第12章 毒をもって毒を制す


「……」


 朝を迎えたアイテルは、寝台の上に腰掛けて、ミツキに髪をとかして貰いながら困りきった視線を、2人の男の後ろ姿に向ける。


 その男2人であるジュドーと恭一の目の前には、皇帝のいる本宮殿から届けられた豪華な食事が用意されており、2人してその料理1品1品に先に箸をつけては、毒が盛られていないかどうかのチェックに時間をかけていたのだ。


「……これも駄目だ。いらねぇっつったのに送って来やがって。情報伝わってんのか。伝わってて、こんだけの食べ物を無駄にしてきたのか奴等は」


 口をつけたものをティッシュに吐き出しながら、ジュドーは昨夜竜師に、アイテルの食事の手配は自分ですると確かに伝えたのにも関わらず、大量の食事を送ってきた事にも腹を立てていた。

 この国で手配される食事、この離宮で作られていない、他から運ばれてきた食べ物など信用に値しないと、最初から判断していた故にだ。



「若。この魚はどうですか?臭いは問題ないかと思うんですが」


「……却下。魚はいいけど山菜が悪い。避けて」


「はい」


 二人が箸で味を見たり臭いを嗅いだりして仕分けられていく怪しい料理を見て、なんと勿体無いのだろうという気持ちになりながらも、けしてお腹がすいたから早く何か食べたいという気持ちを、言えないような様子を見せるアイテルに、ミツキが後ろからひっそり声をかける。


「もう少しだけお待ちくださいアイテル様」


「いいのよ、大丈夫」


心配するミツキに微笑んで答えるアイテル。そして毒と見分けられたものをワゴンに載せていく弁慶が、その多さにげんなりしながら恭一に言う。


「…それにしても、一人で食べる量とは思えない食事の量ですね」


「その殆どに毒が混ぜられてるって、管理が杜撰ずさん。調理場の人間、全員入れ替えた方がいいんじゃないの」


「そのぐれぇじゃ済ませねぇよ。後できっちり抗議を入れて全員引きずり出して処刑だ」


 恭一の発言に、そのぐらいで済ませるほど軽いもんじゃない舐められたもんだとジュドーが、普段の不敵な笑みを浮かべてる表情ではなく、完全に不快感と怒りを露にした強面でそう言った迫力に、弁慶は思わず圧倒される。


「な、何も処刑ってのは…」


「当然だ。宮殿でこんなもんアイテル様へ提供しようとよく思えたものだ。あの気色の悪いオカマごと葬ってやる」


「あら、気色の悪いって誰の事かしら??」


部屋の外から聞こえる女性的な口調の男性の声と共に、挨拶もなく扉が開く。


恭一の目に飛び込んできたのは、紅色の鮮やかな髪に白い肌のやたら派手に着飾っている漢服姿の男だ。男ながら女性的な化粧をしており、まるで歌舞伎役者のような印象を受ける。


 傍らには地味な色の漢服を着た人を連れており、緩やかに入ってきた男に、ジュドーは凄く冷たい視線を向けながら真顔で出迎えた。



紅嵐こうらん国、エンヴィー皇帝陛下にご挨拶致します」


「皇帝…え!?」


 皇帝陛下という言葉に、弁慶は思わず反応する。まさかこの国の皇帝というものが、派手な刺繍のされた漢服を着た格好でいきなり訪ねてくるとは思っていなかったから。


…それに、ビジュアルも名前も、全てがこの国の世界観と合っていないのもまた意外だからだ。セルピエンテ・エンヴィー=メルビレイン。それがこの皇帝の名。


 恭一がジュドーから聞いた前情報では、この紅嵐は列強であったとある民族の国だったが、イブリシールにより侵略され、この国の文明を気に入ったこの皇帝にそのまま乗っ取られたのだという。

そして、彼がイブリシールであり、あろうことかアイテルの夫の一人であるのだという信じがたい事実もあった。



「まあ、セルピエンテ様。わざわざお見舞いに来ていただいたのですか?」


「当たり前でしょう?アイテルちゃんが倒れたって聞いたから駆けつけちゃったわよ。すぐに来られなくてごめんなさいね」


「いいえ、お忙しい中お越しいただいてとても嬉しいですわ」


 アイテルは座り直して訪ねてきた皇帝にお礼を言うと、彼は女性的な口調で親しげにアイテルに返事を返すも、ところでと横にいたジュドーの方に向いた。


「ちょっとアンタ、なに何事もなかったかのように挨拶してきてんのよ?人を気色悪いって言ってるの聞こえたわよ、この腹黒色男」


「はい?気色悪いのは本当の事ではないですか、何か問題でも??」


「何でこの国の皇帝であるアタシに、面と向かってそんなことが言えるのかって言ってるのよ!!」


「そちらこそ、毒物を大量に送りつけておいてよく顔を出せたものだな」


 相手が皇帝であろうとも、てめぇが送ってきたこの食事はなんだと面と向かって抗議するジュドーに、ミツキと弁慶は凄いものを見ているような顔をする。


 態度はともかく、食べられもしない毒物を送りつけてきた相手が平然とやって来たら誰だってそうなるだろうと、恭一は黙って見ていながらも理解は示していた。


「エンヴィー公、知っていますでしょう?アイテル様の命を狙ったら、俺が、どうするかぐらいは」


「ちょっ、ちょっと!!そんな凄まないでよ!確かに命令は出したけど正確には、アタシとアイテルちゃんで食べようと思ってた食事なんだから、毒なんて入れるわけないでしょ!?」


「ほう?では勝手に毒が、入っていたと言うんですか?毒って、勝手に入るものなんですかね??」


「分かったわよ!!調べる!!調べるから!!アンタ達!!さっさと毒仕込んだ不届き者見つけてらっしゃい!!」


「まさか、見つけるだけで、済ますおつもりですか?」


「分かってるわよ!!宮廷の料理人は全員処刑してちょうだい!!」


「セルピエンテ様、そこまでしていただかなくても大丈夫です。私、まだ何も食べてませんもの」


ジュドーに凄まれるがまま、傍らの配下に命令を出して宮廷中の料理人を処刑しろと命じた彼に、アイテルがブレーキをかけた。



「でも、代わりにジュドーと恭一さん達が食べて確かめてくださってたんですのよ。他の者の食事にも毒が入っているようでは困ります。以降は、このような事がないようにしてください」


「…そうよね、悪かったわ。徹底的に調べて犯人は厳罰に処す。もう二度と、毒が食事に入らないように徹底するわ」


アイテルの言葉に、ジュドーは内心異議を申したいところであるものの黙って彼女の決定に従ったが、ここで黙っていないのが恭一だった。


「解決させるのは、毒の問題だけじゃない。暗殺者を中に引き入れるような内通者もいる。徹底的に見直すべきだと思うけど」


「ちょっと、何よ。ジュドーもそうだけど、このアタシに、生意気な口を叩く下民多くない?…………?……あら、えっ、ちょっと待って。誰なの?この超冷たい色男は」


 横から入ってきた恭一に、一度はなんだこの無礼者はという敵意のある目をしてきたが、恭一を認識すると共に、緑色の瞳が右往左往と三度見を続けて、色物を見つけたかのような反応をする。


「私の守護者ですの。源氏恭一みなもとうじきょういちさんです」


「えーっなに、名前までなんか唯一無二って感じで強くなぁい??何処で拾ってきたわけ??シンプルで整った顔立ち…それでいて頑なな表情とドSな目がまた堪らないじゃなぁい…?」


「寄るな、気持ち悪い」


 ゾゾゾッと身の毛もよだつような嫌悪感を示してはっきり言った恭一に、弁慶とミツキの表情が凍ったが、やだぁ塩対応なのも凄くイイと逆に気に入られる始末だ。


「ねーアイテルちゃん。この人、アタシにちょうだい??」


 スリスリと自分の腕から肩の辺りをなで回す気色の悪さに、ふざけんなと手を掴んで組伏せたい所だったが、にっこりしたアイテルが恭一の服の袖を掴んで自分の方へ引っ張って、返事を返した。


「いくらセルピエンテ様でも駄目ですわ。恭一さんは渡せませんの」


「一晩だけ?」


「いけませんわ」


「あ~ん、一晩でも駄目なのぉケチねぇ」


「今、なんつった?」


「ジョーダンよぉ!」



 アイテルをケチ呼ばわりし、ジュドーが凄んだ表情で迫って来た事に慌てた皇帝セルピエンテは、扇子で顔を隠した。


「し、仕方ないわねぇ。…まー使えない奴らがここには沢山いるって事が分かったわ。陛下が来るって知ってたのにこうも簡単に侵入されるなんて、警備監督官の首だけは、はねておかないと」


 くねくねした口調から一転変わり、残忍な一面を見せた皇帝は後ろを振り向き、御付きの者に勅令を下す。


 真王に危害を加えようとした者、此度この宮にて警備の指揮を取った者には死を与えよ。そして宮に仕えていた者及び竜師と神官には、取り調べの上厳罰を下し、この現状を即改善せよ。


そう明確に真王であるアイテルの前で告げて、再びアイテルに向き直った。


「次にいらっしゃる時は、安心できる場所にしておくから。最近、色々とあってね。ごたついてるのよ。娘も外で遊ばせられやしないわ」


「…もしよろしければ、あの子はうちでしばらく預かりますが」


「そうして貰えたらあの子も喜ぶだろうけど、貴方のところだって、魔物が彷徨いて大変な時でしょ?アタシの傍に置いておく方がいいわ」


「ですが、しばらくお顔を見ていませんし。此度こちらに伺った際にお会いできたらと思っておりましたの」


 アイテルとセルピエンテの会話からして、自分達の娘の話をしていることが読み取れたが、はっきり言って、この明らかに男性的とは思えない男と、どうやって子供が出来たのかという仮定についてはあまり想像もしたくない衝動に恭一は駆られた。

弁慶も同じく、子供がいるのか?という疑いの目をセルピエンテの方に向けている。


「こちらには一緒に来ていないのですか?」


「政務の暇に来たから、迎えに行く余裕がなかったのよ。会いたいなら寧嬪ねいひんの宮を訪ねるといいわ」


「…そうですか。わかりました。出立の前に寄らせて頂きましょう」


「それじゃ、アタシは失礼するわね。行く前にアタシ自ら、この宮の下人どもに釘を刺してこなくっちゃ。ところで、代わりの食事は手配し直す?」


その申し出には、ジュドーが「結構です」と強く断った。もはや信用ならないと言った感じに。


「道中お気をつけて、真王陛下。あんた達、行くわよ」


 明らかに妻であるアイテルよりも、恭一を見て意味深に熱い視線を送り笑いかけながら、控えていた配下を引き連れて部屋から出ていった。


「…なんや、キャラが濃い人ですね」


「物凄く、気色悪い」


源氏げんじ様、相手が皇帝だって分かっててよくそんなはっきり言えましたね…」


「若は、物事をはっきり仰られる方ですので!!」


「はっきり言い過ぎじゃありません!?今に首を吹っ飛ばされるものかと思ってヒヤヒヤしましたよ!」


「とても京都民族とは思えない男だな」


「執事長もかなり地雷踏み超えてましたけど…!いつもの事ながら…」


「おーい、朝飯持ってきたぞー。…って、何騒いでんだ?」


 皇帝と入れ違いに入ってきたハルクマンが持っている握り飯や汁物をジュドーが見て、毒ではないと判断された数少ない食事をようやくアイテルの前に並べた。

 適当に勝手場を借りて作ったという食事を恭一や弁慶に配るハルクマンの姿を背後に、ジュドーは声を小さくアイテルに進言する。



「アイテル様、あのような軽い処罰で宜しいのですか」


「軽くはないでしょう?全員処刑よりは確かに軽いかもしれないけれど。それよりも、レベッカの事が心配です。エンヴィー公があの子を連れて外も歩かせないなんて、何が起こっているのかしら」


「聞き及んでいる事情ですが、宮廷内での派閥争いが過激化しているようです。エンヴィー公がアイテル様に事情を詳しく明かさなかったのも、事態を静観しなければならない事情があるのかと」


「…発つ前に寧嬪ねいひんを訪ねましょう。城には、まだシャヘルがいるはずですね?」


「ご連絡致します。どのみち、こちらにはあまり留まらない方がよろしいかと」


ジュドーはアイテルの言いたいことを汲み取り、素早く手配を進めることを彼女に告げた。



_____



「恐れ多くも、真王陛下のお目にかかります」


 離宮から出立し、途中後宮に立ち寄ったアイテルは、寧嬪ねいひんというセルピエンテの側室の一人である宮を訪ねた。


 同じくセルピエンテの妻であるという立場にはなるが、アイテルはこの後宮の階級には属せず、来賓の立場である。


真王が自ら訪ねてきたと知り、多くの宮廷人が膝をついて出迎え、その先にある大きな邸の前で、その主人も膝をついて出迎えた。


寧嬪ねいひん、お久しぶりですね」


 アイテルが声をかけた寧嬪ねいひんは、大人しそうでありながらも華のあり、知性が伺える女性だった。あの皇帝の妻で終わるには、勿体無いとさえ思える。


「お倒れになられたと聞き、心配しておりました。ご健勝あそばされた事、何よりでございます」


「お母様!!お母様だわ!」


 邸の奥から、鮮やかに咲く庭の花の間を走り、アイテルの元へ駆け寄って来る小さな少女をアイテルは抱き止めた。

鮮やかな紅色の髪、サクラ色の着物姿の愛らしい小さな幼女は、白く決め細やかな肌の頬を赤くし、母の来訪に興奮していたが、横から寧嬪ねいひんに、走っては危ないですと咎められていた。


「お母様の御来訪です。ちゃんとご挨拶なされませ」


「まあレベッカ!久しぶりね、元気そうで嬉しいわ」


「お母様、わたし、お母様のところに行きたいな!いつもずっと宮殿の中なの、お父様はお母様のところに行かせてくれないんだもん」


「まあ、どうしてでしょう?」


「きっとわたしのこと、取られちゃうのが嫌なのね!」


無邪気に笑いながらそう言う娘に、やっぱり私の娘は可愛いとばかりにアイテルは微笑み返す。

後ろでその成り行きを見守っている恭一と一同は、確かに髪色や目の色まで父親似なその幼女があの皇帝とアイテルの間の娘であることに気づいたが、父親の方の印象が抜けずに、微妙な気持ちでいた。


まさしく、どうやって出来たのかという仮定を想像したくないという心情だ。


「ねぇーねぇーお母様。いいでしょ?連れてってくれる?」


「んーそうねぇ。お母様は、この後行くところがありますから、一緒には難しいの」


「やだ!!一緒にいくの!!お母様のところに行くの!!」


「姫様、わがままは収めてくださいませ。お母様がお困りになります。陛下のお言いつけを忘れてはいけません」


「イヤっ!!だってだって、ずっと宮の中じゃつまらないもん!!お父様もぜんぜん遊んでくれないし!!飽きた!!」


「あら、お言いつけとは何のお話ですか?」


駄々をこねるレベッカをやんわり撫でて抑えながら、何食わぬ顔で聞き返したアイテルに、寧嬪ねいひんは恐れながらと言葉を慎重に選びながら告げる。


「数週間前ほどに、皇帝陛下がレベッカ様を私の元にお預けになられ、けしてこの宮殿から出さず、お食事もお世話も、私自らの目と手で確かめるようにとの勅命を出されました」


「確かに、貴方は祈り柱を務められました。この後宮において私と親交が深く、最も賢い。娘を預けるのに、信頼に値しますわね」


「痛み入ります」


「ですが何故このように?」


 アイテルが聞き返すと、寧嬪ねいひんは周りの宮女や恭一達の存在を気にしているようだ。何気なくアイテルの手を取り、こちらへと邸の中に招き入れようとする。


何か人前では話したくない事情があるらしい。アイテルはその意を汲み、レベッカを連れてそのまま三人だけで邸の中へ入った。


「…昨日の闇討ち、なんだったの?」


「まだ真王の統治に唾を吹き掛ける無礼者どもの仕業だ。アイテル様の結界にいて正解だったな。積み上げた死体が、また歩いたら面倒だった」


「真王のおりの方が面倒だったよ」


「後で覚えてろよ貴様」



 その後何処かへ行っていたミツキが走りよってジュドーの側に行き、耳打ちする。


「レイジ外務官並びに審問官が向かっているとの事です。数時間程で到着されるとの事」


「そうか」


 恭一は何か企んでいるものがあると察したが、黙っていた。しばらくしてアイテルが一人邸から出てくると、再び寧嬪ねいひんと共に幼いレベッカをなだめ、てっきり娘も連れてくるのかと思いきや、そのまま残して宮殿を後にした。


「陛下、レイジ大使と審問官がこちらに向かっているとの事。シャヘル様は手早く手配致しましたのでしょう」


「さすがシャヘルね!助かるわぁ。後は任せて、私達は、九龍城砦クーロンフロントへ向かうことに致しましょう!」


「…なんか、よく分かりませんが、良いんですかね?」


ようやく恭一の目的地である九龍城砦クーロンフロントという場所の手前まで向かうことになったわけだが、昨日の刺客や今日の毒物等の件で色々あったというのに、娘を残しておいて良いのかと疑問を持って恭一に話し掛けてくる弁慶に、恭一は言った。



「弁慶、防諜の仕事長いのに勘は相変わらず冴えないよね」


「すいません、自分、従来鈍感なもんで」


「政治や外交、思想が絡んでる場で、影響力のある立場の人間が大っぴらに動いたらどうなると思う?」


「そりゃあ…」


「手の内は見せず黙ってやるか、他の人間にやらせる方が良いんだよ。娘一人、ここから連れ出す事ですら、おおやけに出来ないだろう」


「娘さんなのにですか?真王というのは、あの皇帝より立場が強いんでしょう?」


「見るからに、娘は皇帝の持ち物って感じだよ。彼女がそれとなく希望しても、皇帝が渡さないと見てそれ以上何も言わなかった。いくら立場が強くても、人の持ち物を無理やり取り上げたら、周りはどう見えるかだ」


「…確かに」


 アイテルが娘と別々に暮らして、父親の所にいるところを見ても、親権は二人にあっても、父親の方が強い事を見ていて恭一は感じていた。

政略的事情で結婚し、子供をもうけたのだから何かそこに取引があった可能性は高い。



「ところで若。これから行く九龍城砦クーロンフロントという場所なのですが、ミツキさんと食事を取りに行った際に、その辺にいた侍女から話を聞いたのですが、これがどうも、妙な話で。名前が似てるんで、まさかとは思ったんですが」


「何?」


「東洋最大のスラムと言われた、香港の魔窟、九龍城砦くうろんじょうさいと全く同じみたいなんですよ」



 香港領土が中国に返還され、1990年代で治外法権として他の干渉を受けなかったという最大級のスラム。現代では取り壊されて、跡地が公園として残るのみである。


 九龍城は、香港の黒社会の巣窟として悪名高かった孤島の城砦。入ったら二度と出てこられないと言われた魔窟。しかしそれはもう存在しないはずだが、弁慶が仕入れた話では、外観も内部情報も、全て似通っているのだという。


 まるで、取り壊しなどなかったかのように、この世界でまだ生き続けているとでも言うように。


恭一はジュドーから、独眼竜ドゥイェンロンはあの場所から生まれたと聞いていた為、もしかしたらと思っていたが、弁慶の話により確信に近づく。



「だとしたら、色々辻褄が合う。九龍城の内部資料は少ない。残っているのはどれも、都市伝説か何かの話ばかりだったし」


「不老不死の妙薬を製造する機密工場があったとか、人体実験で身寄りのない子供が使われてたとか、えぐい話ばっかで。治外法権だからって好き勝手やってたみたいですね」


「…知ってる?サムが、あそこの出身だったって」


 サムというのは、恭一と弁慶の上司である。50代の寡黙な黒人男性で、SSA局長であるジュンフェイではなく、本当の恭一の上司。

その男の見た目を思い出し、弁慶は驚いた。



「顧問局長がですか?あの人、アメリカ人じゃなかったんですか!?」


「ジュンフェイから聞いた話だけどね。帰化してアメリカに移ってきたらしいけど」


「いや……見えないですよ。ジュンフェイ局長、酔ってたんじゃないんですか?」


「かもね。でもこの任務を受ける時、彼、色々俺に念を押してきたから。"香港の怪物を侮るな"とね。…それが本当なら、ゴーワン女王ニュイワンも、まだ存在しているのだろうね」


これから行く場所が、本当に、何十年前に消えている場所なら。


黒社会に潜んでいたとされる"怪物"に会うことが出来るかもしれない。



 九龍城砦クーロンフロントへ向かう為、馬車に乗り込む前にアイテルが竜師と神官に挨拶をしているのを待っていた時、ふと恭一の頭の中に気配が現れた。人前では絶対現れないはずの天使が。


_「本当に行くの?九龍城砦クーロンフロントへ」


「遺物の行方を追っているのに、何を今更。行ってみるしかないんでしょ」


_「…そう」


ここまで来ておいて、ラミエルが行くのを渋っているような様子が気になり、恭一は表情を変えないまま追及する。


「何かあるの?」


_「何もないけど。なんだかね、酷く感傷的にさせられる…っていうかサ」


「何それ。行ったことでもあるの?」


_「あるわけないじゃないか。でも、ここから感じるあの場所の気は…他とは違っている。要約すれば、私はあまり行きたいと思う場所じゃない。…だから、気をつけて」


「言われなくても、気をつけている」


_「そうだね、いつも通りの君だ」



 天使は幻想の世界で片翼の翼を折り畳み、膝を抱えて憂いげに俯いていた。

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