第二十四話 沙羅とサイン会

「むにゃむにゃ……律く……ん」


 吐息が、耳に当たる。前に一緒に寝たことを思い出す。


 幸せというのはこういうことを言うのだろうか。

 俺と違って肌がきめ細かいので、思わず触れたくなる。


「触れて……もいい……よ」

「え、ええ!?」


 いつのまにか心の声が漏れていた? いや、でも……指でそっとなぞるだけなら問題ないのか?

 いや、あるのか? いいかな? いいよね?

 羽根でなぞるようにふわっと……。


「し、失礼します――『到着――到着ー』」


 人差し指がほっぺに触れる瞬間、バスのアナウンスが流れる。

 急停止というほどではないが、変な体勢になっていたので、沙羅の顔が至近距離に。


「ふえ……おは……よ……え、り、律くん!?」

「あ、いやこれはちが!?」


 頬を撫でようとしていたので、完全に間違いではないがキスをしようとしたわけではない。


「ええとこれは!? ちょっとその……ほっぺたをむにってしようと思って……」

「むに? どうしてむにっとしたったかんですか?」

「柔らかそう……だったので……ごめんっ! 変なこと言って」


 絶対嫌われた。最悪だ。せっかく楽しい日にしようとしていたのに……。

 と、思っていたら沙羅がくすくすと笑い出す。


「ふふふ、面白いですね。ほっぺたむにむにですか。構いませんが、優しくしてくださいね?」


 わざわざ体勢をこちらに向き変え、沙羅は菩薩のように微笑んだ。

 白くてもちもちのほっぺ。

 顔を少しだけ突き出し、目を細めてどうぞです、と言ってくれた。


「し、失礼します(二回目)」


 なんだか悪い事をしている気がしつつも、手を伸ば――。


「お客さーん? もう着いてますよ?」


 しかし運転手が変だなと思ったのか、様子を見に来てくれた。

 というか、すいません……。

 

 結局俺は、ほっぺたの感触を確かめることはできなかった。


 ◇


「いい天気ですね、気持ち良いです」

「ああ。けど、ここまで何もないとは思わなかったな」


 バス停を降りると、綺麗な青空が広がっていた。が、それ以外は何もない。

 平坦な道が続き、その奥の書店でサイン会をしているとの情報は公式から発表されていた。


 間違いはないと思うが、心配になるのも無理はないだろう。


 なぜならピーマンバナナ氏は本を出せば100万部は超える書籍化作家だ。

 普段はメディアにも出ないし、サインもしない。

 それがこんな田舎で……と、少し不思議だった。


「私はこっちのほうがいいですね。都会は少し騒がしくて、ゆっくりが出来ないです」


 田舎暮らしはしたことがないので、いつも不安のほうが勝つ。

 何をするんだろう? と思いがちだが、俺の生活スタイルなら家にいることが多い。

 となれば、田舎のほうがいいのか……?


「そういえば、さっきの続きはいいんですか?」


 顔を覗き込むように、沙羅が俺の顔を見る。

 いつもより少しお姉さんっぽく見えるというか、悪戯娘っぽい。

 初めて会ったときから機嫌が良いと思っていたが、どうやら今もそうらしい。


「だ、大丈夫!」

「ふーん、残念ですね?」


 クスクスと笑う沙羅は、少し楽々に似ていた。


 ほどなくして目的の書店に辿り着く。


「これ……みたいだけど」

「小さい……ですね?」


 マップを書店を交互に見返す。

 それもそのはず、かなり小さいのだ。

 そもそも周りに誰もいない。何もかも間違っていたのでは? と調べ直したが、どうやら合っているらしい。


「もう少し人が来てもいいと思うんだけど……とにかく中に入ってみようか」

「そうですね。何事も勇気が必要です」


 店内に足を踏み入れる。

 チラリ見た感じでは、やはりそこまで大きくない。

 本屋は好きだ。インクの匂いが、心を落ち着かせてくれる。


 しかしカウンターに人がいない。

 キョロキョロしていると、エプロンを付けたお姉さんに声をかけられた。


「こんにちは、何かお探しですか?」


 こういってはなんだが、このあたりにいるのが意外な綺麗な人だ。

 服装はタイトスカートで、少し色っぽい。


「あ、ええと。僕たち新刊とサインをもらいに来たんです」

「もしかして……ピーマンバナナ?」


 はい、と答えようとしたら、沙羅が食い気味に前に出た。


「はい! そうです!」

 

 すると、お姉さんがふふふと笑う。


「どうぞ、こちらです」


 店内奥、といっても大きくないはないので、すぐに長机と椅子が見えた。

 誰も……いない? 休んでるのかな?


「二人とも、ピーマンバナナが好きなの?」

「はい! 大好きです! 私は特に恋愛の価値観についてが好きなんです。生存率についての解答が、とても心に刺さりました」


 恋愛の生存率とは、ピーマンバナナ氏の恋愛の価値観でよく引用される言葉だ。


 男女が付き合ったとしても、恋愛の生存率は数パーセントにも満たないという。

 生き残るためには、お互いを尊敬、尊重し合い、絆を作り上げなければならない――。


 こういった言い回しが独特で、言葉の一つ一つが心に突き刺さる。


「どうぞ、お座りください」

「え?」


 お姉さんは、その奥に座った。


「――初めまして、私がピーマンバナナです」

「「え、えええ!?」」


 ◇


「ありがとうね、来てくれて嬉しかったわ」


 新刊を購入し、サイン本を頂いた。

 更には内容についてもガッツリと沙羅と二人で質問できたので、大満足だ。


 しかし、一つだけ疑問が……ある。


「あの、すいません。失礼かもしれませんが、一つ聞いてもいいですか?」

「構わないわ。といっても、ネタバレは出来ないけどね」

「どうしてこの書店でサイン会をしているんですか? その……普段はテレビとかにも出ないのに不思議だなって」


 訊ねた質問が嫌だったのか、お姉さんことピーマンバナナ氏は静かになった。

 しまった……聞くべきではなかったと思っていると、ゆっくり口を開く。


「私、このあたりに住んでたのよ。それでね、元々ここには御婆さんがいたの。ずーっと、ずーっとね。私が本を書き始めたのはこの書店のおかげといっても過言でもないわ。けど……先日病気で亡くなってしまったのよ。だから明日、この書店は取り壊されちゃうの」

「そう……だったんですか……」

「それで、親族さんたちに無理を言ってサイン会を開かせてもらった。今まで何度か来ていたんだけど、最後にこの光景を目に焼き付けたくてね。人の時間は有限で、無限じゃない。だから、あなた達に会えたこと、忘れないわ」

「私もです。絶対に忘れません」


 沙羅が真剣な瞳で、ピーマンバナナ氏の手を掴む。両親が事故で亡くなってしまったことを、沙羅と楽々はまったく話さない。

 俺としても聞くのは辛いが、たまに悲し気な表情を浮かべている時がある。

 二人の傷を癒す事は俺にできない。だが、これから楽しい思い出を共に作っていくことはできる。


「じゃあ、私からもいい?」

「はい、何でも大丈夫です!」


 元気よく答えた沙羅だった。当然、俺も何でも答えるつもりだ。

 お姉さんは、不敵な笑みお浮かべる。


「二人は付き合ってるのかしら?」


 ◇


「それじゃあまたね、ありがとう」


 他にもお客さんが現れたので、ピーマンバナナ氏が手を振って俺たちを見送ってくれた。


「とってもいい人でしたね、ピーマンバナナさん」

「ああ、ますます好きになった」


 結局、あれから俺たちの関係性を根掘り葉掘り聞かれたので答えることになった。

 次回作に書いてもいいかしら? と言われたが、それがリップサービスなのか本気なのかはわからない。


 付き合っている、という言葉には、流石に答えられなかったが……。


「律くん、恋愛生存率の話、どう思いますか?」

「え? どうだろう。恋愛……したことないから」

「だったら、私と同じですね」

「そうなんだ!? 意外だった」

「でも、一つ思ったことがありますよ」


 バス停まで歩いている途中、沙羅が振り返る。


「私たちには楽々がいるので、三人で結婚したら、確率は倍になりますね」

 

 悪戯っぽく笑みを浮かべる沙羅は、いつもよりも子供っぽく、それでいて一番可愛かった。

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