穴の底

 う……、ぐ。


 固くて冷たい、岩の感触がする。

 気を失っていたらしい。どれくらい、時間が経ったのだろう?

 辺りは薄暗く、状況がよく把握できない。

 地面に手をつき、力を込めて僕は身を起こす。


 穴の底……、なのか?


 ここも、壁のそこかしこが微かな光を放っており、完全な暗闇ではない。

 見上げると、穴の入り口が、歪な形の月みたいに浮かんで見える。

 あそこから落ちて来たのか。五十、いや、百メートルくらいあるぞ。

 そんなスゴイ高さから落ちてきた割に、どこにも怪我は負っておらず、骨折した様子もない。

 刺された腹部は、服に縦長の小さな穴こそ開いていたが、皮膚には傷一つなかった。


 左手首に目をやる。

 嵌っている腕輪は、先ほどは眩い白銀色だったのに、今は赤黒く錆びたような状態だ。気を失っている間に、腕輪の効果が発動したのだろう。


 僕は、周囲を見渡した。

 穴の入口に比べ、ずっと広々とした空間だ。教会の礼拝堂くらいはある。この縦穴は、底の広い壺みたいな形をしているらしい。


 暗さに、目が慣れてくる。

 ぐるりと、首を動かしていた僕は、凍りつく。巨大な影を、視界が捉えたからだ。


 り、竜ッ!


 その巨躯は、僕の倍、いや、三倍くらいはある。思わず声を上げそうになり、僕は口を押さえた。

 竜は、地に伏せ、身体を丸めたような恰好をしている。まるで臨戦態勢だ。

 お、襲われるッ!


 思わず、身をすくめる。が、何かがおかしい。竜は、微塵も動く気配がないのだ。

 ね、寝ている?

 いや、そうだとしても、呼吸はするから、それに伴う多少の身体の上下動くらいはあるはずだ。が、それすらも一切ないのは、明らかに不自然……。


 おそるおそる、僕は竜のそばへ歩み寄る。

 死んでいるのか?


 すぐそばまで来てみて、それも誤りである事に気付く。

 竜の身体からは、まったく生気が感じられず、地面や壁と同じような質感をしている。

 まるで、岩だ……。

 せ、石化している?


 僕は、そっと指先で、竜の肩の辺りに触れてみる。完全に、岩だ。

 なんで、竜が石化しているのだろう。考えても、僕に、わかる訳がない。けど、おかげで助かった。

 ふう。安堵の息が漏れる。

 が、すぐにその感慨を否定する。


 ぜんぜん、助かっていないよ。どうやって、ここから出ればいいんだ?

 顔を上げ、ゼツ望的な気分になる。


 この高さ、登っていくなんてとてもムリだ。他に、出る方法はないのか……。


 竜の背後に、横穴がある事に気付いた。人ひとりが、悠々、通れるくらいの大きさはある。竜の巨躯が邪魔しているが、入れなくはない。


 細い通路が、十メートルほど続いており、奥まで行くと、やや広めの空間があった。元いた場所の半分もないが。

 ここも、天井や壁が発光しているが、ごく弱く、様子がわかりづらい。


 まず、目についたのは、地面に転がるいくつかの骨だ。鶏や、牛のそれを思わせる。竜の食料とされた動物たちの成れの果てだろうか。

 ……カリ。


 え?

 奥の方から、物音が聞こえた。


 カリ、カリ。


 隅の方に、何かいるぞ。

 光の届かない完全な暗闇の中に、何かが潜んでいる。まさか、魔獣……。

 バリ、バリと、何かを噛み砕くような音がした。餌でも食べているのか?

 それほど、大きくなさそうである。

 せいぜい、僕と同じくらいと察せられた。

 咀嚼音が、止まる。

 すっと、闇の中にいる存在が、立ち上がったのがわかった。

 さらに、こちらへ歩み寄って来る。


 二本足で、歩けるのか?

 僕は、逃げようとするも、立ちすくんで動けなかった。


 お、襲われるッ!

 すぐ目に前まで来て、闇に潜んでいた者の姿が、淡い光に照らしだされる。


 ……え?

 人間だ。しかも、少女である。

 腰の辺りまで、長く伸びた水色の髪。つぶらな碧い瞳に、控えめな鼻と唇。

 十二、三歳くらいだろうか。


「だ、誰?」

「みゅぉッ」


 少女は、妙な声を発する。

 何で、こんな所に、女の子がいるんだ?

 視線を、少女の顔から下へと移す。

 シミひとつない絹のような純白の肌。わずかに膨らんだムネ……。

 て、裸じゃんッ!


 僕は、慌てて着ていたコートを脱ぎ、彼女に着せようとする。

 が、少女は、それを嫌がり脱ごうとする。


「んあぁッ!」

「頼むから、着てくれよ」


 僕は、彼女を宥めすかし、無理矢理、袖を通させ、何とかコートを身に着けさせる。身長が僕よりも低いから、裾が、少女の膝丈くらいになる。

 女の子は、コートを、不思議そうに眺めたり、触れたり、匂いを嗅いだりしている。


 彼女がいた場所を見てみると、地面に何か落ちている。拾い上げてみると、果物の芯やヘタらしい。これを食べていたのだろうか?


「キミ、どうやって、ここへ?」

「みゅぁ」

「いつから、ここにいるんだ?」

「んにゅぅ」


 ダメだ。言葉が通じないらしい。

 どこか、出入りできる場所でもあるのか?


 僕は、元いた広い洞に戻る。

 壁面を上り下りするのは、とてもムリだよなぁ……、ん?


 よく見ると、もう一か所、横穴があった。

 僕は、そこへ入ってみる。こちらも、狭い通路が続いている。

 少女は、僕が気になるのか、そばをくっついて来ていた。段々と、空気がひんやりとしてくる。


 だいぶ広めの空間が現れた。目の前の光景に、僕は息を呑む。地面の半分以上を、水面が占めていた。……地底湖?


 僕は、湖面に駆け寄り、顔をつける。喉がカラカラだった。

 ごくごくと水を飲む。だいじょうぶ、真水だ。ぷはぁ。生き返ったあ。


 横を見ると、少女も湖の淵にいた。

 四つん這いになり、頭部を全部、湖面の中へと突っ込んでいる。

 しばらく、その状態がつづく。

 お、おい、だいじょうぶか?

 ザバアー。少女が、湖面から頭を上げる。


「んにゅッ」


 満たされたような顔だ。どうやら、彼女も水を飲んでいたらしい。けど、頭をぜんぶ突っ込まなくてもよくないか?

 本当に、不思議な子だな。

 ここに棲み付いているのだろうか?

 だとしら、一体、どうやって……。


 ぐうううぅ。

 僕のお腹が、豪快になった。


「んおッ」


 少女を、少し驚かせてしまうくらいの派手な音だった。そういや、洞窟に入る少し前から、何も食べていない。


 広い洞に戻ると、僕のカバンが地面に投げ出されたままになっていた。その中から、紙に包まれたカチカチのパンを取り出す。

 今ある、唯一の食料だ。

 いつのまにか目の前にいた少女が、じぃーっとこちらを見つめている。


「お前も、食べたいのか?」

「んみゅ?」


 パンを二つに割り、片方を、少女の前に置く。


「ほら、やるよ」


 少女は、パンを珍しげな顔で眺めている。見るのが、初めてなのだろうか?


 四つん這いで、クンクンとパンの匂いをかいだ後で、ガブッと噛り付いた。

 まるで、獣だな。

 彼女は、固いパンを、歯で噛み砕き、咀嚼する。


「あんまり、うまくないだろ?」

「みゅぁッ!」


 少女は目を見張り、残ったパンの欠片をくわえた。

 意外と、お気に入りなのか?

 僕も、固くて薄味なパンを残さず食べた。

 ふう。少しは腹も満たされた。全然、足りていないけど。


 僕は、地面に、仰向けに寝転んだ。

 はるか上の穴の入口を見ていると、気分が沈むので、目を閉じた。

 そのままウトウトしてきて、やがて眠りに落ちた。

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