×月×日 某施設にて


 「アオイ先生! おはよう!」


 小さな女の子が、私に笑いかけた。


 「うん、おはよう」


 小さな彼女が、笑顔で応じる私を教室の方へと手招く。


 彼女の名前は針本小毬ちゃん。


 「今日もたくさん勉強教えてください!」


 小学4年生の彼女が見せる真っ白な歯。祖母の遺伝で目元はこの空のように青く透

き通っていて、薄っすらと赤みを帯びた茶髪は陽の光を吸収するように艶やかだ。


 「先生、今日もキレイだね!」


 「そんなことないよ、売れ残った32歳のおばさんですよ」


 自虐を交えて教室に入る。女手一つで彼女を育てる母親が蒸発し、不登校児になっ

た彼女。そんな彼女と私だけしかいない、寂しい室内で、小さな彼女が天使のように

笑う。


 「今日は算数からしよっか」


 「うん!」


 幸せだった。


 彼女の方は、家族がいなくなって、幸せじゃなかったかもしれないが、私は幸せだ

った。


 彼女は純粋そのものだった。彼女の前でなら、失敗したって何の気恥ずかしさもな

い。相手の警戒心を解きほぐす。小毬ちゃんには、そういう魅力がある。


 「失礼します」


 ドアが開く。


 「小毬、鉛筆と消しゴム、家の机に出しっぱなしだったよ」


 優しく微笑む好青年の稲村健次郎。家からいなくなった母親の、親代わり。職業は

聞いたことがないが、資産家のような、はたまた学者のような、知的で厳格、そんな

貫禄があるのは確かだ。


 「あ、健次郎さん! …ごめんなさい」


 「小毬はうっかりさんだな。気を付けてね。先生いつもすいません」


 好青年の輝かしい笑顔がこちらに向き、反射的に「いえいえ」と笑い返す。誠実そ

のものの目を向けられると妙に身体が強張ってしまう。あの日の、あの一件のせい

で。


 身体が強張ると言えば、小毬ちゃんが彼に対して謝るときは決まって、過度に深刻

な表情を作る。忘れ物をした以上に、何らかの過ちを犯したような顔。


 そこだけだった。


 純粋な彼女に対して抱いてしまう、たった一つの、違和感のようなものは。


 「触らないで!!」


 いつか、無意識に彼女の頭を撫でて励まそうとした際に、保護者の彼が発した怒

声。耳に差し込むというよりは頭蓋骨を揺らして伝わるような大声に、心拍数が跳ね

上がり、触れそうになった手を咄嗟に引っ込めた。「初めて預けた時にお伝えしたは

ずです」と私に釘を刺す彼は、異常とも思えるほど怯えていた。


 だから私は、小毬ちゃんに触れたことがない。


 触れたかった。


 華奢で、無垢で、陶器のような、小毬ちゃんの頭を撫でて、励ましたかった。


 教室の窓から見える、稲村健次郎の背中が消える。


完全に消えた。


 そして、触れた。


 「アオイ先生っ!」


 意気消沈した彼女が椅子から飛び上がり、距離を取った。


 「触っちゃだめだよ! 触ったら…、触ったら…」


 急に、本当に急に、彼女は泣きだした。


 「ごめんね! でも大丈夫。私は味方よ」


 迂闊だった。彼女の家庭事情を知っていながら、虐待の2文字を想像できなかっ

た。私は懸命に彼女を励まし、慰める。自分は敵じゃないよと諭す。


 時間が経てば元気になると思っていたが、彼女は依然として明るさを取り戻さなか

った。


 その夜だった。


 誰もいない校舎。月明りだけの薄ら明るい校舎から出ようとした瞬間。


 突如として背中に、トゲが刺さったような痛みが走った。


 「あ…がっ…!?」


 全身の筋肉が締め付けられるように痺れる。呼吸が困難になった。


 毒だ。


 針のようなものに差し込まれて注入された直後に効き始めた、即効性の猛毒。


 死にたくない。


 小毬ちゃんが、ここを楽しんでくれること。私といる時に楽しそうな顔をして過ご

してくれていること。


 今になって直感する。それは、呪いのようなものだと。


 陳腐で信じがたい、100人の大人が聞けば100人が信じないような荒唐無稽な

非論理的な理屈。


 しかし私は、信じざるを得なかった。


 だって、誰の気配もないんだから。


 今ここで、死んだらダメだ。


 彼女が、私を殺したことになる。


 死ぬわけにはいかない。


 意識が遠のく。


 「小毬…ちゃん」


 彼女の名前を呼ぶことだけに達成感を感じた私は、それに安堵してしまい、月明り

すらも届かない、まぶたの裏の暗闇に沈みこんだ。

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