第19話

長い夢を見ていたような気分だった。

 思い返してみれば、それくらいに非現実的なことが起きた数カ月だった。

 別に濃密な時間を過ごした訳などではないけど、それでも栗花落鳴華と関われた時間は、僕の人生においては完全なイレギュラーで、特別でだったことに間違いはない。

 僕は待ち合わせの三十分前から、あの喫茶店に座っていた。

 ブレンドコーヒーを飲みながら、読みかけの本を読んで、物思いに耽っていたのだ。

 今日ここで、彼女との関りを絶てば、残りの二年半なんてきっと一瞬の出来事で、卒業してしまえばもう二度と顔を合わせることすらなくなるだろう。

 もう、二度と、栗花落と話すことはなくなる。

 それは、確かにほんの少しだけ、寂しいと思った。

 もう彼女に小説を勧めることも、読み終えた本や観賞し終えた映画の感想を言い合うことも、偶然校内で顔を合わせた時に、挨拶を交わすことさえ、なくなるのだと思うと、もの悲しさだけが、ぽつりと残った感じがしていた。

 まるで、花火が終わった後の静寂のような。

 祭りの後の帰り道のような。

 楽しかった何かが、不意に終わって、それをどうしもなく受け止める他ない状態。

 時計を見ると、午後の二時五十五分を過ぎていた。

 もうすぐ、来る時間か。

 『終わり』が始める時間だ。

 カウベルが鳴って、僕は入り口に目を移した。

 やけに黒い服装の女性が、店内に入ってくるのが見えた。

 ただ黒いだけではない。あれは、ゴシックロリータのファッションを身にまとった女性だ。

 一時期、ゴスロリ衣装にハマったこともあって(もちろん、女の子が着るゴスロリであって、自分が着ようとか、そういうのには興味はなかった)、それを小説内に登場させる程度には調べたからすぐに分かった。

 見たところ、かなり本格的な衣装で、遠目にも生地がしっかりしているのが分かった。かなり高級な衣装なのだろう。

 ハロウィンでもないし、この辺を活動拠点にしているゴスロリコミュニティなど聞いたことはないが、たまたまガチ衣装を身にまとったまま、本でも買いに来たのだろうか。

 そんなことを思いながら、目で追っていると、ゴスロリ娘は店内を見渡し、僕の方を向いて軽く手を挙げた。

 しっかりと顔をこちらに向けたことで、僕は悟り、理解し、認識した。

「……栗花落……?」

 ゴスロリ娘は、栗花落鳴華だった。

 衣装は言うまでもなく、髪型もメイクも全く異なるゴスロリ仕様に仕上げている為、気づくのに時間がかかってしまった。

 厚底のエナメル靴をコツコツと鳴らしながら、一歩一歩、僕の席に近づいて来る。

 横を通り過ぎた他の客からの注目の視線も意に介さず、優雅に、颯爽と歩く。

「お待たせ、白峰君」

 僕の前の席にまで来た彼女は、そう言って腰を下ろした。

「その格好……どういうことだ?」

 僕は観察するように、殆どジロジロとゴスロリ姿の栗花落を見ていた。

 長い髪をハーフアップにして編み込み、白と黒のフリルが付いたカチューシャが付けられている。飾り襟のブラウスに、ベロア生地のボレロジャケット、コルセットスカートは……と、そこで僕はハッとなった。

「栗花落さん……それ……」

 僕は無意識に衣装を指さして、言葉を失っていた。

「『彼女は長い黒髪をハーフアップに編み込み、頂きには黒と白のフリルのカチューシャが添えられている。飾り襟のブラウスとボレロジャケット、コルセットスカートは、膝よりやや長めで、大きめのプリーツにレースが多重にあしらわれている代物だった』」

 深紅に近い、トーンの低い赤いルージュが引かれた唇が、いつもと同じようにツラツラと動き、その一小節が語られた。

 しっかりと引かれたアイラインが、病的なほど真っ白な肌と対照的で、元々現実離れしている顔が、より人形的な、無機質で美しい『何か』であるような錯覚をさせる。

「ふふっ」

 極小さく彼女は微笑んで席に座り、水を出してくれた店員にアイスコーヒーを頼んだ。

 僕は驚きと、その他色々な疑問と混乱で、内心焦りながら栗花落をじっと見つめていた。

 見れば見るほど、完璧だった。

 今の栗花落は、僕が二年前に書いた小説『朝を憂う』に登場するヒロイン、銀水晶そのものなのだ。

「あの、栗花落さん? その服装と……さっきの一節。どうして、知ってるんだ?」

 『朝を憂う』は、確かに優秀賞を受賞した作品ではあるが、当然ながら製本化されていない。僕は当時、小説サイトにも掲載していなかったし、そんな過去の作品を現在のサイトにもアップなどしていない。

 つまり、現状では誰もあの小説を読むことができないのだ。

 読めるとしたら、僕のPCの中に保存してある原文と、USBメモリのみ。

「『朝を憂う』……作者は、白峰宗介。二年前に第三回、古風舎出版社新人賞の優秀賞を受賞した作品」

 栗花落は、その綺麗な声でそう言った。

 もう一つ。

 僕の作品を読むことが出来たのは、二年前の受賞発表から三ヶ月だけ、古風舎出版の新人賞特設サイト内を見ていた人間だけだ。

 だが、それにしてもまだまだ疑問は残る。

 仮にそこで読んでいたとしても、彼女はさっき、僕の小説の一部を、一言一句間違うことなく口にしたのだ。

「私はね、『朝を憂う』の大ファンなの。ううん、大ファンなんてものじゃない。『朝を憂う』と、その作者はね、私にとって恩人なのよ」

「何を、言ってるんだ。ちょっと、言ってることが分からなくて……」

「中学二年の時。その時から、私は凄く人気があったの。だけどね、それは人気者になれるように、頑張って理想の栗花落鳴華を演じていたから、そうなっていた。話題も、お洒落も、全部、多数派に支持されるものを選んで、常に話の中心にいられるように頑張っていたの」

 相変わらずの、謙遜しない物言いはもはや気持ちが良いくらいだ。聞く限りでは、今の栗花落とやってることも、その人気も変わらない気がするが。

「……でもね、丁度その頃にね、漫画の影響でゴスロリファッションに興味が出たの。なんて綺麗で、なんて可愛くて、とても寂し気で、憂いがあって、素敵って思った。それでね、もちろん、それを誰かと共有したいと思ったんだけど、周囲の友達はもちろん、当時仲の良かったグループの子たちも、『え? 何それ?』みたいな反応をしたの。それで、祖一瞬以降、私はゴスロリの話をすることはなかった。誰にも受け入れられないって瞬時に感じたの。薫は……多分普通に受け入れてくれたとは思うけど、彼女も特に興味があるって感じでもなかったから。結局、私はその時見つけた新しい趣味を、誰にも言えずにいたの」

 その孤立感は、なんとなくわかる。

 多数派ではないことの恐怖と、孤独は、僕が常に味わってきた立ち位置だ。

 無理もない話だ。それを題材とした僕が言うのも何だが、中学二年生でゴスロリ趣味は少し早すぎる。

 中学生と言えば、丁度服に興味が出てきて、自らの趣味と他者からの目を相対的に見てどの方向性の服を選ぶべきかを、割と真剣に考え始める年代だが、残念ながら、ゴスロリ衣装は、その更に三歩先くらいをやや斜め上に行ったところにあるようなものだ。他者が理解できないのも当然だろう。

「それでね。趣味を公にできない私は、それをきっかけに色々考え始めちゃったのよ。こうやって、頑張って演じてみんなに好かれる自分にどれだけの価値があるんだろう、とか。本当に好きなことを好きと言えないことに意味はあるんだろうか、とか結構哲学的なところまで考え込んでしまったの。そうしたらね、もう本当に泥沼にはまっちゃって。気分は常に落ちてるし、何をやっても楽しくないし。もういっそね、そういう、作った自分を全部壊してしまおうかって思うくらいに、勝手に追い込まれてしまっていたんだ」

 栗花落は少し目にかかった前髪を丁寧に横に流して、そのまま耳を触った。

 黒薔薇に、同じく黒の細い十字架があしらわれたピアスが、小さく揺れた。

「そんな時にね、偶然見たサイトに掲載されていた小説を読んだの。なんだか、ゴスロリを題材にした……みたいな総評が書かれていたから、興味を持って読み始めたんだけど……」

 彼女の瞳には目の前の僕が映っていたが、見えていたのは、きっとその当時の情景なのだろう。遠い目が、より澄んだ黒色に見えて、引き込まれそうになる。

「面白かった。そして、面白かった以上に、私は元気づけられた。……ううん、そんなチープな言葉じゃ、追いつかないくらいに感動したし、励まされて、栗花落鳴華という人間の根本を肯定されたような気がしたの」

「……僕の小説で?」

「そうよ。救われたの。『朝を憂う』に。そこから、私は踏ん切りのようなものがついて、演じている自分とどう向き合っていくのか、特殊な趣味とどう向き合っていくのか、分かった気がしたの。綺麗だった……小説の中の『銀水晶』は、その姿も、生き方も、私が目指すべき人物像だって思った。少しずつお小遣いを貯めて、私は銀水晶になろうって決めたのよ」

「そんなに、影響を受けたのか」

「ええ。この通りよ。本気で憧れたから、ここまでなりきることが出来るの」

「三ヶ月だけ掲載されていた小説の登場人物をよくそんなに詳細に覚えて居られたね」

 僕が言うと、栗花落は『それよ、それ』と言った。

「『朝を憂う』を読んで、ドはまりして、だけど、その小説が、そのサイト以外にどこにもないことに気付いた。おまけに、掲載期間は少しの間だけ。だから私は、書き写したの」

「書き写した?」

「そうよ。そのサイトの文章はコピペできないようになっていたから、仕方なく自分のパソコンのワードに打ち込んだの」

「打ち込んだって、八万文字を?」

「八万三千語百文字。句読点とか、段落の関係で誤差はあると思うけど、確か打ち直した結果の文字はその数字だったはず。私はその小説を一言一句違わないように打ち直して、保存したの。それから、私は何度も、何度もあの小説を読んだ。それがきっかけで、本自体を読むようにもなったの」

 恍惚な表情を浮かべて語る栗花落は、確かにミステリアスで綺麗ではあったが、それ以上に狂気を感じた。

「だけど、その一つの作品以外、彼の小説には出会えなかった。私と同じ十四歳の小説家。私を救ってくれた人。どう生きるべきなのかを指し示してくれた人。私はいつしか、『白峰宗介』という人に思いを馳せるようになったの。白峰宗介、十四歳、東京都。私が知り得た情報は、それだけ。一般人の私には、それだけで個人を特定することはできなかった。だから、諦めていたの」

 栗花落の語る内容は、半分くらいしか入ってこなかった。

 きっと、内容を情報としては全部理解しているのだが、それを鵜呑みに出来るようなおめでたい脳みそを持ち合わせていない僕は、混乱気味に話を整理しつつ、何とか彼女と会話をしているという状態だった。

「ちょっと、待ってくれ。色々、おかしい。いや、おかしくはないかもしれないけど、とてもじゃないけど、信じられない」

「どうして? 今の全部作り話だとでも?」

「いや、そんなことは、ないよな。嘘や冗談だったら、さっきのフレーズを暗記なんてしてるはずもないし」

「全部本当のことだもの。……それでね、入学式の日にね、クラス割と名簿を確認していたら、偶然見つけたのよ。違うクラスの男子に、『白峰宗介』っていう名前をね。もちろん、同姓同名はいるし、そもそも『朝を憂う』の白峰宗介が、ペンネームである可能性もある。だけど、可能性はゼロじゃないって思って、あなたの情報をこっそり集めたの」

 僕に声をかけるまでの一ヵ月弱で、僕の行動を密かに観察していたということか。

 やはり、あのコンタクトは偶然などではなく、きちんと計算された上で起こった出来事だったのだ。

「正直、緊張したし、滅茶苦茶ドキドキしたわ。だって、そうでしょう? わざわざ別のクラスに出向いて、全く面識のない男子に声をかけるのよ? 声が上ずらないようにとか、早口になり過ぎないようにとか、セリフが飛ばないようにとか、色々考えながら頑張って話しかけたんだから」

 なんだか楽しそうに語る彼女。

 そんな栗花落と打って変わって、僕は未だに、この展開の行先がさっぱり見えてこずに、どうにも怪訝そうな顔をするしかなかった。

「話してみて、少しずつ、確信を持てるようになっていったの。ああ、多分、『朝を憂う』を書いたのは、この人だって。だからね、その、嘘をついたの」

「嘘?」

「そう……『最近本を読むようになった』って言ったでしょう。あれは嘘。中学の頃から、小説は読んでたの。あ、でもね、あなたがすすめてくれた本は、あの時初めて知ったものばかりだったから、凄く楽しめたんだよ」

 おススメの本を教えて欲しいというのも、口実だったということか。僕も、最初からそれだけが理由だとは思ってはいなかったが、なるほど、そう言うことだったのか。

「にわかには信じがたいけど、今の話を信用するとすれば、君は僕の受賞作を偶然目にして、それに感銘を受けた、とそういうこと、だよね?」

「うん、その通り。さっきも言ったでしょう? 大ファンなの」

「それはありがたいことだけど、それで……」

 それがなんなのだ?

 結局のところ、それがどうしたのか、というところが僕には分かっていなかった。

 彼女が僕のファンだった。それはありがたい。でも、それで?

 僕はあの時のあの作品以来、入賞していない。最終選考にすら残っていないのだから、成績だけ見れば、『朝を憂う』を越える作品を一つとしてかけていないことになる。そう考えて、同時に『ああ、なるほど』と納得もした。となればこそ、縁日の日に彼女が口にした僕の小説への感想は、辻褄が合う。かつての僕の作品を読んでいる彼女だからこそ、サイトに掲載している今の小説に違和感を覚えるのだ。

「でも、そうか。だから、あんな感想を言ったのか」

「……うん。だって、今あなたが書いているの小説は、あまりにも軽くて、あなたの意志やメッセージがどこにもない気がしたから」

「そうか。まぁ、そうだろうな。だけど、あれが今の僕だ。人気取りに媚びた小説を書いて、それで何とかプロになろうとしている狡い作家のなりそこないだよ」

 僕が言うと、栗花落は切なそうに少し目を伏せた。

 ゴスロリ衣装とメイクが、その憂いを帯びた表情に異常なほどマッチしていて、僕は鳥肌が立った。

 この容姿のせいで、どうも僕の頭には常に話の全部が入ってきにくくなっていた。

 そのまま少し静寂が続いたところで、僕はコーヒーをグッと飲み干した。

 何かを考えなくてはいけないと思っていた。頭の中を整理して、今の目の前にあるこの状況の、解決すべき部分に触れなくてはいけない。

「なぁ、栗花落さん。このタイミングで言うのも悪いとは思うんだけど、聞いてもいいかな?」

「なに?」

「君は、何がしたいんだ。僕に本当のことを打ち明けて、それで、どうしたい?」

 伝えるだけが目的というなら、それはそれで仕方がないが、わざわざ日を改めてまですることだろうか。

 僕が尋ねると、栗花落は目を大きく開いた後で、やや視線を鋭くして口をギュッと噤んだ。

「あなたって人は」

 ため息交じりに、そう呟く。

「どこまでも、ネガティブな人。ホント、見た目の印象と全然違うのよね」

 慈愛にも似た、母性すら感じるような表情に、僕はドキリとした。栗花落がたまに見せるこの顔は、僕の心の柔らかい場所に防壁をすり抜けて触れてくるような、そんな特性を持っている。

「そのマイナス思考が、あらゆる可能性を打ち消して、考察力や観察力まで鈍らせているのね。自分や自分が好意を寄せている相手が関わること以外なら、それなりに勘が良いはずなのに」

 そこまで言われても、彼女が何を言いたいのか分からない。

「あなた、本当に分かっていないのね? その表情が演技だとしたら、白峰君、役者か詐欺師になった方がいいもの」

「いや、だって、栗花落さんの言っていることは、確信の部分が見えてこないんだよ。結論の部分……『それでどうなのか』っていうところが、何を言いたいのかわからない」

「悪かったわね。どうせ私には、あなたほどの『伝える』才能はないよ。でもね、私が何を言いたいか分からないのは、あなたが分かろうとしていないからよ」

 分かろうとしていないこと。僕が、歩み寄ろうとしないこと。

 それは等しく、僕が把握、納得できない分野で望まない評価をされること。

 つまり――、

「まったく……仕方のない人ね」

 栗花落はそう言って目を逸らして、代わりに店内を見た。

 右を向いた横顔のシルエットが、理想的な凹凸を描いていて、改めて綺麗だなどと感じてしまう。

 彼女はそのまま、再び口を開く。

「私が、自分のことを好きだとは、考えないのかしら?」

 言葉と共に、ゆっくりと僕に向き直った。

 まっすぐな瞳が、まっすぐな言葉と共に僕を射抜く。

「あ……え?」

 思考は、随分と後からのんびりとやってきていた。

 何を返してよいか、まったくもって分からないまま、僕は呼吸すら忘れて、栗花落の目を見つめていた。

「あの、そ、それは、可能性の一つという話、だよな? そういうことも考えられるはずなのに、どうして考えないのか、っていう、考察的な観点での興味というか、好奇心からの質問……」

 言っていて、違うと思い始めていた。これはそういうことじゃない。そんなくだらない質問を、栗花落はしたりしない。

 だが、だとすると、現状答えは一つになってしまう。だが、その答えは到底受け入れることができないものだ。

 なんというか、そんなことはあり得ないのだ。

「違うよ」

 ぽつりと、彼女が言った。

 違う?

 可能性の一つという話じゃないなら、なんだ?

 まさか。

 まさか――

「まさかそんなこと、あるはずがない。君には好きな人がいて、それは、僕なんかよりも才能にも運にも恵まれている人間のはずだ。そう……高校生で佳作を受賞できる松本先輩のような人間だ」

「白峰君、私、一度でも、自分で『松本先輩が好き』って言ったかな? 言ってないよね? 私がいつ、才能のある人が好きだと言ったの? 成績優秀な秀才も、運動部のレギュラーもエースも、クラスの中心になるような人気者も、私が本気で好きなる為の要素にはなり得ないわ」

「でも……」

「はぁ……あなたって、謙虚なフリをして傲慢よね。自分の物差しと価値観でしか世界を見られず、それをある程度周囲にも押し付ける。相手の気持ちがどうかよりも、自分がどう感じるのかが優先される。経験則を絶対なモノだと思っていて、それに反する現実からは容易に目を逸らす」

 栗花落の言うことは、反論の余地がないほど正論で、概ね真実なのだろう。僕はきっと、そういう『ズレ』を永遠に受け入れることも、修正することもできないからこそ、孤独で誰からも好まれず、誰の心にもいないのだ。

 それでも僕は、自分の意見やものの見方を変えたりはしない。

 僕の創作の根底にあるものは、案外それなのかもしれない。

 自分の価値観を否定されない為の肩書。

 それこそが僕が小説家になりたい理由。

 僕を否定する人間、僕を嫌う人間、僕を拒む人間に、絶対的な価値を見せつけ、『ほら、僕はこんなに価値があるんだ』と自慢出来るようになることで、僕はようやく自分を肯定きる。自分をほんの少しだけ誉めてあげることが出来るし、認めて許すことができるだろう。

 そうなって初めて、僕はまた一人の人間としての尊厳を取り戻し、救われるのだ。

 だが、そんな僕の中の実に身勝手な言い訳など、この場ではなんの意味も持たないことは分かっている。だからこそ、彼女の言葉にはただ黙って俯くほかなかった。

「臆病で、傲慢で、妄想癖があって、人の話を聞かない、独りよがりなペシミスト……」

 酷い言われようだが、それも仕方がない。

「でもね、そんなあなたが好きなのよ」

 僕は、視線をゆっくりと上げた。

 やがてその視線と、栗花落の視線が交わり、僕たちは見つめ合う形になる。

 彼女は目をそらさなかった。

 覚悟を決めた強い眼差しで、僕の瞳の奥をジッと見つめていた。

「聞こえなかった? それとも、耳を疑っているの? なんでもいい。あなたが私の言葉を理解して、事実であると認識するまで、何度でも言うわ」

 栗花落は、そう言って静かに微笑む。

「あなたが、好き。あなたのことが好きなの。タブレットで暇さえあれば執筆をしているあなたが好き。クラスメイトとは殆ど関わらないあなたが好き。女子と話す時も、冷静でつまらなそうに話すあなたが好き。理屈っぽくて面倒なあなたが好き。少しだけ垢抜けた外見と、ギャップのように後ろ向きな性格のあなたが好き。小説を書くあなたが好き。『朝を憂う』の作者であるあなたが好き。なんだかんだ言いながら、本選びに付き合ってくれるあなたが好き。どう? まだまだ言えるよ。あなたの好きなところ」

 意識が飛びそうというか、気が遠くなりそうというか、とにかくこの目の前の視界と状況から、ドロップアウトしてしまいそうになる感覚を、なんとか堪えて、耐えていた。

「僕を、好き?」

「そう。あなたが好き。大好き」

 その辺りで、やっと言葉の意味を理解した。

 栗花落 鳴華から、僕は告白を受けているのだ。

 あの栗花落が、僕を好きと言っているのだ。こんなに何度も、何回も。

「ちょっと、待ってくれ……」

「嫌だ。待たないよ。待ってあげない。だって、待ったらまた色々考えて、あなたは逃げようとするもの。逃げないで、今向き合って。私と、私の思いと。そして、あなたの思いとも」

「そんな……」

 僕は下唇を噛み締めた。

 呼吸を整えて、思考を整理する。いや、整理なんて到底できる状態ではないから、切り離すのだ。

 いつもなら、自然に考えるような要素を、全て取り払って、強引に感情を一番上に浮き上がらせる。

 だが、直後に、それをしたことを死ぬほど後悔することになる。

 虚栄や建前や強がりや臆病さや、傷つくことを回避する方法や、そう言ったものを全て取り除くと、そこに残ったのは、恥ずかしいくらいの『想い』だった。

 栗花落鳴華のことが好きだ。

 ただそれだけが、忽然と残ったのだ。

 劇的な一目惚れではなくとも。

 一億人から選んだ恋ではなくとも。

 ただ穏やかに積み重ねた何かが、こんなにも僕の中に蓄積していたのだ。

 それと同時に、この想いは、ただ相手の目の前を通過するものではなく、僕の聞き間違いでなければ、彼女はこの想いに応えてくれるというのだ。

 右目の奥から、何かが沸き起こる感じがして、直後にそれは目じりから頬を伝って流れた。

「……白峰君。 どうして泣いているの?」

「分からない。でも、止められない。ああ……涙が、止まらない。でも、嬉しいんだ。嬉しくて、涙が止まらない。くそっ……情けないな。だけど、君が言ってくれた言葉は、僕がずっと欲しかった言葉だから。切望して、渇望して、夢にまで見た、言葉だったから……」

 僕はどこまで惨めで情けないのだろう。

 今は、もしかすると一番格好を付けなくてはいけない場面だというのに、シンプルにした感情は、どこまでもどこまでも、ダイレクトに僕の心を叩き、揺さぶり、コントロールを奪っていく。

「もう……情けないなぁ」

 呆れたように、でも、不思議とその言葉には悪意のようなものは乗っていない。

「告白されて泣くなんて」

 その通りだ。 僕は情けない奴だ。

 頑張った結果が軒並み出なかったことに絶望して、傷ついて、傷つき過ぎてしまって、ふさぎ込んだ。

 何もかもを拒絶して、耳も目も塞いで、聞こえないふり、見ないふりをした。

 ストイックを気取って小説を書いても、結局ダメで安易なサイト閲覧数からのプロデビューに切り替え、それでもそんな自分が情けなくて、中途半端にそれもやめて。

 挙句の果てには、無関係の同じ高校の先輩に佳作入賞の先を越されてまた絶望して。

 いつだって独り善がりで、独り相撲で、周囲の人間の意見も、想いも耳に入らず、自分の気持ちすら偽って、好きになった相手のことすら、とことん悪い方に疑って。

 本当に、何一ついい所がない。幻滅されるべき人間だ。

「……でもね、白峰君。そんなあなたが、私は好きよ」

 僕は思わず、顔を上げた。

 そこには、優しく笑う栗花落の顔があった。

 冗談でも大げさでもなく、女神のように見えた。

 こんなことがある訳がない。なのに、彼女は事実、僕に向かって、僕が一番欲しい言葉をかけてくれる。

 ああ、満たされるとは、こういう感覚を言うのか。

 思えば、僕は本当に欲しいものを、手にしたことがなかった。ただの一度も、僕が手に入れられるのは、二番目か、三番目に欲しいもの。

 それは単純に物質だったり、期待だったり、祝福や激励の言葉や思いだったり、評価だったり、技術や、才能だったり様々だが、人生のどの場面でも、僕は一番欲しいものを貰ったことがなかったと、この時気づいた。

 栗花落の顔をずっと見ていたかったのに、僕にはそれが叶わなかった。

 僕は直後、心臓を抑えて、蹲ってしまった。

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