第16話 君は教え子だ

 土手っ腹に風穴をあけられた神木の精霊ハイ・エントは、やがて、自分の重さに耐えかねて、中央からメキメキと折れた。恐ろしく巨大な上半身が、夜の闇を背負って落ちてくる。


「しまった、皆逃げて下さい――!!」


 先生が叫んだ。興奮してタガが外れたみたいだった。巨人の内側は、先生の考え事で一杯になる。

 僕は、ぶあっと霧のようなものに飲まれた。落ちてくる木に潰されると思って歯を食いしばったが、永遠に衝撃はこなかった。

 やがて薄目を開けると、目の前にはスクリーンがあって、小さいけど映画館のような場所にいた。スクリーンに誰かの姿が浮かんだ。先生が帰りたい理由。先生を待っている人が、そこには映っていたらしい。


 ……………………。


 …………。

 ……。


「せ~んせいっ! ちゃんと見てください。合ってますか?」

「うん? ……ああ、ごめん。ぼ~っとしてたよ」

「もう、ちゃんと見てくれないと、練習に来ませんよ」

「だから謝ってるだろ。ごめんよ飯田さん」

「ふふふっ。駄目、許さない。こんな美少女を捕まえて、他の事を考えているんでしょ? ずっと私だけを見ていて欲しいです」

「誰も居ないからいいけど、学校では静かにしようか?」


 先生は少し睨むように女の子を見た。だが、メガネの奥の瞳は、すぐに優しい光を取り戻した。

 先生は白い胴着に黒い帯を締めている。先生と話をしている女の子も同じように胴着を着ているが、帯の色が青かった。女の子の顔は、何度見詰めても、水中にいるようにぼやけていた。


 ここは放課後の拳法部の部室だ。

 端に貧相な床の間があり、【心技一体】と書かれた掛け軸がしてあった。畳が敷かれた狭い部屋には二人しかいない。


「左手が下がっている。もう少し上。右の拳は腰に当てて動かさずにね」


 先生は言いながら背後に回った。女の子は背筋を伸ばしながら、言われた通りに型の修正を行った。


「うん。いいね。様になってきた。大会までもう少しだ。頑張ろう」

「はい。先生」


 女の子はそう言うと、様々な型を連続で行った。たどたどしい箇所もあるが、鋭い発声と共に行われる型は、迫力があり心が揺さぶられる。

 ――三十分後。

 二人は壁に寄りかかって座りながら、ペットボトルを口にした。女の子は先生の方を向いて言った。


「結局、部員は私だけになっちゃいましたね」

「ああ、仕方ないさ」


 そう答えて先生は、汚い天井を見上げた。肩が触れるように立ちながら、退部を願い出た三人の生徒を思い出している。


「ごめんなさい。絶対に秘密だと言ったのに……。あんなに口が軽いとは思わなかった」

「女子高生は噂好きだからね。まあでも、私達の間には、やましい事は何も無いんだから、気にしなくていい。辞めたいやつは辞めればいいよ。それよりも、飯田さんは大丈夫? 虐められたりしてないか?」

「う、うん。陰で色々言われているみたいだけど、悪いのは私だから我慢しているよ」


 そうか、と言って先生は咳払いをする。少し言い出しにくい事を今から言うようだ。


「実は考えたんだが、私は今年度限りで教師を辞めようと思っている。私が居なくなれば、悪い噂も消えるだろう」

「えっ、嘘? 辞めないで先生!」


 飛び込むようにして、女の子は先生の胸にすがった。汗の匂いがする。先生は慌てて引き剥がした。


「もう決めたんだ。私は君の前から姿を消すよ。君が卒業する頃に、まだ私を……、まだ私を好きだと想っていてくれるなら、一度だけ連絡してくれないか。そうしたら迎えにくるから。な? そうしよう。それから君を助手席に乗せて、君のご両親に挨拶しに行こう。そうするのがいい、それがいい。な?」

「私の気持ちは変わらない」


 甘い台詞とは違って、飯田さんの声は冷たい。かたくなに譲らない感じがする。


「そうかもしれない。ただ、年齢も離れている。同年代に飯田さんと気が合う男子が、これから現れるかもしれないだろ? 私は君に、広い視野を持って欲しいんだ。その上で決めて欲しい。な?」

「先生が辞めるなら、私、死ぬから」

「え?」


 先生は、ぎょっとした。掴んだままの肩に力が入る。


「唐突に何を言うんだ。駄目だ」

「嫌だ! もう全部嫌だ! 生きていたくない! 先生辞めないでよぉ!!」


 女の子は泣き出した。その声は部室の外まで漏れていた。騒ぎを聞きつけて、誰かがやって来てしまう。

 女の子は、平気だと言った。でもそれは、先生を心配させない為の嘘だった。本当のところは、好奇やさげずみの目に囲まれて、相当に疲れてしまっていた。

 だが、一番ショックだった事は、もしかしたら先生が、この恋愛ごっこに、飽きてしまったのではないかという不安だ。自分の元から、手の届かない所へ逃げようとしている気配がして、それを疑った。


「死ぬなんて言わないでくれ!」

「嫌だ辞めないで! 先生がいなきゃ意味がないよ!」


 二人は言い争う。

 お互いに消えないでくれと懇願する。

 面倒で融通がきかない世界では、お互いを庇い、信じ合う事は簡単ではない。隙を見せれば、いつでも正論武装した暇人が、ニヤケながら襲ってくる。穏やかに過ごすには、その人達が満足するように気を遣う必要がある。



 ――教師が生徒を愛したら駄目なんです。その反対もいけません。教師は社会モラルを体現し、生徒に規範を示さなければなりません。恋愛体質の教師がいたら、親が子供を安心して学校にやれない。まだ何も知らない子供を騙して、おのれの欲望を満たす屑がいる場所に、子供を預けられない。学校は勉強をする所で、不純恋愛をする場所じゃない。だから法律で、未成年に手を出したら犯罪と決まっているんです――。


「わ、分かった。辞めない。今のは取り消す」

「本当?」

「ああ、本当だ。だから死ぬなんて悲しい事は言うな」

「うん、約束だよ。ずっと大好きな先生でいてね。絶対に辞めないで」


 先生は引き離していた女の子の肩を、自分の胸に引き戻した。


「約束……守るよ……だから飯田さんも、もう二度と死ぬなんて言わないでくれ……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る