第7話 故郷

 私とアンドリュース様は王宮に帰った。王太子殿下率いる二百の騎士に護られて。


「王族三人の護衛としては足りないくらいだ」


 王太子殿下はブツブツと文句を言っていた。我が国内とはいえ、隣国のスパイや反王家の過激派などウヨウヨがいるのだから、王族の移動には護衛は必須なのだという。まして王都を出るなら護衛「隊」ではなく護衛「軍」が必要な事態であるらしい。


「貴族令嬢時代のつもりでいてはいけない。君はもう準王族なのだからな」


 ……結局、私は王太子殿下との婚約を解消出来ていなかったそうだ。


 私が泣き喚いたのを見た王太子殿下は冷却期間を置くために、一度婚約を取り消して、改めて婚約式をやり直そうとしたらしい。「まともな婚約式も挙げずに君と婚約したくなかったから丁度良いと思ったのだ」とは王太子殿下の言である。


 しかし国王陛下に提案したら怒られたそうだ。私たちの婚約は隣国にまで発表された正式なものだ。そして婚約して私を準王族にする事は全貴族に通達されてしまった。今更解消など出来ないとのこと。


 王太子殿下は婚約解消を断念した。そしてまぁ、少し落ち着いたらまた話をしてみよう、と思った矢先に私に逃げられてしまったということだった。


 そうして王宮に帰ってきた私は無事を喜ばれると同時に、各方面から怒られに怒られた。侍女達に怒られフェレンゼ侯爵夫人に怒られ、社交に出たらフェバット伯爵夫人を始めとした友人達に怒られ、最終的には国王陛下にまで直々に叱責された。


「既に娘と思っている其方に何かあったらと思うと気が気ではなかった。其方はもう王国にとって大事な身なのであるから、勝手な事をしてはならぬ」


 私はしょんぼりと「ハイ」と頷くしか無かった。


 結局私とアンドリュース様が行方不明になったのは「隣町に旅行に行こうと思ったら、馬車の故障で動けなくなっていたところを救出された。誘拐は誤報だった」という事になった。まぁ、客観的にはほとんどそれが事実の全てよね。だから私は何の罪にも問われず、元の通り王宮に収まった。


 一つ変わったのは、王太子殿下の態度だった。


 王太子殿下は私への告白以降、ひたすら私に対して甘いだけの方だったのだけど、事件以降はちょっと厳しくなったのだ。


「次に逃げたら、監禁して一生外出を禁止するからな」


 などと言って私を真剣な目付きで睨んだ。よほど事件がトラウマになったらしく、しばらくは私が社交に出るにも護衛を三十人も付けて、必ず侍女を五人も伴わせた程だった。


 私も今更逃げる気はもう無くなっていた。以前と違う意味で私はもう諦めたのだ。


 つまり、もう自分の気持ちを誤魔化すのを諦めたのである。もう認めてしまおう。私は王太子殿下が好きなのだと。愛されて嬉しく、追い掛けて来てくれた事が嬉しく、婚約解消がちょっと頭がおかしくなるほど悲しかったのを認めたのだ。まだ彼が私の事を愛してくれると言うのなら、私も彼の愛に応えよう。そう決めたのだった。


 そんな事は言えなかったけどね。でも、王太子殿下は私の変化を感じ取ったようだった。以前は私の側に居る時は一生懸命自分の想いを伝えて下さっていたのだけど、私が殿下の愛を受け入れたのが分かったのか、それをなさらなくなった。


 その代わりに私と居る時は以前にも増してべったりだった。二人でお会いする時、前は向かい合って座っていたのだけれど、今はソファーに並んで座って王太子殿下が私を抱き寄せた状態でお話をする。そして時折髪や頬や額や首筋にチュッチュとキスをなさる。……困る。嬉しいけど困る。周りには侍従や侍女や護衛の騎士がいるんだから。生まれながらの王族の王太子殿下にとって、そういう近習は空気も同じ、人の視線として感じていないのだろうけど、全員が顔を赤くしているのを見れば私はいたたまれない。


 もっとも、私も王太子殿下の事は言えない。殿下が好きだと認めたら、途端に王太子殿下が輝いて見えるようになったのだ。ピンク色に。以前からキラキラしているとは思っていたけれどそれどころでは無い。そして私は蛾が炎に吸い寄せられるように、王太子殿下が現れるとふらふらとそちらに引き寄せられてしまう。


 そして呼び方だ。私と王太子殿下は「カーリン」「リージェ」と呼び合うようになっている。リージェはササリージュの愛称で、ササリージュ様のお母様がお付けになったそうだ。本当に幼少時の愛称で、長らく封印されていた可愛らしい呼び名だったのだが「君にそう呼んで貰えたら嬉しいな」と言われたのでそうお呼びする事にしたのだった。


 ササリージュ様は王太子殿下として非常に忙しくていらっしゃる。だからどんなに頑張ってもお会い出来ない日がある。王宮にいらっしゃれば晩餐の時にお顔は見られるが、イチャイチャは出来ない。それにたまに地方に用事で出向かれたるすると、それは泊まり掛けの公務なので晩餐にも出て来られない。


 そうなるともう私が寂しい。無茶苦茶に寂しい。どうしようも無い。勿論ササリージュ様も寂しがり、出掛ける前の日はお互い離れ難くて大変な事になる。ササリージュ様は公務に私を伴いたい意向だったのだが、正式に王太子妃になっているなら兎も角、婚約者ではちょっと無理だったのだ。


「早く結婚したいものだ」


 ササリージュ様はそう仰って嘆くのだが、流石に王太子殿下の結婚式は簡単には出来ない。既に予定は立て始められているが、どう短く見積もっても一年後になるだろうとのこと。何しろ諸外国からも来賓を何人も招くような盛大な結婚式になるのだから無理も無い。


 それにそれ以上早くなると私の準備が間に合わないだろうね。


 正式な婚約をした私は、王太子妃になるための教育を施される事になった。これがもう、貴族になるため促成栽培された時以上の無茶振りが降り掛かってきて、私は真っ青になったのだった。


 王太子妃は将来の王妃である。それは呑気な庶民に務まる地位では無いのも当たり前だ。より徹底した淑女教育の他、王族として出る儀式の種類やそこで使う特別なお作法も覚えなければならない。そして王妃となった時に困らないように、我が王国の歴史、地理、文化風俗は元より、関係各国のそれらも同様に覚えなければならない。そして貴族達の血縁や繋がりを、これは国を超えて繋がっている場合も多いからそれも含めて覚えておく必要があった。


 前々からササリージュ様が内々に侍女やフェレンゼ侯爵夫人に王太子妃教育を始めておくように命じてあったらしいのだが、私があんまり身を入れて勉強していなかったのだ。そのツケが盛大に降り掛かってきてしまった。やむを得ない。私は必死に勉強したわよ。もうササリージュ様と離れたくなかったし、あの方と結婚するためなら死ぬ気で頑張れたし、結婚した後に不十分な妃として笑われてササリージュ様に恥を掻かせる訳にはいかなかったのだ。


 そんなわけで、私はアンドリュース様のお世話係を続けられなくなった。私の王太子妃教育とアンドリュース様のお世話とではどうしても王太子妃教育の方が重要だったのだ。そしてフェレンゼ侯爵夫人が言うには、もう七歳を超えたアンドリュース様を、これ以上幼児のように猫可愛がりするのは、殿下のおためにもならないらしい。アンドリュース様もこれから第二王子、ゆくゆくは国王になられるササリージュ様を肉親としてお支えするための教育が本格化するのだ。


 私は準王族になってしまったので、侍女身分では居られないというのもある。準王族でササリージュ様の婚約者である私がアンドリュース様の側に居過ぎると、この間の誘拐騒動の時に流れたような面妖な噂がまた生じかねない。


 そんなわけで私はアンドリュース様のお世話係を辞したのだけど、当然だがアンドリュース様は嫌がった。いきなり完全にお側から居なくなると申し訳ないと思って、だんだんにお会いする回数を減らそうと考えたのだけど、私の教育が忙し過ぎてそれどころでは無くなってしまった。


 アンドリュース様は不安定になり、泣いたり、癇癪を起こしたりするようになってしまった。どうしようも無い時には緊急で私が行く事もあったが、慣れて貰わないと困るのは結局私だと言われてなるべくは駆け付けないようにした。


 今や私はアンドリュース様にお会いする時には臣下では無く、義理の姉、つまりアンドリュース様よりも上の立場でお会いする事になってしまった。もっとも、これまでも姉代わりだったので、アンドリュース様の態度に変化は無かったけどね。


 アンドリュース様は会いするとしきりに寂しがり、甘え、以前のように毎日側に居て欲しいと懇願してきたが、こればかりはどうしようも無い。だけど三日に一度くらいなんとかお会いする時間を作って、ほんの一時間ほどの面会で私はアンドリュース様を存分に可愛がってあげた。本当はアンドリュース様の自立心を養うにはもう甘えさせない方が良いと言われたが、寂しがるアンドリュース様を放ってはおけなかったし、私の方も教育に疲れていたのでアンドリュース様に癒やされたかったのだ。


 私がササリージュ様と結婚することは、アンドリュース様も一応は喜んで下さった。ただ、私がお側を離れたのがお兄様との結婚のためだと分かると、アンドリュース様はササリージュ様に「僕のカーリンをとった!」と随分怒ったようだ。ササリージュ様もこれには随分参っていらしたわね。私はもうササリージュ様の婚約者なので、本来であれば晩餐の席はササリージュ様の向かいになる筈だ。しかし、アンドリュース様があんまり恨めしげな目で見るものだから、ササリージュ様は私がアンドリュース様のお隣に座り続ける事を許容した。


 結局、アンドリュース様はそれからも随分長いこと私にだけは(すぐに立派で凜々しい王子様におなりになったのに)ベタベタと甘え、それを見たササリージュ様がたまにやきもちを焼いて怒るなどしていたわね。最終的にアンドリュース様が私に甘えなくなったのは、ご自分に婚約者が出来てからの事だった。


  ◇◇◇


 我がハイバール王国は大国で、ライバルは西隣のボイビヤ王国ぐらい。政情はほとんど安定し、反国王勢力も(民主化運動というらしい)大した事は無い。その大王国の王太子妃に庶民出身の私がなるというのは本当は大変な事だ。私はこれまで、そんな重要な地位は私には務まらないと怯えていた。ササリージュ様の愛を受け入れ、王太子妃になる覚悟を固めてからも、迷いはずっと私の中にあった。


 本来であればこういう悩みは自分の母親なり、ササリージュ様の母親である王妃様に相談するものなのだろうが、いずれも無理よね。私の母はまだ生きているとは思うけど、遙か遠い故郷にいるしそもそも他人である事になっている私が会いに行く訳にはいかない。王妃様はお亡くなりになっている。


 私は考えた末に、前々フーリエン公爵夫人チェリアンネ様に会いに行った。侍女と護衛を付けはしたが一人で行った。ササリージュ様にもアンドリュース様にも聞かれる訳にはいかない相談だったから。


 瀟洒で手入れの行き届いたお屋敷に通され、以前にお会いした南向きの談話室で、私はチェリアンネ様と面会する。すっきりとした容貌のチェリアンネ様はお元気そうだったけど、私を見ても誰だか分からないご様子だった。


「ミリアーネと似ているけど、どなただったかしら?」


「ササリージュ様の婚約者になりました、カリナーレです」


 私が言うと、チェリアンネ様は少し虚空を見上げるような仕草をなさった。


「カリナーレ、カリナーレね……」


 私は侍女と護衛を部屋の外に遠ざけた。そしてチェリアンネ様に頭を下げる。


「偽物です。私は庶民のカーリンと申します。たいへん申し訳なく、失礼な事と知りながら、お孫様であるカリナーレ様に成り代わらせて頂いております」


 するとチェリアンネ様は私の事をグレーの瞳でジッと見つめた。前回も思ったけど、やっぱりこの方はササリージュ様のお祖母様なんだわね。目が良く似ている。私は目を逸らさないように頑張った。この方に見定めて貰いたいと思ったのだ。


 私が王太子妃に相応しいかどうか。その任に耐え得るのかどうか。この人が本当に私を孫娘として認めてくれるのかどうか。


 チェリアンネ様が怒って私を認めないと言えば、私はどうなるだろうか。婚姻の証明書には一族の長であるチェリアンネ様の署名が必要だと聞いている。ただ、現フーリエン公爵の署名で代用出来る筈だ。フーリエン公爵は一族の私が王太子妃になる事をいろんな意味で歓迎しているので、多分私はそのまま王太子妃になるのだろうけど、そうしたら私は一生、罪の意識を持ち続ける事になるのだろうね。


 でも、私はこの方を騙し、カリナーレの名誉を毀損するような事がどうしてもしたくなかったのだ。あるいは、私は一生色々な人を偽りを続けて王妃になるのは仕方が無いのだけれど、せめてチェリアンネ様にだけは真相を告白し、自分の重荷を軽くしたかったのかも知れない。勝手な話だけど、この時の色々一杯一杯な私には大事なことだったのだ。


 チェリアンネ様は私を随分と長いこと見つめていたが、やがて少し楽しそうに笑って、そして私を手招きした。? 私が席を立ってお側に寄ると、しゃがめというジェスチャーをする。私は膝を曲げて、チェリアンネ様と視線の高さを合わせた。


 すると、チェリアンネ様は優しく私の頭を抱いてくれた。


「カリナーレ。私の可愛い孫を私が忘れるものですか。大きくなったのね。そう。ササリージュとアンドリュースをよろしくね」


 うう、私はぶわっと涙が噴き出してきてしまった。嬉しかった。この方が私を孫だと認めて下さった、王太子妃に相応しいとお認め下さった事が本当に嬉しかったのだ。私はチェリアンネ様の背中に手を回し、泣きながら言った。


「はい。お任せ下さい。チェリアンネ様……」


  ◇◇◇


 婚約から一年が経ち、私とササリージュ様の結婚式の日がやってきた。


 正直に言って、この一年、特にこの二ヶ月ほどは経験したことが無い物凄い忙しさで、結婚するんだ、という喜びや幸福や感慨を味わっている暇など無かった。


 何しろ王太子殿下の結婚式である。私の知っている結婚式。庶民だけで無く、何回か参列した貴族の結婚式とも次元が違う恐るべき規模のお式だったのだ。


 式場は王都最大の大聖堂である。が、ここだけが式場では無い。何故か王都にある三つの教会を順繰りに回ってそれぞれで神様に誓うのだそうだ。なんでまた。どうやら、三つの教会はそれぞれ勢力争いをしていた過去があったそうで、どこで王族の式をするかで事ある毎に揉めたらしい。それで、全部を使うようになったのだそうだ。まぁ、結婚式では教会に寄付をするのが庶民貴族関わりの無い決まり事だしね。王族の多額の寄付を逃したく無かったのだろう。


 つまり、最初に大聖堂で最初の結婚式を挙げると、馬車に乗ってパレードしながら次の教会へ行き式をして、また市民に愛想を振りまきながら次の教会に行き、また国民の歓呼の声に応えながら王宮に戻るのだ。


 この時、私はウェディングドレスを着ているのだけど、このドレスを教会毎に着替え、王宮に戻る時もお色直しをするのである。何というか、贅沢にも程がある。私は一着で良いと主張したのだが、ササリージュ様は私のお色直しに大いに乗り気で、ご自分もデザインについての話し合いに参加なさっていた。もうどうにでもして下さい。実際に大変な思いをして着替えるのは私なんですからね?


 そして王宮に帰ってきたら披露宴だ。これも当たり前だけど盛大で、王宮の大広間を三つ使い、三日に渡って行われるのが決まりだそうだ。王国中の、普段は領地にいる方々も集まり、隣国からの方々も祝福と外交のために集まってくる。


 これらの準備なのだからそれは一年は掛かる訳だわよ。私は王太子妃教育と並行してウェディングドレスの準備を始めとした様々な事に備えなければならず、最後の二ヶ月は分単位のスケジュールで動かなければならなかった。私でこうだからササリージュ様の忙しさは殺人的で、その中で無理矢理私との逢瀬の時間を確保するのだから彼のお顔が常に疲れ果てていても無理は無いわよね。私はマッサージして差し上げたり、膝枕で寝かせて差し上げたりして、少しでもササリージュ様のお疲れを取って頂こうと試みた。


 そうやって迎えた結婚式当日。私はようやくこの日が来たという安心と脱力で、花嫁の喜びを満喫することは出来なかった。しかし流石に超豪華な純白のウェディングドレスを着せられると、気持ちが引き締まってきた。何しろ式に出る来賓は上位貴族及び外国の王族の方々だ。お作法にも儀式にも物凄く詳しいだろう。失敗したらすぐさまバレて噂になってしまう。結婚式でそんな事になったら末代までの恥。私はちょっと気合いを入れ直した。


 そして控え室から聖堂のホールまでしずしず進む。そういえば、祭壇までのエスコートはどうするのかしらね。本来であれば自分の父親がする役目だけど、まさか私の実父は連れて来られないしカリナーレの父親は既に亡くなっている。それで、一族のフーリエン公爵が代わりを務めて下さる事になった筈だったんだけど、直前で何やら揉めていたようだった。私は忙しくて確認していないのだけど。


 誰が努めてくれる事になったんだろうね、とホール入り口の大扉の前までやってくると、そこに意外な人物が待っていた。


「アンドリュース様?」


 八歳になったアンドリュース様が黒いスーツに身を固めて待っていたのだった。


 アンドリュース様は背もかなり伸び、頭頂は私の顎くらいになっている。出会った時には私の腰くらいだったのに。お顔立ちもすっかりお可愛らしいというより凜々しい感じになり、急速にササリージュ様に似てきた。その美男子ぶりに王国社交界では貴族令嬢が燃え上がって大争奪戦を開始しているとかいないとか。


 アンドリュース様は私の事を真剣な顔で見つめていた。私はちょっと困ってしまった。


 アンドリュース様はこの所急速に大人びて、しきりと「私がカーリンと結婚したかった!」と言っていたのだ。何度か真剣にプロポースしてきた事もある。おませさんね、で済ませられれば良いのだが、王子の言動にはまだまだ未成年とは言え責任が伴う。私は何度か窘めなければならなかった。


 その経緯からすると、最後の最後のここで私とササリージュ様の結婚を妨害しに来たのでは無いかと思ったのだ。


 しかし、アンドリュース様は私に手を伸ばして、言った。


「カーリンの手は僕が兄様に渡す」


 あら? 私が驚きに目を見張ると、アンドリュース様は恥ずかしそうにも悔しそうにも見えるお顔で仰った。


「悔しいけど、寂しいけど、カーリンと兄様はお似合いだし、二人が結婚してカーリンが私の本当の姉になってくれるのは嬉しいんだ。だから……。結婚おめでとう。カーリン。今までありがとう」


 私はもう、ちょっと感情が高ぶって大変な事になってしまった。


 あの小さく無邪気で甘えん坊だったアンドリュース様が、何とご立派になったことか。出会って以来、姉代わりにお世話をしてずっと一緒だった私にはアンドリュース様の祝福はどこの誰のお祝いよりも嬉しく、それで私はもう万感の思いが胸に満ちて涙が溢れそうになってしまう。


「いけませんカリナーレ様。泣いてはお化粧が! 我慢してくださいませ!」


 侍女が慌てている。そうね。ここで泣いて涙の跡を付けたまま入場したらどんな噂になるか分からないものね。私は涙を懸命に堪えて、アンドリュース様に右手を伸ばした。


「ありがとうございます。アンドリュース様。これからもよろしくお願い致しますね」


 アンドリュース様は複雑なお顔で私の手を取って下さった。


 大扉が開き、私はアンドリュース様に手を引かれて静かに絨毯の上を進んだ。左右には来賓の方々。私のエスコート役がアンドリュース様である事に結構大きなざわめきが起こった。


 祭壇の前で白いスーツ姿でお待ちのササリージュ様も驚いているようだった。ササリージュ様はアンドリュース様が私に執着している事をご存じだ。何を企んでいるのかと疑っているのだろう。


 しかし、祭壇の手前で立ち止まると、アンドリュース様は兄の事をややきつい目つきではあるけども、微笑みながら見上げた。


「結婚おめでとうございます。兄上。……カーリンをよろしくお願いします。大事にしないと許しませんからね」


 ササリージュ様は意外そうに目を見開いた。そして麗しく微笑しながら苦笑するという器用な事をなさった。


「ああ、其方に言われるまでも無いが、約束しよう。弟よ」


 そして、ササリージュ様は私の手をアンドリュース様から引き継いだのだった。


   ◇◇◇


 盛大で大忙しの結婚式と披露宴も終わり、私とササリージュ様は無事夫婦となった。


 結婚式とは別に認証式が行われ、私は国王陛下より「王太子妃」という公式な役職を頂いた。王太子妃は単に王太子殿下のお妃であるという事に止まらず、王族として様々な公務をこなす役職でもあるからだ。


 私とササリージュ様は王宮の離れを王太子宮殿に定めそこに移り住んだ。勿論準備は一年掛かりでしてあった。同居出来る事になったササリージュ様のお喜びは大変なもので、太子宮に居る間は私から片時も離れなかった。私だって毎日ササリージュ様と過ごせるのはとても嬉しかったわよ。夫婦で無いと許されない唇のキスを侍女達の目の前で何度もするのはちょっとどころかかなり恥ずかしかったけどね。


 結婚して二ヶ月後、私と王太子殿下は結婚お披露目旅行に出掛ける事になった。全国各地を巡って王太子殿下と王太子妃、つまり次代の国王と王妃の存在を知らしめるのだ。


 王国を全部見るには実に半年も掛かる。なので一気に行くのでは無く、西方面の次は東方面に行くというように、何度かに分けて行われる事になっていた。そうしないと王太子、王太子妃の公務が完全に止まってしまう。


 護衛を千人、家臣や近習を数十人引き連れる大行列で、行く先々で領主や代官が宴をしてくれるというのだから大騒ぎだ。しかしそれでもササリージュ様と王国の色んな所を見て回れるのは心が弾む出来事だった。私はこの旅行を楽しみにしていたのだ。


 しかし、最初の旅行の予定表を見て、私は少し心が曇った。最初は帝国南側の地方の巡察だったのだが、三日目に私が生まれた街に行くことになっていたからだ。


 ……まさか、もう二度と帰る事は無いと思って旅立った故郷に、こんな風で帰る事になるなんてね。


 正直、私はもう父母や弟の顔をほとんど思い出せなくなっている。もう五年近く前に旅立った故郷。懐かしいと言えば懐かしいけど、あそこに住んでいた頃は毎日毎日生きるのに必死だったので、碌な思い出が無いのだ。


 あの頃の私と今の私とでは姿形が違いすぎる。当時の私の事を知っている人たちが馬車でパレードする私を見ても絶対に気が付かないだろうとは思うが、それでも私は何となく気が乗らなかった。この街に行った時には当地の領主のお屋敷に仮病で引き籠もろうかしら。


 しかし、国民への顔見せは王太子妃のお仕事だ。それを大した理由も無くサボることは出来ない。仮病なんて使ったらササリージュ様に心配を掛けてしまうし、この街に限ってパレードを拒否なんてしたら何事かと疑われてしまう。仕方が無いわね。私は覚悟を決めた。


 赤い布と王国の国旗、王家の旗を翻した私達の行列は、王国南部を進み始めた。南部は私の故郷に近いだけに、色々懐かしかったわね。風景や木々や家の様式が見覚えがあるものばかりだったから。ササリージュ様は視察で全国を飛び回っていらっしゃるから詳しく、私に色々教えてくれた。


 そして遂に三日目、私の故郷の街に到着した。石造りのくすんだ城壁には見覚えがある。本当に帰ってきてしまったんだなぁ、と私は密かに感慨に耽った。


 私はササリージュ様にもここが私の故郷なんです、なんて事は言わなかった。そんな事を言っても何にもならない。出会った時の取り調べで南部の街から来た事は言った筈だけど、当時の私は街の名前も知らなかったから、ササリージュ様はにはバレていないと思われる。


 到着した晩は当地の領主の歓迎を受け、宴を楽しみ、領主のお屋敷で泊まった。私は努めて平静を装った。実際、貴族社会に居る限りにおいてはここが故郷だなんて事は全く感じられない。領主のお屋敷なんて近付いた事も無かったからね。私の育ったのはもっと街外れの貧民街だ。


 そして次の日はパレードだ。私とササリージュ様は無蓋馬車に乗り護衛に囲まれながら街路に出た。


 これまでのパレードでは主に貴族街を走り、後は富裕層の多い街の目抜き通りを通る事が多かった。治安の悪い貧民街には近付かなかったのだ。しかし、予定を聞いた限りだと、この街では下町も通るみたいだった。私はササリージュ様に聞いてみた。


「大丈夫なのですか?」


「心配しなくて良い。ちゃんと事前に調べてあるし、警備の兵も沢山入れてある」


 そう言って微笑むササリージュ様を見ながら、私はこれはもしかしてササリージュ様は察しているのかも知れないと思ったわね。パレードの時間も前の街よりも長く、この街は南部の重要都市だという事を鑑みても、どうも私の故郷だという事に配慮して、私にこの街をよく見せて上げたいという意図を感じるのだ。


 ただ、ゆっくり走る馬車の上から見る街の様子は、歩いて見ていた街とは全く違った印象だった。富裕層街にもお使いや仕事でよく来たんだけどね。しかし馬車が下町に差し掛かると、やはり見覚えのある風景が増えてきた。子供の頃に走り回った街路。知り合いの家。ここは確か道路掃除の仕事をしたわね。あのドブを攫う仕事は大変だったなぁ。


 思い出がよみがえるが、私は微笑んで観衆に手を振るだけだ。多分、これだけ見覚えがあるんだから、観衆にも知っている人が沢山居るんだろうけどね。でも街よりも人の方が変わるのが早いものだ。それに一瞬しか顔が見えないのだから、知り合いに気が付く事は無かった。私はちょっとホッとした。


 そして、馬車が私の実家の近くを通った時の事だった。警備の兵の向こうに一家族が固まって立ち、ほへーっと口を開きながら私達の馬車を見上げている。それを見た瞬間、流石に私は硬直した。


 それは私の親と弟だった。見覚えの無い小さな子供はもしかして私が旅立った後に生まれた弟か妹だろうか?


 父さん母さんはただ感心したような顔で馬車を見ていて、弟たちは顔を輝かせ手を振っている。一瞬、私と視線が交錯したと思う。私の心臓はドクドクと激しく鼓動した。手に汗がじっとりと浮かんでしまう。


 でも、父さんも母さんも弟も私に気付いた様子は無かった。それはそうだろう。食い詰めて家を出た娘が王太子妃となって戻ってきたなんて想像を絶している。成長してお化粧もしている私を一目で見分けるなんて無理だ。似ているな? くらいは思ってくれただろうか。馬車はほんの数瞬で家族の前を通り過ぎ、父さん母さんはすぐに見えなくなった。


 私はこっそり息を吐いた。ちょっと身体が震えていた。


 ……家族を見ることが出来て良かったな。普通に素直にそう思えた。庶民カーリンとして生まれたことは切り捨ててしまった過去だったんだけど、実家の家族のことはやはりどうしても、心のどこかで気に掛けていたのだろう。


「大丈夫か? カーリン?」


 ササリージュ様が声を掛けて下さった。すっかり何もかもバレているのだろうね。流石は私の最愛の旦那様だ。


「……ええ、大丈夫ですわ。リージェ」


「そうか」


 ササリージュ様は私を抱き寄せ、私は彼の肩に頭を預けた。暖かい風と観衆からの声を浴びながら、私たち王太子夫妻を乗せた馬車はゆっくりと街路を進んで行くのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る