監査鼠

「瑞穂ぉ、お腹空いたよ。そろそろ昼ごはんにしようよ」


 楓が診察室を覗き込んで言った。


「そうだな、一旦ここで休憩にするか。『休憩中』の札、表に出しといてくれ」


 そう言うと、俺は昼食を取りに奥の通路へ向かった。


「あ、そっち行くならついでにニボシの入った袋も取って来て」


 背中越しにゴンの声が聞こえた。

 俺は家に戻って、手早く三人分の昼食を準備した。そして昼食を入れた葛籠とニボシが入った袋を抱えて、また診療所に戻る通路を歩いていると、どうも診療所の方から騒がしい声が聞こえてくる。「休憩中」の札を出しているはずなのに、また面倒な患者でも来てしまったのだろうか。

 俺は急いで昼食とニボシの袋を診察室の机の上に置いて待合に出た。すると、待合室には『お隠し』という紙を顔に貼り付けた鼠のあやかしが、ぞろぞろと入って来ていた。


「おい瑞穂、こいつら何なんだよ。いきなり入って来て監査するとか言ってるんだけど」


 ゴンが困り果てた顔を俺に向けた。楓も一体何が起こっているのか理解できていない様子でおろおろしている。この鼠たちは、おそらくアヤカン(あやかし雇用監督署)のもののようだが、今日うちに監査をしにくるなんて話は聞いていない。基本的にアヤカンが事業所に監査に来るときは、必ず事前通告があるはずだ。抜き打ち監査なんて聞いたことがない。


「すみません、今日監査にいらっしゃるなんて聞いていないのですが、何かの間違いじゃないですか」


 俺は鼠たちに向かって言った。


「あなたがここの診療所の主神、瑞穂殿ですね。こちらの診療所では、あやかしを不当雇用しているとの疑いが報告されました」


「はい?」


「ここでは、神使としての契約を取り交わしていないあやかしを強制労働させているとの疑いがかけられております。また業務時間以外に、あやかしの心身を拘束している可能性があるとの報告も上がっております」


「何言ってんだ、あんたら。俺たちが強制労働させられてる?どっから聞いたんだよそんな話」


「そうよ、私たち無理やり働かされているわけじゃないわ。ここで働きたいから働いてるのよ」


 俺が口を開く前に、ゴンと楓が鼠たちに抗議した。


「あなたたちは、ここで不当雇用されている疑いのある『猫又』と『河童』ですね。あなたがたは、私共が安全なところへ保護いたします。さあ、こちらへ」


「お前たちのところになんか誰が行くか!」


「私たちはここに居たくているのよ!意味不明なこと勝手に決めつけないで」


 ゴンと楓は無理やり連れ出そうとする鼠たちの手を振り払った。


「やはり報告にあった通りだ。この二人は『洗脳術』を受けている。おい、あれを使え」


 先頭にいた鼠が扉の近くにいた鼠に何か指示を出した。


「『洗脳』ってなんだ、そんなもの俺たちは…」


 先頭の鼠が指示を出した直後、一番後ろにいた鼠が小さな小瓶を懐から取り出したかと思うと、素早い手つきで竹筒でできた水鉄砲のようなものを取り出した。そして中に入っていた液体をゴンと楓に吹き付けた。

 ゴンと楓はその液体を吹き付けられた瞬間、気を失って床にばったりと倒れた。俺は反射的に二人に駆け寄った。この甘ったるい匂いはおそらく『睡眠華』だ。これは催眠系の薬草の中でも一番深い眠りを誘う種類のもので、下手をすると呼吸まで止まることもある。


「いきなり何するんだ!『睡眠華』まで使う必要がどこにある!」


 俺は思わず鼠の胸ぐらを掴んだ。


「この二人は『洗脳術』を受けており、突発的に何をするか分かりません。そういった場合、『睡眠華』の使用が認められております。おい、この二人を早く連れていけ」


 側にいた鼠が楓とゴンを担いで外に連れ出そうとしたので、俺はその鼠に掴みかかった。すると、突然後頭部に鈍い痛みが走り、俺はそのまま床に倒れ込んだ。一瞬何が起こったのか分からなかった。頭の中でぐわんぐわんと音が鳴り響いている。朦朧としていく意識の中で、先ほど偉そうに命令していた鼠が、俺の血がべったりとついた『鬼岩のこん棒』を握りしめてこちらを見降ろしているのが見えた。


「この二人は私共がしばらくの間、安全なところで保護いたします。また、この診療所には業務停止命令が発令されております。無期限の業務停止となりますので、その旨ご承知おきを」


 鼠は、床に転がっている俺に吐き捨てるように言った。そして鼠たちは楓とゴンの二人を連れて、診療所から出て行った。俺は指一本動かせず、その光景をただ眺めていた。そして、俺は誰もいなくなった診療所の床に転がったまま気を失った。


 そして気が付くと辺りは暗くなっていた。そのころには何とか身体を起こすことができるようになっていた。『鬼岩のこん棒』は単に硬いこん棒というわけではない。殴った相手を麻痺させる効力を持っているのだ。

 その効力はだいぶ薄れてきているとはいうものの、まだ頭の中はじんじんと痺れているような感覚が残っていた。だがきっとこれは殴られたせいだけではない。俺はまだ何が起こったのか理解できず混乱しているのだ。


「何なんだあの鼠たち」


 鼠は、俺が楓とゴンの二人を強制労働させていると言っていた。そんな馬鹿な話、いったいどこから出てきたのだろう。こちらの言い分を聞く様子もなく一方的に決めつけて『洗脳術』をかけているという疑いまで持ち出してきた。

 とにかく明日一度、アヤカンの本部に出向いて事情を説明し、二人を返してもらうしかない。俺は独りで殴られたところの傷の処置をして、早々に床についた。だが、その日はなかなか眠ることができず、結局薄っすら微睡み出したのは丑三つ時を随分すぎた頃だった。


 いつもと同じ朝日が当たり前のように顔を出した頃、俺は家を出てアヤカンの本部がある天界の中心部まで出かけた。

 俺が住んでいるのは、天界の中でもかなり辺境で、普段はあまり中心部まで行くことはなかった。久しぶりに行く中心部で時々道に迷いがらも何とかアヤカンの本部まで辿り着いた。本部の中は、豪華な装飾や調度品が飾られており、床には紅い絨毯が敷き詰められていた。昔何度か来たことがあるものの、その空間はあまりに煌びやかで落ち着かなかった。


 受付の前は、手続きのために順番待ちをしている神や妖でひしめいている。俺は整理札を受け取って、受付前の待合椅子に腰かけて順番を待った。まだ昨日殴られた頭の傷がズキズキと痛む。


 それにしても、仮にも神様を殴りつけるなんていい度胸をした鼠だ…。


 だが、それほどまでにアヤカンの権力は絶大なものになっていた。

「あやかし雇用監督署」が設立されたのは、およそ三百年前のことである。三百年前に起こった、あやかしによる労働改善要求一揆を契機に、神様とあやかしの雇用関係についての見直しを訴える声が高まり、その流れで設立されたのがこの「あやかし雇用監督署」だった。初めは小さな組織だったが、時代の流れを受け急成長したこの組織は、今では天界でも大きな権力を握るまでになっていた。


「まったく。だから鼠は嫌いなんだ」


 俺は無意識に後頭部の傷をさすった。


「おやあ。こんなところで会うとは奇遇ですなあ。今日はあの野蛮なあやかし共は連れてはらへんのか?」


 今、一番聞きたくない声が後ろから降ってきた。

 俺は聞こえていないふりを決め込んでそのまま無視する。すると声の主はわざわざ回り込んできて、その瓢箪のような顔を俺の前にずいっと近づけた。


「あれまあ、いつもの威勢はどうしはったん。あの妖たちがおらんと、そんなに心細いんか?」


 ただでさえ苛立っていたところに、この「嫌味の権化」のような顔を見せつけられて、俺の堪忍袋の緒はぷっちんと切れた。


「俺は…!」


 兎木那命に掴みかかろうと立ち上がったそのとき、


「あらあら、兎木那命さんやあらへんか。こないなところで何を騒いではるんや?」


 凛とした美しい声が俺と兎木那命の間に入って来た。『妖狐』の蘭だ。


「騒いでなんておらへんで?この『稲の神』さんが、ひとりで寂しそうにしてはったから声をかけただけや」


 兎木那命は白々しく言った。


「そうか。私はそこの『稲の神様』と話しがあるんですわ。ちょっと席外してもろてええやろか」


「そら構へん。ただ挨拶してただけやしなあ。ほな瑞穂はん、ご機嫌よろしゅう」


 兎木那命が去り際に「『野狐』風情がえらそうに」と小さな声でぼそぼそ言うのが聞こえたが、俺も蘭も聞こえなかったふりをした。


「助かったよ蘭。本当にあの神とはそりが合わないんだ」


「大丈夫や、あいつとそりが合うやつなんておらん。ところで今日はあの二人は家で留守番か?」


 俺は昨日あった出来事を蘭に話した。


「最近ここはけっこう無茶苦茶なこともしてるゆう噂は聞いてたんや。お偉いさんの神さんとつるんで気に入らんやつイジメとるて。きっと瑞穂のとこの診療所も最近繁盛してるさかい、誰かの嫉みや恨みを買うたんやろなあ」


「嫉み?俺のところが?繁盛してるって言ったって、ただ患者が多いだけで赤字すれすれなんだが。それで何で嫉まれなきゃいけない」


「そんなん傍からみたら分からん。患者がようけ来とったら儲かってそうに見えるもんや。それに急に人気者になった者が嫉まれたり恨まれたりするのは、大昔からの習わしやろ?」


 それでも俺の貧乏診療所がうらやましいと思われているなんて、俄かには信じられなかった。


「ほんでこの前『魂祭り』に来てくれた時も大勢の前で注目浴びたしなあ。ひとが活躍してるのを見て応援するものもおれば、引きずり降ろそうとするものもおるさかい。あそこで注目浴びたことで、良からぬ輩に火をつけてしもたんかもしれん。揚の阿呆があんなところで瑞穂の名前呼んださかいやわ。ごめんやで」


「いや別に揚戸与が悪いわけじゃないだろう。けどまさか俺がひとに嫉まれているなんて思ってもなかったよ」


「瑞穂は自分を低く見積もりすぎなんよ。それにしても今回のやり方は度が過ぎるな。私もちょっと探りを入れてみるわ」


「気を付けろよ。お前までとばっちりを受けないでくれ」


「私を誰やとおもてんの。そんなヘマせえへん」


 蘭はそう言ってからからと笑うと、外へ出て行った。


「千二百五十五番のかた」


 俺は整理札を握りしめて、番号を呼んだ鼠のところへ向かった。

 通されたのは人ひとりやっと入れるような小部屋で、中には机が置いてあり、その向こうに老眼鏡をかけた年老いた鼠が座っていた。楓より少し小さいくらいの背丈で、獣姿である。鼠のあやかしはそもそも妖力はあまり高くない。しかし頭が良いものが多く、この鼠のように半妖にすらなれない者でも天界で働いているものも多かった。


「今日は何の御用ですか?新規雇用登録?それとも記名の抹消ですかな」


「いや、今日は私のところで働いてるあやかしたちを返してもらいに来たんです」


「あやかしたちを返す?いったい何のことです」


「昨日そちらの役人が監査だと称していきなり私の診療所にやってきて、従業員二人を無理やり連れ去ったんです」


「いきなり監査に?それと従業員の話しと何の関わりが?」


「だから!この住所にある診療所に、アヤカンの役人が監査にやってきたんですよ。それで、身に覚えのない嫌疑をかけられて、従業員を連れて行かれたんです。記録に残っていませんか」


 俺はだんだん苛々してきた。おそらくこの鼠はアヤカンの中でも末端の中の末端の職員だ。昨日の監査のことなど知る立場にはないのかもしれない。


「分かりました。とりあえず、監査の記録を調べてみますからちょっとお待ちくださいよ」


 そう言って老鼠は後ろの引き戸を開けて奥に引っ込んだ。そして数分後、なにやら紙の束を持って戻って来た。


「お待たせしました。確かにお宅の診療所に昨日うちのものが監査に行っていますね。けど珍しいなあこの時期に監査なんて。いや部署が違うと同じ役所に勤めていても意外と知らないものなんですよ。で、その監査の結果にご不満でも?」


「うちで働いているあやかしが保護されたという記録はありませんか。『河童』と『猫又』なんですけど」


「ええ?あやかしが保護された?あなたいったい何したんです?」


 老鼠はあからさまに軽蔑した顔を向けてきた。


「何もしてませんよ。全てそちらの勘違いなんです。何かの行き違いがあって私が強制労働させていたみたいな話になっていますが、そんな事実は断じてありません。今二人はどこにいるんです?連れて帰りますから」


「そう言われてもねえ。あなたの疑いが晴れないことには、二人をお宅の診療所に返すのは難しいと思いますよ。それにこう言っちゃ気の毒だが、こういった案件の疑いが晴れることってまずないんですよねえ」


「二人に聞いてもらえばすぐに誤解だってことが分かります。二人に確認してみてください!」


「あやかしが保護されている場所というのは機密情報ですから、私でも閲覧はできないんです。それにあなた、記録によると『洗脳術』も使ったと記載がありますね。そうなると、そのあやかしたちの発言は証拠にはならないなあ。だって『洗脳』されているんですから、あなたに都合のいいことしか言わないでしょう」


 これはもう埒が明かない。この鼠と話していても、二人の情報はこれ以上得られないだろう。

 俺は鼠に一応礼を言って小部屋から出た。とりあえず一旦、診療所に戻って状況を整理しよう。


 アヤカンの本部から出ると、外は雪が降っていた。ちらちらと降ってくる雪を眺めながら、楓が喜ぶだろうなあと思った。でもゴンは雪が降ると往診に行くのを嫌がるから降るなら夜に降ってくれたほうがいいな。そんなことを考えながら、そういえば二人は居ないんだったと思い出した。


 俺はなんとなく真っすぐに家に帰りたくなくて、一度下界に降りてあやかしたちの様子を診てから帰ることにした。診療所は業務停止命令を食らったが、往診先になら行ってもばれないだろう。


 アヤカンの本部から一番近い鳥居をくぐって俺は下界に降りた。今日は下界でも雪が降っていて、寒い日だった。診療所のある村からはだいぶ遠い所に降りてしまったので、俺はひとり山道を歩いてあやかしたちの住処に向かった。


 途中吹雪になってきたこともあって、道中はひとっこひとり出会わなかった。

 上り坂を登り終えて、やっと今から下りというところで、背後から奇妙な音が聞こえてきた。パカッ、パカッと偶蹄類の蹄のような足音に聞こえるが、なにか様子が変だ。俺は登って来た坂を振り返って目を凝らした。


 すると、鹿の胴体に無数の長い人の首がついた化け物がこちらにゆっくりやって来るのが見えた。間違いなくあれは『神堕ち』だ。だがまだ俺には気づいていないらしく、追いかけてくる様子はない。


(今のうちに逃げよう)


 そう思って走り出した瞬間、後ろで「うぇーん」と子どもの泣く声が聞こえた。振り返ると、半妖のイノシシの子が泣きながら林から出てきた。その声に気づいたのか『神堕ち』はこちらに向かって走り出した。


 俺は即座に半妖のイノシシを抱えて、全力疾走で坂を駆け下りた。だが『神堕ち』の足は予想よりも速かった。おそらく以前に出会ったものより速い。このままではいずれ追い付かれるのは確実だ。しかもこのイノシシを抱えながらでは、あまり速く走ることが出来なかった。

 だからといって、この子を放り出したら間違いなくこの子は『神堕ち』に食われるだろう。俺はこの状況を打開する策を必死に考えたが、何も思いつかなかった。


(ここで俺の神様としての生は終わってしまうのだろうか)


 『稲の神』としては鳴かず飛ばず、必死にやってきた診療所も結局、営業停止に追い込まれた。あの診療所を閉めてしまったら、俺が今まで診てきたあやかしたちはどうなるだろう。


 そんな余計なことをぐるぐると考えていたせいで、木の根が伸びて道の地面が盛り上がっていたことに気づかなかった。俺は案の定、その根っこに足を引っかけて盛大に転んだ。

『神堕ち』はもうすぐそこまで迫って来ている。イノシシの子の泣き声だけがいやに耳に鳴り響く。


 その時、イノシシの子の泣き声に交じって『神堕ち』の耳をつんざくような叫び声が聞こえた。直後に『神堕ち』は青い炎に包まれて勢いよく燃えだした。この炎は…


「ゴン…?」


 青く燃える『神堕ち』を見つめていると、いつぞやと同じく炎の向こうから男が現れた。


「大丈夫ですか?」


 炎の向こうから現れたのは、ゴンではなく、ゴンの師匠である白蓮だった。




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「神様はつらいよ」〜稲の神様に転生したら、世の中パン派ばかりでした。もう妖を癒すことにします〜 奏汰あきゅう @akyu_2022

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