第18話 近隣内情〈二見早苗〉
まさか、あれから事故を起こして亡くなってしまわれるだなんて。
無茶な運転なんてする人ではなかったと思うわ。
山道とはいえ、明るい時間に通いなれた道で自損事故なんて。
白無垢さんと事故は関係あったのかしら?
あの時、声をかけられていたら、あのご夫婦は亡くならずに済んだのかしら?
それはわからないけれど‥‥‥
どちらにしろ、私が黒ネコに気を取られていなくても、出かける直前の人を引き止めることなんて出来なかったと思うわ‥‥‥
──そして私たちが気づかぬまま、恐ろしい運命はソロソロと水面下で静かに進んでいたんだわって、後になってわかるのよ‥‥‥
そのご両親が亡くなられる以前から、大人になられた息子さんのシンさんと会うことはあんまり無くて。たまに偶然通り過ぎるのを刹那、2階の窓から見かけるくらいで。
お隣にいようが、生活のルーティーンによっては、会うことなんてほとんど無いわよね。玄関先で会う人って、なぜだか同じなのよ。
茉莉児さんご夫妻はその頃、湯治が趣味化していて、シンさんは3階建ての家に一人きりで過ごされてることが多いみたいだった。
毎夜、明かりは1階しかついてないし。
そんな私でも気づいてしまうほど、シンさんは人相がやさくれた感じだった。
昔は元気いっぱいの人懐こいお子様だったのにね。なんでも勤めていた運送業者が急に廃業したらしくて。パチンコに入り浸りだって噂だった。
うちは実家のお仕事上、顔が広いから地域の情報まで自然と知れて来る。
私、今度お見かけた時にはなるべく声をかけて差し上げようって思っていたの。一人娘が成長して私にも余裕が出来たら、なにげにたまに白無垢さんのことを思い出すようになって来てたし、気になって。
だから、うちの娘が独り暮らしを始め、夫婦二人だけになってしまった年に、頂いた御中元をもて余していたから、思いきって家まで訪ねて声をかけたのよ。
お隣の窓に人の気配があったから、在宅しているのがわかってたし。
あの時は、先に声をかけておいた河原崎さんのおうちの高校生の沙衣くんもいたから誘いやすかった。シンさんだけだったら呼びにくいから、声はかけてはいなかったわ。
今思えばそれが発端だった。
私、そこでとんでもないものを見てしまった!!
訪ねた茉莉児さんの玄関から見えたのは、白無垢さんではなくて、なんと長年行方不明だった沙衣くんのおうちのお母さんのトシエさんの幽霊だったのよ!
まさか茉莉児さんのお宅でトシエさんの幽霊を見てしまうとは思いもよらないわよ!
なんで、ここに? おうち間違ってるわよ?
私、トシエさんは沙衣くんにとっては継母なのは知っている。
沙衣くんは、ええと‥‥十年くらい前だったかしら? 幼児の時に転勤を終えたっていう父親と二人きりでここに越して来たの。
その後、お父様が再婚したらしくて新しいお母さんとして、例のトシエさんがいらしたご様子だった。
沙衣くんは屈託無く、『俺にかわいい妹が出来たんだー』って、赤いほっぺで嬉しそうに私に話してくれたわ。奥さんの連れ子のかわいらしい女の子。再婚同士だったのね。血は繋がっていないけど、本当の兄妹のように仲良くて、見ていてほほえましかったわ。
その奥さんのトシエさんは派手な、ちょっと上品とは言い難い女性だったのだけれど、愛想は良かったわ。かなりの美人さんだったし。
近所のおじさん方には人気だったわよ。彼女とお話したいおじさん方に家の前で引き留められて立ち話しているのを2階の窓からたまに見かけたわ。もちろん茉莉児シンさんもその例外じゃなかった。その頃のシンさんは精力的なトラックお兄さんって感じで、あんなやさくれた感じの人じゃなかったんだけど。
そのトシエさん、旦那さんが出張中に子どもたちを置いたまま突然、家出してしまったそうなの。
出て行く素振りはなかったそうなんだけど、まあ、気まぐれそうな女性だったから。継子に自分の連れ子、再婚してから生まれた赤ちゃんの3人の子育てに耐えられなくなったのかもね。
旦那さんはすごくお忙しいようで、朝も早くて帰りも深夜、出張も多いとかってトシエさんが私に話して下さったことがあるもの。子育てをすべて任されて家事もあるし、毎日大変だったと思うわ。男だって、積極的に家のこともやるべきよ。そうしたらトシエさんだって、家出しなくて済んだんじゃないかしら?
トシエさんはあれから帰ることは無くって。
そうよね。時間経つほど帰りにくいし。若くて美人のトシエさんは、他に援助してくれる男性がすぐに見つかったのかもしれないし、どこかの宗教にでも拾われてしまった可能性もって思ってた。もしそうだとしても、本人がそれで救われるならそれでもいいとは思うけど‥‥‥
お可哀想なのは残された3人の兄妹よね。一番下の子はまだ赤ちゃんだったし同情してしまったわ‥‥‥
その一番上の沙衣くんは今や高校生。私より背が高くなって。他所の子どもってあっという間に大きくなってしまうものね。
沙衣くんが制服のままスーパーの買い物袋を下げて帰って来る姿を見かけたら、やっぱり何か手助けしてあげたいと思ってしまうのよね。余計なお世話だと思われてるかも知れないけれど。
*****
食べきれない御中元のお裾分けをしようと、好きなものを選んで貰うために沙衣くんとシンさんをお呼びして客間に上がって貰ったあの日。
私はトシエさんの幽霊を茉莉児さんのお宅で見てしまって、それはそれは動揺していた。
これを一人で抱えてろって言われてもそれは無理と言うものよ。
気持ち悪過ぎる。あれはもちろん高尚な霊じゃない。
あの虚ろな目。淫らな口元。しかも着衣無しときたんだもの。
私がこれに深く関わるつもりは毛頭なかった。トシエさんに向けていた同性同士で感じてた同情も吹き飛んでしまった。
だって、トシエさんはたまたま近所にお嫁にいらした他人だし、私には無関係よ。第一、私はあの人が好きではなかったし‥‥って思考に傾いてしまって。
嫌なことばかりが浮かんで来た。私、そこからは相当にマイナス思考になってしまって‥‥‥
こんな具合に───
『トシエさんは、その若さと美貌で私を暗に小バカにして貶めてマウントを取って来たり、私が育てている家の前のプランターのお花の寄せ植えのセンスにケチをつけてたわよね?
一回り以上も下の若さだけが取り柄の教養も無い人が私を見下して来るなんて、思いもよらなかったし、そんな人種に初めて遭遇してショックだったわ。
いくら私のセンスが悪いと感じていても、大人だったら他人に対する言葉の取捨選択くらい出来るのが常識よね。育ちと頭の悪さが滲み出てる。
本音を言えば、いなくなってくれて清々してるのよ。それがまさか幽霊になっていつの間にか戻って来てただなんて。しかもなぜか茉莉児さんのお宅に。あの時は家の中でシンさんの後をついて来てるように思えたけど?
これは女のカンだけど、たぶんトシエさんとシンさんには何らかの関わりがあったんじゃないかしら?
私、トシエさんが越して来た当初から、シンさんは彼女に気があるように見えてたし。
じゃ無かったらトシエさんの霊が、そこにいたワケが不明だわ。まさか間違って隣のおうちに行ってしまった訳ではないと思うの。
まあ、そんなこと、私にとってはどうでもいい些末なのよ。お願いだから、トシエさんの幽霊をなんとかしてちょうだい! このへんをうろつかれたら迷惑よ』
──なーんて感じになってしまった。
私、余裕が無くなると感情が勝ってしまって大人げないったらないのよ。ダメな私ね‥‥‥
沙衣くんにとってはトシエさんは一応家族だし、この二人にトシエさんの幽霊のことをお知らせすれば、どうにかして成仏させてスッキリさせてくれるんじゃないかって打算が働いた。
これはシンさんと沙衣くんのおうちが処理する問題だし、私が除霊方法を知っているからって、そこまでお人好しじゃない。
霊に関わるのはそれなりに危険が伴うものだし。
トシエさんの幽霊話は、いまだに母の帰りを待ち続ける沙衣くんには認めて貰えなかったけれど、間近で霊の存在を感じていたらしきシンさんには効果があった。
私の話を信じてくれて、誰かにお願いして除霊するつもりになってくれた。
その後、シンさん自身が、とある神社でお祓いを受けて御札を授かったと私に報告して来た。
トシエさんの霊をどうこうではなくて、自分のお祓いと自宅に御札で結界を張って近寄らせないようにしたらしい。
それって、私に言わせれば仮初めの安息だわ。ほんの一時的な安心。
一時期穢れを払って自身に清浄な気をまとったところで、人は生きてる限り日々穢れてゆくから結局また隙が出来てあの低級霊を引き寄せるわ。
御札だってただの見せかけだけの御札だって場合もあるし。守護の御利益もピンキリなのよ。
本当はトシエさんの霊を成仏させる、または封印した方がいいのだけれど。
あの霊が今後どうなって誰にどう影響を及ぼすかは不明なのだから。
我が家では、オールマイティーに効力のある本物の御札は常時貼ってある。念のため盛り塩もしておいた。
──あれから不安を残しながらも、そのまま表面上は何事もなく10年という年月が過ぎて行った。
シンさんの御札は少なくとも地縛霊の白無垢さんには効果無しだったってことね。
どうやら茉莉児さんの旦那さんに、長いこと緩やかに祟っていたようだし。
私、白無垢さんを乗せた車で茉莉児さんご夫妻が出発したのを目撃したあの朝のこと、忘れられない。
でも‥‥そういえば、おかしくない?
地縛霊の白無垢さんがお出かけなんて。
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