離魂病

 雨宮潤一は、檻の中の青年を、一体どんな口実でだましおおせたのか、それからしばらくすると、気を失ったようにグッタリとした全裸の乙女を、小脇にかかえて、例のガラス張りの大水槽の前へやってきた。水槽の横に垂直の梯子はしごがかかっている。彼は早苗さんを抱いたままそれを登って、上部の足だまりに立つと、鉄板でできた水槽の蓋をひらいて彼女のからだを水中へ投げこんだ。それから、蓋を元通り閉めて、梯子を降り、「黒トカゲ」の私室のドアを細目にひらいて、そのすき間から声をかけた。

「マダム、お命じの通り運びましたよ。早苗さんは今、タンクの中で泳いでいる最中ですぜ。早く見てやってください」

 それから彼は職工服のポケットから、小さくたたんだ一枚の新聞紙を取り出すと、それをひろげ、タンクの横の椅子の上へソッと置いて、なぜか急ぎ足で、廊下の向こうへ立ち去って行った。

 それと行きちがいに、ドアがひらいて黒衣婦人が現われ、ツカツカと水槽の前に近づいて行った。

 水槽のあおがかった水は、ガラス板の向こう側で、ひどく動揺していた。底には大小さまざまの海藻が無数の蛇のように鎌首をもたげて、あわただしくゆれ動いていた。

 そして、その中を泳ぎもがく裸女の姿……前夜早苗さんが幻想した光景が、そっくりそのまま実現したのであった。

 黒衣婦人の両眼は残虐にかがやき、青ざめた頰はこうふんのために異様にふるえて、両のこぶしをかたくにぎりしめ、歯を喰いしばりながら、水槽に見入っていたが、彼女はふと、裸女の様子がいつものようにかつぱつでないことに気づいた。活潑でないどころか、実はもがきもなんにもしていないのだ。そんなふうに見えたのは、動揺する水のためで、娘の白いからだは、ただ水のまにまにゆらめいていたにすぎないことがわかってきた。

 気の弱い早苗さんは、水槽にはいる前に、すでに失神していたので、水中のもんを味わわなくてすんだのであろうか。だが、どうもそれだけではないらしい。見ていると、水中の娘のからだが徐々にかいてんして、今まで向こう側にあった顔が、正面のガラス板に現われた。おや、これが早苗さんの顔だろうか。いやいや、いくら水の中だといって、こんな相好に変るはずはない。ああ、わかった、わかった。これは早苗さんではなくて、あの人形陳列所に飾ってあったはくせいの日本娘ではないか。だが一体全体どうしてこんな間違いが起こったのであろう。

「だれか、だれかいないかい。潤ちゃんはどこへ行ったの」

 黒衣婦人はわれを忘れて大声に叫び立てた。すると、部下の男たちが、剝製人形陳列所の方から、ドヤドヤとやってきたが、彼らの方にも何か異変があったのか、一同顔色が変っている。

「マダム、またへんなことがおっぱじまったのですよ。人形が一人足りねえんだ。さっき着物を脱がせたり、宝石をかたづけたりした時にはちゃんとあったんですが、今見ると、ほら、あの寝そべっている娘さんね、あれが一人だけ行方不明なんです」

 一人の男が、あわただしく報告した。だが、それは黒衣婦人の方では先刻承知のことであった。

「お前たち、檻の中を見なかった? 早苗さんはまだ檻の中にいたかい」

「いいえ、男一人っきりですぜ。早苗さんといやあ、潤ちゃんがそのタンクの中へほうりこんだんじゃありませんかい」

「ああ、ほうりこんだにはほうりこんだけれど、早苗さんでなくて、よくごらん、お前たちが探している剝製人形なんだよ」

 そういわれて男たちは水槽をのぞきこんだが、いかにもその中に浮いているのは、紛失した剝製人形に違いなかった。

「はあてね、こいつあめんようだわい。だれが一体こんなまねをしたんですい?」

「潤ちゃんよ。お前たち潤ちゃんを見かけなかったかい。今ここにいたばかりなんだが」

「見かけませんでしたよ。先生きょうはなんだかひどく怒りっぽいんですぜ。僕たちを何か邪魔者みたいに、あっちへ行け、あっちへ行けって、追いまくるんですからね」

「フーン、それは妙ね。でもどこへ行ったんでしょう。そとへ出るはずはないんだから、お前たちよく探してごらん。そして、いたら、すぐくるようにってね」

 男たちが、引き下がって行くと、黒衣婦人は何か不安らしく、じっとくうを見つめて考えごとをしていた。

 一体これはどうしたことであろう。汽船の火夫が行方不明になってしまった。それから、剝製人形の異変が起こった。今はまた、早苗さんであるべきはずの娘が、剝製人形に早変りしてしまった。これらの奇妙な出来事のあいだに何か連絡があるのではないかしら。偶然の一致とも思われぬ節が見えるではないか。

 何かしら人力以上の恐ろしい力が働いているような気がする。それは一体なんであろう……ああ、もしかしたら。いやいや、そんなばかなことがあってたまるものか。断じて、断じて、そんなことはありゃあしない。

 黒衣婦人は心中に湧き上がってくる大きな化物みたいなものを、押さえつけるのに一所懸命だった。さすがの女賊も、からだじゅうに冷たい脂汗がしっとりと浮かんでくるほどの恐ろしい不安になやまされていた。

 やがて、彼女はそこにあった椅子に腰かけようとして、ヒョイとその上の新聞に気がついた。さいぜん雨宮潤一が何か意味ありげにひろげておいた新聞である。

 はじめはなにげなく、やがて非常に真剣な表情になって、黒衣婦人の眼が、その新聞記事に吸い寄せられて行った。

「明智名探偵の勝利──岩瀬早苗嬢無事に帰る──宝石王一家の喜び──」

 三段抜きの大見出しが、信じがたい意味をもって女賊をとらえたのだ。彼女は大急ぎで新聞を拾い取ると、その椅子にかけて熱心に読みはじめた。記事の内容は大略左のようなものであった。


 怪賊「黒トカゲ」のために誘拐されたと信じられていた宝石王岩瀬氏の愛嬢早苗さんが、昨七日午後岩瀬家の本邸に帰宅した。探聞するところによると、岩瀬氏は令嬢の身代りとして大宝玉「エジプトの星」を賊に与えた模様であるから、賊は約束を守って令嬢を送り返したのであろうか。記者はそのように考えて、岩瀬庄兵衛氏と早苗嬢に面会したのだが、両人ともこれは全く私立探偵明智小五郎氏の尽力によるものであって、決して賊が約束を守ったわけではない。しかし、詳しいことはいま申しあげかねる事情があるから、深く尋ねないでくれとの意外な言葉であった。怪賊「黒トカゲ」は一体どこに姿をひそめているのであろうか。問題の明智探偵は、単身「黒トカゲ」の後を追って、今のところ行方不明のよしであるが、名探偵と怪盗との一騎討ちは果たしていずれの勝利となるであろうか。名玉「エジプトの星」は再び岩瀬氏の手にもどるか否か。われらは限りなき不安をもって次の報知を待つものである。


 そして「喜びの親子」と題する大きな写真版がかかげられ、岩瀬氏と早苗さんとが、応接室の椅子にもたれて、ニコニコ笑っている顔が、めいりように印刷されていた。

 この信じがたい、まるで怪談のような新聞記事を読み、写真を見ると、さすがの女賊も、めったに見せたことのない驚きの色を、その美しい顔に現わさないではいられなかった。驚きというよりは、なんとも形容のできない恐怖であった。それはきのうの日付の大阪の大新聞であったが、記事中に「昨七日」とあるのは、ちょうど前々日、「黒トカゲ」の汽船が大阪湾を航海していた時にあたる。その日、早苗さんは、ちゃんと船の中にいたのだ。いや、その日ばかりではない。きのうもきょうも、つい今しがたまでおりの中にまっぱだかで震えていたではないか。

 これは一体どうしたことなのだ。まさかこれほどの大新聞が、間違った記事をのせるはずはない。いや、何よりも確かなのは写真である。船の中にとらわれていたはずの早苗さんが、同じその日に、一方では大阪郊外の岩瀬邸でニコニコ笑ってすわっているなんて、こんなへんてこなことがあり得るだろうか。

 聡明な黒衣婦人にも、この奇々怪々な謎だけは、どうにも解くすべがなかった。彼女は今、生まれてはじめての、なんともえたいの知れぬ恐怖にうちのめされて、顔は死人のように青ざめ、額には脂汗の玉が無残ににじみ出していた。「離魂病」という妙な言葉が、ふと彼女の頭に浮かんだ。一人の人間が二人になって、別々の行動をするという、不可能な言い伝えである。大昔の草子類でも読んだことがある。外国の心霊学雑誌でも見たことがある。心霊現象などを全く信じない現実家肌の黒衣婦人ではあったが、今はその信じがたいものを信じでもするほかに、考えようがないのである。

 そうしているところへ、雨宮青年を探しに行った男たちがドヤドヤ帰ってきて、どこを探しても潤ちゃんの姿が見えないと報告した。

「今、入口の番をしているのはだれなの」

 黒衣婦人は力ない声で尋ねた。

「北村ですよ、だれも通らないっていうんです。あの男にかぎって間違いはありませんからね」

「じゃあ、この中にいるはずじゃないか。まさか、煙みたいに消えてなくなるはずはありゃしない。もう一度よく探してごらん。それから、早苗さんもよ。このタンクの中のがそうじゃないとすると、あの娘もどこかに隠れているはずなんだから」

 男たちは、首領の青ざめた顔を、不審らしくジロジロと眺めていたが、またしようしように、廊下の向こうへと引き返して行こうとした。

「ああ、ちょっとお待ち。お前たちのうち二人だけ残ってね、このタンクの中の人形を取り出しておくれ。念のためによく調べてみたいんだから」

 そこで、二人の男が残って、梯子はしごを登って、大水槽の中から、剝製人形を抱きおろし、床の上に長々と横たえたのであるが、そのグッタリとなった人形を、いくら念入りにしらべてみても、早苗さんでないことはいうまでもなく、恐ろしい謎を解く手がかりなどは、どこにも発見できないのであった。

 黒衣婦人は、イライラとそのへんを歩きまわっていたが、また元の椅子に腰かけて、もう一度新聞記事を読みはじめた。何度読んでも同じことだ。早苗さんは二人になったのだ。写真の顔も早苗さんに間違いはない。

 そうしていると、突然、彼女の椅子のうしろで、マダムと呼ぶ声がした。

 黒衣婦人はギョッとしてふり返ったが、そこに立っている男を見ると、

「まあ、潤ちゃん、お前どこへ行っていたの」

 と叱るように言った。

「そして、この始末は一体どうしたっていうのよ。早苗さんのかわりにこんな人形をほうりこんでおくなんて、いたずらも大概にするがいいじゃないか」

 だが雨宮青年は、だまって突っ立ったまま、何も答えなかった。じらすようにニヤニヤ笑いながら、いつまでも、黒衣婦人の顔を眺めていた。

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