第4話 光輝く舞台の片隅でー1

 音楽が流れ始めている。

 本番前のリハーサルが始まったのだ。

 楽屋に戻った花は、玲奈と真央の着替えを手伝っている。

「フー」

 真央のチュチュの背中の釦を止めると、真央が大きく息を吐いた。

「あー、なんか、イラつく」

 今日、真央は何度このセリフを口にしているだろう。

 真央は苛立った表情で、鏡に全身を映す。

「やだ、肩のところ、ファンデがムラになってない?」

「え?」

「ほら、ここ!」

 ムラというほどのものではなかった。ほんの少し、ファンデの上にはたいたお粉が浮いて見える。

 慌てて、花は化粧箱の中を探り、ファンデとスポンジを手に取った。

 真央の肩へう腕を伸ばす。


「あんたのやることは半端なのよ」

 真央の怒鳴り声に、肩にファンデを当てながら、花は視線を落とした。

「今日、優勝できなかったら、あんたのせいだからね」

「そ、それは」

「何よ。あたしの踊りがみんなより劣るっていうの?」

 そんなつもりはない。だが、今日のコンクールには、有名バレエ団の精鋭が集まるのだ。そう簡単に優勝できるとは思えない。

 もちろん、真央だって、優勝候補ではある。


 もし、回転のあとのアラベスクにもう少しキレがあれば。

 花は思う。

 バレエはステップをこなすだけの踊りじゃない。

 ポーズ一つ一つにも、情感がこもっていなければならないはずだ。

 といって、大げさに体にシナを作って、それらしくするというのは違うんじゃないか。

 音に合うキレも必要。

 真央は、どの動きも完璧だが、流れとしてみると、ちょっと弱いところがある、気がする。


 気がするとしか思えないのは、花には自信がないからだ。

 自分は真央より踊れるはずがない。



 そのとき、隣の鏡の前で着替えをしていた玲奈が、声を上げた。

「あんたが優勝できなかったら、あたしがするだけよ」

 鏡の前でくるりと回転し、玲奈が満面の笑みを寄越した。

「負けないわ」

 真央がそう呟いて、いつもの癖で、左手の薬指の爪を噛んだ。

 この双子は、いちばん身近なライバル同士だ。

 玲奈が二時間レッスンをすれば、真央は二時間半踊る。

 真央が二十回回転すれば、玲奈が二十五回回る。

 玲奈が耳の横へ片足のつま先をつければ、真央はつま先を背中まで持っていく。


 きっと、今日、二人は、激しい火花を散らすだろう。

 そう思ったとき、美佐子さんが楽屋に入ってきた。

「そろそろよ」


 三人から数歩後ろから、花も楽屋を出た。

 双子のために、舞台の袖で待機しなくてはならない。

 まるで、王女たちと侍女の行列のようだ。

 美佐子さんを先頭に、顔を上げ、颯爽を進む玲奈と真央の後ろを、大きなバッグを両手で抱えた花が続く。

 玲奈と真央が優勝候補であると、今日の出演者には知れ渡っている。

 そのせいか、廊下で思い思いに過ごしていたバレリーナたちが、さっと道を開ける。

「あんたはここまで」

 美佐子さんの硬い声が響き、花は舞台袖の入口で立ち止まった。

 

 

 あ、始まる。

 踊るのは玲奈が先だった。

 舞台に立つ玲奈に、スポットライトが当たる。

 花はこの瞬間が好きだ。

 目を閉じる。

 途端に、目の前の玲奈は消え、光の中に立つ自分の姿が見えてくる。

 五番のポジションから、右足を出して、アラベスク。

 カッと客席を見る。

 観客が息をのむのがわかる。

 たくさんの目。どの目も、賞賛に輝いている。


 音楽のテンポが変わる。

 ターン、そして大きくジャンプ。

 

 その跳躍の最中で、花は後ろから声をかけられた。

「すばらしいわ」

 はっと目を開け、花は現実に呼び戻された。


 舞台では、玲奈が踊り続けている。

 光輝く舞台の上で踊る玲奈。

 そして花は、薄暗い舞台の袖でそんな玲奈を見ている。

 素晴らしいと言ったのは、誰だろう。

 客席の声が聞こえるはずはないし。


「さあ、続けて踊ってごらんなさい」

 ふたたび声が聞こえて、花はようやく後ろを振り返った。


「雅子先生」

 花の後ろに立ち、声を発したのは、雅子先生だった。

 なぜか、いつもコンクールに現れるという不思議なバレエ教師。

 花は恥ずかしくなった。自分の踊りを見られていたなんて。

 首筋が火照った。

 が、ふと奇妙だと思う。

 だって、自分が舞台で踊っていたのは、頭の中だけのこと。現実はこうして、玲奈のために飲み物やタオルを持って、舞台袖でたたずんでいるのだから。


「続けて踊りなさいって……?」

 花は雅子先生を見た。

「すばらしいジャンプだったわ。その続きを見せてちょうだい」

 花は大きく目を見開いた。

 どうして? わたしの頭の中の踊りが見えていたというの?


 ふと、萌の言った言葉が蘇った。

――魔法

 花は雅子先生を見つめた。

 姿勢だけはいいものの、痩せた老女でしかない。

「これを履きなさい」

 雅子先生から差し出されたのは、トウシューズだった。

 普通のトウシューズではない。

 真っ赤なのだ。

 真紅の生地のトウシューズが、雅子先生のかさついた掌の上にある。


「これをあなたにあげましょう」

「わたしに?」

「踊ってごらんなさい、思い切り」

 花はトウシューズを手に取った。そして雅子先生を見上げる。

 雅子先生はにっこりと微笑み、うなずいた。

 履いてみると、まるで花用に造られたかのようにぴったりだった。甲や足裏に、吸い付いてくる。

 

 舞台から聞こえてくる音楽に合わせ、花は踊り始めた。

 踊り始めると、もう、止まらなかった。

「もっと、足を高く上げて」

 雅子先生が言った。

 その声に答えるべく、後ろに上げた足を更に伸ばす。

 

 ああ、この感触、懐かしい。

 花はいいようのない興奮に包まれた。自分の限界よりも、更に高みに、指導者によって導かれる喜び。

 そう。ほんとうの母が生きていた頃、花は母の指導で、この喜びをいつも感じていた。

 だが、母が死んでしまってから、花に指導してくれる教師はいなくなってしまった。


 花は踊った。

 スポットライトもない。音楽もない。

 まして、観客もその拍手も。

 でも、花は満ち足りていた。



 「さあ、グランフェッテよ」

 厳しさの中にも心地よい緊張感のある声で、雅子先生が言う。

 花はグランフェッテを始めた。

 一回、二回……十二回、十六回。

 花のバランスが崩れ始めた。

「さあ、あと四回」

 雅子先生の叱咤が飛んだ。


 む、無理。

 もう、回れない。

 そう思ったとき、雅子先生が言った。

「回りなさい。このトウシューズは、グランフェッテを二十回回らなければ、あなたの足から取れなくなるのよ」

 え。

 花は回りながら、たしかにそう言う雅子先生の声を聞いた。


 十八回、十九回、二十回。

 花は回り追え、その場に倒れ込んでしまった。

 はあはあと息が切れる。

 舞台では、玲奈が踊りを終え、観客に向かってお辞儀をしているところだった。

 割れるような拍手が聞こえる。

 その拍手は、自分に寄せられているかのような錯覚に陥った。

 雅子先生のおかげだわ。


 だが、ふと横を見ると、雅子先生はいなかった。

 



 



 

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