第10話

夏休みに入ってすぐ、僕は出版社によばれて、打ち合わせをすることになった。

 いや、正確にはこれまでにも出版社で打ちあわせをすることはあったのだが、その時は本当に打ち合わせだけであって、誰にも遭遇しなかった。

 しかし、その日は違った。

 打ち合わせを終えて帰ろうとした時、丁度、入れ違いで応接室に入って来た人物がいた。

 担当の吉村さんに紹介されるまでもなく、僕はその人物を知っていた。

 壱岐芳助だ。

 僕が憧れて、尊敬してやまない作家。

 僕は柄にもなくテンションがあがり、緊張してしまった。

「あ、壱岐先生、今日はここで打ち合わせなんですね」

 吉村さんが言うと、壱岐先生は頷いて、

「ここでした方が、『仕事をしてる』って気がするからね。そっちは……」

「ああ、こちらは、白峰宗介君。今度製本化されることになったんです。プロ作家デビューですよ」

「若いな。何の賞を取ったんだ?」

 そう問われて、僕は一歩踏み出した。

「白峰宗介です。十六歳、高校生です。壱岐先生。作品はいつも読ませて頂いています。僕、先生のファンなんです」

「高校生か。この時期だと、ライトノベルの賞か? どれの何賞を取ったんだい?」

「それは……」

「白峰君は、小説サイトの上位ランカーですよ」

 言葉の詰まった僕の代わりに、吉村さんが説明すると、壱岐先生の顔から、それまでの笑みがすぅっと消えていくのが分かった。

「……小説サイト……ああ、なんだ、偽物か」

 眉を潜めて、壱岐先生はそう口にした。

 何か、とても嫌悪している言葉を吐くように、そのわずかなニュアンスだけで、彼がひどく蔑んでいるのが分かった。

 そしてそれが、今まさしく、僕に向けられていることも。

「先生、そんな言い方は……」

 吉村さんが、宥めるように言うが、壱岐先生は被せる勢いで、

「だってそうだろう? 小説サイトの上位ランカーの製本化なんて、小説が面白い訳でも、上手い訳でも、価値がある訳でもない。ああいうサイトは、コメントや評価をしあうことで、閲覧数が増えるんだろ? つまり営業をすれば、一定以上の閲覧数は獲得できる。選挙と同じだよな。確かにそうやって人脈を増やして人気を獲得するのも楽じゃないとは思う。だけど、それは芸術じゃない。小説は芸術だ。クリエイティブな職業だ。それなのに、作品そのもの以外の価値で売って何の意味があるんだ? 芸能人がゴーストライター雇って出す本と同じだろう」

 淡々と、とても冷たい声で壱岐先生は言った。最初の笑みとは打って変わって、無表情にも似たその顔は、それだけで僕に圧力をかけてくる。

「あの……え……」

 憧れの作家本人に言われた事、そしてその内容が、僕が日頃から疑問を抱きつつも、こうするしかないと自分に言い聞かせてやって来た後ろめたいものだったことも相まって、僕は思考が停止してしまっていて、何も言い返すことは愚か、上手く受け答えすることすらできなかった。

「俺もプロの作家だし、出版社の事情もよくわかっているから、少なくとも人気があって、一定以上『売れる』と確証の作品を製本化したいのはわかる。でも、それをし過ぎたせいで、今の小説……とくにライトノベル市場は、ゴミみたいな異世界転生モノであふれかえっている。ウンザリだよ、吐き気がする」

「ちょっと先生、これからプロになる高校生にそれは、あんまりではないですか」

 吉村さんに咎められて、ようやく壱岐先生は少しだけ表情を和らげた。

「……ああ、すまない。君に言っても仕方ないことだったな。でも、俺は認めてないし、嫌いなんだよ。賞も取ってないのに、人気取りが上手いだけでデビューして、俺たちと同じ『作家』を名乗る連中がさ」

「先生、全然フォローにもなってないじゃないですか」

「俺も人間だからな。俺のファンだ、なんていう人間が、そんなくだらない方法でデビューするとなると、思うところもあるってことだ。……でも、ホント悪かったよ。人気が落ちないように、せいぜい頑張ってくれ。君たちには、『人気』と『支持率』以外、何の価値もないのだから」

 そう言って、壱岐先生は奥の応接室へと消えていった。

「ごめんね、壱岐先生は、作品に凄く、プライドと信念を持っている人でね」

 先生がいなくなった後で、吉村さんはそう言った。

「いえ……」

 僕はショックでそう答えるのが精いっぱいだった。

 別に、憧れの作家に自分のしてることを全否定されたことに、気を落とした訳ではない。壱岐先生の言ったことが、あまりにも的を射ているというか、僕がずっと疑問をいだきつつも、『仕方がない』と言い訳をしてきたことであったからだ。

「壱岐先生は、天才、ですからね。そういう風に思われるのも、仕方がないですよね……ははっ……」

 下手な愛想笑いをしながら、僕はそう言った。

「小説も商業だ。売れなくては意味がない。そういう意味では、小説サイトの上位ランカーというのは、最低限の商業価値を約束されている。どんな理由でも人気があって、読者がいるというのは、商業作家として意味と価値のあることだ。有名な小説大賞をとって製本化されても、全く売れない作家だっている。悪いけどそういう作家よりも、君のような作家は売れる。先生に言われたことは気にしなくていいよ」

「はい、ありがとうございます」

「まぁ、壱岐先生もああ見えて、努力の人だからね」

「そうなんですか?」

「十七歳でホラー小説大賞を受賞した天才、そういうキャッチフレーズに売り出したし、実際、あの人の作品はトリッキーだから、そういう泥臭いイメージを極力出さないようにしているんだけどね」

 吉村さんは、『他言無用だよ』と言って、続けた。

「確かに彼は十七歳でデビューした。でも、それまでに賞に応募した作品は三十作品以上ある……」

「三十……そんなに?」

「小説を書き始めたのは小学校の高学年。きちんとエンドマークを打つ作品を始めて作り上げたのが、中学一年生の時。そこから、彼は書き続けた。年間に行われる小説大賞の有名どころに二~三作品を投稿し続けたんだ。最初の作品は、本人も言っているけど、かなりお粗末なものだった。でも、書くたびに無理やり上達させていった。投稿し始めて一年後には、二次選考を通る作品もちらほら出てきて、そうなるとほら、ライトノベルの大賞とかだと、選評シートが貰えるだろう? それを元に、徹底的に改善をして、新作を描き続けたんだ」

 中学生が応募できるレベルの作品を三十個書く。僕はその意味を正確に理解していた。

 これはあくまで、天才などではなく、平凡な人間だからというものあるだろうけど、僕が三十作品完結させられるとしたら、それまでに書く作品は、おそらく最低でも三百を超えている。書き始めてやめた物、途中で面白いと思えなくなった物、単純に続けられない物、理由は様々だが、他人に読ませられる作品を一個作るには、百個以上の作品に着手する必要がある。百作品の中で、構成、内容、ストーリー、キャラクター、完結できるか、規定内に収まるか、などの条件を満たした奇跡的な一作品が、完成品として賞に応募できる。少なくとも、僕はそうやって小説をかき上げている。

 書けども書けども、二次選考突破が限界の僕のような凡人と一緒にするのは、忍びないが、それでも似たような工程を踏んでいるとすれば、そこには努力以外では表せない苦悩と苦労があるのは容易に分かる。

「……だから、こういうデビューを『逃げ』みたいに思うんですね」

「壱岐先生と先生の作品は、そういう努力を感じさせないだろう? それもきっと、先生は意図的にそうしているんじゃないかな。先生は、そういう努力を、表に出すべきじゃないと考えているみたいなんだ」

 その気持ちも、僕にはわかった。

 努力なんてものは、どんなにしていても、それを『した』なんて表立って言うのは、ナンセンスだ。努力は結果でのみ証明されるものであり、それ以外の努力など存在しないのと同じなのだ。

 だから。

 僕の努力も、無いのと同じだ。

 どんな研鑚も、どんな努力も、どんな悔しさも、どんな信念も、想いも熱意も、結果が出なければ、存在しない。

 そう思っているからこそ、結果を……製本化をなによりも優先して目指したのだ。

 僕の中では、結果が全てで、その『結果』とは、プロになれるかどうか、製本化されるかどうかである。

「誰しもが、壱岐先生のような才能を持っている訳ではないですからね。僕のように、才能のない人間には、こうやってデビューする他ないですよ」

 僕はそう言って、出版社を後にした。

 製本化への道は順調に進み、あと何度か打ち合わせをしながら、改稿を重ね、一冊の本との長さに丁度よくなるよう調整していく。

 それが終わって、校閲修正が終われば、いよいよ製本化だ。

 あと三ヶ月もすれば、本が出来る。

 誰に何と言われようと、それで本が売れれば、僕はプロの作家となり、『結果』を残したことになる。

 僕はようやく、何者かになれるのだ。

 そうしたら、きっと僕は、少しだけ胸を張って生きられる。

 信じられなくなった自分の感覚や、これまでの人生や、恥ずかしく苦い失敗や、そういうものも、まとめて何か、答えのようなものを出せるのではないか。

 頑張りに頑張った中学生の頃の僕も、陽キャだと信じて疑わなかった愚かな僕も、その結果、当然上手くいくと思えたのにきっぱりと拒絶された僕の恋のようなものも、全部、意味があったことのように思えるはずなのだ。

 そうだ。

 根拠も理由も分からないけど、自分が物語の主人公になれると思っていた僕に。

 その為に、剣道に打ち込んで、苦手な人間関係を広く築いて、生徒会に入って、みんなと学校行事を引っ張って。

そうやって、無理矢理学校生活で中心となるポジションで踊っていた、ただのピエロだった僕に。

やっと、本物になったのだと、なれたのだと言える。

そうすることで、僕はここ数カ月の間、失っていた人生を取り戻せる。

 取り戻せたなら、高校生という貴重な時間の残りを、人並みに生きることができるに違いない。いや、高校生活だけではない。僕の人生のこれからを、全て意味のあるものに出来るのだ。

 僕は自宅に帰り、PCで小説の続きを書く。

 すでに出来ているプロットに沿って、サイトの読者が読みやすく、楽しみやすそうな文体と展開を意識しながら書く。

 難しい言葉は使わない。

 洒落た表現も使わない。

 文学的な言い回しも、美しい日本語も、行間を読む必要があるような複雑描写も、使わない。

 サイトの読者は、そんな文学作品を求めていないからであり、そう言った崇高な文章を理解する知識を持っていない。

 稚拙で退屈な文章。

 ありふれた、既視感のある展開とキャラクター。

 閃くことも、熱が出るほど考え込むこともなく作られた安易なストーリー。

 書店に並んでいても、僕なら手にとることすらしない類の小説。

 だけど、そんなお粗末でつまらない小説は、渾身の力を込めて書き上げた作品よりも、他人から評価され、僕をプロの作家にまで押し上げようとしているのだ。

『なんだ、偽物か』

 僕の耳に、壱岐先生の言葉が、フラッシュバックする。

 家に帰り、自分の部屋に戻ると、殆ど脊髄反射のようにPCを立ち上げる。

 朝起きても、学校から帰ってきても、僕が真っ先にやることは小説を書くことであって、その為のこの作業は、すでにルーティンを通り越して無意識下で行っていることだ。

 デスクトップのアイコンから、ワードを立ち上げて書きかけの小説を表示する。

 面白くない小説。

 楽しめない小説。

 ただ、プロになる為だけに、サイトで人気を獲得する為に作られ、書かれた小説。

 キーボードで続きを打ち込み続けている間にも、僕の頭の中には、壱岐先生の言葉が何度も何度も巡って離れない。

「ッッ!!!!」

 タンッ、と僕は思わず、酷く強くエンターキーを叩いた。

「……分かってる……分かっているんだよ。これが、間違っていることなんて。こんな方法で小説家になったって、偽物なのは、僕が一番よくわかってるっ」

 だけど、仕方がないじゃないか。

 僕には、実力だけで賞が取れるほどの才能がないのだから。

 僕にだって、壱岐芳助のような才能があれば、こんなくだらないことになど、時間を使ったりはしない。

 コメントを返す時間、コミュニティでやり取りをする時間、掲載している小説の宣伝も含めた足跡づけをする時間。

 その全部をもっと面白い小説にする為に費やしたい。

 でも、僕がそれをしたところで、やってもやっても、プロへの道は開けない。

「……書きたくないっ! こんな小説、書きたくなんかないんだっ!!」

 何が面白い?

 腐るほど出回っている異世界転生モノ。

 なんの意味も根拠もない少年が、ある日突然事故にあって、目覚めると異世界に転生していて、なんらかのチートの能力を持っていて、その世界で活躍する。

 そこに合理性も、緻密な設定も、考え抜かれたトリックもない。

 安い爽快感だけを与える、浅くて無意味な小説。

 僕は僕の小説を、面白いと思わない。

 面白いと思わないものを、僕はずっと、何カ月も書き続けているのだ。

「くそっ……くそっ! くそっ! なら、どうすればいいんだよ!!」

 僕は誰もいない自分の部屋で、PCに向かって怒鳴りつけた。

 どうすればよいか。

 どうすればよかったのか。

 小説に対するはずの僕の悲観は、そのままいつしか、僕の人生への悲観になっていた。

 信頼されたかった。中心となる人間になりたかった。仲間だって、友達だって、沢山欲しかった。

 その為に、僕は頑張ったのに、それは認められることなく、何も残らなかった。

 どうすれば、僕は上手くやれたんだ?

 どうすれば、高校が違っても繋がっていられる友人を得ることができた?

 どうすれば、『白峰宗介』という人間単体で、クラスの中心になることができた?

 どうすれば、僕が好きだった女子に拒絶されなかった?

 どうすれば、僕は僕の書きたいものを書いて、小説家になれるんだ?

「ふざけるなよっ……ふざけるなよっ! 分かってるんだよ。これが偽物だって……言われなくたって、わかってるんだ」

 悔しくて、歯を食いしばっても、僕の目じりからは、涙が少しだけ零れてきた。

 泣いたのなんて、何年ぶりだろう。

 こんなに惨めで、こんなに虚しくて、こんなに悔しい気持ちは、どれほどぶりだろうか。

 よりにもよって、憧れの人に直接否定されるなんて、これほど刺さることはない。

 こんな思いを、二度としたくないから、人生を諦めてきたというのに。

 恨みのこもった目で、モニターを見つめる。空虚な文字と物語が、ツラツラと書き綴られている横に、別の書きかけのタブが見えた。

 それは、自分の手掛けている小説ではなく、栗花落鳴華から依頼されている『ラブレター』の文章であった。自分には関係のない恋文を、さも当事者のように書かなければならないこの依頼は、どれほど意味があるのだろうか。

 書きかけの手紙は、完結していないばかりか、まだまだ言葉も言い回しも、洗練されていない状態のものだった。

 そこでもやはり思うのは、僕の立ち位置に関してだ。

 なぜ僕は、手紙の代筆などをしているのか。

 僕は、栗花落さんに、手紙の代筆を頼まれたい訳ではない。

 そうじゃないんだ。

 そうじゃないんだよ。

 どうせ学年で噂になるほどの美少女と関わったのなら、当然その子と親しい友達か、あわよくば思い人になりたい。

 小説を書いているのなら、自分が信じて、楽しめる内容のものを書いて、大賞を取ってデビューしたい。

 そんなこと、極一部の人間にしか許されていないことは十分に分かっているし、自分がそんな選ばれた人間からあぶれていることだって認識してる。でもだからこそ、欲しいんじゃないか。

 そういうキラキラとした栄光が。

 『特別』である何かが。

 誰よりも、自分が特別じゃないことを知ってるから。

 何か一つくらい、理想的な何かあったって、いいじゃないか。

 頑張っているんだ。

 努力しているんだ。

 傷ついているんだ。

 苦しんでいるんだ。

 過去も、今も、ずっと。

 なのに、なんでまだ、僕は否定されなければならないのか。

 陰鬱な気持ちが、胸からジリジリと全身を焼いていく。

 その痛みに唇をかみしめながら、僕はPCの古いフォルダを開く。そこには、三年前に優秀賞を受賞した小説が保存されている。

 『朝を憂う』

 それが、小説のタイトルだった。

 丁度、壱岐芳助の『﨟闌(うろた)けるネクロフィリア』を読んで、その圧倒的な世界観に引っ張られている時期であったことと、知り合いの女子の間で、ほんの少しだけ、ゴシックロリータ、所謂『ゴスロリ』ファッションの話題が流行っていたことと、そこに少なからず共感や、純粋に可愛いとか、綺麗だとか思っていたこともあり、なによりまさしく中二病ど真ん中だった理由も相まって、その時書き上げた小説は、ゴスロリと悲壮感と死生観が、恋愛感情とごっちゃになった、恋愛小説だった。

 簡単にあらすじを言えば、秘密裏にゴスロリ趣味のあるヒロインと、学校でイジメに合っている主人公が『本当の自分を他人に分かってもらえない』という部分の共感から始める恋愛模様を描いたもので、自分としては『他人に左右されない価値観』や『どんな自分も肯定して良いのだ』と言ったようなメッセージ性を持たせたもののつもりだったが……。

 今読み返してみると、実にイタイ小説だ。

 拙い文章と未熟な言葉の使い方。

 思いや信念が先走って空回りしてるのが、文章から伝わってくる、青臭い作品だ。

 久しぶりに読み返してみると、読みながら幾つも修正してしまいたくなる部分があって、それだけでも実に読みにくい。

「…………」

 僕は、息を呑んだ。

 確かに、その小説は未熟で、今の僕の方が数倍文章も上手ければ、語彙力も高い。小説としての読みやすさも段違いだし、何よりこなれている『プロっぽさ』がある。

 それでも、この『朝を憂う』には、勢いがあった。

 そんな不出来な部分を勢いとノリと、青臭い我儘で力いっぱい殴るような、そんな何かが感じ取れるのだ。

「なんだよ。これが足りないってのか? こんな稚拙な勢いが、重ねた努力や研鑚よりも勝っていうのかよ」

 認められたあらゆる小説家たち、小説家候補たち。入賞した者、僕よりも次の選考を通過した者。

 自分よりも認められた人間が、全て著しく悉く、恨めしく妬ましい。

 それが、過去の自分であっても。

 どうやっても、新人賞や小説大賞では、三次選考よりも先に進めない僕は、まぐれでもなんでも優秀賞をとった以前の僕が、こんなにも恨めしいのだ。

 壱岐先生の言葉は、僕がもう随分と前に折り合いをつけてきた負の感情や、後ろめたさやそう言ったものを焚きつけた。焚きつけられたら、一気に乱れて、収取が憑かなくなった。

 そうか。

 僕は何も、諦められてなどいなかったのだ。

 何かを成すまで、小説家になるまで――。

 人生を諦める?

 現実を諦める?

 何が、『諦める』だ。

 僕はこんなにも、誰かに認められたがっている。

 注目されたくて、認められたくて、自分の才能が本物なのだ言って欲しくて、その大勢の『普通』な人達とは違うのだと、証明したくて、仕方がない人間だというのに。

『お前さ、マジで拗らせてるんじゃないのか?』

 頼親の言葉が脳裏をよぎる。

 ああ、そうだよ。

 僕はきっと拗らせている。

 栗花落鳴華に、初めて声をかけられた時、本当は、心が躍っていた。

 見るからに美少女で、自分の好みの女子が、なんの接点もないのに僕に声をかけてきたのだ。そんなの、ラッキ―だと思うし、理由を深読みするし、勘違いだってする。

 その後に続いたやり取りも、一緒に出掛けた神保町も、体育館で振られた手も、少しでも、僕に興味を持ってくれて、あわよくば好感を持ってくれたなら、どんなにうれしいかと、心の奥の奥の更に奥の方では、期待していた。

 それを、僕はプライドと羞恥心の為に見ないことにして、無かったことにしていたのだ。

 勘違いだった時、独りよがりだった時の、あの悔しさと虚しさと恥ずかしさと、心をえぐる痛みをもう二度と味わいたくはなかったから。

 一度あふれ出した本心は、何をどうやっても止まることはなく、水で満たされたビニル袋に穴が幾つも空いたように、塞いでも塞いでも漏れ続けて、僕の感情は一瞬でグチャグチャになった。

 そうなったらもう、どうにもならなかった。

 僕はしばらくの間、PCのモニターの前で頭を抱えて、机に突っ伏すように蹲りながら、低く唸りを上げていた。

 急激にあふれ出して、ひっちゃかめっちゃかになった感情を、制御することはおろか、体内に押しとどめておくことすらできずにいたのだ。

 唸りはやがて、嗚咽になり、また涙が流れていた。

 その日はそのまま、僕は唸り、泣き続けた。

 夕飯もなにもかも断って、部屋にこもり続けたのだ。

 まともに動いたり、誰かと会話できるようになるには、まだ随分と時間が必要に思えた。

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