第9話 カリナーレについて(中編)  ササリージュ視点

 カーリンと私の関係は側から見れば不思議なものだっただろう。


 何しろ私は王族。彼女は庶民である事を隠した侯爵令嬢。その二人が非常に仲良く親密に過ごしている。


 カーリンは王宮で特別扱いを受けていた。侍女とは言いながら仕事はせず、アンドリュースと遊ぶだけ。王宮内に部屋を与えられ、お仕着せを着る事無く(アンドリュースをお仕着せ姿で抱いて歩かせる訳にはいかないからだ)、国王陛下とさえも気安く会話をする。そんな家臣はいない。明らかにこれは準王族の扱いだ。


 どうしてカリナーレ様はあんな特別扱いを受けるのか? と誰もが不思議がっただろう。そしてその結果「カリナーレ様は王太子殿下かアンドリュース様の婚約者に内定している」という噂になったのだった。それならば私や父がカーリンを特別扱いし、アンドリュースとベタベタくっついても問題は無い。


 クシャーノン侯爵家なら血筋は王族の妻として不足が無いし、血縁がほとんどいないことも王族に迎えるには都合が良いのだろう。そう周囲の者が考えた結果、彼女の特別扱いは許容されていったのである。


 私の方は次第にカーリンに依存を深めていった。彼女は私に全然遠慮が無く、私の方も彼女には気を使わずに済んだ。彼女が庶民的な雰囲気を覗かせると、なんだか私も庶民になったかのような気楽な気分がしたものだ。


 そしてやはり彼女は母に似ていたし、彼女がアンドリュースを可愛がる様は自分が母に甘えていた頃の事を強烈に思い起こさせた。それは私に胸の痛みを覚えさせる事でもあったのだが、同時にカーリンの側にいると安心出来る理由にもなった。


 彼女に女性としての恋情を抱くようになったのは何時ぐらいからだったかはもう覚えていない。彼女がエスコートはしなくてもいいと言い出した時には既に彼女の手を他に譲りたく無くなっていたから、その頃にはもう彼女を愛していたのだろう。


 しかしながら自覚していたわけでは無かったし、やはり庶民出身の彼女を自分が愛する訳にはいかないという躊躇は心のどこかにあった。そもそも私は王太子で、特定の女性に好意を示す事を控えなければならない立場だ。だから私は自分の想いを殺して隠していた。少なくと自分はそのつもりだった。


 その制限が弾け飛んだのは、アンドリュースを襲った熱病が原因だった。


 

 アンドリュースが熱病に倒れたと聞いて私はアンドリュースの部屋に駆け付けたのだが、そこで医師から病名を聞いて背筋が寒くなった。


 それは私の母の命を奪った流行病だったからだ。


「待て! この熱病は伝染するぞ。だが一度罹れば二度は罹らぬ病気だ! この中にこの病気に掛かった事がある者は! 罹った事のない者は離れよ! 罹れば死ぬこともある病気ぞ!」」


 私は叫んで、感染経験の無い侍女を部屋から追い出しに掛かった。勿論、感染経験が無いようだったカーリンもだ。躊躇する彼女の肩に手を掛ける。


「ほら、其方も! 早くしないか!」


 しかし彼女は私の手を振り払った。


「嫌です!」


 その目は強い決意に満ち溢れていて、私は気圧された。彼女は叫んだ。


「私よりアンドリュース様の方が大事です! 私はアンドリュース様のために一度死んだ身です! 私の命よりアンドリュース様の方が大事でしょう!」


 その強い表情は、本当に母のようだった。それを見てしまえば、私にはもう何も言えなかった。


 実は私の母は、この熱病に罹患した私を看病し、それで病が移ってしまって死に至ったのだ。その時も、母は周囲が止めるのを聞かず、私を必死に看病してくれたのだと聞いている。私は回復したが、母は看病疲れもあってか耐えきれず、死んでしまったのだ。私に「アンドリュースを頼みますよ」と言い残して。


 あまりに悲しく辛くて心の中に沈めていた記憶が鮮明に蘇ってきてしまった。私はカーリンを止める代わりに周囲の制止も聞かず、彼女と、もう一人の侍女と共にアンドリュースを看病することに決めた。


 アンドリュースの熱はなかなか下がらず、カーリンは不眠不休で看病に没頭していた。これでは危険過ぎると、私は何度も彼女を休憩させようとしたが、カーリンは言う事を聞かなかった。アンドリュースを励まし、なんとか薬を飲ませようと奮闘し、冷たい水に手を赤くしながら何度も濡れタオルを取り替える。献身的に介護する姿は医者も思わず涙を浮かべる程だったのだ。


 そして三日後、ようやくアンドリュースの熱は下がり始めた。それを見たカーリンは歓喜に絶叫し、立ち上がり、そして仰向けに卒倒した。



 熱病が移ってしまったカーリンは自室に運び込まれた。だが、看病出来る者がいない。一緒にアンドリュースを看病した侍女は、疲労のあまり倒れてしまった。他に熱病に罹患した経験のある侍女はいなかった。そして私は、男性なので婦人の部屋に立ち入ってはならない。


 何人もの侍女が看病を名乗り出たが、許すわけには行かないかった。王宮侍女は上位貴族から預かっている者達で、死なせでもしたら実家の貴族達に面目が立たないからだ。それに感染者を増やせば、王宮内で大流行してしまうかも知れない。


 私は苦悩した。方法は二つ。一つは大至急、感染経験のある者を身分を問わず探してカーリンの看病役に任命する事だ。王宮には多くの人間がいる。下働きの庶民を含めれば、恐らく罹患経験のある女性を見つける事は出来るだろう。しかし庶民を高位貴族婦人に触れさせる事は推奨されない。


 そしてもう一つの方法は、私が彼女の看病をすることだった。


 男性は女性の部屋に立ち入れない。男性が女性の部屋を訪問する事には特別な意味合いがある。女性の部屋に男性が入れば、二人は深い関係であると宣言するに等しいのだ。


 だが、逆に言えば夫婦、婚約者、深い仲の恋人同士であれば入っても問題無いという事でもある。


 そう。私がカーリンと深い仲になるつもりがあるのであれば、彼女を愛するつもりがあるのであれば、彼女の部屋に入る事が出来るという事になる。そして私はこの時、彼女への深い愛を自覚してしまっていたのだ。


 アンドリュースを懸命に看病するカーリンを間近で見て、私は強烈に彼女に惹かれる自分を認めたのだ。自分を顧みず、アンドリュースに無償の愛を注ぎ続ける彼女に私は貴族女性には見出せなかった理想を見つけた。


 いや、本当はとっくに分かっていたのかもしれない。あるいは最初から、あの翠色の瞳に私は囚われていたのかもしれない。


 とにかく、私はもう彼女を失うわけにはいかなかった。彼女が庶民出身であっても、私は彼女を愛している。そう宣言することに躊躇は無くなっていた。アンドリュースの看病でこの熱病への対処にも慣れた。私ならカーリンを助けられる。私は決心し、敢然とカーリンの部屋に踏み込んだ。


 私はカーリンを必死に看病した。途中から侍女が復帰してくれたので、着替えなどは任せたが。私は彼女を濡れタオルで冷やし、顔や首を拭き、励ました。カーリンの発する熱は触れるとゾッとするほどで、私はなるべく冷たい水を持って来るよう命じ、カーリンがアンドリュースにしてくれたのと同じように手を赤くしながらタオルを絞った。


 カーリンは何回も譫言で「殿下・・・・・・」と梅いた。当然その殿下はアンドリュースの事だろうが。私は都合良く受け取ることにした。


「カーリン! 私はここにいるぞ! がんばれ!」


 カーリンの熱は三日目には下がり始めたが、看病時の体力の消耗が激しかったせいか、彼女は目を覚まさなかった。痩せ細り肌が青白く透明になってしまったカーリンは死の床にあった母をどうしても思い起こさせた。


 私には彼女の手を握って祈ることしか出来なかった。


 しかし、五日目。カーリンは目を覚ました。彼女が疲労で気を失っていた私の頭を撫で、微笑んだ瞬間。私は歓喜に震え、そして誓ったのだ。


 必ず、彼女を私の妃にすると。そのためならどんな事もしてみせようと。


  ◇◇◇


 もっとも、この時点でカーリンと私の結婚にはほとんど障害が存在しなくなっていた。


 まず、最早貴族の間ではカーリンはクシャーノン侯爵令嬢カリナーレだということで定着していて、疑う者はもう居なかった。彼女の所作や作法は完璧であり、ダンスに至っては名手だという評判まであったのだ。もうカーリンはどこからどう見ても王太子妃に相応しい上位貴族の令嬢になっていたのだった。


 王宮内部では彼女が献身的にアンドリュースを看病して助けた事で、彼女に感謝し、崇拝する気配すらあった。侍女も侍従もカーリンこそ王太子妃に相応しいと認めてくれていて、遂に私達が恋人関係になったと皆で祝福してくれた。


 そして貴族たちはとっくに私とカーリンを恋人関係であると疑っていたし、改めて私が公表しても今更大きな反対はなかった。せいぜい妃の地位を狙っていた貴族令嬢がカーリンに敵意を見せるくらいだったが、カーリンの人柄を愛してくれた貴族婦人も多く、そういう者達がカーリンを社交界で守ってくれた事でこれも沈静化した。


 最大の障壁になってもおかしくなかった父である国王陛下は「それは良かった!」と手放しで喜んでくれた。父はカーリンを本当に気に入っていて「嫁に出したくないな」と娘を持つ父親のような事を言い出していたのだ。


 それが王宮に居続ける事になる私との結婚に大賛成だった最大の理由だった。私が恐る恐る「出自の事は良いのですか?」と尋ねると、父は完璧な社交笑顔で「何の事だ?」と言った。国王陛下のお言葉はこの国の真実だ。私はただ頷いた。


 そうして私とカーリンの仲はほとんど公認の物となったのだが、最大の問題が実は片付いてはいない事を私は認識していた。


 他ならぬカーリンの気持ちである。


 当初カーリンが私に、これっぽっちも男女の感情を持っていない事は分かっていた。正直、カーリンは年頃の娘にも関わらず男女関係に疎いようで、社交で貴公子からあからさまにアピールを受けても完全スルー。気が付いていないようだったのだ。あれでは生半可な感情表現では伝わらないだろう。


 ならばと私は彼女に露骨なまでに迫った。事ある毎に愛を訴え、彼女を抱き寄せた。非マナー行為であることを承知で夜会で彼女の事を傍から離さなかった。夜会は公平な出会いの場なので、婚約者でも無いカーリンを独占するのは本当は良く無いのだ。私が王太子だから許容されただけなのである。


 私は必死だったのだ。どうしてもカーリンに振り向いて貰いたかった。自分の中に生まれた強烈な感情を、カーリンに受け取ってもらいたかったのだ。


 しかしながらそれは後から考えれば押し付けで、しかも身分が高い私がやれば強制にもなってしまうのだということに、その時の私は気が付いてはいなかった。カーリンが私の前ではざっくばらんな態度で遠慮は無いように見えたし、周囲が既にほとんど彼女を私の婚約者として扱っていたものだから、カーリンが内心驚き、迷い、そして不満を溜め込んでいた事になど気が付かなかったのだ。


 何より私が初恋とも言える熱情に浮かれ溺れ、有頂天になっていた。彼女を抱き寄せ、夜会に伴い、周囲から祝福を受けていると、私はこの世の幸福を一身に集めたような気分がしたものだった。


 私はカーリンが庶民である事などとうに忘れてどうでもよくなっていて、カーリンがその事に引っ掛かっているなどとは考えもしなかった。私から向けられる愛に戸惑い、内心で深い鬱屈を抱いているなどとは思いもよらなかったのだ。


 その事が明らかになったのはとある事件がきっかけだった。


  ◇◇◇


 ボイビヤ王国は我が王国の西隣にあり、国土面積といい勢力といい軍事力といい、我が国に匹敵する大国だった。


 両国はライバル関係にあると言って良く、三十年ほど前には大きな戦争をやって、引き分けに終わっている。それ以来ずっと緊張関係にあった。


 そんな国から使者がやってきたとの連絡あれば王宮内部に緊張が走るのは当たり前のことだろう。国境からの早馬での連絡を受けて、王宮内では対策が協議された。


 驚いた事に国境からの連絡では「ササリージュ王太子殿下に王女との縁談を持ち掛けに来た模様」とのことだった。


 これには私も、父である皇帝陛下も憮然としてしまう。私も父もとっくにカリナーレこそ皇太子妃だと決めていたのだから。


 しかしながら、強力な隣国からの縁談の申し入れである、困った事にこれは非常に断り難いものがある。断ればボイビヤ王国は気分を害するだろうし、難癖を付けたり破談に対しての引き換え条件を突きつけて来るかもしれない。


 となると、この縁談を受ける気が無い以上、そもそも縁談を受け取ってはならない、という事になる。しかしながら理由も無く縁談を門前払いしようものならそれはそれで相手は気分を害する事になるだろう。


 理由。つまりこの場合、私がすでに結婚している。少なくともずっと以前から婚約が内定しているという事実があれば、縁談を受け取れない理由になる。婚約予定ではダメだ。強力な隣国からの話を断るには弱過ぎる。


「そうだな。其方とカーリンがもう内々で婚約しているという事にしよう」


 父はそう言った。むーん。私は唸ってしまう。


 婚約を大々的に発表していない以上、内々に婚約してしまっていた、という事にするしかないが、隣国の使者の前でそう発表した瞬間に、私とカーリンは正式に婚約した事になってしまうだろう。


 愛しいカーリンとの婚約である。どうせなら盛大な婚約式をして、全国民に知らしめ祝福される中で行いたかったのに・・・・・・。


 そもそもアンドリュースが悪いのだ。カーリンが少しでも離れると、火がついたように泣き叫ぶものだから、カーリンをアンドリュースの側から離せず、彼女と正式に婚約出来なかったのだから。おかげでこんな中途半端な婚約になってしまったではないか。


 しかしながら、状況が状況である。やむを得まい。私は同意し、使者を謁見する際に同席する上位貴族と口裏を合わせ、カーリンはとっくに私と婚約していたのだ、という事にした。貴族たちは「まぁ、実際とっくにご婚約なさったと思っていましたから」と笑っていたが。


 そうして準備万端整えて、私はボイビヤ王国の使者を迎えたのだが、この時、あまりに手配に忙しかった事でカーリンに事情を言い含める事が出来ず、彼女を驚かせてしまったのがまず一番の大きな失敗だったのだと思う。


 ボイビヤ王国の使者との謁見自体は無事に済んだ。縁談の受け取りを断る事も出来、使者は労い、ボイビヤ国王には連絡の不備を詫びる書簡を送り、同時に私の結婚式への招待状も送った。


 この縁談をもしも受け入れてしまうと、ボイビヤ王国が我が国に皇太子妃ルートで様々な干渉を行う事が可能になってしまう。彼の国の狙いは間違い無くそこにあっただろう。それを上手い事門前払い出来たのだから、我が国としては大成功だったのだ。


 ところがカーリンは「私のせいで隣国との関係が悪くなったら……」と侍女に漏らしていたということで、気にしているらしかった。そしてなぜか使者が帰った翌日から部屋に引き籠もってしまったのだ。


 意味が分からない。私は首を傾げるしかなかった。いつも明るいカーリンがそのように塞ぎ込む事がまず今までに無かった事だし、理由も見当が付かなかったのだ。


 まぁ、次の日には元に戻るだろう。私は楽観していたのだが、これが翌日になっても引き篭もったままである。私は流石に心配になり、見舞いに行こうとしたのだが、カーリンの侍女に「殿下はお入れしないようにと特に命じられています」と拒否された。


 訳が分からない。私が特別に拒否される理由に思い当たらなかった私は少し怒った。ボイビヤ王国との縁談を断ったのはカーリンと結婚するためだったのだし、仕方なく婚約式を省略したのもカーリンをどうしても妃に迎え入れたいからだ。それが最善だったのだから仕方が無いではないか。しかし私はこの時、それが彼女のためにも最善であると勘違いしていたのである。


 カーリンは二日に渡って自室から出て来ない。いつまで引き籠もっているつもりなのか。心配と苛立ちがピークを迎えた私は翌朝、侍女の制止を振り切ってカーリンの自室に踏み込んだ。カーリンを看病する時にずっと滞在した部屋なので、本来有るべき忌避感が全く無かったのも災いした。


 私はカーリン、が被って丸まっているとおぼしき布団に声を掛けた。


「一体どうしたのだ。カーリン。まだ具合が悪いのか?」


 すると、しばらくしてから、カーリンの物とは思えないほど暗い口調で返事が返ってきた。


「……別に悪くはありません」


 しかし私は返事が返ってきた事に少しホッとした。


「? ならどうしたというのだ。顔を見せてはくれまいか?」


「……嫌です。放っておいてください」


「どうしたのだカーリン何があった? また何か嫌がらせでも受けたのか?」


「そんな事はありません。少し一人にしておいて下さい」


 私はまた少し苛立ちを覚えていた。私は彼女の心情が全く分かっておらず、何もかもを放擲するほどカーリンが苦しんでいる理由を慮りもしなかったのだ。


「そんな風にしていては何も分からぬではないか。君も責任がある立場なのだから、そんな事では困るぞ」


「……私がなりたいと言ったわけではありません」


 カーリンの声は平坦で何の感情も無いように聞こえた。なので私にはカーリンが必死に感情を抑えている事に気が付けなかったのだ。


 カーリンが顔も見せずに勝手な事を言うと思った私は遂に怒って、カーリンの顔を見ようと彼女から布団を剥ぎ取ろうと手を伸ばした。


「カーリン……!」


 その瞬間、布団が内側から弾け飛んだ。


「放っておいて下さいって言っているでしょう!」


 カーリンは真っ赤に泣きはらした目で私を炎のように睨んでいた。髪はボサボサ、服は夜着でしわしわ。まぁ、彼女の看病をずっとしていたのだからそんな姿は見慣れているからどうでも良い。しかし、その負の感情が爆発した表情は、涙が翠色の瞳からボロボロと流れ落ちる様は、私が初めて見るものだった。


「なんですか! カーリンて! カーリンはなんてもういませんよ! 王太子殿下が消してしまったんじゃ無いですか!」


 私は思わず息を呑んだ。


「どうして放っておいてくれないんですか! 私なんてどうでも良いじゃ無いですか! 私なんて痩せっぽちの庶民で、王太子殿下とは遥か離れた世界の人間で、本当は関係がない筈じゃ無いですか! どうして王太子殿下が私なんかを好きになるんですか! ……! ……!」


 カーリンは泣き喚き、私を詰り、そして何度も「私には王太子妃なんて無理です!」と叫んだ。私は真っ青になる。カーリンが、というより女性が感情の赴くままに泣くというのが私には初めて目にする光景だったし、カーリンに詰られる、負の感情をぶつけられるというのも衝撃的な出来事だったし、そして彼女がどうやら私との結婚を望んでいないようだという事も愕然とするような事実だったのだ。


 カーリンは今や言葉も出すことが出来ずに泣いている。私はこの時初めて、私がカーリンに私の一方的な事情を何度も何度も押し付けてきてしまった事に気が付いたのだった。


 カーリンをカリナーレにした事情、彼女を侯爵令嬢に偽装させた時、そして彼女に告白し、彼女を私の事実上の婚約者として扱い、遂に婚約を公表した一連の事象の中で、私は一度としてカーリンの同意を取っていない、彼女の事情を考慮していないのである。彼女が一度もその事に異を唱えなかった事は事実だが、私の要請は国民、特に庶民であるカーリンにとっては命令になってしまう。私はその事を分かっているようで分かっていなかったのだ。


 私は強烈な自己嫌悪に陥った。私は公平で公正な王太子であろうと心掛けてきた。権力の乱用を自らに戒め、他人を意のままに動かすことをなるべく控えてきたつもりだったのだ。それなのに我が最愛の女性に、私はひたすらに自らの事情を押し付けてしまった。彼女に我慢を強い続けてしまった。これは一体どうしたことだ。どうして私はその事に気が付かなかったのだ? 要するに彼女への愛のために目が眩んだという事なのだろう。それにしてもその結果、カーリンを苦しめてしまった。泣かせてしまった。


 私は自己嫌悪のあまり、もうこれは最初からやり直すしか無い、と思い込んだ。後から考えればこれも私の自己満足的な行動になってしまうと分かるのだが、この時のあまりにもショックを受けてしまった私にはこれが精一杯だった。


「分かった。・・・・・・婚約は取り消そう。それで良いか?」


 私が言うと、カーリンは雷にでも撃たれたかのように硬直した。表情がなくなり、ただ涙だけが流れている。寄る辺を失ったようなその姿に、私は彼女を抱き締めたくて仕方が無くなってしまったが、たった今私は彼女との婚約を解消すると決めたのだ。それは出来ない。


 私は呆然と、ふらふらとした足取りでカーリンの部屋を出た。本当はここでカーリンを放置すべきでは無かったと、後になれば分かるのだが、この時の私は自分も心に激しいダメージを負っており、とてもカーリンの事を思いやる余裕が無かった。


 この時、私がそのまま自室に戻っていれば、私は今度は私自身が引き籠もってしまい、カーリンの脱走に適切に対処出来ず、全てが終わる大破局を迎える事になってしまっただろう。私は一生後悔する事になってしまったに違いない。


 しかし、運命は私を見捨てていなかったのだろう。私は足を引きずるように部屋に戻る途中、心配してカーリンの様子を見に来たアンドリュースの乳母、フェレンゼ侯爵夫人と行き会ったのだった。侯爵夫人はカーリンの事を何かと気に掛けてくれていて、カーリンも姉のように母のように彼女を慕っている。本来は大きな身分差があるにもかかわらず、フェレンゼ侯爵夫人はカーリンを可愛がり、彼女を教育して常々「王太子妃に相応しい」と言って私とカーリンの関係を応援してくれているのだ。


 侯爵夫人は私の有様を見て、すぐに私達の間に何が起こったのかを察したようだった。彼女は私に一礼した後、私の前に立ち塞がった。私は早く自室に帰って引き籠もり、ショックを癒やしたいと考えていたので少し苛立った。


「……なんだ」


「王太子殿下。いまカリナーレは普通ではありません。まさかそのカリナーレのお言葉を額面通りに受け取ったりしておりませんでしょうね?」


 私は驚いた。侯爵夫人がまるで見ていたかのように、カーリンの状況と私に向けて言ったことを理解しているように思えたからだ。私は、藁にも縋るような思いで侯爵夫人に問い掛けた。


「どういうことだ? あれは、カーリンの本意では無いというのか?」


 侯爵夫人は大きな溜息をこれ見よがしに吐いた。


「良いですか? 王太子殿下。女性にとって婚約は一大イベントです。ただ事ではありません。愛しい男性と結婚を約束をするというのは、女性の一生の夢。その約束をするというのは大きな心理的な負担になるものなのです」


 よく意味が分からなかった。婚約が心理的負担?


「殿下は男性だから分かり難いかも知れませんが、女性は結婚すれば夫の家に入り、それまでの自分の人生が一変します。生まれ変わるような物です。新しい人生に飛び込むのですもの。婚約というのはそういう覚悟を女性に強いるものなのです」


 私は本気で驚き、狼狽した。私だって婚約は大きな事だと思っていたが、カーリンにとってそこまでの負担になる事だとは思っていなかったのだ。


「わ、私はカーリンに何も強いるつもりはないし、彼女は絶対に幸せにするつもりだ。何の不満も無い生活を送らせるとも! それでもそれほど負担になるものなのか?」


「殿下がカリナーレを幸せにして下さる事は疑っておりませんよ。ですがね、殿下。幸せになるというのは怖いものなのです」


 幸せが怖い? 意味が分からない。愕然とする私に侯爵夫人は言い聞かせるように言う。


「幸せになれば、それを失いたくないと思うようになります。カーリンは今、幸せなのです。殿下に愛を向けられ、将来を保証され、遂に婚約までした。それを失いたく無いのですよ」


「も、勿論、私は一生彼女を幸せに保つつもりだとも!」


「どこにそんな保証がありますか。特に彼女は、生まれの事情が特殊です。彼女は突然幸せになってしまったのです。幸せを失いたくないと思う気持ちは人一倍でしょう。そして人は幸せを失うことを恐れるあまり、幸せになどなりたくない、と思い込むものなのです」


 なんだそれは! 理解出来ない。いや、そう、しかし言われてみれば、私にもそんな気分はあった。今、私はカーリンを、私にとっての幸せを失い掛けている。そのショックの大きさを思えば、幸せを失いたくない、失うくらいなら最初から彼女に出会わなければ良かった、と思わなくも無い。そういう事か。


「良いですか? 殿下。カリナーレは今、幸せ過ぎて失うことを恐れるあまりに、不安に苛まれているのです。カリナーレは殿下に言ったのでしょう? 王太子妃になんて、貴方の妃になんてなりたくないと。それはそういう意味ですよ」


 確かに、カーリンは王太子妃になど無理だと言ってはいた。しかし、一言も私が嫌いだと、結婚したくは無いとは言わなかったのだ。私が自分の事を愛する理由が理解出来ず、不安がり、自分の気持ちに関係無く進んで行く事情に困惑していた。


 私は目の前に掛かっている霧が晴れたような心地になった。ああ、そうか。カーリンは不安だったのだ。


 考えてみれば当たり前だ、彼女は庶民出身。その彼女が王太子妃になる事に不安がるのは当たり前の事で無いか。それに加えて突然の婚約発表。彼女には一切事前の説明が無かったこの事件で、彼女が溜め込んでいた不安が臨界値を超えたのだろう。それだけの事だったのだ。勿論、彼女に不安を抱えさせた事に気が付かなかった私は反省しなければならないが、その事が分かれば対処は出来る。


「殿下。しっかりなさいませ。カリナーレの気持ちを受け止め、不安を解消することは殿下にしか出来ませんよ。殿下がそんなご様子ではカリナーレが不安に落ちて行く一方です。マリッジブルーを馬鹿にしてはいけませんよ。幸せになり過ぎるのを恐れるあまり、別れてしまう男女は本当にいるのですからね」


 侯爵夫人の言う通りだ。ここで私が揺らいでしまっては、本当にカーリンが私の側を去ってしまうかも知れない。しっかりしなければ。私はカーリンを迎えて一家を成し、そして行く行くはカーリンを王妃にしてこの国の国王になるのだ。カーリン一人の全ての感情を受け止められずに国王の責を背負える訳がない。


「……ありがとう。侯爵夫人。其方に厚くお礼を申し上げる。危うく私はカーリンを見失う所だった」


 侯爵夫人は安心したように微笑んだ。


「カリナーレは私が手塩に掛けて教育した娘。自信を持ってお妃様に推薦出来ますよ。自信をお持ち下さい。王太子殿下」


 私は気合いを入れ直した。そうだ。何よりも私が揺らがないことだ。カーリンが不安に思っているのならしばらく正式な婚約を待ち、ちゃんと彼女の気持ちを解きほぐし、それから盛大な婚約式、そして結婚式を挙げて、カーリンを力一杯幸せにして、彼女の不安など幸せで溶かしてしまえば良いのだ。


 私はそう決意し、そのために行動しようと色々と手配を始めた。……その矢先。


 カーリンが王宮を脱走したのだった。


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