第10章 深淵の淵より呼ぶ咎を覗く



__「よく頑張りましたね、恭一坊っちゃま」


 その世話役の女の名前は、さきと言った。長く艶やかな黒髪を束ね、静かで清楚な女性だった。当時まだ20代の良家の娘。源氏みなもとうじの家との繋がりがある家の者が、一般とは違う身分としての教養を身につける為に、奉公として家に入ってくることはよくあった。


 まだ幼かった家の跡取り息子の世話を任されるのには申し分ない家柄の人間であり、現代人としては珍しい穏やかで落ち着いた気性の咲に、恭一は一番懐いていた。


__「…まだまだだよ、咲。ボクは、強くならなきゃいけないんだ」


__「恭一坊っちゃんは、十分にお強いと思います。でも、学校で喧嘩はいけませんね。真に強い人というのは、喧嘩はしないものですよ」


そう言って、厳しい師範との稽古の末に擦りむけた頬の傷を消毒する咲の顔を、幼かった恭一はじっと見つめる。


__「坊っちゃんは、どうして強くなりたいのですか?」


__「弱いより強い方がいいでしょ?強くなれば、お父さんも何も言わなくなるし、ボクは誰にももう、命令とかされたくないから、一人でも生きていけるようにしたいだけ」


__「そうですか……。坊っちゃんは本当に、ご立派です」


 強くなれば、誰にも文句など言われない。ちょっかいも出されない。あれをしろ、これをしろと指図されて、毎日屈辱的な思いをせずに済む。


その為だけに、自分は強くなるのだと。


その幼い言葉に何処か悲しげに笑う咲の運命は、この時既に決定づけられていたかのようだった。


__「坊っちゃん。覚えておいてください。本当に、強い人というのは………」


 彼女が最期に、恭一の記憶に遺した言葉は、あの日の炎の中に灰となってかき消される。

恭一を庇い、後ろから倒れてきた瓦礫に身体を貫かれて、まだ温かい血のぬくもりが恭一の身体に染み込んだ。


__「咲…?」



覆い被さる重みとべっとりと服と肌に染み込む彼女の血、物言わぬ彼女の身体を揺さぶる。もう二度と、彼女からの「坊っちゃん」と呼ぶ声が返ってくる事がなかった。




______




 この現代に、こっちの世界はいまだに馬車なのかと恭一は思いつつ、早朝から馬車に揺られていた。


エンヴィーと言われる不可視ウラノスのエリアへと向かう最中、カーテンを閉められて外が見えないことに不満げにしている目の前のアイテルに視線を向けた。


「せっかくの外出なのに、お外が見えません。ジュドーは心配がすぎます」


「…中見えたら意味ないでしょ。そんな事もわからないのかい」


「分かっています。でもお外を眺めながら馬車に乗るほうが楽しいでしょう?景色が移り変わるのを見るのが好きですのに」


 既に二人が乗る馬車以外にも、城の配下が乗った馬車がいくつか出ており、真王の位置を悟られないようにしている。

 アイテルが外へ出ると言うだけでもかなり大掛かりであり、前日の夜からジュドーに集められ、エンヴィーまでの時間から警護の詳細、知りもしない場所のルート、非常時の配置やマニュアル等を叩き込まれていた恭一だが、アイテル本人はかなりのほほんとしている。


 呪いのお陰で恭一だけは弁慶とミツキの乗る後ろの馬車ではなく、アイテルと同席することになったのだが、あまり緊張感のないアイテルに、恭一はこう返した。


「ぽけっと窓から顔出して、撃たれたいならそうしたらいい」


「それは嫌です。では、ボードゲームでも致しましょう!」


「一人でやれるものにしてくれる?」


「チェスはご存じ?練習してますの。お付き合いくださいな」


 仮眠を取りたい恭一とは対照的に、一緒の馬車にいる恭一とどう時間を潰すかという事しか頭にないアイテルは、座席の下の引き出しからチェス盤と駒の入った箱を取り出す。

低血圧でイラついていながらも、アイテルがチェス盤を取り出した事に、ある一つの疑問が浮かぶ。


「君、チェス出来るの?」


「嗜み程度には、です。正直言って、かなり弱いんですの」


だよね、強そうには見えない。と心の中でつぶやく恭一。


「何度か社交の場でお付き合いするのに、ジュドーに教えては貰いましたが、あまり上達出来ませんでしたの。下手なままお付き合いしますと、お相手が…逆に、どうやって負けてあげようかと、かなりハンデをかけているのが見えてしまい、申し訳なくて」


「珍しいね、わざと負けようとする事の方が難しいのは」


 どの立場の人間でも、真王はこの世界で一番位が高い。その真王が本当に下手だと、下の立場の者が勝ち続けるのも申し訳が立たなくなる。わざと負けようとしても、勝つより負けることの方で苦労させてるというなら、本当にどうしようもないぐらい弱いのだろう。


チェスは論理的な思考能力と相手の出方を何手読めるかでだいぶ変わるものだが、練習してもそれが育たず、そこまで弱いとなると、逆に興味が湧くものだ。


「…ルールは、こっちと変わらないよね?」


「はい、おそらくは」


「やってみなよ、絶対君は、俺に勝てないと思うけど」


「うぅ…頑張ります!…あら、そうだわ、恭一さん」


最初から自分が勝つと突きつける恭一にも、涙目になりながらもめげないアイテルは、箱から駒を取り出す際に、思い出したようにこう言った。


「アイテルとお呼びくださいな」


「…何?」


「真王とか君とかではなく、アイテルと。夢の中では、呼んでくださってたのに、どうしてお呼びになりませんの?」


白のクイーンを指で挟んだまま、アイテルは微笑んでそう聞くと、恭一は一瞬戸惑ったように動きを止めたが、視線を逸らして黒の駒を受け取った。


「…どう呼んだって、俺の勝手でしょ」


「真王と呼ばれるのは、なんだか自分じゃないものを呼ばれてるようでしっくり来ませんの。ね、お呼びになって」


私、その方が嬉しいですわ。

そう言って笑いかける姿も、なんだか胸のムカつきというより、モヤモヤした感じがして落ち着かなかった。そして、彼女の瞳の色と夢で見た姿がフラッシュバックして、言葉が何も出ないままチェスを始めた。


とりあえず心得だけはあると言うのだから普通に動かしてみるが、これが全く、心得があるようには見えない有り様だった。


「………ねぇ。まさか何も考えないで動かしてる訳じゃないよね」


「そんなことありませんわ。キングのお駒を取ればよいのでしょう?」


「そうだけど、駒の役割も考えず全部特攻させれば良いってものじゃないからね?」


 まずは何処を攻めつつ自分のキングを守るという所か、全駒を攻撃に転じて突き進んでくるやり方にまずダメ出しをする。

チェスや将棋というのは論理的思考の他に、どれだけ優位に兵力を残して勝つか、戦略性を磨くものでもある。

 上に立つ人間として欠けてはならない要素のはずなのに、アイテルには戦略も何も、ただ数で押し込めばいいと言うへったくれもない思考で、これでどうやって以前起きた戦争とやらを勝てたのか、恭一には一周回って不思議だった。


 人海戦術というものがありはするが、同じ数の駒でそれは通用しない。しかもただ突き進んでくるだけなので、駒を取ってキングに辿り着くのは容易だった。


「まあ、だからすぐに負けてしまいますのね」


「だからって…あの執事から何を教わったんだい。だいたい、こういうのは最低3手先を読んで進めるものだよ」


「そうなんですか?思ったより、難しいのですね」


「いいかい?最初からキングに集中しない。まずは…」



 恭一がチェスの基本を教えようとしたところ、急に馬車の動きが止まった。


 その僅かな異変に、恭一は席を立ち、アイテルに姿勢を低くしてじっとしてと告げ、馬車の扉を開けた。


 外は森の中らしく、馬車の周りを警護していた兵士と術者達が前方を見てなにやら話をしていた。ジュドーが馬車の御者席から降りて恭一に告げた。


「前方に魔物がいるようだ。ハルクマン率いる先遣隊が交戦しているらしい、様子を見てくるから、お前はアイテル様の側にいろ」


「魔物?国の周辺に現れてるって言ってたやつかい」


「ここはもうアクロポリスから離れ、国の結界の外だ。魔物と遭遇するのも多くなってくる」


「…こっちで遭遇した時の対処法は?」


「その腕であれば大したものではないが、初戦での勝率は1割程度と思え。駆除はミツキと他の者に任せろ」


 ジュドーは無愛想にそう告げて、馬車の中を覗き込むと、アイテルには愛想よく報告を告げてから馬車を降り、魔物の交戦があるという前方へと向かった。


「しばらく足止めのようですわね」


 馬車から顔を出す彼女を、恭一はすぐに彼女の胸と鎖骨の間を軽く押して、中へと戻した。


「君は、ここにいるんだからね」


「そんなにお外を見てはいけませんか?」


「見なくていい。おとなしくして」


 外に出てきて居場所がバレる所か、前方の戦闘で流れ弾が飛んで来たらどうするのと告げると、ようやくアイテルはムッとした表情を恭一に向ける。頬を片方膨らませて、全く怖くもない顔で。


「…恭一さんも、心配性が過ぎます」


「心配はしてない。仕事だから」


「まっ!ひどい」


 くるっとむくれながら背を向けたアイテルは再び座席に座った。いじけたアイテルの様子に、これが女王のやることかと呆れため息をつきながら外へ行こうとすると、うっ!とアイテルからうめき声が聞こえて再び振り向いた。


 アイテルが左手をグッと抑えて前に屈み、痛みを堪えている姿を見て、ハッとして早足で彼女の元に戻る。


「痛むのかい、アイテル」


「うぅ……」


「早く、見せて。ねぇ」


「心配してくださるのですか?」


 恭一が彼女を覗き込みながら手を差し出す。左手を見せることを拒みながら痛がっていたかと思いきや、アイテルがけろっとした瞳で恭一を見つめて聞き返した。その瞬間、恭一は、完全に騙されたことに気づく。


「ふふ、やっぱりお優しいんですのね!」


「……」


 嬉しそうにのほほんと笑うアイテルに何も言わず背を向け、外に出て強く馬車の扉を閉めた。後ろの馬車から降りてきたミツキが、不機嫌モードになっている恭一に気づかず話しかけてきた。


源氏げんじ様、陛下は大丈夫ですか?」


「元気」


「そうですか。前方の状況が収まるまでこちらで待機ですので、源氏げんじ様は中で陛下のお側に」


「その事だけど、配置変わってくれない?朝から煩くてうんざりしてきた」


「ちょっちょっと!!不敬な言葉を言わないでください!!」


 周りに真王に仕える者達がいるにも関わらず、容赦ない言葉を言う恭一に、周りから敵意の目が集まる。真王であるアイテルに口を利いて貰える事は滅多になく、むしろ神聖な事に近い。それなのにこの男は何を贅沢言ってやがるんだと。


 相変わらず友より敵を作るのがナチュラルに上手い恭一は、ミツキに怒られながら自分には嘘ではないピリついた痛みを右手に感じとった。

恭一の直感にも何かが刺さる。この森の何処からか、不穏な気配を感じる。

物陰すら見えない森林の樹木の先は、暗い森が広がっている。側にいたミツキと、周りの術者達も何か感じ取ったのか、恭一が指示するまでもなく周囲を警戒する体勢をとった。


「…何でしょう」


右腕の腕輪が震える。呪いが何かに共鳴して動いている印。恭一は銃を手に、感じ取れる気配に意識を集中した。


「!!魔物だ!!防御結界を張れ!!」


 術者の上げた声のその瞬間、恭一は森林から飛び出してきた大きな影に向かって撃った。

キィンッッ!!と甲高い音が響くと同時に、瞬時に展開された頭上の防御結界に黒い身体の大型の蜘蛛がのし掛かった。


 正確には、蜘蛛の形をとった魔物だ。身体は銃の弾丸を弾く硬く黒い皮膚で覆われ、その身体からは毒とも言える瘴気を放ち、お腹の側面が割れて、赤くおぞましい目のようなものがぐるんぐるんと回っていた。


 これが魔物と言われるものかと、初めてその姿を見て、自分の銃が効かないことも知る。


「大型の魔物です。陛下の馬車を直接狙うなんて」


「かなり大きいね」


「わ、若!!なんですかぁあれは!!でけぇ蜘蛛が宙に浮いてるやないですか!!」


「煩い、弁慶」


 馬車で待っていた弁慶も騒ぎに聞き付けて降りてきて、防御結界に攻撃を撃ち込み、侵入を試みる魔物の姿を見て仰天していた。

ジュドーの言う通り、今の恭一の装備だと勝率はないに等しい事が分かる。


「その銃は魔物には通用しません。僕達にお任せを。アイテル様をお願いします!!」


 ミツキは走って防御結界の内から飛び上がり、冷気と共に現れた白く美しい薙刀を手に高く飛び上がる。


 防御結界を破ろうとしている魔物の背後に切っ先を振りかざす。振られた刀身から氷のつぶてが放たれ、魔物の背中に突き刺さり、徐々に凍てつかせる。


 まだあどけなさの残る小柄な青年であるが、真王を護り戦い、生き残った彼の動きは卓越した武人の姿だ。


 抵抗した魔物から放たれる黒い溶液と、黒糸の追尾する攻撃を避けて切り裂く。そして、魔物の腹に見えた赤い目の露出した弱点を突いた。


 黒い液が飛び散り、甲高い叫び声と共に分散して飛び散った魔物の身体だったが、森の奥からぞろぞろと同じ個体だが小さい魔物が現れ、増えていく。


「エバがおられるというのに、何故魔物が寄ってくる!?」


「"サネクソス"の連中が近くにいるのか!!妖の王は倒されたと言うのに!」


 ざわつきながらも、魔物と戦い出す術者や兵士の声が上がる中、恭一の右腕は重かった。銀で出来た腕輪は熱を持ち始め、手の内側から何かが食い破ろうとしてるかの如く、激痛が走る。思わず手を抑えた彼に、弁慶が気づいた。


「若!?大丈夫ですか!?」


「近づくな弁慶…。呪いを貰う」


「し、しかし…」


 それでも近づこうとする弁慶を睨み付けて遠ざける。魔物に呪いが反応しているらしい。何故?こいつらも、呪いと何か関係があるのか?

頭の中で答えを探るも、情報不足でうまく引き出せない。


【殺せ】


頭の中で何者かが囁きかける。

恭一の骨を、神経を、血管を伝い、頭に直接語りかけてくる。


【何をしている。殺せ、戦いを、殺戮を、楽しめ】


【それがそなたの望み】


 右手は、恭一の意思に反して動き出す。懐にしまっていた銃を取り、結界の外で襲い来る魔物を相手にしているミツキの姿が視界に入った。


【戦いは好きだろう。血の匂い、強さへの渇望】


 ミツキの背中に向けて、銃を構える。その手を左手で発砲する寸前で邪魔をした。


 弾くような音が響き、ミツキの肩を銃弾が掠め、その先の魔物へ当たる。先程は通らなかった魔物の硬い皮膚を、その銃弾は貫通し、内部から身体を飛び散らせるほどの威力を出す。

 掠めたとは言えど、服と皮膚を切られたミツキは驚き、一瞬恭一の方を振り返る。恭一は言うことを利かない右腕を、地面を這いながら体重をかけて抑えようとするも、右腕の異様な力は、それを上回った。



【何故拒む?そなたが求めていたモノはここにあるではないか。弱者をはいし、孤の高みへと挑む。逆らうものは、誰もいなくなる】


「っ…」


【そなたが望んだ、選んだ。誰にも支配などされる事のない、己の末路を】


「ぐっ…」



【思うがままに、殺せ、全てを】



 弁慶が駆け寄ることも出来ず、一人恭一が地面に突っ伏しながら、右手が勝手に銃を撃ちまくる手を、人に当てないよう抑え続ける様を見るしかなかった。


 その弾丸は呪いの作用が働いているせいか、普通の銃では出すことの出来ない威力を持っており、流れ弾が当たった木々を貫通して折って倒し、硬い皮膚の魔物の皮膚を壊し、肉を引き裂いて抉るほど。


【殺せ…殺せ。数多の血を吸い付くし、骸を並べ、その身の獣へと捧げよ】


「誰が…俺に、命令するな…」



 その時、弁慶の背後の馬車の扉が開き、ヒールの音がゆっくりと、馬車から地面へと降りる。



「我が名において命じます。許されざる者、まことを汚し者、煉獄の炎に焼かれ続ける者よ。去りなさい」


【大丈夫よ、心配しないで】


 恭一の頭に柔らかな声が聞こえたと同時に、右手がふと軽くなる。何処からか湧いた淡い水のベールが、右手を包む。

そして、魔物達の動きが途端に鎮まった。


黄金の輝き、柔らかな光と共に、透明な水のベール辺りを漂う。アイテルの頭上に、黄金の聖杯が浮かび、纏うように水を溢れさせる。


度重なる争いの末に失われたとされるエバの子宮の持つ聖杯。

それは何人の傷と病を癒し、どんな悪をも浄化する力を持つとされる遺物。


 アイテルの呼び声に答え、現れた聖杯は、溢れ出る聖なる水を荒波へと変える。

周囲に現れた魔物へと襲いかかり、洗い流す。周囲の木々を押し倒すことはなく、邪のもののみを荒々しい水の流れが襲った。


 その水飛沫が周囲の者へとかかり、傷を癒し、恭一の呪いの影響すらも押し戻す。


魔物が一匹残らず、跡形もなくいなくなった後、水は地面に染み込むように消える。

アイテルは聖杯の下、真王としての表情で、魔物が出てきた森林の奥を見据えていた。


「私にご用がおありなのでしょう、どうぞ、仰ってください」


 鬱蒼とした暗い森の奥に向かってそう言い放ったアイテルを、恭一は収まった腕を庇いながら立ち上がり、彼女の見る先を見た。

恭一には見えないし感じることも何もないが、アイテルは何かに気がついているのだろう。


アイテルは一心にその方向をしばらく見つめていたが、しばらくして、頭上に浮かんでいた聖杯を手におさめ、一息ついた。


「…君、何か見たの」


 魔物以外の気配に何も感じなかった恭一がアイテルに聞くと、アイテルは困ったように眉尻を下げて答えた。


「エバである私の周囲には、このように魔物が集まって来る事はまずありません。誰かに指示されているのであれば別です。あの森の向こうに、ただ黙ってこちらの様子を伺っている者の気配が見えましたので、その方かと思いましたの」


 でも、結局何も言わずに去ってしまいましたわと、アイテルは告げた。


 森の向こう。ここからではどれだけ深いのか分からないのに、その先の気配を感知できるとは、エバである彼女が出来る芸当であるのだろうか。直感が人一倍冴えている恭一にすら、気づくことが出来なかったと言うのに。



「それより、お手は大丈夫ですか?」


「大したことはない。君は、何もないのかい」


「…はい。大丈夫です」


 そう静かに微笑んで恭一からふと視線を離した事と、顔色が良くないことに恭一は気づく。アイテルは恭一には悟られぬよう、ハンカチを握り、左手から滲む血を隠していた。


「アイテル様!」


戻ってきたミツキが手に薙刀を構えながらアイテルの前に膝をついて謝った。


「アイテル様のお手を煩わせてしまいました…申し訳ありません」


「いいのよ、よく守ってくれました」


「…周囲を捜索します。お命を狙った何者かが、まだ近くにいるかもしれません」


ミツキが悔しげに下唇を噛みながらそう進言すると、アイテルは首を横に振る。


「いいえ、先を急ぎましょう。誰で会ったとしても、いずれ会うことがあるでしょうから」



 アイテルは深追い無用と踵を返し、ジュドーが戻り次第先へ進むと言い、馬車の方に戻り始めた。

恭一はそれを見送った後、立ち上がったミツキの擦れて切れた肩の服を見て、口を開く。



「邪魔をしたね」


「あ…あぁ、いえ」


 聖杯から流れた水の影響により、傷は無くなっていたが、ミツキが恭一を見る目には少しいわれぬ恐怖が宿っている。

それにも恭一は気がついていたが、何も言わずにアイテルの跡を追うように足を踏み出し、自分を見ている弁慶にも何も言わず、馬車の扉を閉めた。



____



 森林の中に身を隠した者は一人、小鳥と虫の囁きの中で、その身に虚無を宿し、草を踏みながら、手に持つ改造されたジャンク品を操作し、口元へと近づけた。



大脳通信だいのうつうしん起動。ベータゼロ-Fからゴーワンへ。真王及び、源氏恭一みなもとうじきょういちへの強襲を終了。目標達成には至らず、ゴーワンの予想通りとなりました。引き続き、源氏恭一みなもとうじきょういちの経過を観測します」


 無機質な報告を口にした後、ジャンク品の黒い画面には、話した内容の羅列が並ぶ。しばらくして、"ベータゼロ-Fから王"という文字が並び、次の文章が打ち込まれた。





___ゴーワン、了解。

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