第11話

八月の三日。

 僕はまた、神保町あの喫茶店にいた。

 それは当然、約束の日だからであって、その約束とはもちろん栗花落鳴華とのそれだ。

 待ち合わせの時間は、十三時だったけど、僕はそれより三十分前について、考え事をしながらコーヒーを飲んでいた。

 あれから、僕の心と思考は完全に乱れて、控えめに言って、ぶっ壊れてしまっていた。

 考えを纏めることも感情を整理することもできずにただ、思いついたことを、思いついたように行うことしかできずにいた。

 夏休みだったのは、ある意味助かったと思う。

 今の僕を東あたりが見たら、その別人ぶりにきっと驚くに違いない。

 店内をぼうっと観察しながら、何をどうやって話そうか、など、シミュレーションとも言えないシミュレーションようなものを繰り返して、いたずらに時間を浪費していた。

 十三時になって、栗花落さんは時間通りに現れた。

 丁度入り口が見える席に座っていたので、カウベルが鳴って、彼女が入店し、辺りを見回しながら僕を探す一連の仕草を、全て観察することができた。

 やっぱり彼女は、どんな場所でどんな仕草をしていても、なんとなく様になって絵になるのだ。

 僕を見つけると、パッと表情を明るくしながら目を大きく開き、直ぐに微笑みながら軽く手を振る。

 僕はそれに小さく手を挙げて応えた。

「ふ~あついね。ホント、夏って感じ」

 席に着くと、彼女はそう言いながら、素早くアイスコーヒーを注文した。

「白峰君は、この二週間、何していた?」

「小説を書いていたよ。あとは、依頼された手紙」

「それだけ? 他には何もしてないの? 遊びったりとか、旅行とか」

「まとまった休みがあるのなら、執筆に費やしたいんだよ」

 それに、彼女は「ふぅん」とだけ答えた。

 オフショルダーのトップスにややハイウエストなミニタイトスカートという格好は、それなりに露出が多くて目のやり場に困るが、それ以上に似合い過ぎていて、やっぱり視線の置き所が見つからなかった。

「それで、書けた? ラブレター」

 うん、と言いながら、僕はプリントアウトしてきた手紙を何枚か、差し出す。

「何パターンが作ってみたんだ。全部、僕の主観で書いたものだけど」

「いいのいいの、ありがとう。むしろ、その方がいい」

「どういうこと?」

「あ、ほら、こういうのって、性別特有のニュアンスとかがあるから、白峰君なら、やっぱり男性視点で女性に向けて書いたものの方が違和感ないっていうか、感情が乗るかな……って思って」

 何とも歯切れの悪い説明だが、言わんとしていることはなんとなく伝わった。

 僕の書いてきた手紙に目を通す彼女を、僕はじっと見つめていた。

 長い睫毛が視線と共に、文字を読み進める度に上から下へと動き、また上へと戻る。

 改めて考えれば、この状況はなかなかに異常だ。

 学校でも話題になるような美少女と。

 多くの男子が告白しても、それを全て断る少女と。

 生活圏より、ほんの少し離れた街で、二人きりでいるなんて。

 これまでだって、二人きりで話したり、こうして出かけることだってあったけど、僕はそれを完全に俯瞰してみていた。

 決して当事者にはならず、感情を乗せず、何一つ『心』が動くことがないように。何一つ、期待も、希望も、願望すら抱かぬように。

 それを徹底してきたからこそ、僕はただの一度も、勘違いをしなかった。

 彼女を同学年の女子と見ることはなく、常に自分に危害を加えるかもしれない、警戒すべき存在であると認識してきた。

 つまりは、最初から『敵』に近しいものなのだと信じて対応していたのだ。

 だから気が付かなかったし、気づかないふりをしていたのだ。

 彼女の魅力に。

 彼女と一緒にいること、会話をすることの、楽しさに。

 手紙の文章を読んで、彼女は小さく息を漏らしたり、目を細めて何度も頷いたり、「んんっ」と呻くような声を上げたりしていた。

 そうしてやがて、優しく笑った。

「素敵な文章……ここに綴られている言葉の一つ一つが、丁寧に真剣に、感情に照らし合わせて選別されたものだということが、伝わってくるわ。やっぱり、男子の立場から書いてもらって、正解だった。この文章は、きっとあなたじゃなくては書けなくて、男子から女子へ向けた手紙でなくては、書けないものだと思うの」

「でも、それじゃあ、意味がないな。依頼の目的は、栗花落さんのラブレターを代筆することなんだから」

「いいのよ。白峰君が、自分の立場で好きな誰かを想定して書いてみて、と言ったのは私だし、そもそも『素敵なラブレター』というもの自体を、見たことがなかったから、想像しようがなかった……だけど、こうして具体的な文章が読めれば、大分イメージが付きやすいわ」

「それじゃあ、少しは役には立てたってことか」

「もちろん。これで、十分よ。あ、そうだ! 報酬、どうしようか?」

「ああ……そうだな。色々考えたけど、どれもしっくりこなかったから、なしでいいや」

「そんな……それなりに、時間をかけてくれたのに、悪いよ。何か……」

 ほんの数秒だけ考えて、直ぐに彼女は言葉を続ける。

「白峰君、お昼は食べた?」

「いや、まだだけど」

「私も。それなら、これからご飯を奢るっていうのはどう? もちろん、必然的に私と一緒にお昼を食べることになるけど……いやじゃなければ」

「いやな訳がないよ。君に食事に誘われて、断る男子なんていないだろう」

「意外ね。白峰君だけは嫌がるかと思ったけど」

「僕が? 僕は……」

 『嫌じゃないよ』と言いかけて、これまでの僕の態度を顧みた。

 淡白に、冷静に、拒絶と判断できるかどうかのギリギリのところで、

「嫌な訳はないさ。タダ飯が食べられる上に、栗花落さんと食事できるなんて、普通の男子だったら、金を払ってでもしたいだろうし」

 僕が言うと、栗花落さんは首を傾げて、いぶかし気な顔で僕を見た。

「随分と、俗っぽいことを言うのね」

「僕は普通に、俗な人間だよ」

「そうなの? ……なら、単純に好みの問題ってことね」

「何が?」

「あなたのそっけない態度こと。あのね、私、こう見えてモテるのよ」

 『こう見えて』がどう見えてを指すものなのか、甚だ疑問ではあるが、栗花落さんはそう言った。

 突然自慢話なんかして、どうしたというのだろうか。

「知ってるよ。君は異常なほど人気がある。男子はもちろん、女子からも」

「女子からは、半々ってところね。妬みや僻みで目の敵にする子も結構いるから」

 実にサラッと、何事もないかのように言ってのける。

 噂には聞いていたが、やはりモテる女子というのは賛否両論あり、敵もそれなりに出来てしまうようだ。

「人気者というのもね、案外面倒くさいものなのよ。モテれば僻まれるし、告白を断れば、調子に乗っているとか、お高く留まってる、とか言われるの。好きじゃない人から告白されれば、誰だって断るでしょう? そんな当然のことをしただけで叩かれるんだから、たまったもんじゃないわ」

 やれやれとおおげさにジェスチャーをしながら、栗花落さんはため息をついた。

「それで、栗花落さんがモテるのが、どうしたの?」

「ああ、ごめん。話が脱線しちゃった。私、モテるの。人気者なの。多分、顔もスタイルも、それなりに良いと思うの。まぁ、努力もしてるし、そう振舞っているから当然なんだけど……そんな私に話し掛けられて、凄く迷惑そうな顔をするのよ、白峰君は」

 怒っているというよりは、ただ純粋に不満そうに彼女は言う。

「アンチなのかと思ったら、そうでもないみたいだから、それでも私と関わることにあまり友好的ではないのなら、それはもう好みの問題かな、って思ったの」

 なるほど。つまり彼女は、遠回しに中々傲慢なことを言っているのだ。

 人気者である自分と関わっているのに、いつまでたっても乗り気じゃない僕は変り者であり、どこかおかしいのではないか、と。

 それはきっと、アンチや生理的に拒絶するような人間以外であれば、それが友情か恋愛感情かは別として、必ず自分に好意を抱くに違いない、という前提が彼女の中にあるからこそ出る言葉であり、見解なのだ。

「でも、好みじゃないのは、仕方ないよね。食べ物と同じで、何を美味しいと思うかは、その人次第だもの。それで、白峰君は、どんな人が好みなの? 容姿は? 芸能人で例えると誰?」

 一気に苦手な話題になって、僕は顔をしかめた。

 何をどう答えても、この先の会話は不毛なものになりそうで仕方がなかった。

「栗花落さんの顔は、正直好みだと思うよ。綺麗だと思うし、可愛いとも思う。好きか、嫌いかで言えば、きっと好きに入る」

「え……」

 息を呑む、とはまさにこの状態を指すのだろう。彼女は大きな目を丸く見開いて、驚いたように小さく呟く。

 僅かに開かれた唇が、妙に色っぽく見える。

「私の顔、好み?」

「え、あ……うん」

「そ、そっかぁ……そっか。うん、それは、ありがとう?」

 不思議な、疑問形のお礼がおかしい。

「じゃあ、なんであなたは、あんなに塩対応なの?」

「それは……」

 勘違いをしない為だ。

 自分を戒めなければ、僕は安易に迂闊に勘違いをする。彼女のように、率先して話しかけられて、一緒に出掛けることを頼まれて、困ったことで頼られたら、まるで自分が、彼女と対等になれるのではないか、あまつさえ、多少の好感すら持って貰えるのではないかと、愚かな勘違いをするからだ。

 だが、僕はそれをそのまま口にはできなかった。

「僕は、自分が納得いかない状態では、感情を動かさないことに決めているんだ。僕は、僕を誇れない。僕の中のルールの問題だから、嫌っている訳ではないんだ。だけど、友好的には接せない」

「ルール? ええと、よくわからないけど、結局、私には興味がないってことだよね?」

 興味がない訳ではなくて、興味を持たない為に、そうしているのだ。

 だがこれも、もちろん口には出さない。追加の言葉を話せば話すほど、説明が面倒になるのは間違いないのだ。

「まぁ、でも、そっか。そういう理由でああいう態度だったのね。おかしいと思ったのよね。私、嫌われる要素ないし、むしろ多少は好かれているかと思っていたのに、全然乗ってこないから」

「……やっぱり、君は自信家だな」

「自信家というか、事実に基づいた見解ね」

「羨ましいよ」

「どうして?」

「僕は、失敗したから」

 失敗していて、し続けていたのに、気づかなかったから。

「なにに?」

 問いかける栗花落が、少し上目遣いで僕を見る。

「人気者になるのに」

「そうなの?」

 そこからは、きっと口が滑ったのだと思う。

 僕はうっかり、いつもなら喉の奥に押し込める言葉を、するりと出してしまったのだ。

「人から、好かれたかったんだ。友人としても、男子としても、人気が欲しかった。輪の中心にいたいと思ったし、努力すれば、それは叶うと思っていた。でも違った。当たり前だよな。人間関係は、人柄や性格で決まるんだから、どれだけそれっぽく立ち振る舞っても、中身が伴っていなければ、本当の人間関係なんて作れない。誰でもわかることを、身をもって経験するまで、わからなかったんだ」

「詳しく、聞かせてはくれないの?」

「楽しい話じゃないし、話せば不幸自慢みたいで女々しいから、話したくないんだけど」

 僕が言うと、彼女は「う~ん」と悩んで、ポンッと手を打った。

「ならば、あえて聞きましょう。白峰君の秘密を、知りたいわ」

「秘密ではないよ。ただの情けない話で、黒歴史だ」

「それでもいいから……あっ、それはご飯食べながら聞こうかな。とりあえず、移動しよう」

 そう言って、栗花落さんは伝票を持って席を立った。

 僕は無意識的にため息をこぼして、彼女の後に続いて店を出た。

 喫茶店の代金も、彼女は僕の分まで払った。

 おそらく、それも『報酬』の中に含まれているという意味なのだろう。

 僕たちは、そのまま神保町を歩きながら、昼食をとる店を物色した。

 メイン通りと、その一本裏の通りをぐるっと一周してから、今度は逆回りで一周したところで、

「ここにしようか。前に調べたら、結構有名なんだよね」

 彼女は老舗のカレー店に続く階段の上でそう言った。

「何度も通っているけど、入ったことがないな」

「ホント? なら、決まりね。話題のお店だから、一度は行ってみたいと思っていたの」

 言われるがままに、僕はその『スマトラカレー』の店へと階段を下って行った。

 そこは確かに古いが、小奇麗な印象の店だった。

 昭和感のある椅子とテーブルは思いのほか広く頑丈で、カレー店というより先ほどまでいた喫茶店に雰囲気は似ていた。

 僕はおススメと思われる王道のポークカレーを注文し、彼女はチキンカレーを注文した。

「あ、焼きリンゴだって。これも頼んじゃおうかな」

 それと焼きリンゴ。

 注文をし終えると、そのまま彼女はそのまま、僕に話を促した。

 多分、色々なタイミングが良すぎた。いや、悪すぎたと言うべきか。

 きっと、普段の僕だったら、こんなに強引に聞かれたところで、きっぱりと断っていたはずだ。

 それをしなかったのは、今の僕の精神がかなりヤラれて、追い詰められているからだろう。

 僕は、僕の過去をなるべくライトな仕上がりになるように工夫しながら、彼女に話すことにした。

 凡そ、僕は壱岐先生に言われた言葉を未だに気にしていて、ショックを受けていて、そこから立ち直れていないのだ。

 そうでなければ、彼女にそんな暗い過去を話したりするはずがない。

「それで、今の白峰君が出来上がったという訳ね」

 肯定も否定もなく、納得したように彼女は言った。

「第一印象に感じたのは、その名残ってことか。ふふっ……どうりで、ちぐはぐなはずね」

 合点がいった様子で、栗花落が小さく笑う。

「前にも言ったけど、あなたって、パッと見はちょっとニヒルな運動部系なんだよね。陽キャって感じではないけど、スポーツに打ち込んでて、他に興味ないです、みたいな。クールなスポーツマンタイプ。なのに、話してみると、ちょっと挙動不審で陰キャ全開なんだもの……ギャップが面白いのよね」

 本当に、その日の僕はどうかしていたんだと思う。

 そこでやめておけばいいのに、僕は何を血迷ったのか、小説サイトのことや、製本化の話、そして先日の壱岐先生との一件までも、栗花落に話したのだ。

 誰かに話して、すっきりしたかった、という思いがあったのは確かだが、よりにもよって、栗花落鳴華に話すことになろうとは。

 彼女は僕の話を、とても真剣に、真面目な顔で聞いていた。

「……という、ただの愚痴だ。認められたい人には、いつだって認めて貰えない。人生はそんなもの、と言ってしまえばそこまでだけど、それでも、これはかなり削られたっていう、それだけの話だよ」

 話の最後にそう添えて、僕は締め括った。

 栗花落は、カレーを見つめながら何かを考えているように、押し黙った。

「……ちょっとだけ。ちょっとだけ、なんだけど、それ、分かる気がする。本当に、上手く、行かないよね。認められたい人に認められないとか、好きな人にだけ、好きになって貰えないとか、さ」

 笑顔も絵になるが、こうして物憂げに睫毛を伏せる表情も、実に絵になる。むしろ、馬目のカレーが滑稽に見えるくらいに、切ない表情をしているのだ。

「栗花落さんの思い人の話?」

「うん。他の人からは告白はいっぱいされるのに、私が好きな人は、私を見てすらいないの。それって悔しいし、理不尽だって思うから。それに、その人の時だけ、なんだか上手くいかない……」

 かくして人生とはそういうものだ。

 とはいえ、僕の場合はうまくいかないことばかりだが。

「ねぇ、白峰君の小説、どのサイトに載ってるの?」

「『小説家になれる』だけど」

「名前は? さすがに今はペンネーム使ってるんでしょう?」

「読むつもり?」

「うん、もちろん。だって読みたいもの。あなたの小説」

 僕は複雑な気持ちだった。

 壱岐芳助は認めていない小説。

 僕自身すら、認めていない小説。

 それを、栗花落に読まれることが、妙に後ろめたいというか、『嫌』だった。

「ダメ?」

「いや、ダメじゃないよ」

 僕は続けて、自分のペンネームと作品名を告げた。

 何を取り繕う必要があるというのか。彼女はただの知り合いで、サイトで僕の作品を読んでいる読者と何も変わらない。

 それに、彼女は文章の専門家や、読書家という訳でもない。

 きっと僕の小説が世の中の文学から見ての良し悪しなど分からないし、分かったところで、製本化されるほどの支持を集めている僕の作品を否定されるようなものではない。

「オッケー、読んでみるね!」

 明るく微笑みながら、栗花落は言った。

 そこからは、他愛のない、どうでもいい話をしながら、僕たちは食事を済ませ、また少しいくつか書店をぶらついてから、帰路についた。

 

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