第10話 カリナーレについて(後編)

 私がカーリンの脱走に気が付いたのは、カーリンに泣かれてしまった翌日の昼前だった。


 朝から公務を行なっていた私は、少しの隙間時間にカーリンの様子を確かめに行ったのだ。あれ程興奮していたカーリンである。私は心配で仕方がなかった。まぁ、侍女がしっかり見てくれているから大丈夫だと思うが。


 しかし、カーリンはいなかった。私は驚いた。なんでも、朝早くに身支度を整えて外出したらしい。昨日の今日でか?


 私はちょっと嫌な予感が、この時点でした。激情に駆られた人間は突拍子も無いことをしでかすからだ。私はカーリンはどこへどのように出掛けたのかを侍女に尋ねた。


 すると侍女は「分かりません。同行を許されませんでしたので」と答えた。な、何だと? カーリンを一人で行かせたというのか? なぜ侍女が同行しなかったのだ?


「その、カリナーレ様が『同行しなくていい』とお命じになりましたので・・・・・・。私たちには無理に同行する事が出来ませんでした」


 それを聞いて私はハッとした。そうか、カーリンは今年で十五歳。成人年齢なのだ。


 貴族は十五歳の年になると同時に成人したと看做される。すると、一気に権限が拡大するのだ。何事をするにも親や保護者の許可が必要だったものが、何でも自己判断で行えるようになる。


 もちろん権利と義務はセットなので、貴族は成人と同時に王国に対して奉職する義務を負う事になるのだが、それは兎も角、カーリンは成人したのだから今年から一人前の貴族として扱われるようになったのだ。


 するとどうなるか。カーリンは侯爵令嬢だ。しかも親も兄弟もいないので侯爵家の後継だという事になる。すると成人と同時に暫定的にだが(国王陛下の正式な認可が受けて初めて正式に認められるので)彼女は「侯爵夫人」となり侯爵家を継承してしまっているのだ。


 夫がいない侯爵夫人はつまり侯爵家の代表だ。カーリンは今既に侯爵家の当主なのである。


 その権限は絶大だ。侍女が命令に逆らえなくても仕方が無い。


 しかも、彼女は先日私と正式に婚約したと発表されている。つまり私の婚約者、準王族にもなっているのだ。


 これは今やカーリンがこの国において、国王である父、王太子である私に次ぐ第三位の地位にある事を意味する。そう。まだ成人前のアンドリュースよりも位が高いのだ。


 貴族は身分を重視する。上位からの命令は絶対だ。国内第三位の地位にあるカーリンの命令に逆らえる者はこの王宮にはほとんどいないのである。その結果、カーリンの外出を止めることが出来なかったようなのだ。


 私は一気に不安になったが、カーリンが使用した馬車が二人乗りの小さな馬車であったと聞き、少し安心した。それならば近距離の所にある貴族邸での社交であろうと思ったのだ。カーリンはあれで貴族婦人に友人が多い。気分転換に友人とお茶でも楽しみに行ったのだろうと考えたのだ。


 そこで気分を落ち着けてくれれば何よりである。私はホッとした。ところがこの外出に、アンドリュースを伴ったと聞いて不安が再燃した。なぜアンドリュースを? 確かにカーリンがアンドリュースと共に外出する事はよくある事だとは言え。王族と準王族の外出である。それに護衛が二人しかいないなどあり得ない。


 私は慌てて、二人がどこへ出掛けたのか確認させようと部下を走らせた。ところが、これがどこにも見当たらないのだ。カーリンと仲の良い貴族の邸宅にも出向いた形跡がない。


 ここまでは私が手配した内々の調査だったのだが、夕方になり、二人が戻らない事に侍女や侍従が慌て出した。王宮侍従長から大臣や官僚に話が回ってしまい、騎士や衛兵を出して調査しようという話になってしまった。こうなると公的な調査になる。


 話が拡大すると共に妙な噂も流れ出す。時間的に王宮や貴族の邸宅で夜会が始まる時間だったのも災いした。貴族は噂話やゴシップが大好きだ。少しのきっかけでとんでもなく大きな話にまで噂話は膨れ上がるものだ。


 曰く、カリナーレ嬢は王太子との婚約から逃げたのだ。理由は、彼女が本当に婚約したかったのはアンドリュース王子だったからだ。その証拠にアンドリュース王子とお逃げになった。


 となるとカリナーレ嬢はアンドリュース様を誘拐なさったという事になりますな。そうなるとカリナーレ様はどこにお逃げになりますか。そう。我が国の手の届かないボイビヤ王国にでも逃避行なさったのでは。


 いや、ならもしかしてカリナーレ嬢はボイビヤ王国に通じておられたのでは? アンドリュース王子を手土産に、ボイビヤ王国に亡命なさるのでは・・・・・・。


 いや、ちょっと待て、という間もなく、話は大きくなりとんでも無い方向に行き掛けた。このままではカーリンはボイビヤ王国のスパイだったと言われかねない雲行きだ。噂というのは後になっても残って尾を引くものだ。カーリンにスパイ疑惑などが残ってしまったら、私との婚姻に支障が出るかもしれない。


 噂を消すにはもっと衝撃的な噂で上書きするしかない。私は仕方なく、こう非公式な見解を流した。


「カーリンとアンドリュースは二人とも誘拐された疑いがある」


 これならカーリンがスパイだとかアンドリュースとの駆け落ちだとか言われるよりはマシだろう。私はそう思ったのだが、王族と準王族の誘拐は重大事件だ。話は燃え上がり一気に国家的な案件になってしまった。


 直ちに大臣が招集され、二人の救出のための捜索隊が組織される事が決定し、私自らがその指揮に当たる事となってしまった。話が大きくなり過ぎて父は渋面になってしまったが、カーリンとアンドリュースを心配する気持ちは同じだったので、私に「いかなる手段を使っても良いので二人を無事に連れ戻すように」と命じた。


 しかし、色々探した結果、郊外の離宮方面に向かった事だけが分かったのだが、急ぎ調査の兵を差し向けてもカーリンたちの姿は見当たらない、こうなると私も自分が嘘のつもりで言った誘拐話が本当にそうなのでは無いかと心配になってしまった。何しろ私はボイビヤ王国との縁談を門前払いにしている。その理由がカーリンとの結婚だった事はボイビヤ王国も承知なのだ。我が国に潜入しているボイビヤ王国の密偵が、カーリンの隙を狙って彼女を誘拐したとしてもけしておかしくは無い。


 それに、国内には王家に楯突く民主運動家とかいう馬鹿者どももいるし、単純に盗賊もいるのだ。警備の手薄なカーリンの馬車を良い獲物と考えて襲ってきても全く不思議では無い。


 そうこうしている家に夜になってしまう。王宮ではかがり火を焚いての大騒ぎだ。この騒ぎがカーリンのせいで引き起こされたというだけでも十分大問題である。これで後でカーリンが家出しただけだと知れ渡ってしまったら、カーリンの王太子妃としての資質を問われる事態になってしまうかも知れない。


 私はもうカーリンが心配で心配で発狂しそうだった。私のせいだ。私がカーリンをあんなに怒らせ混乱させたからだ。もう少しカーリンの心情に思いを致すべきだったのだ。私は自分を責め始めていた。


 そこへ、至急であるという者が私の執務室に飛び込んできた。


 聞けば、何とカーリンの護衛に付いた騎士からの書簡が届いたという話だった。私は仰天した。何でも、騎士に頼まれた庶民が持って来たとのことで、王都の西にある村からその者はやってきたとの事。私は慌てて書簡を確かめる。


 するとそこには、カーリンが王都から半日ほどの距離があるメイゼンに向かいたいという意向である事が記されていた。騎士曰く、到着が非常に遅くなるので止めたのだが、カーリンの強い意向で逆らえない。一応急いで向かうが、王宮からも増援を送って欲しいとの事だった。


 メイゼンだと? 私は目眩がした。王宮から馬車でゆっくり行ったら丸一日は掛かる距離だ。私は国王陛下の使いで何度も行ったことがあるが、馬で駆けても半日掛かりなのだ。それを女子供が乗る一頭引きの小さな馬車でのんびり行ったら陽のある内には到底辿り着けまい。


 王都からメイゼンまでの街道は森の中を通過する峠道で、山賊も潜んでいる。護衛がいるとはいえ絢爛と飾られた王宮の馬車など良い獲物だ。それで暗くなってから通過しようなどとは襲ってくれと誘っているようなものではないか。それにあの山にはクマもオオカミも出る。危険極まりない。


 一刻の猶予も無い。私は救出部隊として準備していた騎士二百名を率いて王宮の門を飛び出したのだった。


  ◇◇◇


 騎士二百名が夜間の王都を王国旗と赤い布を翻しながら駆ける様子を見て王都の民は仰天しているが、構ってはいられない。馬の脚を早めるために私も騎士も部分鎧だけを身につけて剣は腰に佩いている。騎士たちは松明を煌々と燃やし、光の尾を引きながら夜の闇を駆けた。


 メイゼンへの街道に入った頃には夜半を過ぎていた。メイゼンの到着は朝になってしまうかも知れない。しかし私は馬の脚を止めない。休憩すらしていない。一気に峠道を駆け上がる。


 と、その時前方に松明の灯りが見えた。なんだ? こんな時間にこんな所で……。


 近付いてみると、それは十人ほどの集団である事が分かった。松明に剣が光る。武装している? 私は驚き、目をこらした。


 すると、その集団は小さな馬車を囲んでいる事が分かった。どうやら車軸が折れたらしく傾いている。その馬車を見て私は背中が泡立った。あ、あの豪華な装飾は王宮の馬車では無いか! 今現在、こんな所を走っている王宮の馬車など一台しかいまい。カーリンが乗って出た馬車に間違いない!


 カーリンの馬車が襲われている? そう分かった瞬間、私は全身が沸騰するかのような激情に襲われた。次の瞬間、自分のものとは思えない大音声が口から飛び出した。


「私の妃に何をするかあぁぁ!」


 私は剣を腰から抜いて、一気に盗賊の一人に近付いて振り下ろした。盗賊の一人は驚いた表情のまま首を刎ねられる。私はその勢いのまま突っ込み、騎士団も続いた。


 後から考えれば盗賊も災難である。動けない馬車などというお手軽な獲物を襲っていた筈が、二百人もの騎士団に蹂躙されたのだから。


 盗賊はあっという間に壊滅。数人は捕らえる事が出来た。しかし私はそんなことはどうでも良かった。馬車に駆け寄る。馬車の間近では護衛の騎士が二人、必死の表情で任務を務めていた。彼らは私の事を認めると汗だらけの顔を輝かせた。


「殿下!」


「無事か! カーリン! アンディ!」


 私は馬を飛び降りると馬車に掛け寄り、ドアを開いた。


「カーリン!」


 ……ところが、馬車の中は無人だった。唖然とする私に護衛の騎士が言った。


「カリナーレ様とアンドリュース殿下はご避難なさっています! ご安心下さい」


 聞けば、カーリンの提案で、馬車から離れた森の中に隠れたのだという。私は頭痛を堪えなければならなかった。こんな無計画な事をしでかしながら、どうしてそういう余計なところは用意周到なのだ! あの馬鹿者は!


 何でも、少し森の奥で休んでいるが、戦いの時に大声を出したので、恐らく起きて森の奥に逃げ込んでいるだろうとのこと。


 私は護衛の騎士に案内されて森へ分け入った。そういえばカーリンは以前、故郷から王都までは野宿しながら来たのだと行っていたな。それで森の中でも平気で休めるのだろう。


 そうして最初に野営していたという場所に来たのだが……。


「居るでは無いか」


 何とカーリンは街道での騒ぎにも構わず、アンドリュースを胸に抱え込んでスヤスヤと寝息を立てていた。コートを着て膝掛けらしきものを掛けているとはいえ寒くないのだろうか。たき火はもうほとんど消え掛けていて、これでは猛獣除けにはなるまい。よくもオオカミに襲われなかったものだ。


 安らかに眠りこけるカーリンに、私は呆れホッとし、同時にムカムカと怒りを覚えていた。こんなに私を心配させておいて、こんな所でのんびりと寝ているなんてどういうつもりなのか!


 いっそ怒鳴ってたたき起こしてやろうかとも思ったのだが、幸せそうな寝顔を見てしまえばそんな事も出来ない。私は無意味に腹を立てながらも、騎士に指示して毛布を用意させ、二人の周囲を警備させ、同時に王都に何人かを戻らせて新たな馬車の手配をさせた。


 カーリンは結局陽が昇るまで全く目を覚まさなかった。無警戒過ぎる。これでよくも故郷から王都まで無事に辿り着けたものだ。私は彼女が起きるまで彼女の事をずっと間近から見詰めていた。そうしていると怒りはどこかへ行ってしまった。ただひたすらにカーリンが無事だった安堵と、彼女への愛しさだけが残る。ああ、私は本当に彼女の事が好きで、大事なのだな。私はこっそりとその思いを噛み締めた。


 だが、彼女が起きると、表情を引き締めた。ここは彼女を叱らなければいけない場面だからだ。笑っている場合ではない。


 目覚めたカーリンは少し驚いたような顔をした。どうやら寝ないで警戒するつもりだったようだ。そしてアンドリュースを見て安心したように微笑んだ後、ようやく私の事を見てくれた。


「きゃ……!」


「騒ぐな! アンディが起きる!」


 出会った時を彷彿とさせるやりとりだった。しかし気分は全然違う。私はもうカーリンの婚約者だし、彼女が無事で泣きたいほど安心したし、正直アンドリュースはどうでも良い。


 しかし同時に呑気な彼女の顔を見て怒りが再燃してきた。どれだけ私が心配したと思っているのだ! どれだけ周囲の者が慌てたと思っているのだ! 君にどれだけの人が期待していると思っているのだ! この、この!


「馬鹿者!」


 私はカーリンを怒鳴り付けた。アンドリュースが起きようがどうだろうが構うものか。


 私はカーリンを叱り付けた。カーリンを愛するようになってから、私が彼女にこんなに声を荒げた事は無かった。だがもうこの時の私は、彼女の馬鹿さ加減について言わねばならないという気分だったし、怒鳴ってやらないと安堵と彼女への愛しさのあまり声を出して泣いてしまいそうだったのだ。


 彼女を叱りながら、私はもう彼女を失うことは出来ない。そんな事が起これば私も生きてはいられまいと感じていた。


 カーリンは流石に驚き、ちょっと恐れるような表情を見せていたが、やがて、なぜか少し目を潤ませて、ふわっと微笑んだ。


「ごめんなさい。王太子殿下。私が悪かったです」


 うぐっと、私は息が詰まってしまった。カーリンは勝ち気な所がある女性で、出会った頃に私が何か指図しても素直に従うことはまず無かった。王太子である私に強い言葉で言い返しさえしたのだ。


 その彼女が素直に反省の言葉を、しかもこの表情で言ってくれた。それだけで私は報われたような気分になった。そう。この事は彼女が、私の事を本当に受け入れてくれた証拠だと思えたのだ。嬉しそうに私を見上げるカーリンの表情は穏やかで美しかった。彼女の髪を撫でるとカーリンは笑いながら涙を流し始めた。


 ああ、この瞬間に、やっと私と彼女の心は本当に通じ合ったのだな。私はようやく気が付いた。カーリンが私を恐れていたことに。私の強い愛が自分に向けられる事に戸惑っていた事に。私がカーリンに対してすべきことをしていなかった事に。


 彼女にしたいことをさせ、本音を発散させ、彼女に選択肢を与えなければならなかったのだ。そうでなければ私が彼女から心底愛される筈が無いではないか。私は彼女に私を受け入れるよう求める一方、私が彼女の全てを受け入れる姿勢を見せていなかったのだ。


 王太子失格だな。私は反省する。国王は国民の全てを受け入れなければならない。まして妃の全てを受け入れられる度量が無くてどうして私は国王になることが出来ようか。私はその事を気がつかせてくれたカーリンに心から感謝した。


 私は、カーリンの全てを受け入れ、受け止め、そして彼女と共に王国を率いて行こう。そう誓ったのだった。


  ◇◇◇


 カーリンの様子はそれからすっかり落ち着いたものになった。


 私への親愛の情を素直に示すようにもなったし、王太子妃になるための各種教育も頑張るようになった。行動にも余裕が現れ、そうなると風格も出てきて、社交界でも存在感が急激に増してくる。社交界も彼女を王太子妃、次の王妃であると認定するようになっていったのである。


 そして私のカーリンへの依存はドンドン深まってしまった。一度逃げられたのがやはり堪えたのだ。私は侍女にカーリンがおかしなことをしたらすぐに報告するように厳命した。カーリンはもう落ち着いたのでそんな必要はまったく無かったのだが。


 カーリンに母に付けられた「リージェ」という愛称で呼んで貰うと心が驚くほど安らいだ。彼女ももう私に親愛の情はっきり現してくれて、私の方も以前のように彼女に愛して貰いたくて焦るような感情も無くなっていた。彼女と触れ合い、穏やかに会話する事は政務が増える一方な私にとって何よりの癒やしになっていた。


 私としてはこれで、カーリンとの結婚に向けての問題は何もかも片付いた、と言いたいところだったのだが、最大の問題がこの頃から生じてしまった。アンドリュースだ。


 アンドリュースはカーリンを侍女から外す事をもの凄い勢いで嫌がった。無理も無い。彼にとってはカーリンは母代わり姉代わりだったのだ。それを奪おうというのだから抵抗するのが当たり前だ。


 しかしながらカーリンは準王族になっているし、カーリン自身の教育も本格化しているから本当に忙しい。とてもアンドリュースにべったり貼り付けているわけにはいかないのだ。王太子妃、次期王妃なのだから社交の招待も激増しているし、私との逢瀬もしなければならない。カーリンは本当に忙しいのだ。


 困った事にアンドリュースは誰からか私がカーリンと結婚する事を聞いたらしい。アンドリュースは何度も私の執務室に押し掛けてきては「僕のカーリンを返して下さい!」と叫んだ。


 これには困った。アンドリュースはまだ七歳だが、七歳ともなれば周囲はもう立派な王子として扱い出す。その彼が私と明確に対立してしまう事は王宮内での不和の原因になってしまって良くない事だ。アンドリュースの不満に私の即位に反対の貴族が乗じて暗躍する可能性が無いとは言えない。


 私はアンドリュースを懐柔するために、カーリンを完全にアンドリュースから引き離すのを止めて、食事の時や少しの休憩時に会うことくらいは許すことにした。正直に言って、兄弟とは言え、まだまだ幼い弟とはいえ、一時のこととはいえ愛しのカーリンを譲る事には若干以上の嫉妬心を覚える事だったのだが、王宮の平和のためなので我慢した。


 とはいえアンドリュースはカーリンに存分に甘えられなくなった事で急速に大人びてきていた。しっかり教育にも耐えるようになっていたし、以前のように癇癪を起こしたり暴力行為をする事も無くなっていた。何もかもカーリンのお陰だ。彼女をアンドリュースに付けた判断は間違ってはいなかった。


 婚約してから丸一年後、私とカーリンは結婚式を行なった。


 王族の結婚式というのはどうしてこんなに大仰なのか、と思わざるを得ないほど大袈裟である。カーリンは呆れていたが、私だってこの忙しいのに儀式手順の暗記に多大な時間を取られるのは大変だった。ただただ、カーリンのドレスアップ姿を楽しみに頑張ったのだ。


 結婚式当日。バージンロードの先で待つ私の所に、なんとアンドリュースに手を引かれたカーリンが粛々とやってきた。これには流石に私も驚いた。


 アンドリュースは「私がカーリンと結婚したかった!」とカーリンに駄々を捏ねていたと聞いている。子供ながらその執着心は本物で、父にまで談判しに行ったようだ。その弟なら、この期に及んで何か騒動を起こしてこの結婚式をぶち壊しにしようと企んでもおかしくはない。


 怪しむ私にアンドリュースは悔しそうな表情で私を睨みつつ、未練たっぷりな声色で言ったものだ。


「結婚おめでとうございます。兄上。……カーリンをよろしくお願いします。大事にしないと許しませんからね」 


 私は思わず笑い出しそうになった。なんとまぁ。まだまだ子供だと思っていたのに、格好が付けられるようになったものではないか。痩せ我慢こそ男の本質。男たるものこうでなくてはいけない。


 だが、アンドリュースの複雑な心情は理解出来た。私はアンドリュースを見つめ。心から約束した。


「ああ、其方に言われるまでも無いが、約束しよう。弟よ」


 アンドリュースはこの後もしばらくはカーリンに執着して色々大変だったのだが、私との関係はずっと良好で、成長してからは良く私の事を補佐してくれるようになった。そして彼の存在は、私の治世において重要なものになっていったのである。


  ◇◇◇


 結婚式が終わり、私とカーリンは晴れて夫婦になった。それ自体は大変幸せな事で、なんの不満も無かったのだが、私は一つだけカーリンに対して後ろめたい思いを残していた。


 それはカーリンに自分の家族を捨てさせてしまった事に対する思いであった。


 私は王族で、貴族的な家族の事しか分からないのだが、庶民は家族内での結び付きが非常に強いのだと聞いている。カーリンは家族と離れて王都に働きに出てきていた訳だが、故郷に残した家族に特別な思いを残しているだろうことは容易に想像出来た。


 私とカーリンは結婚旅行を兼ねて全国を巡行する事になっている。私はその時に、彼女の故郷で家族に会わせようと計画した。


 もちろん、対面させる訳にはいかない。公式には「カーリン」と「カリナーレ」は別人だという事になっているし「カーリン」は行方不明という事になっている。


 だが、顔を見せるくらいなら可能だろう。私はカーリンの故郷でのパレードでは彼女の家族が住んでいる地域を通過するルートを組むように担当の官僚に命じた。以前に調べさせていて、カーリンの実家の場所は分かっている。


 官僚は「下町を走るのは危険だ」と反対したが、私はこの街だけだからと押し通した。実際、この街の治安は良く危険は少ないだろう。下町には十分に警備の兵を入れて安全には配慮するし。


 カーリンは故郷の街に行くのにあきらかに気乗りがしない様子だった。街の城門をくぐる時、複雑な表情を浮かべていたものだ。しかし、パレードは公的な行事であることを理解しているカーリンはそれ以上の思いは表情には出さなかった。


 歓迎の晩餐会も美しい社交笑顔で乗り切り、翌朝、カーリンは優雅に微笑みながらパレードのために無蓋馬車に乗り込んだのだった。


 パレード中、帽子を被り、街の方を見ている手を振っているカーリンの表情は窺い知れなかった。懐かしがっているのか、それとも辛い過去を思い出して泣いているのか。私には想像も出来ない。


 私は、国王の息子として厳しい教育を受けて。それなりに苦労はしてきた気ではいた。しかしながらそれはやはり王宮の中での苦労でしかない。故郷を捨てて家族を捨てて旅立ち、王都で懸命に暮らしてきたらしいカーリンの苦労は私のそれとは比較にならないものだっただろう。


 カーリンはその事について一言も口には出した事は無いが、ただ一度、私に対して感情を爆発させたあの時、あの彼女の不満は結局、過去の彼女の人生を無かったことにされることへの不満だったのでは無いかと私には思えた。


 私は彼女を幸せにするつもりで、貴族の人生を押し付け、彼女の庶民としての人生を否定した。仕方が無い事ではあったのだが、それはやはり今考えると、彼女の人生への侮辱であった事だろう。


 苦労が多かろうが、辛かろうが、それも人生であり、かけがえのない自分だけのものだ。それを否定されて嬉しかろう筈がない。私と結婚すれば幸せになるのだと理解しつつ、カーリンが激しく反発したのはそこだったのだろう。


 私はカーリンが好きで、愛している。だから私は、彼女の全てを受け入れると決めた。だから彼女には諦めて貰いたくなかった。庶民としての過去を自分を自分の人生を捨ててなど欲しく無かった。それも彼女に他ならないのだから。大丈夫だ。私が受け入れるから。そう言いたかった。彼女に私がそう考えている事を知って貰いたかった。


 馬車はゴミゴミとした下町を通り始めた。そろそろのはずだ。


 その瞬間、ピクッとカーリンの肩が震え、私に触れている彼女の身体が固くなるのが分かった。街路の脇には五人家族が立って手を振っていた。私が目をやった時には馬車は完全に行き過ぎてしまい、私は自分の義父の姿を確認し損ねた。


 カーリンは少し震えているようだった。どうだったのだろうか。余計なお世話だったのだろうか? 私の自己満足で彼女に辛い思いをさせてしまったのだろうか? それとも……。


「大丈夫か? カーリン」


 私が思わず声を掛けると、カーリンは少し呼吸を整えるような間を開けた後、私の事を曇りの無い笑顔で見上げてくれた。


「……ええ、大丈夫ですわ。リージェ」


 うん。やはり、会わせてあげられて良かった。彼女は過去を切り捨てずに済んだようだ。それが分かるような笑顔だった。私は頷いた。


「そうか」


 私は彼女の事を抱き寄せ、彼女も私に頭を預ける。私はそうして彼女の過去と現在と、そして未来を感じながら、幸せな思いで彼女の故郷の風景を眺めたのだった。


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