第3話 楽屋

「あんた、そこ汚れてるわよ」

 鏡を拭いていると、後ろから声がかかった。

 振り返ると仁王立ちした双子の姉の玲奈がいた。コンクールといっても、遅刻しがちな玲奈だが、さすがに今日は気合が入っているようだ。

 どこが汚れてるんだろう。花は慌てて部屋を見渡した。部屋の床掃除は済ませてある。

「床が汚いと、シューズに汚れがついちゃうじゃない」

 玲奈が指さした箇所は、楽屋のドアのすぐ近くだった。言われたとおり、丸まつた灰色の埃がある。掃除機をかけ、雑巾で拭いたのだ。おそらく、ドアを開けた瞬間に入り込んだのだ。

 それでも、部屋の中にある埃は埃。


「すみません」

 花はドアまで走り寄って、埃をつまんだ。それから手にした雑巾でもう一度床をひと拭きする。

「サボんないでよね。今日は大事な日なんだから」

 玲奈はどさりと肩がけバッグを椅子の上に置いた。

 鏡拭きに戻ると、さっきよりも尖った玲奈の声が飛ぶ。

「衣装、すぐにかけて!」

「あ、はい」

 玲奈のバッグから、花は衣装を取り出した。

「やだ、汚い手で触んないで。手、洗ってよ」

「ご、ごめんなさい」

 いつにも増して、玲奈の機嫌は悪いようだ。緊張しているのだろう。

 急いで部屋の隅の洗面台で手を洗う。


 衣装をハンガーに掛けて、皺を伸ばした。玲奈は今日、黒鳥のオディールを踊る。黒いに金色の刺繍が流れるようにほどこされた、あでやかなチュチュだ。

 思わず美しさにみとれて、花はチュチュのちょっぴり硬いレースを撫でた。

 ありえないとはわかっていても、つい衣装を見ると、自分が着ている姿を想像してしてしまう。

 音楽が聞こえてくる。

 くるくるとターンをする自分。

 たくさんの拍手。

 この演目では、踊りのキレがとても大事。ザハーロアはすばらしいわ。踊りの中に明るさがあるもの。黒い衣装が華やかに見える。

 いつしか、思い描く自分の姿が、憧れるバレリーナと重なってしまう。いつものことだ。ザハーロアの癖まで、自分の癖になっていく。


「何、ぼーっとしてんの!」

 怒鳴られて、花は我に返った。

 入口に現れたのは、義母の美佐子と姉の真央だった。二人は軽蔑の入り混じった目でこちらを睨んでいる。

「ほら、これ」

 美佐子に手渡されたのは、今日のプログラムだった。

「時間が迫ってるんだから、ぼーっとしてる暇はないはずでしょ」

 義母はいつもより化粧が濃かった。べったりと塗られたマスカラの目が、重そうに瞬きを繰り返す。その冷たい視線に、思わず、

「すみません」

と、花はうつむいた。


「ああ、喉が乾いた―!」

 飛び上がるみたいに、部屋の中へ入り込んできた真央は、

「水、ないの、水」

 とまわりを見回す。

 部屋の中を小走りになった花は、用意してきたミネラルウォーターのペットボトルを、バッグの中から取り出した。

「やだ、冷えてないじゃない。ぬるい水なんて、あんた、馬鹿?」

「馬鹿じゃないよ。間抜け」

 鏡に向かって化粧を始めていた玲奈が、笑いながら言う。

「あっ」 

真央がペットボトルを花に投げつけた。グシャッと音を立てて、ペットボトルが床に転がる。

「拾いなよ」

 仕方なく体を折り曲げ、腕を伸ばした花だったが、ペットボトルをつかみそうになった瞬間、玲奈の足が伸び、ペットボトルは蹴飛ばされた。ペットボトルは部屋の隅に向かって転がっていく。

 慌てて追いかける花。つい、足が滑って転びそうになる。

 けたたましい双子の笑い声が響いた。

「遊んでる暇はないでしょ! 本番前にレッスンしないと」

 美佐子が叫んだ。

「ああ、イラつく」

 真央が言いながら、着替えを始めた。



 バレリーナたちのレッスン前のストレッチは長い。体のすべての筋と筋肉をあたため、伸ばす。

 楽屋の廊下や袖では、今日のコンクールに出場するバレリーナたちが、思い思いのストレッチを始めている。壁をバーに見立てて、足をほぼ180度に広げる者、背中を反らせて、ヨガのポーズをしたまま、耳に当てたイヤフォンから音楽を聞き続ける者。

 まだ誰もがレオタード姿で、足には分厚いレッグウォーマーを巻いている。

 30分もすると、それぞれが動き出す。回転を繰り返す者。完璧なアラベスクのために、後ろに上げた足の位置を確認する者。足首から下の足先だけ水平に開き、その姿勢のままジャンプする者。

 

 誰の視線も、険しい。

 ここにいるのは、ライバル同士なのだから。

 目には見えないが、火花が散っているように感じるのは、花だけだろうか。

 美佐子から双子のための食事を買いに行かされた花は、緊迫した空気の充満する廊下を、コンビニのビニール袋を下げて、遠慮がちに歩いた。


「花ちゃん」

 廊下の端にたどり着いたとき、すぐ近くで花を呼ぶ声があった。

「萌(もえ)ちゃん」

 練習するバレリーナたちの合間にいたのは、唯一と言っていい、花のバレリーナ仲間の萌だった。

「今日も来てたの?」

 花は思わず顔をほころばせた。

「もちろん来てたよ。出演はしないけど」

 萌は東京の有名バレエ団の一員だが、まだコンクールに出るほどの実力はない。まして、今日のような大舞台に、萌の所属するバレエ団から出演できる力はない。

 だが、萌は、自分の勉強のために、必ず所属するバレエ団の一員が出るコンクールにはやって来る。

 コンクール会場で、何度か顔を合わせるうちに親しくなった。舞台の袖で真央や玲奈の踊りを見る花に話しかけてくれたのだ。


「今日の優勝は誰なのかな」

 萌は花に近づいてくると、声をひそめた。

「わかんない。絶対優勝は無理だって言われてる人でも、本番になるとどうなるかわかんないし」

「だよね。それが本番のおもしろいところ」

「真央さんと玲奈さんが出るんだよね」

「そうよ。二人共頑張ってる」

「花ちゃんが出ればいいのに」

 萌は一段と声を低めた。

「そんな、わたしなんか」

「だって、花ちゃん、すごくうまいじゃない」

 ううんと、花は首を横に振った。自分の踊りを褒めてくれるのは、萌だけだ。

 萌は十六歳。花より一歳年下。バレエを始めたのは、四年前だ。そんな萌は研究熱心で、花に会うと、体の動かし方を質問してくる。

 はじめ、ただ、独り言のつもりで呟いていた萌の疑問に、花が答えたことから、まるで花を先輩のように思ってくれている。


 だが、萌の思うように、自分はバレエができているのだろうか。

 そもそも、自分の踊りを誰かに見てもらう機会はない。父が死んでから、花は美佐子さんによって、人前で踊るのを禁じられている。

――スワンバレエ団の恥になるわ。

 義母の美佐子に言わせると、花は基礎ができていない。バレエに大切なターンアウト(開くこと)がそもそもなってないし、体の引き上げも中途半端だというのだ。

――そんなんで人前で踊ったら、何を教えてるの?って言われて、生徒が来なくなるわ。


 花は自分の踊りに自信が持てない。

 ほんとうは、思い切り舞台で踊ってみたいけれど、美佐子の言うとおりだったとしたら、聴衆に笑われるのだ。

 それは、怖い。

 日々、バレエ団の雑用ばかりしているのがお似合いなのかもしれない。


「あ、雅子先生だ」

 萌が首を伸ばして、小さく叫んだ。

 廊下の向こうに見える階段の踊り場に、雅子先生がいた。

 花も萌にならって、踊り場に見えた小さな老女を見つめた。立ち姿は凛としているから、おそらく遠い昔バレリーナだったのだろう。

 おそらく年齢は。

 想像がつかない。多分、八十歳はとうに越えてるんじゃないか。

 心持ち開いた足先で立ち、杖でその細い体を支えている。

 

 雅子先生は、コンクールには必ず姿を見せる。といって、どこかのバレエ団を率いているわけでも、審査員をしているわけでもない。

 萌に言わせると、勝手にやって来ているらしいのだ。

「きっと、バレエが好きで好きでたまんないのよね」

 萌はそう言うが、その声音は、決して好意的ではない。「迷惑なおばあさん」と言いたげだ。

「いつもコンクールの当日に、楽屋のまわりをうろうろしてるでしょ? バレリーナたちにとっては邪魔だと思うんだよね」

 花にはそうは思えなかった。雅子先生は、決してバレリーナたちの邪魔になるような動きはしないのだ。雑用で楽屋の廊下や舞台の袖を行き来する自分には、わかる。


「ただね」

 萌は口元をほころばせた。

「雅子先生には、不思議な都市伝説があるんだよ」

「都市伝説?」

 意外な言葉に、花は萌を振り返った。

「雅子先生の前で、グランフェッテ(片足を軸に回る難易度の高い回転技)を二十回やれると、優勝できるって」

「グランフェッテを?」

「そう。できた子が言ってたらしいんだけど、成功する子はね、途中でなんか魔法がかけられたみたいに体が軽くなるんだって」

「魔法……」

 花はもう一度、雅子先生に目をやった。

 だが、階段の踊り場には、彼女の姿はなかった。


 

 

 





 





 

 

 



 


 

 

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