侯爵令嬢カリナーレは庶民に戻りたい。王太子妃なんてまっぴらごめんです!

宮前葵

第1話 私の事情

 王太子殿下の好みはおかしいと思う。


 あれだけ美人の淑女に毎日囲まれて暮らしているのではないですか。全然、全く、何一つ女性に困る事はないでしょうに。この国では確かに妻は一人しか娶る事は出来ないけど、愛妾ならいくらでも抱える事が出来る。何代か前の王様は確か一ダースほども愛妾を囲い、二十六人も子供を作って王族の価値が暴落したと聞きますよ。


 それに王太子殿下は眉目秀麗、背も高くしかも武芸にも学問にも優れ、女性にモテモテ。夜会に出ればご令嬢方が目の中にハート煌めかせながら寄ってきて、彼と踊りたがる。うん。女性に困る要素が無い。その気になればその「ハーレム王」の記録を抜く事が出来るだろうね。


 それなのに。それなのにそれなのに。


 なんで私にベタ惚れなんでしょうか。ちょっと待ってくださいよ。


 私は髪は薄茶色で平凡で、目も珍しくも無い水色。背は低くも無く高くも無く。プロポーションに凹凸も無い。顔立ちだって整っているとは思えないし、なんなら肌は日焼けを繰り返したせいかうっすら色付いている。


 客観的事実として全然美人ではない。少なくとも王太子殿下に言い寄るご令嬢方には遙かに及ばないわよね。全然悔しくも無い。生まれも育ちも違うんだもの。


  ◇◇◇


 そう。私は庶民出身だ。庶民も庶民。根っからの庶民で貧民だ。実家は父が家具職人で母は針子。ここから遠く離れた地方都市の下町の生まれで、十二歳の時に王都に一人で出て来た。お貴族様の館で働き口があると聞いて。


 で、えっちらおっちら歩いて王都までやってきてボランジェ子爵のお屋敷で働き出したのだ。下働きとして。貴族の館の下働きというのは言わば何でも屋で、炊事洗濯掃除、庭仕事大工仕事からお裁縫まで、本当に何でもやる。子爵家だと使用人も少ないからね。上級使用人の従者や侍女が数人。下働きがやはり数人だから、少ない人数で何でもやってやりくりしないといけない。


 お給金は出たし、お部屋も三人部屋だけど貰えたし、お仕着せも支給されたから文句は無いけどね。食事なんて家にいる時よりもずっと良いものを食べさせて貰っているし。忙しくて大変だけど、それはどこでもそうよね。王都を歩いていると物乞いや浮浪児をよく見かける。アレに比べれば全然マシ。神様に感謝だ。


 という感じで楽しく元気に下働きをやって、一年くらい経ったある日の事。私はお屋敷の侍女からお使いを言いつかった。書簡を届けるお仕事だった。私は走ってケンデン伯爵のお屋敷にまで行ったわ。この時私はたまたまだが、その日に新しく支給されたお仕着せを着ていて珍しく小綺麗だった。それで多分、下働きでは無く侍女だと勘違いされたようだ。


 侍女は身元確かなお家の方が多い。行儀見習いに来ている貴族のご令嬢だとか、子育てが終わった貴族の夫人だとかだ。庶民の下働きとは身分が違う。なので私はここでどうも、多分貴族令嬢と勘違いされたようなのだ。


 何しろこの時私は「ケンデン伯爵は王宮に行っているから、王宮にまでその書類は届けてくれ」と言われたのだ。私が庶民だと分かっていれば、まさか王宮に行けとは言わなかったに違いない。王宮には庶民は立ち入れないもの。


 しかしそんな事は知らない私は「分かりましたー」と言って走り出そうとしたのだけど、伯爵家の方に止められた。馬車を出すからちょっと待てと言われたのだ。馬車? 私は驚いたわよね。馬車なんて乗った事無いから。伯爵家の方曰く、伯爵家の紋章が入った馬車なら王宮の中までそのまま入れるからとの事。どうやらこの書簡は結構急ぎのものだったようだ。


 馬車なんて乗った事が無いからワクワクしたわよね。私はお仕えしているボランジェ子爵のご令嬢の動きを思い出し、真似しながら、すました顔で馬車に乗ったのだった。ここでお貴族様ごっこなんてしなきゃ良かったのよね。いや、下働きの娘達の間で流行ってたのよ。お嬢様の動きを真似て貴族令嬢ごっこするのが。それが意外に真に迫っていたのだろう。私は疑われる事も無く恭しく御者にエスコートされて馬車に乗り込んだのだった。


 少し走って城壁を潜り、王宮までたどり着く。白壁青屋根の王宮は、それはもう立派で豪華で、私は目を丸くするしか無かった。従者用の通用口から中に入り、案内を受けて面会室に入る。はー。なんじゃこりゃ。子爵邸より何倍も豪華な装飾が施されたお部屋にただひたすらに感心する。複雑な文様が施され、妙にふかふかしたソファーにお上品に座る。お貴族様ごっこ継続中。だがしかし、呼んで貰ったはずの伯爵はなかなか来ない。


 走ったし、流石に緊張したし、おまけにソファーはフカフカだ。私はすぐさま眠くなり、抵抗もむなしくあっさり睡魔に完敗してしまった。つまり王宮の控え室でグースカ寝てしまったのだ。これは大失態だと言って良く、私がたとえ貴族令嬢出身の侍女でも恐らく叱責されただろう。ボランジェ子爵に知られたら子爵は真っ青になって私をクビにしたでしょうね。


 しかしそうはならなかった。私は揺り動かされて目が覚めた。


「何をしているの?」


 はう? っとなって目を覚ますと、そこには小さな男の子が立っていた。……だれ? 私が知る由も無かった。王宮に知り合いなんていないもの。


 髪色は栗色。瞳はサファイヤブルー。年の頃は五歳くらい? お目々はぱっちり。ほっぺはぷっくり。いやー、なにこれ可愛い! 私は思わず頭をなでなでしてしまった。


「ちょっと気持ち良くて寝てしまったのよ。あなた、お名前は?」


「アンドリュース!」


「そう。私はカーリンよ」


 私はこの時、アンドリュース様の可愛さにやられていたので、周囲の事が全然目に入っていなかった。周囲ではアンドリュース様の乳母や侍女がオロオロし、護衛の兵士が殺気立った顔でこちらを睨んでいたのだが。


「アンドリュースはどうしてここに? ここは王宮で子供が遊んでいてはいけないのよ?」


 そもそもどうして王宮に子供がいるのかをまず疑問に思えと、私は当時の私に説教したい。


「いつも遊んでいるよ?」


「そうなの?」


 意外に王宮って自由なところなんだなぁ。と私は呆けた事を思っていた。


 するとアンドリュース様は座っている私の膝の上によじ登って私に抱き付いた。その瞬間周囲でどよめきが起こったのだが、私はアンドリュース様の可愛い行動に感動していたので気が付かない。


「どうしたの?」


「眠くなった……」


 あらあら。私は彼を抱え上げ、抱き直した。故郷で弟をあやすように軽く揺らす。


「大丈夫よ。お姉ちゃんが抱っこしててあげるから眠りなさい」


「……うん……」


 うふふ。かーわーいいー! と私は呑気にもほどがある事にアンドリュース様を抱きしめたまま。また自分も寝てしまった。この時周囲がどんなに慌て、青くなり、大騒ぎになっていたかなど知る由も無く。


 そして目が覚めたのは恐らくこの頭のすっきりさ加減からするとかなりの時間が経ってからだ。私はアンドリュース様を抱っこしたままソファーに横になっていた。あら? 私とアンドリュース様の上には柔らかな上掛けが掛けられていた。かなり上等な。流石は王宮ね。居眠りにもサービス満点だわ。


 アンドリュース様はまだスウスウ寝息を立てていたので私は起こさないように気を付けながら身体を起こす。アンドリュース様は私のスカートをしっかり掴んでいた。あらあら。かなりの甘えん坊ねこの子。


 そしてアンドリュース様に上掛けを掛けて上げて。ふと顔を上げると、鬼のような形相をしたその方と目が合ったのだ。


「ひぇっ!」


「騒ぐな。アンディが起きる」


 悲鳴を上げかけた私にその方が鋭く小さな声を掛ける。私は思わず口を手で塞いだ。


 アンドリュース様に良く似た艶やかな栗色の髪。瞳はアンドリュース様よりも濃い青、紺色だった。第一印象は鋭利な、触れれば切れそうなお顔立ちというものだったわね。恐ろしいほど整ったお顔立ちだったけど、この時は何しろその表情には怒りが満ち満ちていたからあんまり惹かれるものは感じなかったわね。怖いが先に立って。


 その彼は私を睨み殺さんばかりの視線で串刺しにしながら、唸るように言った。


「何が目的だ!」


 は? 私には彼が何を言っているのかも分からない。小首を傾げると、彼の怒りは更に高まったらしい。


「アンディを手懐けて、何が目的だ? 言ってみろ!」


 ……アンドリュース様が懐いてくれたのは確かだけど、手懐けてはいないわよね。私はむむむっと眉を寄せてしまう。何よその偉そうな態度は。


「なんですかいきなり。ここにいたらアンドリュースが来てくれたんですよ。手懐けてなんていません! 私はここにお使いに来たんですから!」


 私がきつめに言い返すと、男性は目を見張って驚いた。なによ。何をそんなに驚く事があるのよ。私はこの辺でようやく目が覚めて、自分が大勢の人間に囲まれている事に気がついた。男女問わず、中には鎧姿の男性や、貴族服の立派な方の姿もある。全員が緊張感を全身に漲らせ、私と男性に注目している。な、何が起こっているの?


 すると男性が疑念そのものといったような表情で、私を睨み付けながら言った。


「アンディが自ら寄って来ただと?」


「そ、そうですよ。アンドリュースに聞いてみれば良いじゃ無いですか」


 起こすのは可哀想だけど、私の濡れ衣、よく分からないけどなんか罪に問われているっぽいから濡れ衣で間違いないわよね? これを晴らして貰わなければ。私はアンドリュース様の肩に手を掛ける。すると即座にその手を握られて止められた。正面にいるこの怖い顔した男性にだ。


「起こすな! アンディがこんなに熟睡しているのは珍しい事なのだ!」


 そうは言われましても。私が困惑していると、男性が溜息を吐きながら言った。


「其方。まさかアンディが王国の第二王子である事に気がついてないのでは無かろうな?」


 ……はい? 私は思わずあどけない顔で眠っているアンドリュース様事を見てしまう。この子が第二王子?


 流石に青くなった私を見て、男性が頭の痛そうな顔をした。


「……アンディが起きるまでそのままでいるように。その後、取り調べる」


   ◇◇◇


 アンドリュース様は結局それから一時間くらいしてようやく目を覚ました。パチッと目を開けると私を見上げてにこーっと笑って私の胸にぎゅっと抱き付いた。ううう、可愛い! でも私はそれどころでは無い。


 何しろこの一時間、私は針のむしろの上に正座させられている気分だったのだ。


 正面には椅子を持って来させて腰掛けたまま私をずっと睨んでいる例の男性がいて、その後ろには直立不動で兵士達が三人立ってやはりこちらを睨んでいる。アンドリュース様の侍女とおぼしき女性がきつい目つきでこちらを睨んでいて、他にも立派な貴族服姿の男性が数名やはりこちらを睨んでいる。睨まれ放題だ。私が何をしたというのか。


 アンドリュース様は目を覚ましても私に甘えていたが、男性が「そろそろ食事の時間だから」と説得すると仕方なさそうに床に降りた。しかし、右手を私のスカートから離さない。


「殿下、さぁ、お食事に参りましょう。ね?」


 侍女が優しく促しても私の事をつぶらな瞳で見上げて離れようとしない。ううう、ヤバい。可愛い。でも一緒に行くわけには行かないだろう。すると例の男性が仕方なさそうに言った。


「アンディ。ちょっとこの娘と用事があるのだ。後で食卓に連れて行く。約束する」


 すると、アンドリュース様はまだ不満そうな顔で私と男性を交互に見ていたが、男性に小さな声で訴えた。


「約束ですよ? 兄様」


 そしてようやく侍女に手を引かれ、私の方を振り返り振り返り部屋を出て行った。アンドリュース様が見えなくなった瞬間、お部屋の中に安堵の溜息が満ちた。私も息を吐いたわよ。でも、問題はここからよね。


 ……そういえばアンドリュース様が聞き捨てならない言葉を最後に放って行かれたような……。


「……兄様?」


 すると、私の正面の男性が今度こそあきれ果てたような顔で私を見た。


「まさか私の顔を知らぬのか?」


「知りませんよ」


「貴族のくせに私の顔を知らないなんて恥ずかしいと思わぬのか?」


「私、庶民ですし」


 どよめきが起こった。男性も驚愕している。


「庶民だと? なんで庶民がこんなところにいる?」


「お使いですよ。伯爵に書類を届けに来たんです」


 私が書簡を取り出すと、男性は頭を抱えてしまった。


「……アンディになんと言えば良いのだ」


「……で、その。貴方がアンドリュースのお兄ちゃんだということは……」


 男性は私をきつい目つきで睨むと、名乗った。


「ハイバール王国第一王子にして王太子。ササリージュだ」


 これが私と王太子殿下の初対面だった。




 それから私は根掘り葉掘り事情を聞かれた。王太子殿下おん自らね。私は何一つ包み隠さずお答えしたわよ。隠すような事は無かったし隠しても仕方無いもの。


 なので私が庶民で地方都市からやってきてボランジェ子爵のお屋敷で下働きとして奉公している十三歳の少女である事を王太子殿下はお知りになった。別に知りたくも無かったんだろうけど。で、なぜか王宮までお使いでやってきてしまったら、アンドリュー様に懐かれてここで寝ていた事も理解したようだった。


 王太子殿下は人をやってボランジェ子爵を呼び出し、私の身元確認をしていた。お屋敷で見る時の尊大さなど欠片もない態度で子爵は王太子殿下にペコペコし、私の身元を保証してくれたわよね。同時に、こんな無礼者は今すぐクビにしますので、なんて言っていたけどちょっと待ってほしい。遺憾である。


 王太子殿下はボランジェ子爵を下がらせると悩ましそうに額を押さえていたわよね。何を悩んでいるのかは知らないけど、もう帰らせて欲しい。すぐにボランジェ子爵に言ってクビを撤回して貰わなければならないのだ。なにせ、私は悪い事など何一つしていないんだから。


 しかし、王太子殿下は考え込んでいた状態から復帰すると、その紺色のきれいな瞳で私を改めて睨んだ。


「……本当に、隣国の組織だとか、反王家の連中と関わりは無いのだな?」


 そんなものがあるなんて今初めて知りましたよ。何ですかその怖そうな話は。私がコクコクと頷くと、殿下はようやく肩の力を抜いたようだった。どうやら弟に近付いた怪しい女の事を本気でスパイだか刺客なのでは無いかと疑っていたようね。そんなのこの貧相な私の姿を見ればあり得ない事だとすぐに分かるでしょうに。


 私もホッとした。疑いが晴れたなら私はもう用無しだろう。急いで帰らないと。


「じゃぁ、もう良いわよね? じゃ……」


 私が腰を浮かせると、王太子殿下は驚いたように言った。


「どこへ行くのだ」


「へ? いや、疑いが晴れたなら、もう帰ろうかと」


 すると王太子殿下は呆れたような表情で言った。


「何を言っている。アンドリュースと夕食を共にすると約束しただろう」


 ……そうでしたっけ? って、それは貴方が勝手に約束したんですよね?


「私を嘘つきにするつもりか?」


 そんな貴方の都合は知ったこっちゃありませんよ! 私は失業の瀬戸際なんですから! ……と言い掛けて、流石に止める。王太子殿下の後ろにいる兵士やお偉そうな方々がじっとりした目でこちらを睨んでいたからだ。そうだよね。忘れそうになるけどこの人はこの国の王太子だ。お貴族様よりも偉いのだ。お貴族様でさえ私をお手討ちにする事も可能だというのに、王族ともなれば私をこの世に居なかったことにするくらい簡単だろう。何しろ私は庶民だ。


 ……どうせ失業するなら、毒食らわば皿までよ。私は座り直してぜいぜい丁寧な口調で言った。


「分かりました。何をすればよろしいのですか?」


 すると王太子様は少しホッとしたように笑ったのだった。私が見る初めての王太子殿下の笑顔だったわね。


  ◇◇◇


 私は王宮の侍女に連れて行かれて、いきなり風呂場に放り込まれた。


「時間がありません!」


 と侍女達によって裸に剥かれ、嫌がる暇も無く身体中を洗われる。いやー! ちょっとまって! 私は何しろお風呂になんて初めて入ったのだ。石けんで身体を洗ったのも(洗われたのも)初めて。大混乱の内にムダ毛まで剃られてしまう。


 ヘロヘロになって風呂場を出ると髪を梳かされ身体中にパウダーをはたかれ、なんとお化粧が始まった。な、なんでお化粧?


 そして用意されていた華麗なドレスを着せられる。こんな豪華な服着た事無いよ。恐れおののきながら為すがままにされる事小一時間。私はなんだかお貴族様みたいな格好にされてしまった。なんとまぁ。


「早く!」


 と急かされて、私は歩き難いヒールの靴でギクシャクと廊下を歩いた。そして扉の前にたどり着く。


「良いですか? 無理だとは思いますけど、なるべくお上品にね!」


 と扉の前で侍女が言ってくれた。私は混乱が収まらないまま頷くしか無い。


 すると、大きな扉が開かれた。はー? 私は驚愕して動けない。


 そこは食堂だった。大きなテーブルがあり、お皿が並んでいるのだから間違いなかろう。


 しかし、それは私の知っている食堂とは似て非なるものだった。まず何と言っても広い。子爵邸の玄関ホールくらいの広さがあり、テーブルも特大だ。そのテーブルには真っ白なクロスが掛けられていて、上には真っ白なお皿や澄んだガラスで出来たグラスが並んでいる。


 天井には美しい絵画が描かれ、シャンデリアがいくつも吊り下がって蝋燭の光を揺らしている。壁にも沢山の肖像が飾られ、床には厚く毛足の長いカーペット。暖炉には火が揺れていて室内は快適な気温に保たれている。


 あまりの世界の違いに私が呆然と立ち尽くしていると、小さな子供が椅子から飛び降りて私にドーンと抱き付いてきた。


「カーリン!」


 アンドリュース様は私の太ももにぐいぐいと顔を押しつけて甘えていた。慌てたお付きの侍女が止めても止めない。相変わらず可愛いが私も困る。しかしどうすれば良いか分からない。


 すると、溜息交じりの声が掛かった。


「アンディ。兄は嘘など吐いていなかっただろう? さぁ食事を始めよう。カーリンはアンディの隣に座ってアンディの世話をせよ」


 見ると王太子殿下ササリージュ様が困ったような表情で私を促している。どうやら私が遅かった事で王太子殿下は大分アンドリュース様に詰られたようだ。


 アンドリュース様はご機嫌で私の手を引いてテーブルの自分の席に座る。私も仕方なくその横に腰掛ける。アンドリュース様は天使のような笑顔で私を見上げていた。ううう、可愛いわねぇ。


「ずいぶん懐いておるな。それで今日出会ったばかりだと? 本当か?」


 落ち着いたお声にそちらの方を見ると、口に立派なおひげを蓄えた四十歳くらいの素敵な紳士がテーブルの向こうからこちらを興味深げに眺めていた。……誰だろう……。


「そうなのです。父上。それで困ってしまったのですよ」


 王太子殿下が仰る。……父上?


 王太子殿下のお父さんというと、それは国王陛下なのでは? 私は流石に仰天してしまうが、国王陛下は楽しそうなお顔で私を見ながら仰った。


「アンディがそんなに楽しげなのは久しぶりだ。面倒を頼む」


「は、はいいい!」


 ちょ勅命が下ってしまった。私は緊張しながら椅子に座った。


 で、食事が始まったのだが、これが私の食べた事の無い料理ばかりで参った。お椀では無くお皿に盛られているスープなんてどうやって飲んだら良いか分からないし、並んでいるナイフやスプーンは良いとして、このトゲトゲは何じゃこりゃ。見ると国王陛下も王太子殿下も、アンドリュース様でさえもこれを器用に使って料理を口に運んでいる。ほうほう。これで食べ物を刺して口に入れるのね。


 アンドリュース様はまだ幼いのに、大変行儀良くお食事をしていた。故郷の弟どものように遊びながら食べる事もしないし、大声で騒いだりもしない。大変楽だ。子供の食事の面倒を見るつもりでいた私は当てが外れた。むしろアンドリュース様の食べ方を見て、ほうほうそうやって食べるのか、と私が学習する始末だったわよね。


 アンドリュース様は時折私を見上げて安心したようににっこりと可愛く笑った。私も笑いながら「おいしいね」とか「面白い料理ね」とか小声で会話をしながら食べた。


 実際料理は美味しかったが、どうやって食べたら良いのかも分からないし、食べる道具の使い方も下手くそだして、それはもう大変だった。苦心惨憺の果てに食事を終えなんだか苦い飲み物に何と高価な砂糖を入れて飲んで、ようやく夕食の時間が終わった。


 アンドリュース様は終始ご機嫌で、私もアンドリュース様を見ていると緊張が取れて助かった。食事が終わると、アンドリュース様は椅子から降りて私の事を引っ張った。


「カーリン。こっち! 来て!」


 王子に呼ばれたのなら行かなければならないよね。というのを言い訳に、私は立ち上がって国王陛下と王太子殿下から逃げようとした。だって怖いんだもの。国王陛下や王太子殿下なんて今の今まで存在すら忘れていたような雲の上の存在なのよ。庶民の私からすれば神様の方がよほど身近な存在だ。出来ればこの先も関わりたくない。


 しかし、もちろんそんな訳にはいかない。


「アンディ。カーリンは後で行かせるから、先にお部屋に帰って身支度をして待っていなさい」


 アンドリュース様は不満そうに頬を膨らませる。王太子殿下は優しく諭すように仰った。


「兄は嘘を吐かぬ。ちゃんと夕食にも連れてきたろう? 心配するな。すぐに行かせるから」


 アンドリュース様はそれでも私の膝にしがみついて唸っていたが、私が頭を撫でて「すぐに行くから」と言うと、ようやく私から離れてくれた。


「すぐ来てね!」


 と言い残してアンドリュース様が部屋を出て行くと、部屋中の空気が弛緩した。どうも王家の方も王宮の人々もアンドリュース様に非常に気を遣っているようだ。


「……あれでは其方を帰す訳にはいかん」


 ……そうですね。王国の第二王子のご意向でもあるし、王太子殿下のご意向でもある。庶民の事情など無視されて当然だ。しかし王太子殿下は首を横に振った。


「アンディがあんなに心を開いた人間は、母以外には其方だけなのだ。其方は貴重な人材なのだ」


 国王陛下も重々しく仰る。


「妻が去年亡くなってから、アンディはずっと塞ぎ込んでいた。全く笑顔が無くなったし、夜もよく寝られないようだった。あんなに朗らかに笑うアンディは久しぶりなのだ。其方に感謝を」


 ひー! 国王陛下に感謝されてしまった! しかしそれにしても、私は最初に会った時からよく笑って可愛いだけのアンドリュース様なのに、実はそんな状態だったとは。幼くして母親を突然亡くしてしまった事が随分な心の傷になってしまったらしい。そのアンドリュース様が何故か異常に私に懐き、私とお昼寝してどうしても離れたくないとごねる事までした事は、王宮では大事件だったのだ。


「こうなっては其方には王宮に来て、アンディ付きの侍女をやって欲しいものなのだがな……。だが、身分がな……」


 王太子殿下の言葉は歯切れが悪い。どうやら王子付きの侍女をするには身分が大事らしい。かなり後で知ったのだが、王宮に侍女として入るには最低でも伯爵令嬢以上の身分が必要で、王子付きともなれば侯爵令嬢以上の身分であるのが通例なのだそうだ。


 私だってあんなに懐いてくれたアンドリュース様とは離れ難くはなっていたし、どうも失業の気配が濃厚な今の状況を鑑みれば王宮で働かせて欲しいのだが、身分というのは厳格でやっかいなものだ。世の中の秩序を形作っている身分制度を無視する事は、身分の頂点である王族であるからこそ難しいのだろう。


「その、王宮の下働きに入れて頂いて、王子の面倒を見るのでは駄目なのですか?」


「駄目だ。上級侍女以外は王子には触れられぬ。其方がアンディに触れているのはあくまでも特例だ」


 むー。特例が許されるなら、下働きにも特例を認めてくれれば良いじゃない。


「庶民である其方が王子に触れたという話が貴族界に広まれば、其方の処刑を求める者が出るであろうな」


 ……命がけの話になってきた。確かにアンドリュース様は可愛いが、命と引き換えても良いとまでは思えない。これは、アンドリュース様には悪いけどこっそり逃げる一手では? 王都にいたら命が危なそうだから、故郷にでも逃げ戻ろうかしら。


 と、そこまで私は考えたのだが、ここで国王陛下が仕方なさそうな口調で仰った。


「やむを得ぬ。義母上様に頼もう」


 王太子殿下は目を瞬いた。


「お祖母様にですか? 何を頼むと言うのです?」


「カーリンを一族に入れて貴族にして貰えるよう頼むのだ」


 はい? 私も驚いたけど、王太子様も驚いたようだ。


「父上、そんな事が出来る訳無いでしょう? お祖母様が前々公爵夫人で一族の長老だとはいえ、庶民を一族に入れるなど無理です」


 そうよね。無理に決まっているわそんなの。庶民の私にも分かる。


 しかし国王陛下は苦いものを飲み込んだような、苦しげにも見えるお顔をなさった。


「最近、義母上様は記憶が曖昧でいらっしゃる。昔の事は覚えていらっしゃらないし、少し前の事もすぐお忘れになってしまうのだ」


 私と王太子様があまりの事に口を大きく開けてしまう。


「そ、それはお祖母様の老化につけ込んで、嘘を吹き込むという事ではございませんか?」


「しかし他に手が無かろう。義母上様には子供が沢山いらっしゃって、孫も沢山おられる。幼くして亡くなった者も多い。その誰かになりすまし、義母上様に身分を証明して貰えば、カーリンに上級侍女で王子付きに相応しい身分が手に入る。


 と、とんでもない事言い出したわよ! この王様何考えてんの! 私はちょっとあまりの酷い考えに怒りさえ覚えたのだが、王太子殿下は考え込んでいる。……あの、まさか、本気でこんな馬鹿な事実行する気じゃないでしょうね?


 しかし王太子殿下はしばらく悩み抜いた後、ポツリと仰った。


「他に方法が無さそうだ……」


 ちょっと待ちなさい! と叫びたかったけど無理だった。国王陛下と王太子殿下の間に割って入る勇気が無かったのだ。呆然とする私をよそに、国王陛下と王太子殿下は話し合いを始め、私はとりあえずという事でアンドリュース様のところに送られてしまった。


 アンドリュース様は大いに喜んで私に甘えまくり、ベッドで私にしがみつきながら寝てしまう。しかし私は寝ている場合では無い。一体、私はこの先どうなっちゃうのよ! 何ですか貴族になりすますって! こんな私にそんな事出来るはずが無いでしょうに!


 ……しかし、権力者が本気を出せば出来ない事は無いのよね。こうして、私はこの数日後、庶民の娘カーリンから、クシャーノン侯爵家の娘カリナーレとして生まれ変わる事になったのだった。

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