第2話 コンクール

 新宿へ向かう電車は殺人的な混雑だった。

 抱えたバッグが他人の邪魔にならないよう、右に左に持ち替えながらもみくちゃにされているうちに電車は新宿へ着いた。

 そこから地下鉄で表参道へ向かう。

 表参道駅を地上へ出ると、花はほっと息を吐き、うつむいて自分の姿に目をやった。まわりを行き交う人たちに比べて、自分の姿はみすぼらしく感じる。

 

 くたびれたピンク色のフェイクファーの上着。履いているのは、もう何年目に突入したのかさだかではない黒いジーンズ。足元は灰色に近くなってしまった、白いスニーカー。真央がきまぐれで二、三度出かけ、玲奈が履きつぶしたあと、花にまわってきた。

 義母の美佐子は、花に二人の双子の着古ししか与えてくれない。


 ほっとふたたび息が漏れた。ため息だ。

 といっても、ため息はそう重いものではなかった。

 もう、美佐子の仕打ちには慣れっこだ。それに、花は特別、流行りの服、真新しい服が着たいとは思っていない。


 自分でも、ちょっと変わっているなと思う。

 それよりも、花には、自分の体型のほうが大事だと思っている。

 体型。

 踊るための、バレエのための身体。

 服は所詮、体を覆っているだけのもの。衣装と同じだ。


 花は17歳の女の子にしては、高身長で痩せていた。産んでくれたほんとうの母親に似て、小顔で手足が長い。母親はロシア人の血が入っていると噂されていたほどだから、似ている花もちょっと日本人離れしている体型だと言われる。

 だが、花の両親は純粋な日本人だ。多分、特別な体型に見えるのは、体の使い方なのだろうと、花は思っている。母親がそうであったように、花も、手足を長く見せる立ち方、動かし方を常に心がけている。


 いつか、舞台に立ったとき、音楽を、ストーリーを、思い切り表現してみたい。

 優雅な曲、リズミカルな曲。楽しいお話、悲しいお話。

 自分なら、どんなふうに踊るだろう。


 そのために、花は体型には常に気をつけている。

 舞台に立つ機会など、永遠に訪れそうにないというのに。


 トンと、背中に見知らぬ誰かがぶつかって、花は我に返った。

 歩道の真ん中で立ち止まっていた。

 急がなきゃ。

 花は足を踏み出して、会場へ向かった。


 ビルの間から北風が吹き付けてくる。表参道から道を折れて、会場となっているビルへ着いた。

 裏口にまわり、関係者である旨を告げて建物の中へ入る。

 会場はしんと静まりけっていた。薄暗い楽屋口を進んでいくと、ときどき誰かの声が聞こえた。照明や音声の人たちが準備を始めているのかもしれない。

 ちょっと回り道をして、舞台を見に行った。

 まだ証明もなされず、舞台は暗く沈んでいるが、何かいいようのない緊張感が漂っているように見える。


 美佐子さんに強要されて早くから会場を訪れているが、花はまだ踊り手たちがいない舞台を見るのが好きだった。

 夢の舞台の、バレリーナたちの歓喜や挫折。思いのすべてを、あと数時間後、この場所は飲み込むのだ。

 

 スポットライトを浴びて、自分が踊る姿が目に浮かんだ。

 そんな日は来そうにない。

 だが、いつか自分にも。

「まだ入らないでください」

 舞台の上のほうから、誰かに声をかけられた。見上げると、作業着姿の男性がこちらを見ている。

「すみません」

 慌てて叫び、花は廊下へ戻った。


 スワンバレエ団の玲奈と真央にあてがわれた楽屋は、廊下のいちばん端にあった。そこへたどり着くまでに、各部屋に張られた使用者の名前を見ていく。

 誰もが知っているバレエ団に所属している有名なバレリーナの名前が続く。コンクールの常連たちだ。

 名前を目にしただけで、花には、彼女たちの踊りが思い出せる。エスメラルダのキレのいい踊りや、パキータのぺザントの可憐な動き。

 春風を思わせるピルエットの回転や、息をのむアラベスク。


 花は、なぜか、演目の振りを憶えるのが速い。

 自分ではなぜだかわからいが、振りが流れるように体に染み込んでいくのだ。

 一度目にすると、ほぼ憶えてしまう。しかも、演目を踊ったバレリーナの癖まで憶えてしまう。

 有名バレリーナとそっくりな踊り方が、花は数種類できる。

「あんた、物まね芸人になれば?」

 真央や玲奈にからかわれたことがある。

 

 美佐子さんからバレエ団の雑用を押し付けられている花だが、さすがの美佐子さんも、掃除のあとに、自主練をする花の邪魔まではしない。

 いや、花が自主練をしていると知らないのかもしれない。もし知ったなら、美佐子さんが許すはずがない。

 物まね芸人みたいだと双子に笑われたとき、たまたま、レッスンが終わったあと、スタジオに忘れ物をした双子に見られたのだ。

 おおっぴらに音楽はかけられないから、自分のスマホから小さな音で演目の曲を流し、踊っていた。


 そんなときの原動力となるのは、今日のようなコンクールで、素晴らしい踊り手たちの姿を生で見ること。

 今日はどんなバレリーナたちの踊りが見られるだろう。

 花はうきうきした気持ちになって、雑巾やタオルが入ったバッグを担ぎ直した。



 



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