二人になった男

「なぜだまってるの? 何かあるんだわね。人が違ったようだ。どうしたの? それともあたしに反抗しようとでもいうわけなの?」

 潤一青年の態度があまりふてぶてしいものだから、黒衣婦人は思わずかん高い声を立てた。そうでなくても、さいぜんからの数々の怪異に、無性にいらだたしくなっていた矢先なのだから。

「早苗さんはどこにいるの? それとも、お前知らないとでもいうのかい」

「そうです。僕はちっとも知らないのですよ。檻の中にでもいるんじゃありませんか」

 やっと潤ちゃんが答えた。だがなんという無愛想な口のきき方であろう。

「檻の中って、お前が檻の中から出したんじゃないの」

「そこがどうもよくわからないのですよ。一度調べてみましょう」

 潤一青年はそう言い捨てて、ノコノコ歩き出した。ほんとうに檻の中を調べてみるつもりらしい。この男は気でも違ったのかしら。それとも、何か別のわけでもあるのかしら。黒衣婦人は妙に気がかりになって、潤ちゃんの挙動を監視しながら、そのあとについて行った。

 人間檻の鉄格子の前に行って見ると、出入り口のかぎが差したままになっている。

「お前、きょうはほんとうにどうかしているわね。鍵をそのままにしておくなんて」

 つぶやきながら、薄暗い檻の中をのぞきこんだ。

「やっぱり、早苗さんはいやしないじゃないか」

 向こうの隅っこに、裸体の男が一人うずくまっているばかりだ。どうしたのか、きょうはひどく元気のない様子で、グッタリとうなだれている。それとも眠っているのかしら。

「あいつに聞いてみましょう」

 潤ちゃんは、ひとり言のようにいって、鉄格子をひらくと、檻の中へはいって行った。どうも、することがすべて常軌を逸している。

「おい、香川さん、お前早苗さんを知らないかね」

 香川というのは、檻に入れられていた美青年の名だ。

「おい、おい、香川さん、寝ているのかい。ちょっと起きてくれよ」

 いくら呼んでも返事しないので、潤一青年は香川美青年の裸体の肩に手をかけて、グイグイと揺り動かした。だが、相手のからだは無抵抗にゆれるばかりで、少しも手ごたえがない。

「マダム、へんですぜ。こいつ死んじまったんじゃないかしらん」

 黒衣婦人はただならぬ予感にりつぜんとした。一体何事が起こったというのだ。

「まさか自殺したんじゃあるまいね」

 彼女は檻の中へはいって、香川青年のそばへ近づいて行った。

「顔を上げて見せてごらん」

「こうですかい」

 潤ちゃんが、美青年のあごに手をかけて、うなだれていた顔をグイと上げた。

 ああ、その顔!

 さすがの女賊「黒トカゲ」も「アッ」と悲鳴を上げて、よろよろとあとずさりをしないではいられなかった。悪夢だ。夢にうなされているとしか考えられない。

 そこにうずくまっていた男は、香川青年ではなかったのだ。実に意外なことには、ここにもまた、解しがたき人間の入れかえが行なわれていた。では、その裸体男は一体何者であったか。

 黒衣婦人は、狂気の不安におののいた。一つのものが二つに見えるという精神病があるならば、彼女はその恐ろしい病気に取りつかれたのかもしれない。

 潤一青年が、顎を持ってグイとあお向けているその男の顔は、やっばり潤一青年であった。潤ちゃんが二人になったのだ。まっぱだかの潤ちゃんと、職工服を着て付けひげをした潤ちゃんと。架空に眼に見えぬ大鏡が現われて、一人の姿を二つに見せているとでも考えるほかはなかった。だが、どちらが本体、どちらがその影なのであろうか。

 さいぜんは早苗さんが二人になった。それは新聞の写真であったけれども、今度は実物なのだ。しかも、その二人の潤ちゃんが、眼の前に顔を並べているではないか。そんなばかばかしいことが現実に起こるはずがなかった。そこに大きなトリックがかくれているのだ。だが、そんな途方もないトリックを、一体だれが考えついたのか。そしてなんのために……。

 憎らしいことには、ひげもじゃの方の潤ちゃんが、あっけに取られた黒衣婦人をちようしようするように、お化けみたいに笑っている。何を笑うのだ。彼こそ驚かなければならないのではないか。それをまるで気ちがいかあほうみたいに、無神経にニヤニヤ笑っているとは。

 潤一青年は笑いながら、またはげしく裸体の方の潤ちゃんをゆすぶりつづけた。すると、やがて、揺すぶられていた潤ちゃんが妙なうなり声を立てて、ポッカリと眼をひらいた。

「ああ、やっと気がついたな。しっかりしろ。お前こんなとこで何をしていたんだ」

 職工服の潤一青年がまたしても非常識な物の言い方をした。

 裸体の方の潤ちゃんは、しばらくのあいだ、何がなんだかわからない様子で、眠そうな眼をしばたたいたが、ふと前に立っている黒衣婦人に気づくと、それが気つけ薬ででもあったように、ハッと正気に返った。

「ああ、マダム、僕はひどい目にあいましたよ……ああ、こいつだ。この野郎だっ」

 職工服の潤一青年を見るなり、彼は狂気のようにむしゃぶりついて行った。潤ちゃんがもう一人の潤ちゃんに組みついて、恐ろしい格闘をはじめたのだ。

 だが、この悪夢のような争いは長くはつづかなかった。見る間に裸体の方が、コンクリートの床の上にたたきつけられてしまった。

「畜生め、畜生め、貴様おれに化けやがったな。マダム、油断しちゃいけません。こいつは恐ろしい謀反人ですぜ。火夫の松公が化けているんだ。こいつは松公ですぜ」

 投げつけられて平べったくなったまま、裸体の潤ちゃんがわめき散らした。

「おい、そこのお方、手をあげてもらおう。潤ちゃんの話を聞くあいだ、おとなしくしているんだ」

 事態容易ならずと察した黒衣婦人は、すばやく用意のピストルをにぎって、職工姿の方の潤一青年にねらいを定めた。言葉はやさしいけれど、キラキラ光る眼色に決心のほどが現われている。

 職工服はいわれるままに、おとなしく両手をあげたが、顔は相変らずニヤニヤ笑っている。薄気味のわるい男だ。

「さあ、潤ちゃん話してごらん。一体これはどうしたわけなの?」

 潤ちゃんはにわかに裸体を恥じるように、からだをちぢめながら、話しはじめた。

「皆がゆうべここへ着いてから、僕だけがもう一度本船へ帰ったのはご存じですね。あの時ですよ。本船の用事をすませて、ボートで上陸すると、いつの間にか、こいつが……火夫の松公が暗闇の中をノソノソついてくるじゃありませんか。僕は思いきりりつけてやったんですが、すると、こいつめ、いきなり僕に飛びかかってきやあがった。

 ボンクラの松公があんなに強いとは思いもよらなかったですよ。この僕をひどい目にあわせやあがった。とうとうあてでもって気を失ってしまった。それから、どれほどたったか、ふと眼をさますと、僕は手足を縛られて、まっぱだかにされて、ここの物置き部屋にころがされていたんです。どなろうとしても、猿ぐつわがはめてあるので、どうにもならねえ。もがいていると、こいつが物置き部屋へはいってきやあがった。見ると、ちゃんと僕の職工服を着ているんです。服ばかりじゃない、つけひげまでして、なんて変装のうまいやつでしょう。僕とそっくりの顔つきをしているじゃありませんか。

 ははあ、こいつおれに化けて何か一仕事たくらんでいるな。見かけによらない悪党だわい、と感づいたけれど、縛られていてどうにもできない。すると、こいつめ、もう少し我慢しろよとぬかして、また当身をらわしゃあがった。意気地のない話ですが、もう一度気を失っちまったんです。そして今やっと正気に返ったわけなんですよ。

 ヤイ松公、ざまあ見ろ。こうなったら貴様、もう運のつきだぜ。今に思う存分仕返しをしてやるから、楽しみにして待っているがいい」

 潤ちゃんの話を聞き終った黒衣婦人は、ひとかたならぬきようがくを押しかくして、さも愉快らしく笑い出した。

「ホホホホホ、味をやるわね。松公がそんな隅におけない悪党とは知らなかった。ほめて上げるよ。するとさいぜんからのへんてこな出来事は、みんなお前の仕業だったのね。タンクの中へ人形をほうりこんだのも、はくせい人形どもに妙な着物を着せたのも。だが、一体なんのためにあんなまねをしたんだい。かまわないからいってごらん。ねえ、ニヤニヤ笑ってないで返事をしたらどう?」

「返事をしなかったらどうするつもりだい?」

 職工服の人物が、からかうようにいうのだ。

「いのちをもらうのさ。お前は、お前の御主人の気質をまだ知らないと見えるわね。御主人が、血を見ることが何よりも好物だってことをさ」

「つまり、そのピストルを、ぶっぱなすというわけなんだね。ハハハハハ」

 傍若無人の高笑いだ。

 見ると、彼はいつの間にか、上げていた両手をおろして、無精らしく、パンツのポケットに押しこんでいた。

 黒衣婦人は思いもよらぬ部下の侮辱にあって、ギリギリと歯がみをした。

 もう我慢ができなかった。

「笑ったね、じゃあ、これを受けてごらん」

 と、叫ぶようにいったかと思うと、いきなりピストルの狙いを定めて、グッと引き金を引いた。

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