第1.5章 泡沫の水面へ人魚は歌う

 何処かも分からない場所に寝かされている恭一。


 繰り返し聞こえる何かの呪文に、恭一は身を起こして、ベッドの周りを見る。そこには、3人の白無垢の女性らしき姿が、自分に向かって祈りを捧げていた。


 特に危害を加えてくるわけでもない彼女達はともかく、リネンの肌触りの良い服に着替えさせられた体、自分の右手に色濃く残った十字の傷を確認すると、目の前にいた白無垢の女性の一人に声をかけられた。


「意識が戻られましたか」


 彼女は顔を上げる。角隠しの下から見える顔の色は青く、人の形をしているものの、自分と同じ人間ではないことが分かった。


白無垢の衣装の女性は立ち上がると、ベッドの横に移動し、恭一の左手の脈を診る。


「…心身は問題ありません。お食事と着替えをご用意いたします」


「…誰?」


「貴方は原初エバに導かれて、ここにたどり着いたのです…祝福をうけしウラシマモノ。まずはお食事をお取りください…その後で、陛下にお目通り致します」


 ラミエルが幻視の世界の中で告げた『エバ』という存在。それを探せと言われた恭一だったが、まさかこんなすぐに手がかりが見つかるとは思わなかった。腑に落ちないのは、ここがどこかというのが全く検討がつかないこと。


 部屋の内装からギリシア風にも中東の文化が感じられるエスニック朝の内装にも思えるが、どれとも判断がつかない。

 この女性達が着ているものも日本の花嫁衣装だ。そして空気の肌触りがまるで水の中にいるように滑らかだった。


 竜宮城にでも辿り着いてしまったのだろうかと考えを巡らせながら、恭一は白無垢の女性達に、嫌々ながら献身的な介助を受けて食事を食べ、部屋の外へ出る。


 部屋を出るとますます場所の特定が難しくなる。古代の石の神殿のようで、劣化が見えるものの、美しい石の廊下だった。

 植物とカーテンベールなど装飾された廊下と、外から聞こえる水の流れる音、差し込む光の木漏れ日。

 神秘的でおごそかな場所だ。こんな場所があればとっくに知っている。未だ発見もされていない場所でない限り。


「こちらにございます」


白無垢の女性が二名ほど廊下に控えており、彼女達に囲まれる形でその廊下を進む。


「どこに連れていく気?」


「この国の王であり、貴方様を助けられたお方です」


「何処の国?」


「聖都アクロポリスでございます」


…聖都アクロポリス?


 国の諜報機関に所属するエージェントである恭一は、そんな国はたとえ監査対象にも引っかからないような国を含めて頭の中を当たってみたが、そんな名称の場所は存在しない。国、首都、地名、どれを当たってみても、分からなかった。


「アクロポリスという都市は存在しない。余所者に対して嘘をつく理由があるの?」


「いいえ。確かに貴方様が来た世界にこの国は、存在しません。貴方は上の世界、私達は可視オラトと呼ぶ世界から流れて来たのです」



上の世界?オラト?流れてきた?

…深海に、空気も光もある世界があるというのか。前を歩く白無垢の女性の言葉に偽りを含むニュアンスも感じられず、恭一は一人困惑する。


 天使ラミエル。幼い頃、自分の中の特殊な力に気づいた日、ラミエルは恭一の前に姿を見せた。中性的な容姿、透き通るような青い目と、天使の羽のように白い髪。


 あの時から、時折現れては言葉を交わし、様々な困難にも助言をもたらしたラミエルは、死に近づく自分を何処へ導くつもりなのか。


 自分の考えは見透かすのに、あの天使という存在の考えは全く読めないことに、恭一はいつも苛立ちを抱いていた。自分を煩わせるなんて、腹立たしい以外の何物でもない。



「ここでは、貴方様はウラシマモノと呼ばれます。かつて、同じようにオラトから流れてきた者から付けられた、この世界の余所者を表す言葉です」


「なら君達はなんと呼ばれるんだい。異世界人?笑いの種にもならないよ。くだらない」


「ここはウラノス。貴方様の世界の下に存在する世界の名称です。…貴方には、私達と同じ力があるのに、どうしてここが偽りだと思うのですか?」


白無垢の女性の言葉に反応し、黙って視線を向けた恭一に彼女は続けた。


「私達と同じ、霊能力インドラの力。貴方様にはあります。それもとても強い。私達よりも、このウラノスを巡る竜の脈動を感じるはずです」


「…意味が分からないね。竜の脈動だとかそんなものは」


「貴方は祝福を受けながらも、その穢れを背負い、この世界に流れ着いた。そして、エバである真王陛下にお命を救われたのです。そしてこの世界へ来た意味は、とうにお分かりかと思います」


 エバである、真王陛下。

神の上位者という存在が、人かそれとも何かなのか。もしかしたら、自分はやはり生きているのではなく、死んでいるのかもしれない。

 探すまでもなく自ら会ってくれるとは、どっちにしても好都合だと恭一は思った。この世界が一体本当に何処なのかもまだ分からないが、白無垢の女性の案内を受けるがまま、大きな扉の前に着いた。


 鎧を纏った青い肌の背の高い人間が立っている。

 この現代にこんな鎧で、槍を持って立っているとは。何処の中世だと思う物だが、一部の国ではまだ残っているスタイルであることを思い出す。


 気になったのは、肌の色だった。青い肌、そして耳がとんがっていて長い。まるで変な夢でも見せられてるようで恭一は目眩を覚えたが、白無垢の女性が扉の前に立つと、兵士たちは姿を見ないように顔を下げ、扉は内側から重々しく開かれる。


「真王陛下」


 扉の向こうにあるのは、柱が天井を支える、広く白い神殿の王座の間だった。

 足音が空間に鳴り響くほど反響する中、恭一は進むと、石の王座のある階段の下に立つ、一人の女性がいた。傍には、背の高く端正な顔立ちで、長髪を紫色の髪留めで束ねた男がいた。


 恐らく40代ほどと思われる女性の頭の王冠らしい金色の髪飾りと、慎ましいながら高貴な白いドレス姿に、彼女がこの国の王であり、エバであると、恭一は察することができる。


 白無垢の女性達は、その女王らしき姿の女性の声が届く距離まで行くと立ち止まり、石の床に膝をつき、頭を深々と彼女に下げた。


「竜脈に仕えし祈り子、アルミサイール真王陛下のお目にかかります」


「ご苦労様でした、祈り巫女達よ。下がりなさい」


 そう告げられた白無垢の女性達は黙って立ち上がり、そそくさと恭一を避けるようにして真王の方を向きながら後ろに下がった。


 残された恭一は、女王の傍に立つ男から睨まれていることに気づきながら、女王の方に視線を向けていると、彼女は柔らかな微笑みのまま恭一に言った。


「ウラシマモノよ。このようなところに来て困惑しているでしよう。私の名は、この聖都アクロポリス女王、真王名アルミサイール。貴方は、この城に近い海岸で発見され、私が保護しました。無事に生きて会えたこと、心より嬉しく思います」


「君が、エバと呼ばれる者かい?」


 女王の言葉の後に早速、礼を言うわけでもなくエバであるかどうかと問う恭一に、傍にいた男は無礼者がと低く威圧的な声で恭一に言い放った。


「貴様程度の人間が、恐れ多くも命を救っていただいた陛下に礼も言わず、軽々しくエバであるかどうかなど陛下に問いただすとは何事か!」



激を飛ばしてきた男の言葉に、恭一は真顔のまま視線だけを男の方に向けた。



「…そうだったね。ありがとう」


「取って付けたような礼など今更いらない。陛下、この者は不敬罪でイカの餌に致しましょう。偉大なエバである陛下になんたる無礼!!」


「落ち着きなさいジュドー、彼はまだ目覚めたばかりなのです」


「しかし陛下、この男は」


「この世界の事も、まだ何も知らぬまま礼儀を問うても仕方のないこと」


女王は恭一の態度に早速死刑を要求するジュドーという男を諌めた。


「それに、彼もエバの意思によって導かれた者なのです。話を聞いてからでも、遅くありません」


「…かしこまりました。陛下」


「では、貴方の話を伺いましょう。名を、なんと言うのですか?」


ジュドーを諌めた女王は恭一に向き直り、名前を聞いた。恭一は淡々と答えた。


源氏恭一みなもとうじきょういち


「…源氏みなもとうじ殿。なぜ、私がエバであると?地上の…オラトの者は、エバの存在を知らぬ者の方が今は多いと聞きます。何故、貴方は知っているのですか?」


 恭一は、問いかけに、天使ラミエルの事やある国の諜報機関に属する人間である事以外の今までの事を話した。


 船である物を回収していた途中、海で突然怪物に襲われた事や自分のもつ力の事と受けた呪いの事を。


 そしてエバの事は、呪いを受けた際に不意に聞いた言葉であるという事にして、呪いを解くために必要かもしれないと思ったことを告げると、静かに聞いていた女王は、ジュドーと顔を見合わせて、恭一の身に起こったことに深く同情した。


「そんな事があったのですね、地上では…。申し訳ないことをしました。貴方を襲った怪物の正体はクラーケン。オラトとウラノス、二つの世界が交わらないよう守っている番人なのです。普段は非常に大人しく、そちらの地表に姿を見せることなど、基本的に…ない事なのですが」


「…その呪いとやらが、関わっているのかもしれませんね」


 ジュドーは女王の側から離れ、恭一の前に来ると、右手を見せるように手を差し出してきた。

 恭一は彼に右手の十字の傷を見せると、力強く腕を掴まれ、ジュドーの目にそれが映った時、明らかに目の色が変わった。


 恭一を睨む眉間の皺がますます深くなり、恭一の顔と傷を交互に見る。そして、腕から何も言わず手を離し、背を向けた。何か勘付いていながらも何も言わないことに恭一は気がついていた。


「陛下、此度の件に関してこのジュドーにお任せを」


「彼が何の呪いにかかったのか分かるのですか?クラーケンを引き寄せたものと?」


「まだ確証は得られぬ事ばかりでございますが、専門家を呼び、いくらか当たってみましょう。それまで、この不届者には、滞在していただかなくてはなりません。周りにどのような影響があるのか、わかりませんので」


「留まる?どれくらいだい?あまり時間はかけられないんだけど」


「こっちも長く居てもらう気など毛頭ない。とりあえず数日ほど、お時間をいただきたく思います陛下?」


ジュドーの答えに、女王は分かりましたと頷いた。そして、恭一には改めて告げる。


「先ほどのご質問の答え通り、私は偉大なるこの星の主人である一なる存在、エバの加護を受け、この世界の女王となりました。貴方の力になれると思います。

どうぞ、この城に留まりください。源氏みなもとうじ殿、貴方に、エバの加護がありますように」


「…」


 恭一は女王に深く慈愛の満ちた微笑みを贈られた後、彼女の頭上から差し込む、水面の光を見上げる。

 不意に感じ取ったのだ。あの天から差し込む淡い光の中から、誰かがこのやり取りをずっと眺めているようだと。




_____



「良かった。あの方、無事だったのね」


この王座の間を上から密かに眺める一人の女性が、ゆったりとソファーに腰掛けながら、このやり取りを眺めていた。水面を覗くようにして。

 彼女は長い黒髪が顔にかかるのを掻き上げながら、こちらを不意に見上げた恭一と目が合ったような気がして、ふと微笑んだ。


「…とても酷い呪い。本当は立っていられないほど、酷いものでしょうに」


彼女の赤い瞳は憐み、愛しむかのようにただ一人彼を眺めていた。

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