第5話 信頼

 最悪の気分だった。


 『不可視のトゲ』を纏ってからはずっと誰かを傷つけるのが怖くて。その中で初め

て、私に触れても無傷の人がいて、本当に嬉しい気持ちだったのに。


 あんな乱暴な人だったことが、ショックでたまらなかった。


 私と、私の大好きな健次郎さんの苦しみを『空想』と呼んで笑った。思い出すだけ

でも、ぞっとする。


 あんなに他人に怒ったのは、初めてだった。


 誰かに申し訳ないと思いながら生きていた中で、あんなに自然と怒りがこみあげ

て、全力で、しかも、初めて男の人に自分から暴力を振るった。3回も頬を張った。


 後ろめたさは全くなかった。


 全部、あの人が悪い。


 自己中。自分勝手。デリカシーの欠如。乱暴者。ナルシスト。転びそうになった私

を拾い上げたのも、自分を良く見せるための演出。助けられたんじゃない、ダシに使

われた。


 「どうだった?」


 『エージェント神原』に帰り着いた私たち。神原さんに青バラを探し、青バラが見

つかったことだけを淡々と報告する足利駆。私に乱暴したことを平気で割愛する根性

に腹が立つ。


 「じゃあ俺、買い物行くから。今日は肉じゃがな」


 「おっ、楽しみ~。駆の料理で一番好きかも」


 しんとした室内で唯一楽しそうに振舞う神原さん。


 「俺と神原の分だけな」


 そんな事、言われなくても分かってる。事務所を出て行く足利駆の背中を思いきり

蹴飛ばしたい。


 「聞きたかったのは青バラだけじゃなかったんだけどな」


 笑いながらソファに背中から倒れ込む神原さんが、私をチラと見る。「ひっ」と怖

くて声が漏れてしまった。


しかし気にすることなく、もう一度、私に問うた。


 「で、どうだった? 『令和の怪盗』こと足利駆は」


 足利駆の名前を聞くだけで、冷酷で意地の悪いあの人の顔が瞬時に出てくるのが、

たまらなくストレスだった。


 「き、らいです」


 大の大人に対してもっと言葉を選びたかったのに、気持ちが先回りして稚拙な回答

しか出てこなかった。


 こんな回答で相手はがっかりするだろうか。しかし、それは杞憂だった。


 「よく言えました」


 とクスッと笑いながら不意に立ち上がる神原さん。急に壁際の棚の方に向かってど

うしたんだろう。


 再びこちらを振り返ると、大きなカエルのぬいぐるみを正面に抱えて子供のように

笑う。


 「ここの事務所、契約が成立した時はクライアントさんと握手するのが決まりなん

だ。俺はこれを『両者の信頼の証』と呼んでいる」


 レモンのような色をしたカエルの右手がこちらに伸びる。『トゲ』のある私への配慮に、心が少し癒された。


 そこから、この人への警戒が解けて、自分の身の上話や健次郎さんとの馴れ初めを打ち明けた。


 いい気持ちのまま、今日は眠れそうだった。


 「お前まだいたのかよ。お前の飯は無いって言っただろ」


 タイミング悪く帰ってきたこの男さえいなければ。

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