあまり無くなっていた。


 俺だって、いい歳こいて干渉されたらウザいし、それで全然よかったし。



 ここ何年かは夫婦二人で、月単位で年に数回、自炊形式出来る湯治郷に出掛けていた。



 早めの退職で悠々自適生活に入って正解だったな。


 最期は優雅に過ごせてたみたいだし、夫婦睦まじく幸せそうだった。



 ──突然飛び込んで来た事故の知らせ。



 慟哭した。



 けど、いつかは親なんていなくなる運命だし、介護も無くあの世に行ってくれて、一人っ子の息子としては今は感謝しかない。


 詐欺に引っ掛かることもなく多少の資産まで残してくれて、俺って親ガチャめちゃ当たってる。


 親ガチャなんて、当たったと思っても最後の最後までまでわからないもんだぜ?


 受けた恩は返さなきゃなんない。終わりは見えぬまま、場合によっては世話になった月日の倍の年月かけて。


 介護殺人なんて珍しくも無くなって来た。


 人生最後までわからないよ。ま、金さえあれば全ては解決だろうけど。



 ったくよ~、世知辛いよなぁ~‥‥‥




 あれ? 考え事してた間に‥‥



 ‥‥‥あえっ?!



 本当に現れた!!


 血まみれのトシエが、あの時の最後の姿のトシエが俺たちの目の前に───






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