第8話 カリナーレについて(前編)  ササリージュ視点

 思えば最初から惹かれていたのだと思う。


 私、ササリージュは我が偉大なるハイバール王国の王太子だ。十五歳で成人と同時に立太子された。


 王太子というのは多忙な地位である。父王を補佐し様々な業務が振り分けられる他、王宮から動けない父王に代わり王都や王国の各地に出掛ける事も多い、これに加えて社交をこなし帝王教育まで受けなければならないのだから、ほとんど休む暇も無い。しかしこれが王太子の責務なのだから仕方が無いのだ。


 そんな忙しい王太子である私が「緊急事態でございます!」と呼び出されたのは、私が十五歳の年の秋の一日の事だった。


 何事かと聞くと「アンドリュース殿下が大変でございます!」という返事が返ってきた。またアンディが何かやらかしたのか? 私はちょっと渋面になってしまう。


 アンドリュースは私の十歳下の弟だ。この弟は去年、母を失ってから性格が変貌し、ずいぶん粗暴になってしまった。気に入らないことがあると癇癪を起こして物を投げたり泣き喚いたり、ひどい時は侍女に暴力を振るったりしたのだ。


 甘やかしてくれる母が突然いなくなったからだろうと乳母のフェレンゼ侯爵夫人は言った。確かに母は私を含めた自分の子供を溺愛し、まだ小さなアンドリュースは母に甘えまくっていた。それが突然甘える先を失っては不安定にもなるだろう。


 しかし、アンドリュースは王子だ。王子は如何に幼くても責任が伴う。母が亡くなってそろそろ一年。いい加減に立ち直ってもらわねば臣下への示しがつかなくなる。


 そう思ったのだが、報告に来た侍女が言うことは違った。何でもアンドリュースが王宮に侵入した者に囚われたというではないか! 私は仰天し、慌てて現場である上位貴族用の控室に向かった。


 その控え室には既にフェレンゼ侯爵夫人他、アンドリュース付きの近習や護衛の者が集まっていた。全員が困惑をあらわにしている。私はその様子に疑問を抱きながらも、控え室の中に踏み込んだ。


 ・・・・・・なんだこれは。私がその瞬間思った事がこれだ。なるほど、皆が困惑しているわけだ。一体どういう状況なのだこれは。


 なるほど。その者、少女にアンドリュースは捕らわれているとは言える。しかしながらどう見ても、アンドリュースの方がその者にガッチリと抱き付いているようにしか見えない。


 そして、少女もアンドリュースも二人してソファーに崩れ落ちるようにしてクウクウ寝息を立てて熟睡しているではないか。一体これはどう言う状況なのだ?


 侍女曰く、人見知りの激しいアンドリュースが王宮内を散歩中に、初対面の貴族にいきなり跪かれて驚き、パニックになって駆け去ってしまい、追い掛けたらこの控え室に飛び込んだらしい。


 そしてここでうたた寝していたこの女性になぜか抱きつき、安心して寝入ってしまったのだそうだ。・・・・・・色々おかしい。


 まず、この少女がここで寝ていたというのが信じ難い。少女はグレーのワンピースに前掛けをしている。いわゆる侍女の格好だ。綺麗に保たれているのでおそらくは貴族の家に仕える侍女だろう。その侍女が王宮に使いで来て、呑気に寝ているなんてあり得るのだろうか?


 そして、乳母にさえ心を開かないというアンドリュースが、人見知りで知らない者には顔も向けない弟が、見知らぬ少女に抱き付いて、あまつさえ寝てしまうなど、ちょっと信じ難い。最近は昼寝どころか夜もあまり寝られないようだと聞いているのに。


 しかし、実際問題、アンドリュースはよく寝ている。安心し切った表情はここ最近本当に見られなくなっていたものだ。しかし、こんなところで寝かしておいて病気にでもなられたら事だ。私は侍女に上掛けの用意を命じた。


 ・・・・・・不思議な事が起こったものだ。私は改めて少女の事をよく見てみた。


 薄茶色の髪は私やアンドリュースのものとよく似ているが、艶や張りがかなり悪かった。そして顔付きはほっそりしていて、首などは驚くほど細い。


 ・・・・・・その姿を見て、私は無意識に母の事を思い浮かべていた。病で亡くなる直前の母は高熱に苦しんだせいか頬の肉が削げ、髪の色艶も悪くなっていたのだった。


 そして元気な頃の母は良くソファーでうたた寝をしていたな、と思い出した。母は王妃なのに行儀が悪い所があり、うたた寝をしては侍女に怒られていた。


 そして、私やアンドリュースをしきりに構い、抱き締めキスをし可愛がってくれた。このように共にソファーで昼寝をした事もあったと思い出す。


 その事を思い出してしまうと、私はアンドリュースを起こしてこの少女を逮捕させる気にはならなかった。私は二人が起きるのを待つことにした。


 少し経って、少女が名を覚ました。彼女はぼんやりした顔で起きて、しばらく目をこすったり目を瞬かせたりしていた。そして、アンドリュースがまだ自分に掴まっているのを認めると、フワッと笑ったのだった。水色と言うより翠色というような緑掛かった不思議な青色の瞳だった。母は藍色だったので似ていると言えば似ている。


 そして、私の事に気が付いて随分驚いた。後年彼女に「あの時のリージェの顔は怖かったですわ」などと揶揄われたが、厳しい顔を意識して作らないと何だが顔が緩んでしまいそうだったのだ。


「何が目的だ!」


 と私が言うと、彼女は驚いた様子を見せた後、きゅっと眉を勝ち気そうに吊り上げた。


「なんですかいきなり。ここにいたらアンドリュースが来てくれたんですよ。手懐けてなんていません! 私はここにお使いに来たんですから!」


 今度は私が驚く番だった。私はここ何年もこのような物言いで怒られたことは無い。幼少時に乳母に叱られた時以来だろう。私の乳母は私が八歳の時に亡くなっているから、おそらくそれ以来だ。母が私に声を荒げる事など無かった。


 どうも誘拐という感じでは無い。私はアンドリュースが起きるまで待つことにし、それから彼女を取り調べる事に決めた。


 アンドリュースはそれから一時間も起きなかった。そして起きると少女――カーリンと名乗った――に満面の笑顔で抱き付いたのだ。その様子を見て私の胸は痛んだ。弟が痛切に母親を必要としている事が分かったからだ。去年最愛の母を失った事は、アンドリュースに途方もないダメージを与えていたらしい。


 私はアンドリュースに晩餐の時間なので自室に戻るように言ったのだが、彼はカーリンにしがみついて離れない。……これは困った。


 この時点でカーリンは犯罪者だった。王子であるアンドリュースには限られた人間しか触れる事が許されていない。暗殺や毒殺の危険の予防のためだ。もしもこの禁を破った場合、護衛に問答無用で斬り殺される可能性もある。なのでアンドリュースが席を外したら、カーリンはそのまま牢屋に入れるつもりだったのだ。


 しかし、アンドリュースのこの様子では、そのような事をしたら弟はまた深く傷付くだろうと思えた。これ以上弟が精神的に不安定になり、粗暴さが増しでもしたらアンドリュースを王子のままにしておけなくなるかも知れない。


 私は仕方なくこう言うしかなかった。


「アンディ。ちょっとこの娘と用事があるのだ。後で食卓に連れて行く。約束する」


 すると、アンドリュースは私を上目遣いで見上げて言った。


「約束ですよ? 兄様」


 ……信用が無いな。私は十歳も年下のアンドリュースとそれほど親しく交わった事は無かったのだ。弟も私が兄だと分かっているから言う事を聞くといった感じで、心から信頼しているようでは無かったのである。


 私はアンドリュースとの約束を守って、とりあえずカーリンをアンドリュースの世話係に二、三日くらい付けようと考えた。それくらいでアンドリュースは飽きるだろうと思ったのだ。しかしカーリンは自分が庶民であると言った。驚愕の事実だ。どうして、どうやって庶民が王宮に紛れ込んだのだ?


「お使いですよ。伯爵に書類を届けに来たんです」


 どこの馬鹿者だ。王宮に庶民を使いに出したのは! 私は頭が痛くなってしまったが、彼女は悪びれる事も無く、私を興味津々といった風に見詰めていた。翠色というような独特な色合いの瞳が輝いている。私は彼女の目から目が離せなくなる自分に戸惑いながら名乗った。


「ハイバール王国第一王子にして王太子。ササリージュだ」


 後の最愛の女性との、それが初対面だった。


   ◇◇◇


 結局、私はカーリンを晩餐に招くしか無かった。私は父の所に出向き事情を伝えた。


 父は驚いたが、元々が豪放な方だ。カーリンが庶民な事を全く問題にしなかった。父は戦地で兵と交わる中で庶民とも親しく付き合ったそうで、王族なのに庶民に対する偏見が薄かったのだ。そして、父としてアンドリュースの状態に心を痛めていた。アンドリュースが懐いたという少女に随分と興味をお示しだった。


 カーリンの格好では王族の晩餐には招くことが出来ない。私は王宮の侍女達にカーリンに貴族らしい身支度をさせるように命じた。


 女性の身支度には時間が掛かる。そのせいで晩餐の時間は普段より遅らせざるを得なくなった。しかしながらアンドリュースにはそんな事は分からない。晩餐の席に着いたらカーリンが居なかった事で弟は機嫌を害し、不機嫌になり「兄様の嘘つき!」と私を詰った。私は、お前のために晩餐を遅らせてやっているのでは無いか、と腹立たしい気分になった。


 しかし、カーリンが食堂に入ってくると、アンドリュースの表情が別人のように輝いた。無作法な事ではあるが、彼は椅子から飛び降りてまっしぐらにカーリンに走り寄って抱き付く。カーリンも頬を緩ませてアンドリュースを抱き留める。


 薄桃色のドレスを来たカーリンは一見、貴族の女性に見えた。随分と痩せているけれども。そしてアンドリュースの手を引くその姿は強烈に母を思い起こさせた。


 恐らく父も同様だったのだろう。珍しく目を細めて何かを思い出すようなお顔をなさっていた。国王である父が感情を顔に出すなど滅多に無い事だ。


 晩餐の席で、カーリンはカトラリーの使い方に戸惑いながらも、アンドリュースの世話をこまめに焼いて、楽しそうに食事をしていた。アンドリュースもそれは嬉しそうで、母が亡くなって以来、あまり食事をせず周囲を心配させていたとは思えないほど良く食べた。


 そしてカーリンが居ると食卓の風景が途端に華やいだ。彼女はアンドリュースを見ながら常にニコニコと微笑んでいた。笑顔の女性がいることがこれほどその場を和ませるものなのだと私は初めて知ったのだ。そういえば母もよく笑った。貴族女性は社交笑顔は浮かべても声を出して笑うなどと言う事はしないものなのに。


 食事が終わり、なんとかカーリンとアンドリュースを引き離す。私は考え込んでしまった。


 あのアンドリュースの様子を見るに付け、カーリンが居る事がアンドリュースの精神衛生上重要である事は間違いないようだった。アンドリュースはまだ幼い。王子としての分別を教え込んでも分からないだろう。このままアンドリュースが精神的に不安定になり、粗暴な王子という評判が定着してしまうと、彼を王子から降下させるという話が出てしまうかも知れない。アンドリュースは私が国王になった時に藩屏として私を補佐して貰わなければならないし、私に何かあった時には彼が王国を継ぐ事になるのだ。臣籍に降りられては困る。


 そのためにはカーリンをしばらくアンドリュースに世話係として付けたい。しかしながら彼女は庶民だ。庶民はどうやってもアンドリュースの側には置けない。どうしたものだろうか。私が悩んでいると、父がとんでもない事を言い出した。


「やむを得ぬ。義母上様に頼もう」


「お祖母様にですか? 何を頼むと言うのです?」


「カーリンを一族に入れて貴族にして貰えるよう頼むのだ」


 は? 流石に私も父が何を言っているのかが分からなかった。父が言うにはお祖母様である前々フーリエン公爵夫人は最近記憶が曖昧なので、カーリンを誰か臣籍の女性だと言い張れば認めて下さるだろうとのこと。とんでもない話だ。


 ……と思ったのだが、よく考えるとこれはなかなかいい手であった。


 まず、お祖母様は一族の長老だが、もうずいぶん前から社交界には出ておらず、実質的な権力や権限をお持ちでは無い。なので、お祖母様が一族の長老として認めた、と言っても意味はほとんど無く、誰にも迷惑が掛からず誰にも知られる事は無いだろう。


 そしてカーリンが庶民である事は、王宮の者達はもう知ってしまっている。アンドリュース付きの侍女も乳母も知っている。今更誤魔化しようが無いのだ。


 それでもカーリンをアンドリュースの側に置くのなら、嘘である事が明らかな状態で、名前だけの貴族にするしかない。嘘だと分かっているのだから「何か事情があるのだろう」と王宮の者達は察してくれる事だろう。


 これを本気で秘密にしようとか事実を隠蔽しようとすると難しいが、名前だけペタッと貼り付けて当座をしのぐなら王宮の者達も協力してくれるだろう。アンドリュースの扱いには皆困っていたのだから。


 この時、私はどうせアンドリュースが子供の気まぐれで、長くても一二週間で飽きるだろうと思っていたのだ。それくらいなら話は王宮内で留めておけるだろうし、問題も大きくならないと考えていたのだ。


 ただ、この時点で父は既に随分とカーリンを気に入っていたようだった。


「良い娘だ。あのような娘が欲しかったな」


 などと言っていて、実際この後もカーリンを自分の娘のように可愛がっていた。なのでこの時に、既に彼女を本気で貴族にしてしまうつもりが少しはあったと思われる。でなければ最初から庶民を貴族に偽装しようという無茶は言い出さないと思うし、クシャーノン侯爵家令嬢などと言う大家門を、見せかけだけのつもりでも彼女に与えるなどしなかっただろう。


 クシャーノン侯爵家は私の母の実家であるフーリエン侯爵家の一族で、つまりカーリンが偽装したカリナーレは私のいとこに当たる。名前が似ているからという軽い気持ちで選んだのだが、結局はこの家を選んだ事が後々意味を持ってくる事になろうとは、その時の私には思いも寄らぬ事であった。


 お祖母様の屋敷に行って、無事に承認も頂き、カーリンはカリナーレになった。彼女は随分戸惑っていた。この頃のカーリンは、ドレスを着た庶民そのもので、見ていると歩き方や所作がいちいち滑稽だった。その様子が面白くて私は彼女のことを良く揶揄ったものだ。カーリンはそうすると私が王太子である事も気にせず「何よ!」と怒るのだった。


 アンドリュースはカーリンが側に仕えるようになると、見違えるほど穏やかになった。これには私も父も、アンドリュース付きの近習達も皆驚き喜んだ。アンドリュースの侍女や侍従は当然だが上位貴族の出身で、当初はカーリンの事を必ずしも歓迎していなかった。私が命じたことと、貴族の名前を貼り付けた事でなんとか納得してくれているに過ぎなかったのだ。


 しかし、アンドリュースがカーリンに懐いて安定したのを見て、彼らはカーリンを次第に認めるようになった。アンドリュースの教育が失敗すれば、それはアンドリュースに付けられた近習たちの失態になってしまう。そうなれば王子付きの近習という名誉ある立場であるからこそ、彼らの経歴に傷が付いてしまうのだ。濃厚だったその未来を改善してくれそうなカーリンが歓迎されるのは当たり前だった。


 そしてカーリンはアンドリュースに献身的に仕えていた。アンドリュースは兎に角カーリンに依存していたので、それこそ朝から晩まで、片時も離れなかった。それこそ朝起きてから寝るまで。いや、寝てからも彼女に抱き付いて離れないために、カーリンは用意された自室に禄に帰れない有様だったようだ。


 しかし彼女は一切不満を言わず、楽しそうにアンドリュースの世話をしてくれていた。慣れない貴族生活に苦しまなかった筈は無いのに、アンドリュースの前ではいつもニコニコ微笑んでいたものだ。アンドリュースの求めるままに彼を抱き締め、キスをし、添い寝し、一緒に遊び散歩をした。子供は気まぐれだ。何度でも同じ事をしたがったり突然飽きてしまったりする。私などはうんざりしたり怒りを感じる事もあるのに、カーリンはひたすらアンドリュースの気まぐれに付き合ってくれた。


 面白いことに、カーリンがアンドリュースを甘やかすようになると、それ以外の者。乳母や教師が少し厳しくしても、アンドリュースはそれに耐えるようになったのだ。以前は少しでもへそを曲げると暴れて、食事の最中でも逃げ出してしまう事もあったというのに。乳母も教師もこれには感動し、カーリンにこの上なく感謝するようになった。


 貴族出身の侍女では、カーリンほど献身的にしかもべったりとアンドリュースを甘やかす事は出来なかっただろう。その事が分かるが故に、カーリンが庶民である事は黙殺されるようになっていった。カーリンは王宮の者達に必要であると認められたのだ。そしてカーリンは貴族だという事にもなっている。貴族社会は名目や建前が事実より大事な事が多々ある。そういう事も相まって、カーリンはだんだん、侯爵令嬢にしてアンドリュースの姉代わりという地位を無意識に固め、周囲もそのように扱うようになっていったのである。


  ◇◇◇


 私は最初、カーリンを少し警戒していたのだ。何しろ庶民である。どんな背景がある人物かも分からない。実はこの時点で彼女の素性には調査が入っていて、彼女の生まれ故郷にまで調べは及び、家族も見つけ出されていた。その結果、彼女が完全無欠、嘘偽り無くただの庶民である事は判明していたのだ。しかしそれでも私は彼女に不信感を抱き、アンドリュースの様子を見ると言う名目でアンドリュースの部屋を訪れ、カーリンと話をした。


 だが、カーリンはひたすらアンドリュースの事しか考えていなかった。アンドリュースを見る彼女の視線には慈愛が溢れており、手付きは優しく、微笑みに嘘は何一つ無かった。アンドリュースが昼寝をしている時に不用意に近付いたら「殿下が起きたらどうするの!」とカーリンに叱られた事さえある。


 兎に角カーリンはアンドリュースを一心に愛し、他の事は全く考えていない、目に入っていないようだった。この私でさえも。私は複雑な感情を抱いた。


 私は王太子で、言っては何だが常に他の者に誰よりも尊重される扱いを受けてきた。それこそ、カーリンが弟の世話をしていたとしても、その手を止めて私に跪くべき存在なのだ。どうもカーリンはその辺りが分かっていないようだった。それでいてカーリンは私と話をする時はいつも楽しそうだった。アンドリュースをあやしながらアンドリュースに関わる話題が多かったが、庶民的なざっくばらんな態度で時に声を出して笑いながらリラックスして私と話をしていた。


 そうしてカーリンと話していると、彼女は母のようであり、同時に出来の悪い妹のようでもあるな、と感じるようになっていった。彼女と話し、関わり、二人でアンドリュースと遊んでいると私は自分の中の色々なこわばりが溶けるような心地がする。それは不思議な気分だった。他の女性と話す時は逆に身構えてしまうのに。アンドリュースとの関係も、そうして三人で過ごす時間が長くなると自然と親密になり、私は弟が可愛く感じるようにもなってきた。


 そういう風に私はカーリンとの関係を深め、同時に油断してしまっていた。そのため、カーリンが王宮各所で貴族達に目撃され始め、アンドリュースの手を引いていたり私と一緒だったり、王族の晩餐に当然のような顔をして同席しているのを見られてしまって、カーリンの事が社交の場で噂になるのを止める事が出来なかったのである。


 噂はあっという間に広まり、私が気が付いた時にはカーリンはすっかりクシャーノン侯爵家唯一の生き残りであるカリナーレであると認知されてしまっていた。どこに隠れていたのか? 王家との関係はどうなっているのか? と大騒ぎになってしまい、私は流石に青くなった。気が付けばカーリンが王宮に入ってもう一ヶ月も経ってしまっていた。それでは目撃され、素性が詮索されるのは当たり前だ。


 不思議なことに「実は庶民なのだ」というスキャンダルは表に出なかった。誰も漏らさなかったという事は無かろうと思うのだが。これは後で聞いたのだが。明らかに王族のお気に入りで特別扱いを受けているカーリンは、庶民は庶民でも昔の王族のご落胤の子孫なのではないかという話に、王宮の者の間ではなっていたらしい。全く事実では無いのだが、ど庶民の少女がいきなり王族の庇護を受けるようになるよりは、貴族である彼らには受け入れ易いストーリーだったのだろう。ご落胤の存在なぞ表沙汰には出来ない。それで王宮の外にはカーリンが庶民である話は広まらなかったようだ。


 私は悩んだが父は全く動じなかった。


「こうなれば、もう書類は整っている事だし、カリナーレはカリナーレなのだで押し通すしかあるまい」


 なんとも豪胆な言い草で、流石は国王陛下だ。しかし侯爵家の家門を庶民に与えてしまうなど許されるのだろうか? もしも彼女に婿を、という事態になったらどうするのか? 結婚した相手には流石に庶民である事は隠せまい。


「勿論、カリナーレには教育を受けてもらい、大貴族に相応しい淑女になって貰わねばならないだろうな。大丈夫だ。いよいよとなれば私の愛妾にするから」


 父の愛妾に? 私は驚いた。父はそろそろ四十歳、カーリンは十三歳だが、そのくらいの年の差は貴族の愛妾としては普通だ。


「身分的には後妻に迎えても良いくらいだ」


 これには流石に私も渋面になってしまう。そんな私を見て父は笑った。


「冗談だ。秘密を守るならそういう方法もあるという話だ。そう。なんなら其方の妃にするという手もあるぞ」


 私は自分の顔が赤くなるのを感じた。だか私は頭を振った。まさかまさか、王太子妃たる私の妃に庶民を迎える訳にはいかない。私はこの時はそう考えたのだった。


 そうしてカーリンは貴族教育を受けることになったのだが、フェレンゼ侯爵夫人や侍女たちが寄ってたかって教育してくれたおかげで、意外に早くカーリンは貴族らしく見えるようになった。頭も良いようで、フェレンゼ侯爵夫人は教え甲斐があると喜んでいた。


 そうなると、カーリンはそもそもが美しいので(本人は地味だ地味だと言うけれども)非常に見栄えがするようになった。特に翠色の瞳にはえも言われぬ妖艶な雰囲気すら漂うようになっていった。


 これには私は不安になった。これほど美しくては社交に出した途端、彼女は社交場で大人気になってしまうだろう。おまけに彼女は侯爵家の跡取りだ。求愛が殺到することになるだろうと思われる。


 もし恋仲になられて、その男性との結婚をカーリンが望んだ場合、彼女を王家で保護し続ける事が出来なくなるかもしれない。


 私は考えた末、カーリンのデビュタントで自分がエスコート役を務める事に決めた。カーリンは王家の強い庇護のもとにあるのだと示すためだ。


 デビュタントの晩、カーリンは普段の闊達さはどこへやら、哀れなほど緊張していた。まぁ、社交界に初めて出る時は私も緊張したものだ。私はその事を思い出し、そして彼女にその時私が受けたアドバイスと同じ事を言った。


「まずは笑顔からだな。教わっただろう? 社交の笑顔だ」


 すると、カーリンは震える唇で無理やり

微笑んだ。貴族の社交用笑顔ではあり得ない、頼りなく儚げな笑顔。その表情を見た時に、私はなんだか足元がおぼつかないような気持ちになった。ソワソワして落ち着かない。


 彼女の手を引いて会場に入場しても私はどうも居心地が悪かった。カーリンが気になって仕方が無い。どうしたというのだ。確かに今日のためにカーリンは着飾り、美しくはあるが、私はこれまで女性の美しさになど心を動かされた事など無かったではないか。


 カーリンは挨拶も歓談も即席の貴族とは見抜けぬほど上手く出来ていた。ダンスも、難しい曲をあまりに堂々と踊り出したので周囲から感嘆の声が起こった程だ。


 実際、カーリンは見事な踊り手に育っていた。私とも息が合い、非常に踊り易い。これほどしっくりくる相手は初めてかもしれない。


 私は感心して、カーリンに言った。


「よく頑張ったな。たった半年でここまで踊れるなら上出来だ」


「ありがとうございます」


 嬉しそうに笑うその顔を見て、私はまた落ち着かなくなった。今度は密着してダンスをしているのだ。フワッと漂う彼女の香りが妙に気になる。まだまだ細い首筋や、不思議そうに細められる翠色の瞳をチラチラと見てしまう。・・・・・・私は一体どうしてしまったのだ?


 結局はそれが私が恋に、初恋に落ちた瞬間だったのだろう。私はこの夜会以降、何かと理由を付けてカーリンの手を引いて夜会に出続けた。そんな事をすれば社交界では当然、私とカーリンが親密であるとの噂になると知りながらだ。


 おかげで、カリナーレに対する求婚は非常に少なくなった。どうも既にクシャーノン侯爵令嬢は王家が予約済みらしい。私かアンドリュースのどちらかに嫁ぐのだろうと思われたのだ。


 私は噂を否定しなかった。する気になれなかった。否定をするならカーリンの手を他に譲らねばならず、それは私にはなんだか気分の悪い事だったのだ。


 既に無意識に彼女を独占したいと考えていたのだ。カーリンが遠慮してエスコートを断ってきた時にはムキになってしまったくらいである。


 そうして自覚無く彼女に依存し始めた私は、ある事件で決定的にカーリンへの愛を自覚させられる事になるのだった。


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