第3話 告白の事情

 ずーっと後に王太子殿下から伺った事だけど、国王陛下も王太子殿下も、私を本当にクシャーノン侯爵令嬢にする気は無かったのだそうだ。


 なんだかアンドリュース様が妙に懐いているから、殿下が飽きるまで側に置いてみよう。しかし、庶民のままではまずいから、とりあえず爵位を預けよう。くらいの気分だったらしい。


 アンドリュース様が興味を失ったら。爵位は取り上げて、褒美でも与えて王宮を下がらせる。だからたまたま王家預かりになっていた爵位で、年齢的にぴったりだったカリナーレに成り代わらせる事にしたのだ


 どうせ短期間だし、王宮からは出ないし社交もしない。なら王子付きの侍女の格に合うなら何でも良いだろう、という考えだったのだそうだ。確かに侯爵家の家門は庶民にくれてやるには重過ぎるよね。


 ところがこれが、アンドリュース様が一向に飽きる気配が無い。それどころか私への依存度をどんどん深めてしまう。私も全然分かっていないものだから、アンドリュース様と一緒に王宮各所を彷徨き回って目立ってしまった。王太子殿下と国王陛下が気が付いた時には、私はクシャーノン侯爵の忘れ形見であるカリナーレだと周知されてしまったのだ。


 王太子殿下と国王陛下は流石に焦ったらしい。大家門であるクシャーノン侯爵家を庶民に与えたなんて事が公になったら大変だ。しかしながらアンドリュース様は私がいないと食事もせず、起きて側に私がいないと泣き出す有様で、とても私を排除する事は出来なかった。そんなわけで手をこまねいている内にニッチもサッチも行かなくなって、結局私を本格的に侯爵令嬢に化けさせる事にしたらしい。


「その時、君を排除しないで本当に良かったと思っている」


 とその時の殿下は甘い笑顔でそう仰ったんだけど、その「排除」ってどう考えても暗殺だよね、と理解出来た私は微笑みが引き攣ったわよ。


 そういう訳で私はすっかり侯爵令嬢カリナーレになってしまい、アンドリュース様にお仕えし始めて一年が経過した。私は十四歳である。


 デビュタント以来、私は社交に何度も呼ばれた。大体月に一回くらい。本当はもっと招待状があったらしいが、王太子殿下が断って下さったのだ。なんで王太子殿下が断るのかというと、招待状が王宮に届くからだ。私は王宮預かりの身という事になっているからである。


 というのは、カリナーレは幼少時死病に罹ったのだが、侯爵家最後の生き残り(その時点でカリナーレの父母は流行病で既に亡くなっていたのだそうだ)である事を重く見た王家がカリナーレを保護し、丁重な治療を施したおかげで奇跡的に回復。だが、病弱であった為にそのまま王宮内で療養していた、という嘘話がいつの間にかでっち上げられていたのである。


 なんですかそれは。私は健康でピンピンしていますけども。


「其方は貴族にしては痩せているし、肌や髪の色艶も良く無い。見方によっては療養明けに見える」


 と王太子殿下は保証して下さったけど、何だかなぁ。確かに私は生まれながらのお貴族様に比べたら痩せているけども。それにしてもだんだん嘘が嘘で塗り固められて大変な事になってきたんだけど。


 そういうわけで私は病弱設定となり、社交に出る度に同情されてしまう有様となった。十年以上も王宮の奥深くに保護されていたなんて、思い切り嘘臭い設定だと思うのに、なんで皆様信じるのかしらね。


 そういうわけで、私は王家の方々とは家族同然に暮らしており、アンドリュース様の姉がわりをずっとしているから、殿下があんなに懐いているんですよ、という事になっている。食事に同席するのも当然よね。うん。


 こうまで嘘設定が作り上げられたという事は、国王陛下と王太子殿下が私を本格的にカリナーレ化する事を決めた事を意味する。庶民カーリンは消滅し、私は最初からカリナーレだったという事になったのだ。国王陛下が本気を出せば、国内における事実を捻じ曲げる事くらいは造作も無く出来る。


 そんな事は知らない私は、何度も出ればそれは社交にも慣れ、相変わらずアンドリュース様は懐いてくれて可愛いし、継続している貴族教育には辟易としながらも、全体的には楽しく呑気に暮らしていた。



 しかし、流石の私も社交に出る度に不穏な空気を感じてはいた。


 まず、私は侯爵令嬢というか侯爵家の跡継ぎになってしまったので、おそらく縁談が殺到するだろう、と言われていたのに、それほど話が来なかったのだ。


 来たことは来たわよ。公爵家とか侯爵家から数件。だけど私は王太子殿下に言われた通り「私はまだ若過ぎるし、アンドリュース王子がもう少し大きくなるまで侍女を続けたい」と言って断った。そうしたらその後無くなった。


 私はそんなものだろと思っていたのだが、侯爵家の当主になれるチャンスである私への婿入り希望が、これほど少ないのはおかしいのよね。


 そして私は社交に出て、仲の良い方は何人も出来たのだけど、それが殆ど既婚女性ばかりだったのだ。未婚の方も婚約済み。つまり私と同年代のご令嬢とは仲良くなれなかったという事だ。


 というか、同年代のご令嬢は私をあからさまに敵視していたのよね。何度か物凄い目付きで睨まれた。遠巻きにしてヒソヒソと何やら悪口を言われているっぽかった事もある。むーん? やな感じ。


 私だってそんな態度の連中と仲良くしたく無いから良いけどね。でもよく分からない理由で嫌われるのも気に入らないことだ。


 私がある日の夜会で年上のお友達のフェバット伯爵夫人にそう漏らすと、夫人は上品におほほほ、っと笑った。


「仕方ありませんよ。あの方々は王太子殿下に強く憧れているのですから」


 ? どうして王太子殿下に憧れていると私を敵視する事になるんですかね?


「それは、カリナーレ様が内宮で王太子様と同居して、いつも一緒に暮らしていらっしゃるからではありませんか」


 ・・・・・・同居とは人聞が悪い。お部屋は別ですよ。アンドリュース殿下となら殆ど同居と言っても過言ではありませんけど。


「国王御一家とは家族同然にお過ごしだとも聞きますし、お食事もご一緒なさるのでしょう? よほど親しくもなければ、食卓を囲むなどということはなさいませんよ。王太子殿下は」


 王太子殿下は幼少時より女性に大人気なんだけど、ガードが非常に固く、若い未婚女性と食事を同席するなんて聞いたことが無いのだという。


「それにしばしばカリナーレ様をエスコートなさいますでしょう? 殿下のエスコートを受けられるなら死んでも本望だと仰っていた方も知っておりますわ」


 ・・・・・・確かに、私の出る夜会には大体王太子殿下もご出席なさり、私の手を引いて入場なさる。で、でもそれは元庶民の私がやらかさないか見張るためで、そんなに深い意味は無いんですよ。


「未婚の男性女性が仲睦まじそうに夜会に入場なさったら。そして毎回最初のダンスをなさったら。さて、周辺にはどう見えるでしょうね?」


 ・・・・・・私も教育を受けているし、夜会に何度も出ているから言っている意味が分かるようになっている。


 社交の場への入場のエスコートは、未婚でフリーな場合は親族の男性にしてもらうのが普通である。それが未婚の男性にエスコートされた場合は、その方は恋人、もしくは婚約者であると宣言したに等しいのだ。


 ダンスも同様で、夜会で最初に踊る相手は既婚者か配偶者もしくは婚約者でなければならず、未婚の令嬢が最初に手を取った相手が未婚の男性だった場合、それは告白を受けたというに等しい。


 で、でも。


「分かっております。王太子殿下とカリナーレ様は家族も同然。ですから親族の男性として王太子殿下がなさって下さっている事は。ですが・・・・・・」


 ここで夫人は口ごもり、私の耳にそっと口を近付けた。周囲に聞かせたくないという事だろう。


「お気を付けあそばせ。実はカリナーレ様が王太子殿下の婚約者に内定しているという噂がまことしやかに流れています」


 ひ、ひぇ? 変な悲鳴が出てしまう。ど、どうしてどこからそんな話になっているのよ! 初耳だしとんでもない事だし、無茶苦茶よ!


「わたくしはカリナーレ様とも王太子殿下ともお話しして、お二人がそういう関係では無いと知っておりますが、知らぬ者にはそう映っているというお話でございます。お気を付けあそばせ」


 フェバット伯爵夫人! ありがとう! まさかそんな事になっているとは思わなかったわ!気を付けます。気を付けますとも!


 侯爵令嬢になったけでもとんでもない事なのに、王太子妃とかあり得ない! いや、あの王太子殿下がそんな事を承知する筈が無いけども、そういう誤解が広まれば、なし崩しに私が王太子妃になってしまう可能性が無いとは言えない。だって私はそうしてなし崩しにカリナーレになっちゃってるんだもの!


 どうにかしないといけない。どうにか。


 ということで、私は王太子殿下に、次の夜会での入場は他の人にエスコートを頼むのでしないで良いです、と言った。


 すると、王太子殿下はみるみる機嫌を害した。


「なんだそれは。私がエスコート役では不満なのか?」


「いえ、そうではなく。殿下だって誤解されたら困るでしょう?」


 私はフェバット伯爵夫人から聞いた事を王太子殿下に説明した。


「ですから、王太子殿下はあんまり私と仲良くしない方が良いですよ? 誤解されますもの」


 すると王太子殿下はブスーっとした膨れっ面(それでも美少年だから凄い)で唸るように言った。


「そんなもの、言わせておけばいいのだ。事情も知りもせずに人の陰口を聞くような奴のために気を使う事などない!」


「でもおかげで私はご令嬢に敵視されてしまっていますし、王太子殿下だって誤解されて変な噂が流れたら困るでしょう?」


「別に困らん!」


「でもですね!」


「そんなに私のことが嫌いか!」


「そんな事言ってないでしょう!」


 私と王太子殿下がぐぬぬぬっと睨み合う。と、私の腰にドーンと衝撃が来た。あわわ。私は思わずよろけてしまう。


「ケンカはだめー!」


 アンドリュース殿下が私の腰にしがみつき、私の顔を見上げて必死の形相で叫んでいた。


「あ、アンドリュース様・・・・・・」


「アンディ?」


 アンドリュース殿下は涙をポロポロ流しながら、私と王太子殿下に必死に訴えた。


「カーリンと兄様は仲良くしなきゃだめ!」


 うぐぐっ。私も王太子殿下も思わず胸を押さえてしまった。


「だ、大丈夫ですよアンドリュース様?別にケンカなんてしていませんから!」


「そ、そうだぞ? アンディ。私がカーリンとケンカなどする筈がない」


 私と王太子殿下はアンドリュース様を交互に抱き上げて必死にあやした。おかげでアンドリュース様のご機嫌はすぐに直ったが、私と王太子殿下のお話は有耶無耶になってしまった。


 だけど、どうも王太子殿下は私のエスコート役から外されるのが嫌である事は分かった。そうなると弱い立場の私である。どうしても止めてくれとは言い難い。その結果、それからも王太子殿下は私のエスコートを他に譲らず、その結果私はズルズルと深みに嵌っていったのだった。


 ◇◇◇


 非常に困った事に、私は王太子殿下とは気が合うし、毎日顔を合わしているのだから非常に気安い関係になってしまっていたのだ。ぶっちゃけた話、王宮の中にいる人物の中で、一番気を使わないで良い人物が彼だった。


 王太子殿下はさっぱりした性格で度量も大きく、私が庶民的なあれこれをやらかしても怒らないし気にしない。


 私は侯爵令嬢を偽装している訳だから、常に演技をしている状態だ。だから私がうっかり庶民的な態度を見せようものならフェレンゼ侯爵夫人や侍女たちは指摘して私を窘める。私を完璧な侯爵令嬢に偽装させる事は彼女たちが王太子殿下に命じられた職務だからだ。


 しかし、命じた当人である王太子殿下の前でなら演技の必要は無い。特に私とアンドリュース様と王太子殿下の三人で家族水入らずの時間をとるという名目で侍女も下がらせてしまうような時は、遠慮なく庶民に戻らせてもらった。多分、王太子殿下も私に気を抜かせてくれるために、私が庶民的な態度をしても怒らなかったのだと思う。


 それに王太子殿下も、彼は彼で立派な王太子たらんといつも気を張っている。それが所詮庶民の私といると緩むようだ。王太子殿下にだって息抜きは必要よね。


 そんな訳で、王太子殿下と二人(アンドリュース様はいるけど)でいる時間は、私にとっても王太子殿下にとっても貴重な息抜き時間となり、私は数日に一回くらいであるその時間を楽しみにしていた。


 間にアンドリュース様を挟んで気安くお話して声を出して笑い合う私と王太子殿下は、周囲からどう見えるかなど言うまでも無い事だった。下がらせるって言ったって侍女は扉のすぐ外にいるのだ。貴族令嬢や夫人である彼女達からも噂は広まっていたものと思われる。


 フェバット侯爵夫人の忠告もあって流石に私がその事に気が付き始め、これはちょっと王太子様との関係を見直さなきゃダメだ。と、思い出したそのタイミングで、決定的な事件が起こってしまうのである。



 ある日、アンドリュース様が少し体調を崩された。食欲が無く少しご機嫌が悪い。私はフェレンゼ侯爵夫人に言って、その日の教育は無しにして、殿下をベッドで寝かせた。


 ところが、その晩から俄然アンドリュース様のお熱が上がり始めた。全身が燃え上がるように熱くなり、お顔は真っ赤になり、うなされ始める。た、大変だ!


 私だけでは無く、アンドリュース様付きの者たちは仰天した。お医者が呼ばれ診察される。流行性の熱病だそうだ、薬が処方されたが、苦しむアンドリュース様は口に含ませた薬を吐いてしまう。


 熱がこれ以上上がると命に関わるらしい。私たちは総出で殿下の額や首筋、脇の下などに濡れタオルを挟んで熱を下げようとした。井戸からなるべく冷たい水を汲んでこまめにタオルを絞り交換する。


 私たちが必死に看病していると、王太子殿下が駆けつけてきた。そして病名を聞くなり叫んだ。


「待て! この熱病は伝染するぞ。だが

一度罹れば二度は罹らぬ病気だ! この中にこの病気に掛かった事がある者は!」


 侍女が一人手を挙げた。他は誰も罹った事が無いようだ。もちろん私も。


「罹った事のない者は離れよ! 罹れば死ぬこともある病気ぞ!」


 王太子殿下の声に動揺が走る。王太子殿下は有無を言わせずフェレンゼ夫人や侍女を部屋から追い出す。そして私の肩を掴んだ。


「ほら、其方も! 早くしないか!」


 ううう、私は迷った。こんなに苦しげなアンドリュース様を置いて出なきゃいけないの? そんなのって・・・・・・。


 その時、アンドリュース殿下が苦しげな熱い息を吐きながら譫言のように呟いた。


「・・・・・・カーリン・・・・・・」


 ! 私の覚悟は一瞬で定まった。


「早く出よ!」


「嫌です!」


 私は王太子殿下の手を振り払った。


「私よりアンドリュース様の方が大事です! 私はアンドリュース様のために一度死んだ身です! 私の命よりアンドリュース様の方が大事でしょう!」


 私の剣幕に王太子殿下がたじろぐ。そうよ。私はアンドリュース様のお付きになるために、アンドリュース様を守るためにそれまでの自分を消して侯爵令嬢になったんだもの。私よりもアンドリュース様の方が大事に決まっている。


 それに、こんなに私を頼ってくれるアンドリュース様を見捨てるわけにはいかない。今や私にとってアンドリュース様は弟よりも大事だ。家族同然でそれ以上の存在だ。絶対に私が守るのだ。


 私は翻意を促す王太子殿下を無視して、罹患経験のある侍女と二人で看病に没頭した。気が付くと、王太子殿下が水を運んだりタオルを絞ったりしている。私が驚くと、王太子殿下は不機嫌そうに言った。


「私も罹った事があるのだ」


 だから自分は罹らないから看病するのだという。しかし、王太子殿下にそのような事をさせるのは・・・・・・。


「アンディが大事なのは私も同じだからな。私の大事な弟だ。それに、母にも頼まれている」


 亡くなった王妃様に、くれぐれもアンドリュース様を頼むと言われたのだそうだ。それであんなにこまめにアンドリュース様のご様子を見に来ていたのね。


 手が足りないのは確かだったので、私達は王太子殿下のご協力をありがたく受けることにした。


 アンドリュース殿下のお熱はなかなか下がらない。私は不眠不休で看病に集中した。身体を冷やし、水を飲ませ、少しでも薬を飲ませる。アンドリュース様は譫言で何度も私の名前を呼んだ。


「私は、カーリンはここにいますよ! アンドリュース! 頑張って!」


 私は必死で励ました。絶対に死なせない。私の命に換えてもよ!


 途中、王太子殿下が「このままでは君の命が危ない。少し休め」と言った気がするが殆ど聞こえなかったので無視した。


 ・・・・・・そして、アンドリュース様が倒れてから三日後。


 ようやく熱が下がり始めた。お顔もかなり普通の色に戻り、寝息も平静に戻る。診察した医者も「これならもう大丈夫でしょう」と言ってくれた。


「やった!」「よ、良かった!」


 私ともう一人の侍女は大喜びだ。


 はは! やった! やったわよ! アンドリュース様、良かった! 本当に良かった!


 私は喜びに踊り上がり、そして、そのまま昏倒した。


  ◇◇◇


 ・・・・・・私が目を覚ましたのは五日後だった。らしい。


 どうやらしっかりアンドリュース様が罹患した熱病がうつったらしく、一時は触れないくらいの熱が出たのだとか。私は完全に意識不明だったから知らなかったんだけど。


 本気で死に掛けたようだ。死に掛けると死後の世界がどうとか聞くけど、全然そんな事は無かったわね。なにやら色んな夢を見た気もするけど、全部目が覚めた瞬間に忘れてしまったわ。


 目が覚めると自室のベッドの上だった。殆どこのベッドに寝た事はないんだけど、この天蓋の柄はそうよね。


 えーっと、私は何をしていたんだっけ?


 って、そうよ! アンドリュース様は!


 と飛び起きようとして、あれ? 身体が動かない事に気が付く。寝たきりで熱を出したために体力を失っていたのもあるが、何かが身体の上に載っていたのだ。何よこの重いものは。


 見えたのは茶色い何かだった。・・・・・・猫? 私は左手を伸ばして、その茶色い毛玉をわしゃわしゃしてみた。手触りが良い。毛並みが艶々ね。


 すると、その茶色いものが跳ね上がった。きゃあ! 私は驚いたのだが、その茶色いものはグルッと振り向いた。そう、人の頭だったのだ。


 その頭の持ち主である王太子殿下はびっくり仰天を絵に描いたような表情で、その紺色の瞳を私に向けていた。なんで王太子殿下が私のお腹に(布団の上からとはいえ)顔を埋めているのよ、もう。


「目が覚めましたか? 王太子殿下?」


 私は尋ねたのだが、王太子殿下はそれどころではないようだった。彼は私を凝視していたが、やがて身体を震わせ、その麗しい瞳から美しい雫、涙を溢したのだった。


「おおおおお!」


 王太子殿下は叫ぶなり、私の肩を掴み、引き寄せ。抱きしめた。


 えー? 私は王太子殿下が涙を流されたところから驚きで硬直していたので、抱きしめられても反応出来なかった。な、何が? 何が起こっているの? どうして私、王太子殿下に抱きしめられているの?


 しかし、王太子殿下は泣きながらギュッと私を抱きしめ続けた。私は為すがままにされるしかない。


「良かった。カーリン。本当に良かった・・・・・」


 し、心配して下さってありがたき幸せですが、その、そろそろ離して頂けると。その、なんだか私の心臓がドキドキしてきましたので。


 でもそんな事は言えない。彼は愛おしそうに私の頭を撫でて首筋や背中を愛撫している、多分、これは無意識だろう。・・・・・・そう。ここはベッド。このままにしておくと、そのちょっとまずい気がする。私はなんとか手を動かして王太子殿下の背中を軽く叩いた。


「ご心配下さってありがとうございます。殿下。その、アンドリュース様はどうなさっていますか?」


 するとようやく王太子殿下は私を解放してくれた。泣き濡れている上に疲れているからだろう、顔色も悪くていつもの美少年ぶりは三割減という感じだったが、見たことも無いような幸せそうな笑顔をしていた。


「無事だ。もう歩く事も出来る。君の事を心配していた」


 ああ! 良かった! 私はこの時は自分が死に掛けたとまでは思っていないから、アンドリュース様の無事の方が嬉しかったのだ。今度は私が涙する番だった。


 涙を拭う私を優しい笑顔で見ていた王太子殿下だったが、不意に、そっと手を伸ばして私の頬に触れた。暖かい手。私は驚きはしたが、その暖かさにちょっと安心してしまう。


「良く。アンドリュースを助けてくれた。礼を言う。そして君も助かって本当に良かった」


「い、いえ」


「でも、もう二度とこんな事をしてはダメだ。アンディも大事だが君の事も同じくらい大事なのだから。私にとって。その事が良く分かった」


 はい? 私には何を言っているのか分からない。王太子殿下にとってアンドリュース様は最愛の弟で、私はそのお付き。重要性は比較にならないはずよね?


 しかし王太子殿下は優しく私の頬を撫でなながらとんでも無いことを言い出した。


「君を失うかもしれないと思った時、心が張り裂けるかと思った。その時に私は君に、自分の心の大事な部分を預けている事に気が付いた。・・・・・・そう。私は、君を愛しているのだ」


 あい? 私は驚き過ぎて声も出ない。ちょっと待って! 何がどうなってるの? どうして王太子殿下が私に愛を囁いているの? 王太子殿下こそ熱があるんじゃないの!


 しかし、王太子殿下は私の目に真っ直ぐに紺色の視線を射込んでくる。逃げられない。目が離せない。私はだんだん首筋から頬から顔中に血が昇って赤くなって行くのを感じた。


「今こそ分かった。君こそ、私が探していた運命の女性なのだと。愛しているよ。カーリン」


 そして、王太子殿下は私を今度は優しく抱きしめて下さった。それはもう愛情をたっぷり感じさせるハグだったわよね。


 うがががががが。私の方は脳みそが沸騰してしまうかと思った。熱病で倒れていた時よりも確実に熱が出ているわよね。待って待って! ちょっと!これ本当に現実なの? あり得ないよ!


 王太子殿下も待って! 思い出して! 私庶民! 本当は庶民なんだから! 偽装侯爵令嬢なんだから! 王太子妃なんて無理なんだって! 分かってるでしょ! 分かっているのよね!


 という私の心の声が聞こえたのだかどうなのか。王太子殿下は私の耳元でサラッとこんな事を言った。


「君を手に入れるためなら、どんな困難も乗り越えて見せよう。どんな敵をも撃ち倒して見せよう。心配しなくていい。君の事は私が守る」


 ぎゃー!この人、百も承知だ! 庶民と結婚するなんて無理だなんて分かっていても引く気がないわよ! 私を妃にするためならどんな横車もグイグイ押して通すつもりだわよ。どうしよう!


 しかし、王太子殿下は私の動揺などどこ吹く風で、私を優しく抱きしめている。そのそうやって穏やかに彼の腕の中にいるのはそれはそれで確かに気持ちの良い事で。彼が男性として頼りになるのは間違いないことで。


 って、ダメー! 流されちゃダメー! 無理よ無理! 庶民出身の私に王太子妃なんて無理! 大変な事になるに決まってる!


 そうして幸せ一杯の王太子殿下と、大混乱で頭の中がグルグルな私のハグは、ドアを勢い良く押し開けてアンドリュース様が飛び込んでくるまで、小一時間続いたのだった。

 


 


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