第6話 誘拐騒動顛末記

 アンドリュース様と私を乗せた馬車は止められる事も無く王宮を出た。私は特に疑問には思わなかった。私が王宮を出て他の方の邸宅や別宅に社交に出向く事もあったからね。その時私と離れたがらないアンドリュース様が同行することもよくある事だった。


 御者も護衛の騎士も顔馴染みの信頼出来る者だ。私はとりあえず馬車を王都西部の郊外、貴族別邸が多い方へ向かうように言った。あの辺に行くなら怪しまれないだろうという算段だ。


 ゴシャゴシャとした王都の下町を馬車は進む。道は混んでいるが私たちの馬車が進むと人々は慌てて避ける。前を進む騎士が持っている槍の先には赤い布が翻っていて、これは王命により最優先を意味するからだ。道を塞いだり進行を妨害したら死罪である。勿論だが偽装すると反逆罪でやはり死刑だ。私だけだと掲げられない赤い布だが、王子であるアンドリュース様が同乗していれば使用出来る。


 ……と思ったのだが、実際は違ったのだ。この時、騎士は私が婚約解消になったなど知る由も無かったので、以前からの通達に従って私を準王族として扱うために赤い布を使ったらしい。私のための王命の印だったのだ。アンドリュース様は未成年であるので、国王陛下の許可が無くば赤い布を掲げられないのだそうだ。そういえば、私がこれまでアンドリュース様と出掛ける時は赤い布は使っていなかったわね。私はこの時はそんな事にも気がついていなかった。


 そう。この時私は一つも気が付いていなかったのだけど、私が行く先もはっきりさせずに王宮の馬車を使用して王宮を出られたのも、私が成人した準王族だからだ。未成年だった場合は、当然国王陛下の許可がいる。これまでの私の外出の場合も、私付きの侍女が事前にきちんと書面で許可を取ってくれていたのである。こんな突然のお出掛けなんてしたことが無かったから分からなかったのだ。そもそも未成年王族のアンドリュース様の同行にもこれまでは国王陛下の許可が必要だった。当たり前よね。


 しかし私は王太子殿下の婚約者になり、準王族になってしかも成人済みなものだから、実は私が気が付かないうちに権限が物凄く拡大してしまっていたのだ。外出には許可がいらず、私の家族扱いになるアンドリュース様との外出も自由で、私の希望はほぼ何でも通る。馬車も私の一存で即座に用意されてしまう。まさかそんな事になっていると気が付かない私は、その権限を無意識に使って家出を成功させてしまったのだった。


 私たちの乗った馬車は王都の街中を抜けると、半日くらい掛けて郊外の静かな貴族別邸が建ち並ぶ地域に入った。この辺には離宮も幾つかある。御者や護衛の騎士はそのどこかに行くと思っていた事だろう。


 しかし私は御者に「もっと西に行ってちょっと行ったところにあるメイゼンという街に行きます」と告げた。御者は驚いた。


「王都の外に出られるというのですか?」


「そうです」


 御者は慌てて護衛の騎士を呼び寄せる。騎士も驚いた。


「メイゼンまでですか? この時間では夕刻までに辿り着けるか怪しいですし、護衛も二人では足りません。とりあえず今日は近くの離宮にお泊まり頂いて、明日用意の上で参りませんか?」


 護衛の騎士の提案に私は首を横に振った。


「駄目です。今日参ります」


 日暮れ間近に着くのであれば好都合ね。今晩中に宿から行方を眩まそう。私は用意周到なつもりでそんな事を考えていた。


 御者や騎士は集まって何やら話し合っていたが、仕方なさそうに私の命令に従った。これも、これまでなら予定と違った行動をしようとすれば咎められ、命令を聞いて貰えなかっただろう。未成年のアンドリュース様の我が儘を私やフェレンゼ侯爵夫人が制止出来るように、未成年の王族、貴族はまだ一人前として扱われない。何にでも親や後見人の許可がいるし、臣下の者の上位はあくまでも未成年の者の者の親や後見人だ。上位者の意向に逆らっていると判断した場合は未成年者の命令に反する事は有り得る。


 しかし私は十五歳で成人した。成人した人間は分別のある大人と見做されるし、しかも準王族であればこれはもう何か無茶を言っても臣下が強制的に止めることは難しい。王太子殿下が無理に私の部屋に入った時と同じだ。私は無意識に王族の権限で臣下に無理を通していたのだ。


 その事に後で気が付いた時には顔が真っ赤になったわよね。そうなのだ。王国において無制限な権限を有する王族は、その権力の巨大さ故に、その乱用を常に戒め自制して自律しなければならない。


 考えてみれば国王陛下も王太子殿下も常にしっかりと自らを律して臣下に無理難題を押しつけるような事はほとんどなさらなかった。それこそ私を貴族にした時のような緊急で重要な場面でも無ければ。しかしそれでも無意識に我が儘を言って、ついうっかり権力で臣下を従わせてしまう事はある。何の気無しに言ったことを、臣下は命令として受け取って無理して実行してしまうのだ。そういう事をしでかさないように気を付けるのがいかに難しい事か、私は思い知ったのだった。まぁ、それは後日の話なんだけど。


 そうとは知らない私は、アンドリュース様と馬車の窓から外を見ながらはしゃいでいた。私だって久しぶりの王都の外だったし、アンドリュース様にとっては初めての王都区域外だ。アンドリュース様は興奮して私にあれこれ聞いてきた。麦畑に作られた麦穂の山だとか、川で回っている大きな水車だとか、農夫に引かれてのんびり歩いている大きな牛だとか。私はそれにお答えして二人でキャッキャと笑っていた。


 そんな感じで私とアンドリュース様は楽しく旅行を楽しんでしまった。ハラハラしている御者や騎士の思いも知らずに。そもそも私はこの道中でアンドリュース様とお別れするつもりじゃ無かったんだっけ? すっかりそんな事を忘れて、はしゃぐアンドリュース様を愛で、自分も外の風景を存分に楽しんでしまった。呑気にも程がある。


  ◇◇◇


 当たり前だがこの頃、王宮は大騒ぎになっていた。発端は、王太子殿下が私を心配して私のお部屋を訪れた事だ。


 勿論、私はいない。朝の内に外出したと侍女は答えた。王太子殿下は全く話を聞いていないから驚いたが、成人済みの私が外出するのに国王陛下の許可はいらないし、どこに行くか報告する義務も無い。侍女も知らなかった。


 嫌な予感がした王太子殿下は、色々調べさせ、私が二人乗りの馬車で護衛を二人だけ付けて出掛けた事を知った。通常、その準備だと近距離の外出だ。王宮周りの貴族のお屋敷に社交に出掛けたか、遠くても郊外の離宮だろう。昨日非常に興奮していたし、気分転換に外出したのだろうか? と王太子殿下は少し安心して、アンドリュース様のご様子を見に行ったそうだ。私がしばらくいなくて弟君がまた不安定になっていないか心配になったのだろう。


 すると、アンドリュース様がいない。私と出掛けたという話ではないか。私とアンドリュース様が出掛ける事はこれまでもあったけど、昨日の私の興奮度合いを考えると、少し不安だと王太子殿下はまた心配になってきたそうだ。


 そしてそろそろ夕刻という時間になっても私は帰って来ない。私の侍女や、アンドリュース様の侍女達が少し心配して騒ぎ出した。そういえば私の格好が近距離の社交に出向く格好では無かった事から、もしかして郊外の離宮に遊びに出掛け、そのまま離宮にお泊まりなのかもしれない、と確認の為の使者が郊外の複数の離宮に出された。


 しかしいずれにも私はいない。これで騒ぎは一気に拡大する。慌てた王宮では上位貴族達に私とアンドリュース様が来ていないか確認した。そのせいで「どうも私とアンドリュース様が王宮から行方を眩ませたらしい」という噂があっという間に貴族達の間に広まってしまったらしい。貴族は毎日社交をしているからね。噂の広まりは速い。


 王太子殿下は真っ青だ。何しろ昨日の今日だ。私が泣き喚いて王太子殿下を詰ったのが昨日。あんなに興奮していた私である。衝動的に命を絶つことまで心配されたらしい。私が我が子のように可愛がっているアンドリュース様と別れがたく、心中しようとしているのでは無いかとも思ったのだそうだ。


 というか、貴族達の噂では、王太子殿下との婚約が決まった私だが、実は私が結婚したかったのはアンドリュース様の方で、王太子殿下との婚約が嫌だった私はアンドリュース様を拐かして駆け落ちしたのだ、という事になり掛かっていたらしい。なによそれ。アンドリュース様は八つも年下なのよ? どうしてそんな話になるのよ。


 つまり、私がアンドリュース殿下を誘拐した、という話になりつつあったようなのだ。これには王太子殿下も困ったらしい。私にとって不名誉な噂であるし、そんな話を本気にされたら怒った貴族達が人を繰り出して私を捕縛しようと試みるかも知れない。実際に捕縛されたりでもしたら私がどう扱われるかも分からない。それを防ぐためには王家がはっきりとその噂を否定する必要があったのだが、真相が分からないのでは否定しようが無い。


 困った王太子殿下はとんでもない言い訳をひねり出した。


「アンドリュース王子とクシャーノン侯爵令嬢の二人は行方不明だ。二人して誘拐された可能性がある」


 つまり、私も誘拐されたかも知れないという事にしたのだ。私を犯罪者にしないための措置だったが、しかしこれで話が大きくなってしまった。第二王子と王太子殿下の婚約者である準王族の私が誘拐されたなんて国家的な大問題だ。


 大臣達までが招集され、緊急会議が行われ、私たちの救出部隊の編成が許可された。王太子殿下自らがこれを統括し、王室費用からその予算が捻出されることに決定。騎士団と王都駐在の軍から捜索救出部隊が編成された。その時にはもう夜になっていたそうだ。


 夜になっても私たちは帰って来ない。これはもう行方不明確定。誘拐も確定的だとまで言われ始める。つい先日に王太子殿下への嫁入りを断られたボイビヤ王国が疑われ、至急国境を封鎖すべきとの意見が出た。実際に封鎖命令が作成され、国境に届けられる手筈まで整っていたらしい。この時に国境を封鎖して街道の通行を禁止、国境警備を厳しくしてしまったら、ボイビヤ王国の方も警戒を強め、お互いの不信感が敵意へと成長して、紛争くらいは起こってしまったかも知れない。


 しかしながら、誘拐自体が自分の口から出任せだと知っている王太子殿下は困ってしまった。誘拐の可能性が無い事は無いが、昨日の私の精神状態を見るに付け、おそらくは発作的な家出だと王太子殿下は思っていたらしい。しかしこのまま私が見つからないと、本当に国境を封鎖して全国に手配して私とアンドリュース様を探さねばならない。そんな事になってから「実は私の単なる家出でした」とでもバレたら大問題だ。私の王太子妃としての資質を問われる事態になってしまう。


 どうにかその前に私を見つけて連れ戻し「いや、誘拐は誤解だった。ただ少し遠くまで出掛けて道に迷っただけだ」という事にしなければならない。


 しかし、私の足取りは掴めない。困り果てていた王太子殿下だったが、その時王宮に一通の書簡が届いた。


 それは私の護衛をしている騎士からの書簡で、王都を出てすぐのところの村で休憩を取った時に、食べ物と水を買った騎士がこっそり村の者に渡し、王宮に届けさせたものだった。騎士がありったけのお金を渡した甲斐があって、村の者は一生懸命走って王宮まで来てくれたらしい。


 カリナーレ様はメイゼンに向かいたいとの意向、と記された書簡を見て、王太子殿下は驚いたらしい。メイゼンは王都の隣の都市だが、間には森もあり、その森では山賊も猛獣も出る。たった二人の騎士を付けて向かうには危険過ぎるだろう。しかも朝に出て日暮れまでに着くかどうかも怪しいではないか。


 王太子殿下はもういても立っても居られず、捜索部隊を集合させると松明を山ほど用意させ、夜中だというのに王宮を飛び出したのだった。


  ◇◇◇


 さて、一方その頃、メイゼンの街へ向かっていた私たちもちょっと困った事になっていた。


 王都からメイゼンへの道のりは森の中の低い峠道を越える。街道自体はよく整備されていて、馬車を走らせるには十分だった。


 しかし、日が暮れる前に着かなければと、御者がちょっと焦ってスピードを出しすぎたらしい。峠を越えて下り坂を少し進んだところで、馬車の車軸が折れてしまったのだ。大きな音がして馬車が揺れて馬車が急停車した。私は驚き、慌ててアンドリュース様を抱き締めたのだが、幸い馬車は転倒もすること無く止まった。び、びっくりした。


「大丈夫でしたか? アンドリュース殿下」


 アンドリュース殿下は少し強ばったお顔ではあったけど、ニコッと笑って「うん!」とお応えになった。うんうん。強くおなりになったわね。私はアンドリュース様を抱き締める。


「だ、大丈夫ですか! カリナーレ様! 殿下!」


 御者が慌てて馬車のドアを開けてくれる。


「ええ、大丈夫です。私も殿下も」


 降りてみると、深い森の中だ。見上げると、空も暗くなりつつある。うーん。困ったわね。御者に聞くと、車軸にヒビが入って車軸が曲がってしまって走れないとの事だった。となると動けない。


 御者も護衛の騎士も真っ青だ。大問題だ。歩いて行くにはメイゼンはまだ遠過ぎる。程無く日が暮れてしまうというのに、移動の手段が無いのだ。準王族の王太子殿下の婚約者と、第二王子をこんなところで立ち往生させるなんて打ち首ものの大失態である。


「申し訳ございません!」


 並んで跪いて頭を深々と下げる彼らを見て、私は初めて、私の我が儘が彼らに大失態を犯させた事に気が付いた。私は慌てた。


「いいえ、私が無理を言ったのですから、気にしないで良いのです」


「そうは参りませぬ。王族の方々のご要望を叶えるのは臣下の務め! それなのにこの失態。申し開きのしようがございませぬ!」


 私は王族じゃないんだけど。とは思ったが、そういう問題でも無いのだろう。私は今更自分がすっかり大貴族になってしまい(実際は準王族だった訳だけど)その権力で彼らを振り回してしまった事に気が付いたのだった。王太子殿下の所業に不満を持っていたくせに。反省である。


 私は言った。


「どなたかが王都なりメイゼンなりに行って馬車を調達してきて下さいませ。その間ここで待ちます」


「いえ、危険でございます。この森にはオオカミやクマも出ます故、護衛の手を減らす訳には参りません。山賊が出る事もございます」


 ……それは確かに護衛を減らすのは危険かもね。私にもアンドリュース様にも戦闘能力は無いから。オオカミやクマどころかイノシシやシカが出たって対処は難しい。山賊に至っては私とアンドリュース王子は絶好の獲物以外の何者にもなれないだろう。


「お二方におかれましては、申し訳ございませぬが、今晩はこの馬車でお過ごし下さい。幸い、食料品は先の村で少し仕入れておきました。王族の方々には失礼な粗末な食事ではございますが、ご勘弁下さい」


 どうもそれしか無さそうだ。私は了承したが、一つだけ注文を付けた。


「このような街道に擱座した馬車は山賊に対しては目立ち過ぎると思います。私とアンドリュース様は離れていた方が良いと思いますよ」


 私が故郷から歩いて旅した時に教わった事だが、街道からすぐに近い、良く見えるところでは野宿をしない方が良いらしい。山賊は街道を通って獲物を探すから。街道から見えるところで野宿すると襲われる危険が高くなるそうなのだ。


 なので、街道を旅して野宿をする時は、少し森なら森に分け入り、街道から見えない所で眠る。平地で見通しの良い場所ではなるべく街道から離れて、火を焚かずに目立たないように眠る事、というのが鉄則らしい。


 森の中だし、少し分け入れば街道からは見えないだろう。それに街道に目立つ馬車が止まっていれば、そこで中の者は寝ていると思うに違いない。馬車で騒ぎが起きればすぐに気がつけるから逃げ易くなる。たき火をしていれば害獣はあえて寄って来ないだろう。


 そういう事を言うと、騎士や御者は「なるほど」と感心してくれた。貴族知識では無く、庶民の知恵なんだけどね。


 というわけで、私とアンドリュース様は少し森の中に入り、街道からは見え難いが馬車からはそう遠くない場所を今晩の寝床に定めた。少し湿気っていたので、馬車に置いてあった雨の日用の布製のひさしを持って来て敷いて、その上に馬車に積んであった膝掛けとクッションを置いた。クッションはそう沢山は無いからアンドリュース様の寝床にすることにした。私は昔は地べたにゴロッと横になって野宿したものなんだから平気よ。


 アンドリュース様と私とで薪を拾う。広葉樹の乾いた枝を集めるのだ。アンドリュース様は張り切ったけど、もう暗くて危ないからヒヤヒヤした。


 そしてそれを組み上げ、その下に松かさを入れる。火種は幸い、御者が火打ち石を持っていた。私は松かさの下に枯れ落ち葉を敷いて、火打ち石を打ち付ける。庶民時代、実家でも下働きとしても火付けは生活に必須な技術だったので、すぐに火を熾す事に成功した。あんまりあっさり火が熾きたので見ていた騎士は驚いたようだ。まぁ、普通の上位貴族の女性は火なんか点けられないわよね。


 あんまり大きな火にすると街道から見えてしまうので、火はギリギリ細くする。余程人の肉を覚えたような獣で無ければ、火が少しでも見えればほとんどが逃げる筈だ。


 そして騎士と御者は街道に止めたままの馬車の周りに居て貰う。万が一山賊が襲ってきた場合は大声で叫んで私達を起こす。そうしたら私はアンドリュース様を連れてもっと森の奥に向かって隠れる。そういう予定だった。


「先の村で王宮にメイゼンに向かう旨報告させていただきました。ですから、明日になれば護衛の増援が来ると思います。それまでの辛抱です」


 ……もしも護衛が増えてしまうと、私は姿を眩ませ難くなって仕舞うわね。今晩の闇夜に紛れて逃げてしまいたい所だけど、まさかこの状態でアンドリュース様を置いては行かれない。……仕方ない。メイゼンに行ってから機会を伺いましょう。


 私はとりあえずそう決めると、アンドリュース様を膝に乗せて食事をする事にした。たき火でパンを温め、木の枝に挿したチーズをあぶる。飲み物は革袋に入ったただの水。食器も無いから手で食べなければならない。王子の食事としては考えられない粗末さだ。まぁ、私の実家ではスープでふやかさずにそのまま食べられるパンは滅多に出なかったし。チーズなんて食べた事も無かったから、これでも私がアンドリュース殿下の年頃に食べていたものよりは贅沢なんだけどね。


 アンドリュース様は驚いて、興味深そうな顔をしながら恐る恐る食べていた。でも、パンは兎も角、チーズをあぶって少し溶かした物は気に入ったらしい。うふふふ、あんまり慌てて食べると火傷するからゆっくり食べて下さいね。


 食べ終わったら、少したき火を小さくして、それからアンドリュース様を胸に抱いた状態で横になった。身体に掛ける物はそれほど暖かくない膝掛けしかない。アンドリュース様が風邪を引いたら大変だ。私はコートの前を開き、アンドリュース様をコートで包むようにして抱き締めた。


「寒くはございませんか? アンドリュース様?」


「寒くないよ? カーリンは寒くない?」


「うふふふ、大丈夫ですよ。アンドリュース様。私が守っているから、寝ても大丈夫ですからね」


 私は寝ずの番をするつもりだった。何かあったら、私を犠牲にしてもアンドリュース様を守るのだ。もしもアンドリュース様に何かあったら、国王陛下にも王太子殿下にも申し訳が立たない。


「ありがとう。カーリン」


 素直なお子にお育ちになったわね。侍女や侍従に素直に挨拶や感謝の言葉が掛けられるアンドリュース様は、今や王宮の使用人の誰もが慕い、可愛がっている。成長すれば誰にも愛される素晴らしい王子になるだろう。姉がわりとして守ってきた私にはそれが誇らしい。


 本当はもっともっとアンドリュース様の事をお守りしたかった。でも、アンドリュース様はどんどん成長なさっている。以前は必ず添い寝しなければならなかったのに、今やもうほとんどお一人で寝られるようになっていた。今日の添い寝が随分久しぶりだという事に気が付く。


 そう遠く無い未来に、私はいらなくなるだろうね。それは寂しいことだけど、同時に素晴らしい事で誇らしいことでもある。でも、そうなった時に私はどうすれば良いのだろう。王太子殿下との婚約は解消されてしまったのだ。国王様が仰った通り、秘密の多い私は下手な所には嫁げない。でも侯爵令嬢である私は結婚してクシャーノン侯爵家の子孫繁栄に励む義務がある。


 どうなるんだろうね。やっぱり逃げて庶民に戻るのが、誰に対しても迷惑が掛からない最良の方法なのではないのかという気もする。でも……。何かが引っ掛かる。そう何となく、やはりそれは無責任な気もするのだ。


 私を貴族にするために色々手配して、無理を通して下さった国王陛下、王太子殿下。私を貴族に相応しくなるように教育してくれたフェレンゼ侯爵夫人や侍女のみんな。私を孫娘と認定して下さった、チェリアンネ様。私を友人として認めて下さり、私に嫌がらせをしていた者達から私を守ってくれたフェバット伯爵夫人やその他の貴族の友人。そういう人の気持ちを、期待を裏切りたくない。


 どうするのが一番良いのだろう。そんな事をたき火を見ながらぼんやりと考えていると、不意に、アンドリュース様が言った。


「カーリン、兄様の事嫌い?」


 私はちょっとビクッとなってしまった。王太子殿下の事を丁度考えていたので。


「……別に、嫌いではありませんよ? アンドリュース様」


「僕は、カーリンも、兄様も好き」


 アンドリュース様は私の胸にぎゅっとしがみついて、言った。


「兄様もカーリンの事好きなんだよ」


 ……ちょっと返事のしようが無かった。うん。それは知ってます。というのはなんかおかしいなと思ったのだ。


「僕は、カーリンと兄様が仲良くしてくれると嬉しいな。僕とカーリンと兄様で……、仲良く……」


 言葉が途切れた。どうやらアンドリュース様はそのまま寝てしまったようだ。


 ……そうね。私はもう聞いていないだろうアンドリュース様にそっと呟いた。


「私もお兄様の事、好きですよ。私はどうしたら良いんでしょうね……」



 はっと気が付いたら周囲は明るくなっていた。いけないいけない。寝てしまっていたようだった。寝ずの番の筈だったのに。たき火も、もう煙しか出ていない。


 アンドリュース様はまだ寝ているようだ。私にがっちり抱き付いている彼が暖かくて眠気に耐えられなかったようだ。


 気が付くと、ちゃんとした毛布が何枚も私達の上から掛けられていた。あら? どこからこんなもの持って来たのかしら。そう思いながらふっと上の方に気配を感じて見上げると、何やら影が見える。何だろう。まだ夢うつつでそれをよく見てみる。


 と、それが怒りの形相凄まじい男性である事が分かった。


「きゃ……!」


「騒ぐな! アンディが起きる!」


 なんだか懐かしいやりとりだった。


 そう。その男性はここしばらく見ていなかった程怒ったお顔をした王太子殿下だったのだ。どうしてこんな所に。


「何をしているんですか? 王太子殿下?」


 私がまだ寝ぼけた頭で言うと、遂に王太子殿下が切れてしまった。


「馬鹿者!」


 ひうっ! 私の目は一気に覚めた。ここしばらく、甘い優しい笑顔しか私に見せたことの無い王太子殿下だったので、この怒り顔と叱責はなんだか新鮮だったわね。


「何をもへったくれもあるか! この大馬鹿者が! 君とアンディが心配で追い掛けて来たに決まっているでは無いか! どれだけ心配していたと思っているんだ! 挙げ句にこんな危険な森の中で野宿だと? 馬鹿にも程がある! 本当に本当に、この大馬鹿者が!」


 そう何度も馬鹿と言わないで欲しい。その、確かに自分が馬鹿な事をしでかしたという自覚はあるので。


 そして、私は王太子殿下のお顔を見て、なんだか馬鹿みたいにホッとしていたのだ。しかも取り繕わない、素で本気で怒り狂っている王太子殿下は、本当に私の事を案じてくれていたのが分かって、凄く嬉しかったのだ。


 私はにへらっと馬鹿みたいに笑って言った。


「ごめんなさい。王太子殿下。私が悪かったです」


 すると王太子殿下は衝撃を受けたようなお顔をなさった。顔が真っ赤だ。


「……ま、まぁ。無事で良かったよ……」


 王太子殿下は大きく息を吐いて、私の頭を撫でてくれた。優しい手付きで。私はなんだかもう嬉しくてニコニコしていた。それなのになんだか涙が出て来て止まらなくなってしまった。王太子殿下はそんな私を見て楽しそうに笑っていた。


「何を泣くことがある」


「……嬉しくて……」


 そうやって王太子殿下を見上げて泣きながら笑っていると、突然王太子殿下が見えなくなった。


「喧嘩は駄目!」


 アンドリュース殿下が起きて、私の顔を自分のお腹に抱え込んだのだ。


「兄様! カーリンをいじめちゃ駄目! 兄様もカーリンの事好きなくせに!」


 必死に言うアンドリュース殿下に、王太子殿下が苦笑した気配がした。見えないけど分かるわよね。私も苦笑してしまう。


「アンディ。私がカーリンと喧嘩する筈がないだろう?」


「アンドリュース様。私と王太子殿下がとっても仲良しですよ。だから大丈夫です」


 アンドリュース殿下は私の顔を見て、王太子殿下を見上げて、それはそれは嬉しそうに、太陽のように笑ったのだった。


 これがアンドリュース様と私という二人の王族が誘拐されたという、王国を揺るがす大事件の終幕だった。真相はもちろん内緒よ内緒。

 


 

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