第4話 チンケな絶望

 買いすぎだろ。


 さっきまで、涙が出そうなくらい嗚咽を漏らして嘔吐を我慢していたくせに、この

針本小毬という女は、港近くの商店で、『青島名物・青島コロッケ』を3個も買い、

紙袋から一つを取り出してむしゃむしゃと食べている。


 俺の視線に気づくと、食べかけのコロッケを瞬時に紙袋へ戻す。


 「あ、ごめんなさい。一つ、食べますか?」


 「そうじゃねえよ。吐き気は大丈夫か? 道端で吐かれると困る」


 「あっ、はい。もう大丈夫です。ご心配、おかけしました」


 申し訳なさそうに顔を逸らし、紙袋に入ったままの食べかけのコロッケは、取り出

さずにそのまま歩いた。


休憩したそうに見えたが、時間を1秒たりとも無駄にはしたくなかったので、そのま

ま目的地へ向かった。


こいつらの罠かもしれない。咄嗟に思い立ち、後ろから刃物で刺されたりしないよ

う、女を前に歩かせた。


 自分で髪を染めているんじゃないかというくらい明るい茶髪。肌は、林の木漏れ日

でもよく分かるくらい白い。容姿は良いんだろうけど、全体的に根暗なオーラを放っ

ていて、不気味だ。あんなまともそうな婚約者がよく見つかったな。


 コンクリートが舗装されていない道のりにさしかかり、しばらく歩くと、林から抜

けて、まぶたを閉めたいくらいに眩しい光が差し込んだ。眼前に広がる空の青と、海

の青。目を閉じると、光の残像がうるさいくらいに映る。


 そんな青にも負けないくらいに、存在感を放っている物体を目にしたのは、すぐだ

った。


 「マジか…」


 まるでゲームの世界から飛び出してきたような光を放つ、正真正銘の青いバラが、

砂浜の上にポツンと一輪、咲いていた。


 『近づいちゃだめだよ』


 婚約者の通話の音声が聞こえた。この女、いつの間にスマホを通話状態にしていた

のか。


 『まだ、近づいちゃだめ。冷静に、慎重に、善行を積まないと』


 まるで薄いガラス細工を扱うような、慎重な声音で俺たちの愚行を制する婚約者。

本当にこれが、青バラ…。


 信じるか、こんなもの。どうせ作り物か何かだ。粉々に、砕いて…。


 「あった…、本当に、あった」


 口を馬鹿みたいにパクパクと動かす針本小毬。今までの雲がかかったような眼差し

に光が宿った。


 わーったよ。


 「できるだけ善行を積んでいけばいいんだろ?」


 『ありがとう、助かるよ。足利駆くん』


 律儀でスマートな大人の男の対応は、俺の方がまだ子供なんだなと改めて自覚させ

られるみたいだ。


 「あ、ありがとうございます!!」


 ガラパゴス携帯を閉じるような勢いで、直角90度のお辞儀を見せる女のガキは、

何とも滑稽で吹き出しそうになった。






 俺は早速、近辺で開催予定のボランティア活動を探す。スマホは便利だ。ネットを

通して求人を探せるため、直接現地に足を運ぶ必要がない。


 自分で作ってきた自分用のサンドイッチを口に運び、ペットボトルに入ったブラッ

クコーヒーを流し込む。隣からチラチラと何か言いたげな視線を浴びるが、俺は敢え

てそちらを向かない。


 さっき、コロッケ食べたろ。もう腹減ってんのかよ。小ぎれいな見た目に反して意

地汚いな。


 「あ、あの」


 「なんだよ」


 声を掛けられたので仕方なく応じてやる。針本小毬がもじもじと両手を絡めてせわ

しなく指を動かしている。


 「私も何か、手伝えることはありますか?」


 慎重に言葉を選んでいるような態度で、俺に意見する針本小毬。


 「あ?」


 腹の中でぐつぐつと何かを煮込んでいるような感覚だった。「あ、ええと」と目を

逸らしてビクビクと怯えているのも理由の一つだろう。


 しかし、そこではない。俺をこの感情にしたのは、そこではない。


 「私、基本的に何もできないんですけど、お茶くみとか、ネクタイの締め方とか

は、健次郎さんに教えてもらったんです」


 「で?」


「いい女への第一歩を踏み出せたね、って褒めてくれるくらいには…っ!?」


数秒後、針本小毬の顔に、黒い液体がかかった。


正確には、俺がこの女にブラックコーヒーをかけた。


「え、ええと、すいません!」


ムカついた。


「ムカつくんだよ…」


言葉になって飛び出た。


「何かダメなことを…、ごめんなさい!!」


「そこだよ! そこ!!」


女だろうが関係ない。胸倉を掴んで、壁に押しやった。想像以上に針本小毬は驚いて

いた。


「当事者のお前がなにを呑気に、手伝えることはありますか? だ!? ふざけんじ

ゃねえよ! そういう他人に何でもやってもらうみたいな精神が一番腹が立つんだ

よ!」


針本小毬の身体を引っ張って、もう一度壁にぶつける。


「何が悪いかも分かってねえで謝るところも超うぜえ!! 次そんな口利いてみろ? 

殺してやるからな。俺は仕事柄、女でも平気で手ぇあげるからな。こうやって」


女に手をあげるというハッタリに恐怖の絶頂を迎えたか、針本小毬は下を向いたまま

黙り込んでいる。


「ちょっと婚約者を傷つけたくらいでしょげてんじゃねえよバーカ。俺と比べりゃお

前の苦悩なんてほんの些細な、チンケな絶望なんだよ」


『不可視のトゲ』とやらが本当だったとしても、こいつの不幸は俺よりも弱い。


「つーか、嘘なんじゃねえのこれ」


「え?」


 もう一つの手で、針本小毬の顔を、頬を挟み込むように下から掴んだ。


「ほら、トゲなんてねえじゃねえか。『不可視のトゲ』って都合のいい嘘ついて、な

んか企んでんのか? いい年こいて、お前も婚約者もバカだな。痛々しい空想に付き

合わされるこっちが恥ずかしい」


言ってやった。


清々した。


頬に痛みが走ったのは突然のことだった。


何事か分からないでいると、今にも零れ落ちそうな涙を蓄えた針本小毬が、俺を睨ん

でいる。


「分かんないくせに…」


この女に頬を張られた、と初めて認識した。


 「分かんないくせに!!」


 もう一度、頬を張られた。


 「この野郎、もう容赦し…」


 「あんたみたいな泥棒に! 私の気持ちなんて分かんない!!」


 怒りの絶頂に達し、こめかみにも力が入っているのを肌で感じる。


お前が、お前ごときが。


 次は俺が、頬を張った。死なれても困るから手加減してやった。


 足を引っかけて、地面に押し倒す。


 面白いくらいに驚いていた。恥辱からの怒りからか、さらに顔を赤くした。


 暴力を返されると思ってなかったか? 俺は、この女を完全に支配した気になって

いた。


首に手を掛けて、さらに脅してやろうとした。


しかし、俺の目論見は、外れた。


 「私だって…、私だって!!」


 怯むと思っていたのに、突き倒されてなお、女は俺を睨み、あろうことか最後にも

う一度、頬を張った。


 耳の奥がキーンと鳴り、張られた箇所が空気に触れてヒリヒリと痛む。


 思ってたより、こいつは本気だったってことか。


 仕方ない。


 頬を三回も張られたのは納得いかないが、根負けしてやった。


 「分かったよ、分かったから戻って来い」


 「嫌です。もう先に帰ります」


 小さな体は俺を避けるように立ち、小走りで距離を取ろうと試みる。疲労でおぼつ

かない足取りは、訳の分からない方向へ駆け寄り、


 「あ」


 地面に足を引っかけた。


 10メートル先の、小さくか細い身体が、アスファルトに衝突する。


 直前に、拾い上げた。


 「っ!?」


 針本小毬は驚いていた。


 「いつの間にって顔してんな。お前が転ぶのは、走り方でだいたい予想できた」


 「あ、ありがとうございます」


 さっきまでの他人を気遣いすぎるような慎重な態度ではなく、悪人に助けられてバ

ツが悪いような顔をよそに向けて、ボソッと感謝を呟くだけだった。


 「お前が怪我でもしたら報酬貰えないかもだろ? ただそれだけ」


 「私のこと、何回も壁に叩きつけたくせに。おまけに顔も叩いた」


 「叩いた形跡がなかったらセーフ」


 「最低…」


 気まずい空気の中、港へとたどり着く。帰りのフェリーを待つ15分間は、1時間

くらい待った気分だった。


 行きの青々とした空模様とは全く異なる、雲で覆われた灰色の空。


 針本小毬は、小さく呟いた。か細い女の声は、しかし、強い意志を帯びていた。


 「私だって、本気ですから」


 「まだそんな態度かよ、めんどくせえ」


 初めて会った時はあんなに弱そうに見えたのに、俺が無傷だと確信した途端に…。

なんなんだ、この女は。


 今まで引き受けた依頼の中でも、一番厄介な人間だった。



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