第2話 デビュタント

 えーっと、クシャーノン侯爵家のご令嬢カリナーレ様は実際の人物だ。


 まぁ、十年くらい前に幼くして死んじゃっているんだけどね。その後、跡継ぎがいなかったクシャーノン侯爵家は断絶して。その家門と領地は王家預かりとなった。そうだ。


 そのカリナーレさんに私は成り変わるのだそうだ。ちょっと待って下さいよ。


「そんな事が許されるんですか?」


 すると王太子殿下は重々しく頷いた。


「許されるか許されないかで言えば、許されないだろうな」


 そうでしょうよ! しかしとっくに覚悟を決めた王太子殿下は知らぬ顔で嘯いた。


「大丈夫だ。バレなければ良いのだ」


「だって私、控え室で色々殿下に話しちゃいましたよね!」


「あそこにいたのは王家の忠臣ばかりだ。私が『黒』を『白』と言えば『左様でございますね』と言う者ばかりだ」


 この王太子殿下、なかなかの悪者よね。私が半眼で見ていると、王太子殿下は私を冷たい目で睨んだ。


「なんなら、其方は病気で死んだ事にしても良いのだぞ? アンディを慰めるのは骨が折れるだろうが」


 つまり、このまま放免するという道は既に無く、侯爵令嬢に化けるか死ぬかの二択しか道が無いのだ、ということだ。うぬぬぬぬ。


 流石に若い身空で死にたくなかった私は、仕方なく王太子殿下の企みに同意した。


 ただ、私はこの時点で、大分老人性の痴呆が進んでいるという王太子殿下のお祖母様、前々フーリエン公爵夫人が王太子殿下の企み通りに私を侯爵令嬢カリナーレだと認めてくれるものなのかと疑ってはいた。私の故郷での経験上、老人性の痴呆は時と場合によって記憶障害の度合いが異なる。そう都合良く何でも思う通りになるとは限らないだろう。


 私は王宮に紛れ込んだ事件の数日後、王太子殿下とアンドリュース様と共にフーリエン前々公爵夫人のお屋敷を訪問した。王太子殿下と第二王子が動かれるのだから当たり前だが、馬車三台に騎兵が十五名も付く大行列だ。王都では見物人も出ただろう。その車列の中に私が乗っているのですよ。とんでもない事だ。


 更にとんでもない事に、私はこの時点で既にカーリンでは無く侯爵令嬢カリナーレとして馬車に乗っているのですよ。もちろん、お化粧はバッチリ。ドレスも着ている。そう、実はあの日以来、私は王宮ではカリナーレとしての扱いを受けているのだ。そうしないとアンドリュース様と一緒にいられないからね。


 アンドリュース様は私が侍女として付くようになると、それはもう全面的に私に心を許して下さった。私にぎゅっと抱き付いて全く離れない。お勉強やお作法の講習の時間でも、私の手を握って離さないのだ。何がどうしてそんなに私の事を気に入ったのかは全然分からないんだけど、兎に角アンドリュース様は私を頼りにして下さる。私だってそんなに懐かれればアンドリュース様の事が可愛くて仕方が無くなるし、始めは私をうろんな顔で見ていた乳母や侍女も、アンドリュース様のお顔が見違えるほど明るくなった事を喜んで私に協力してくれるようになった。


 なんでそんなに私に懐いて下さったんでしょうね? ご本人に聞いてもよく分からないらしいし、周囲の人に聞いても分からないと言う。しかし、この時馬車の中で甘えまくるアンドリュース様を見ながら、王太子殿下がポツリと言うには「其方は母に似ているからでは無いか」との事だった。まず髪色が似ていると。私の髪色はなるほど、王太子殿下とアンドリュース様髪色に近い薄茶色だ。艶とか潤いは全然違うけど。ただ、先日アンドリュース様にお母様、ミリアーナ様の肖像画を見せて貰ったけどこれがもの凄い美人で、私には似ても似つかない。私がそう言うと王太子殿下は首を横に振った。


「母はな、王妃のくせに貴族夫人らしくないところがあってな」


 そうお母様の事を語る王太子殿下の表情は痛みを堪える風だった。この方もお母上の死が心の傷になっているのだろう。無理も無い。この方だってお母様が去年亡くなった時はまだ十四歳だったんだから。


「案外がさつだったのだ。それと愛情表現が大げさでな。貴族夫人は我が子とそれほど触れ合わぬものなのに、母は子供にべったりだった。あんなに毎日触れ合っていた母が突然いなくなったら、それはアンディも寂しかったことだろう」


 アンドリュース様の乳母や侍女はアンドリュース様に愛情深く接してはいるけれども、何しろ主従なのでべったりと甘やかす訳にはいかない。何しろ触れるにもそれなりに身分がいるというのが王族なのだ。本来は私がしているようになで回したり抱き締めたり添い寝したりするのは御法度なのである。庶民なら普通の事だから私は知らなかったんだけどね。


 アンドリュース様のために黙認するにせよ、ならば尚更私に相応しい身分がいるのだという事になる。それがクシャーノン侯爵令嬢カリナーレという身分だった訳ね。この時、私はあんまり身分制度の事を知らず、カリナーレの身分の凄さがよく分かっていなかった。国王陛下と王太子殿下が勝手に決めたんだもの。はい分かりましたというしかなかったしね。


 まず侯爵家というのはこの王国に十六家しかない大家門であるというのがある。ちなみに公爵の方は現在二家だ。つまりクシャーノン侯爵家は王国にも数少ない超名門貴族なのだ。


 しかしクシャーノン侯爵家は断絶してしまい、その家門は国王陛下が預かっている。その内、王族か公爵家の誰かが家門を継ぐ事になる筈だったのだそうだ。そこに、死んだはずのカリナーレが生きていたとすればどうなるか。当然、カリナーレが後を継ぐ事になるのだ。


 つまりカリナーレは侯爵令嬢ではあるが既に侯爵家の跡取りなのである。十五歳で成人すると侯爵夫人の称号を帯びて侯爵家の家門と領地を継ぐ事になるわけですよ。途方も無い事だ。何しろ侯爵だから大領地ですよ。それがカリナーレの物となるのだ。


 そんなとんでもない話だとは私は露知らなかったわよ。お前は今日からカリナーレなのだ、と王太子殿下に言われただけだったしね。道理で王宮に大きなお部屋を貰い、侍女を二人も付けられた訳ですよ。


 しかし、国王陛下と王太子殿下が私はカリナーレである、と認定しただけでは、身分が保証されないらしい。貴族は血統社会だ。各家の血は複雑に絡み合っているのだけど、最終的には王族か公爵家に集約されるようになっているらしい。クシャーノン侯爵家はフーリエン公爵家の一族に連なる家らしく、公爵家からのお墨付きが無ければ私はカリナーレだとは認められないらしい。


 逆に言えば公爵家が認定すれば、客観的に見てどんなにおかしくてもそれを覆す事は出来ないらしい。なにそれ。何しろカリナーレがとっくに亡くなっている事は貴族社会では周知の事実であるのだから、客観的に見ておかしいのは当然なのだ。それが何故か生きてました。王宮にいました。とするのだからもうこれは無茶苦茶なのだ。しかしながらそのくらいの無茶苦茶は貴族社会では良くある事らしい。


 とりあえずこれからお会いするフーリエン公爵前々夫人に認定され無ければ何も始まらない。私は正直、こんな庶民丸出しな私が一族の者なんですよ、なんて紹介されたら前々公爵夫人が怒り出すのでは無いかと心配していた。それは格好は侍女が色々してくれて侯爵令嬢っぽくなっているけれども、所作やお作法は全く知らないのだ。


 前々フーリエン公爵夫人のお屋敷は意外と小さかった。前に勤めていたボランジェ子爵のお屋敷とどっこいの大きさだ。庭園は緑豊かで、よく整備されていた。お人柄が現れていると思う。


 アンドリュース様の手を引いてお屋敷に入る。内部も綺麗に整備されていて無駄な装飾は極力省かれている。ここ最近王宮の豪華絢爛な内装に目が疲れていたから、簡素な内装にちょっとホッとした。


 案内を受けて屋敷の奥に入る。太陽の光が暖かな南向きの小さなお部屋に、このお屋敷の主が待っていた。


「あら、ようこそ。ノーラント様」


「私はササリージュですよ。お久しぶりです。お祖母様」


 ノーラント様は国王陛下の事らしい。去年まではこんな間違いをなさる事は無かったそうだから、恐らく末娘である王妃様を亡くした事の悲しみで一気に痴呆が進行してしまったのではないかという。


 前々フーリエン公爵夫人チェリアンネ様はソファーに座りながら柔和な微笑みを浮かべていた。この時年齢は七十歳くらい。真っ白な髪を後頭部でひっつめ、お化粧は無し。服装も素材は豪華だけど庶民的な暖かそうな服だった。大貴族の長老にしては飾り気の無い普通のおばあちゃんといった感じに見えたわね。


 アンドリュース様は私の膝にしがみついてお祖母様の方を見ない。私が挨拶を促してもイヤイヤをする。困ったわね。


「あら、そちらは、どなただったかしらね?」


 チェリアンネ様が私に気が付いた。私は慌てて頭を下げる。えーっと。


「お、お初にお目に掛かります。クシャーノン侯爵家のカリナーレです!」


 と嘘名乗りを上げる。途端に背中に汗が噴き出した。やっぱり堂々嘘を吐くのは心理的負担が大きいわよね。


「カリナーレ……?」


 チェリアンネ様が考え込んだようなお顔をなさった。や、やっぱりバレた? やっぱり無理だったんじゃない?


「カリナーレは今、王宮でアンディの面倒を見てくれているのです」


 王太子様が言うと、チェリアンネ様は私にしがみついているアンドリュース様を見て、そして私をジッと見つめた。グレーの瞳が少し厳しい色を浮かべて私に向けられている。ううう、怖い。流石は公爵家の長老。なかなかの眼力だ。私は視線を逸らさないように頑張った。そのまま見つめ合う事しばし。


「……そう。カリナーレ。王宮にいたのね。そう……。アンドリュースの……」


 チェリアンネ様はそう呟くとフフッと微笑んだ。


「ミリアーナと良く似てきましたね。そう、貴女がいてくれればアンドリュースもササリージュも安心ね」


 チェリアンネ様の言葉に私も王太子殿下も変な顔になってしまう。どうして私がいれば王太子殿下も安心なのか。嫌ですよ。アンドリュース様の面倒は兎も角、年上の王太子殿下の面倒なんて見ません。


 それは兎も角、王太子殿下はチェリアンネ様に、成人時に爵位を継ぐ関係上、チェリアンネ様の証明がいるのだという名目で、血統証明の書類にサインを頂いていた。これで私が間違いなくクシャーノン侯爵家のカリナーレであるとフーリエン公爵家が証明してくれた事になる。


 少しだけお部屋で歓談をして(ボロが出ないように私は曖昧に笑っているしか無かったけどね)私たちは辞去する事になった。アンドリュース様は歓談している内にお祖母様が優しくお声を掛けてくれたお陰で少し態度が軟化し、帰りの挨拶はちゃんと出来た。ハグは出来なかったけど。


 代わりに私がチェリアンネ様とハグをする。するとチェリアンネ様が小さな声で仰った。


「ササリージュとアンドリューをよろしくね」


 そしてぐっと強めに私の首を抱き締める。その意外な力強さに私は驚いた。離れて私を見つめながらニッと笑うそのお顔には覇気が溢れていたわね。流石は公爵家の長老だ。私は、これは何もかもバレているんだなと悟ったわね。私が偽物だなんてのは百も承知で、チェリアンネ様は私をカリナーレだと認定して下さったのだろう。可愛い孫達のために。


 私は了承の意味で黙って頭を下げるしか無かった。


   ◇◇◇


 私はまんまとクシャーノン侯爵家令嬢カリナーレとなってしまった訳だけど、私自身は単にアンドリュース様の専属侍女になるために身分が必要だったからなった、という認識しか無かった。実際、この時はほとんどそれで良かったのだ。


 なにしろ私のお仕事はアンドリュース様の面倒、というか彼を甘やかす事だった。お作法、学問、芸術などの教育は乳母のフェレンゼ侯爵夫人がやってくれる。身の回りのお世話は他の侍女がテキパキやってくれる。私は抱き付くアンドリュース様をあやし、添い寝し、お食事を一緒に食べる事だ。


 アンドリュース様はもの凄い人見知りで、見た事の無い人に会うと逃げ出してしまう。何でも私と出会った時も偶然会った知らない人に驚いて逃げ出して、隠れた部屋が私が寝ていた部屋だったのだという。それが初対面の私に抱き付いたのを見てフェレンゼ侯爵夫人は驚愕したらしい。


「乳母の私にすらあんなに心をお許しになりませんのに」


 と少し悔しそうに言われた。そりゃ、自分のお乳で育てたのに懐かれないのでは悔しいわよね。でも、私の見るところアンドリュース様はフェレンゼ侯爵夫人にはちゃんと懐いている。ただ、甘えて良い人と見做していないという感じのようだ。実際、乳母は教育係でもあり、それなりに厳しく接しなければいけない場面もあるから、べったり甘えられても困るだろう。


 その点、私はもう甘やかせるだけ甘やかしている。だってそういう係なんだもの。抱き締めてキスをしてなで回して一緒に寝てと、猫可愛がりに可愛がる。弟もこんなに可愛がった事は無いんだけどね。


 アンドリュース様は王子様だから、こんなに小さいのに色々教育があって大変そうなのだ。その分私が甘やかしてバランスを取っているわけだ。私が侍女に入って甘やかすようになってから、アンドリュース様の精神状態が非常に落ち着いて、教育の進行も順調らしい。それまでは食事も細々としか摂れず、夜にうなされて飛び起きたり、何かの拍子に癇癪を爆発させたりした事もあったと聞く。私は見た事が無いけどそうらしい。


 お陰で私はフェレンゼ侯爵夫人にも侍女達にも感謝された。フェレンゼ侯爵夫人も侍女も本来私よりも遙かに高い身分の方々だ。私が庶民である事は気にならないのかしらね? ある時聞いてみると「国王陛下が定められた事に私たちが反する事などありません」という返事が返ってきた。そんなに割り切れるものなのかしらね。


 そんなわけで、私はアンドリュース様の甘やかし係として楽しく王宮暮らしを始めていたのだけど、実はこの頃から既に、それだけでは済まなくなり始めていたのだった。


 というのは、私は全然知らなかったのだけど、まず私の待遇が異例だったという事がある。どういうことかというと、私は公式にはアンドリュース様の侍女なんだけど、にも関わらず王宮にお部屋を与えられている。これはアンドリュース様が私と離れたがらないからだ。本来住むべき庭園に建っている侍女の寮に帰っている暇が無かったのである。私は毎日アンドリュース様と添い寝して、お部屋には着替えやお風呂に戻るだけだったけどね。しかしこれは乳母に匹敵する待遇で侍女としては完全に特別扱いなのだ。


 そして私は毎日晩餐の席で国王陛下と王太子様、もちろんアンドリュース様と食卓を囲んでいた。同席しているのである。アンドリュース様がどうしても私に隣に座って欲しがって、座らないと食欲が激減するからだ。国王陛下が許して下さっているので、私は深く考える事も無く同席して食事をしていた。


 だが、考えてみれば当たり前だが、国王陛下と晩餐を共にするというのは大変に名誉な事なのである。大貴族の方ですら晩餐に招かれるなど滅多に無い事なのだ。そんな事は知らない私は毎日王家の食卓に同席し、国王陛下や王太子殿下と親しく会話をしながら食事を楽しんでいる。晩餐に招かれた大貴族のご当主様が、当たり前のようにアンドリュース様の隣に座る私を見て驚愕するのも無理からぬ事なのだ。


 更に言えば、私は王宮内では侍女服では無くドレスを着ている。これも異例の事で、王宮内でドレスを着ている使用人は乳母しかいない。そして正確に言えば乳母は使用人では無い。つまり、ドレスを着て王宮の内宮をうろうろしている私はどう見ても使用人には見えないという事になる。


 つまり、私は王宮でもの凄く目立っていたのである。まして私はアンドリュース様の手を引いて王宮内の各所をお散歩していた。人目に思い切り触れていたのである。なんだあれは。何者なのだ? という話になるのは当然よね。その結果、調べられてしまい、私がクシャーノン侯爵家のご令嬢カリナーレである事も知れ渡ってしまった。庶民である事はバレなかったわね。王宮内部では既に情報の書き換えが完了していて、誰に聞いても「あれはクシャーノン侯爵令嬢だ」という返事しか返って来なくなっていたから。


 クシャーノン侯爵家の令嬢は死んだと思っていたら王宮で保護されていて、アンドリュース王子の教育係をしているらしい、ということに、貴族界ではなってしまったらしい。私の知らぬところで。


 するとどうなるかというと……。



「教育を受けてもらう」


 ある日、アンドリュース様に会いに来た王太子殿下(この方は二日に一度くらいは昼間にアンドリュース様に会いにくる)に突然言われた。はい? 教育?


「其方に貴族らしい所作や作法を身に付けて貰わないと困った事になりそうだ」


「……なんでまた。私は別に困りませんけど?」


「いーや。其方も困る事になるぞ。何しろ社交界に出て貰わなければならないのだからな」


 はー? 社交界? 私は目をまん丸くしてしまい、その顔を見たアンドリュース様がキャッキャと笑う。


 王太子殿下曰く、クシャーノン侯爵家の唯一の跡継ぎであるカリナーレ嬢に、社交界に出て貰いたいという意見が日に日に強くなっているのだという。なんでまた。


「其方の婿になればクシャーノン侯爵家を継ぐ事が出来るのだ。当然だろう」


 だから社交界に出して出会いの場を作らせろ、という訳らしい。私は呆然とした。


「そんなの聞いてませんよ!」


「王宮の侍女も普通はたまには実家に戻って社交界に出るものだからな。全く出ないとなるとおかしいと怪しまれる事にもなる」


「なんとかならないのですか?」


「其方は案外目立っていたらしくてな。クシャーノン侯爵家の令嬢である事も知れ渡ってしまっている。諦めて社交界デビューするしか無いぞ」


 取り付く島もない。しゃ、社交界デビューって言ったって、私は何にも知りませんよ? 無理ですよ!


「だから教育を受けてもらうと言ったろう? いや、短期間で身に付けて貰わなければならないんだから特訓だな。安心しろ。フェレンゼ侯爵夫人は一流の教師だ」


 ひ、ひえ~! 私は慄いたが、どうにももう逃げられない話のようだった。結局私はその日から、貴族令嬢に見えるようになるための特訓を施される事になったのだった。


 アンドリュース様の乳母であるフェレンゼ侯爵夫人はそもそもお作法の教師だったし、アンドリュース様の侍女も私に付けられた侍女もそもそも貴族令嬢だ。お作法はバッチリ、ダンスも得意だ。その彼女たちが王太子殿下の命令で、よってたかって私を特訓してくれたのだった。毎日アンドリュース様を甘やかすだけがお仕事だった楽ちんな日々は終わりを告げ、私はそれこそ立ち方から貴族教育を受ける事になったのだ。


 アンドリュース様が起きている時は、アンドリュース様の教育と同時に私も同じ教育を受けるようになった。五歳児と同じ教育をさせられるなんて屈辱だが、実際問題私のお作法は五歳のアンドリュース様以下だもの。仕方が無い。


 そしてアンドリュース様をお昼寝に寝かしつけたら私だけ起きて抜け出し、淑女になるための特訓を受ける。立ち方歩き方手足の動き。表情やしゃべり方。ドレスの着こなしから宝飾品を活かす立ち振る舞い。食事のマナーや給仕に対する合図の方法。社交に必須のダンスはもちろん、声楽や楽器も社交で必要になるから覚えるべきなのだそうだ。もちろん、基礎教養。文字の読み書きは子爵家に仕えている時に習ったけど、詩的な表現方法や持って回った言い回し、そして優雅なサインの方法なども身に付けなければならないらしい。


 ちょっと待ってよー! 私は教育が始まってすぐに泣きが入った。とんでもない。こんな膨大な量はすぐには覚えられない。私は頭も良くないのだ。勘弁して欲しい! こんな事しなきゃいけないなら実家に帰らせていただきます!


 しかし、フェレンゼ侯爵夫人は完璧な社交笑顔でさらっと言った。


「王宮を出た瞬間に殺されてしまいますよ。貴女を貴族にするためにどれだけ国王陛下や王太子殿下が無理を通したと思っているのですか」


 そうでしょうよ。ええ。分かっていますとも。もう逃げ出すには遅すぎる事ぐらい! 言ってみただけですともー!


 私はちょっとでは無く泣きながら教育を受け続けた。幸い、フェレンゼ侯爵夫人はそれほどスパルタな教師では無く、厳しいところは厳しかったが、私にそれほどの無理は強いなかったわね。


 私も結局は歯を食いしばって教育を受け続けた。命惜しさもあったけど、私が頑張っているとアンドリュース様が天使のような笑顔で「頑張って!」と励ましてくれるのだ。ううう。この笑顔を守るためなら頑張れる。見守っていて下さいね! アンドリュース様!


 というわけで、教育開始から半年くらいで一応の形は付いたとフェレンゼ侯爵夫人は認めてくださった。張りぼてだけど外見がどうやらそれらしく見えるくらいにはなったそうだ。様子を見に来た王太子殿下も納得なさって「これなら良いだろうと」仰って下さった。私はホッと一息だ。


「では再来週の夜会に出す事にしよう。準備をしておくように」


 ……安心している場合じゃ無かった。教育が一応終わったということは、私の社交界デビューが決まったという事じゃ無いですか! 


 私は愕然としたが、周囲は当たり前のように動いてくれる。侍女が手配して夜会用のドレスが新調される。宝飾品の類いも新しく買った。せっかくのデビュタントだからとその費用は王太子殿下が出してくれたそうだ。


 そして当日の王宮の小ホールの見取り図と、出席する貴族の方々の名簿を渡される。これは夜会までに暗記しておく必要があるのだ。この夜会は私をデビュタントさせるためだけに、王太子殿下主催で行われるものだそうで、私はこの時「そうなんですか」としか思わなかったんだけど、実はこれも異例も異例の事だったのだ。


 王族が主催した社交の場でデビュタントさせた私は周囲からどう見えるか。それはもう王族が秘蔵していたとっておきの姫君だと見られるでしょうね。実際そう思われたらしいわよ。私はもちろんそんな事は知らなかったし王太子殿下もそこまでは考えていなかったようだけど。


 王太子殿下としてみれば、秘密が多い私を下手に一人で社交に出せないと思っただけらしいのよね。しかし、これが後々大きな火種になってしまう事を、私も王太子殿下もこの時はまだ知らなかった。


   ◇◇◇


 王宮の小ホール、と言っても王宮基準での小だから、もちろん子爵邸の大ホールよりも大きくて豪華だ。集まって下さった貴族の方々は男女併せて三十人。時に百名を軽く超える王宮の夜会としては確かに小規模だ。


 しかし、私はそんな事は知らないし考える余裕も無い。ガチガチと震えていた。王太子殿下の腕に掴まって。


 そう。王太子殿下が入場のエスコートをして下さる事になったのだ。これも本来はあり得ない事なのだが、私を放置するのは危な過ぎるからと王太子殿下が買って出て下さったのだ。この王子様なかなか面倒見が良いのよね。


 ちなみに、王太子殿下と組んでいる腕の反対側にはアンドリュース様がいて、私の膝にいつも通りくっついている。今日はアンドリュース様もおめかししている。本当はお留守番させる予定だったのだが、私と離れるのを泣いて嫌がったのでお連れしたのだ。


 おめかしと言えば、王太子殿下の格好はそれはそれは素敵だったわね。濃いグリーンのジャケットと黒いズボン。白いタイ。ジャケットには華麗な刺繍が施されている。元が美少年だけにお洒落すると輝かんばかりになる。この時私は新調した白と緑のドレスを着て精一杯おめかししていたんだけど、こんな王太子殿下の横にいたら見えなくなっちゃうんじゃ無いかしらね。今日の夜会は私が主役の筈なんだけどね。


 私がガクガクしていると、王太子殿下が私の手をポンポンと叩いて励ましてくれた。


「落ち着け。大丈夫だ。教育で教わったようにすれば良いだけだ」


「そうは言ってもですね……」


「ふむ。まずは笑顔からだな。教わっただろう? 社交の笑顔だ」


 それは教わりましたけどね。しかし、顔を思い通りに動かす余裕など無いわよね。私は懸命に笑おうとした。唇は震えてしまっているけどね。


「こうで良いでしょうか。殿下」


 すると、私の頼りない笑顔を見るなり王太子殿下はちょっと驚いたようなお顔をして、慌てたように視線を逸らした。あれ? そんなにおかしかったかしら?


「い、いや、大丈夫だ。それで良い。では行こうか」


 なんか動揺しているわね。お顔が少し赤いようだし? 疑問に思いながらも、私は王太子殿下に右手を引かれ、左手でアンドリュース様の手を引いてホールに入場した。


 出席者全員の盛大な拍手に迎えられ、王太子殿下に紹介を受けた私は教わった通りに淑女の礼をする。なんとか教わった通りに出来たと思うけど。そして王太子殿下に手を引かれたまま出席者一人一人に挨拶を受けて、歓談をして……。


 もう帰りたい。緊張しっぱなしで私の体力気力は流出する一方だった。後で知ったけどこれでも王太子殿下が気を遣って歓談はなるべく早く切り上げてくれたし、縁談の話は「今日はその話は無しで」と事前に通達していたからしないで済んだのだそうだ。それでもお貴族様と歓談するなんて初めてだもの。言葉遣いから無難な返答からいちいち気を使わなければならないのだ。もう神経が焼き切れそうなくらい頭をフル回転させたわよね。


 そうしてようやくご歓談タイムを切り抜ければ次はダンスだ。ううう。うまく出来るかなぁ。すると、王太子殿下は完璧な社交笑顔で言ってくれた。


「散々練習しただろう? 大丈夫だ。アンディ。離れていなさい」


 するとアンドリュース様は頷いて私から離れ、応援してくれた。


「頑張ってね。カーリン!」


 カーリンはカリナーレの愛称だということになっている。私は目を輝かせているアンドリュース様に向けて頷いた。この期待には応えなければなるまい。大丈夫。ダンスのレッスンの仕上げには王太子殿下が付き合ってくれたんだもの。あの時と同じようにすれば大丈夫!


 私たちはホールの中央に出て、音楽と共に踊り出した。


 途端、ほう、と会場中がどよめいた。え? 何があったの?


「其方がちゃんと踊れているので皆驚いたのだ」


 そ、そうなのかな? 踊れているかよく分からないけど。王太子殿下のステップはしっかりしているし、迷いが無いから私も踊り易いから大丈夫だと思うけどね。


「よく頑張ったな。たった半年でここまで踊れるなら上出来だ」


「ありがとうございます」


 私は褒められて嬉しくてニッコリと笑った。するとまた王太子殿下は驚いたように顔を逸らした。? 何ですか? ダンスの最中に顔を背けちゃいけないって教わりましたけど? しかし、王太子殿下は少し頬を赤くしながら私をチラチラと見ている。何なのよもう。


 三曲踊り切って私と王太子殿下が礼を交わすと、会場から再び大拍手が沸き起こった。良かった。どうやらおかしくは無かったみたいね。私がホッとしていると、数人の男性が私の方にやってきた。ダンスのお誘いだ。ううう、さっきは慣れた王太子殿下とだったから良かったけど、知らない人とちゃんと踊れるかしらね?


 すると、小さな影が私の前に飛び込んできた。アンドリュース様は私の手を掴んで引っ張ると叫んだ。


「次は僕が踊るの! カーリン!」


 それを見て紳士の方々が苦笑する。そうよね。王子様のお誘いは最優先だ。私も断れない。


「分かりました。じゃぁ、踊りましょうか。殿下」


 ということで、私はこの後ははしゃぎ回るアンドリュース様とお付き合いしていたおかげで、他の紳士の方々とのダンスをしないで済んだのだった。


 そんな感じで私のデビュタントは無難に済ませる事が出来た。私としては一安心だ。これからも社交に出続ける必要はあるんだろうけども、とりあえずは無難に貴族界に受け入れて貰えたかな? 出来れば社交に出るのは年一回くらいにして、後はアンドリュース様と楽しく暮らせれば良いなぁ。私は呑気にもほどがある事にそんな事を考えていた。


 王族主催の夜会で、王太子殿下のエスコートを受けて入場し、王太子殿下と息もぴったりに踊り、第二王子があからさまに懐いている私が出席者達からどう見えたかなど知りもせずに。


 

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