第6話 恋

そのあとの授業、はじめはまったく身に入らなかった。


告白したであろう夏樹と、告白されたであろうかえでも、いつもと全く変わりない。


見た目には何も変わらない日常が、そこにあるだけ。後ろの席からそれを眺めて、なんだかとても切なくなった。


上の空で授業をきいて、夕方。はじめはのろのろと帰る支度をして立ち上がった。晩ご飯、商店街でお弁当でも買おう。


今年いまとし、昨日のことだけど」


教室をでたところで、はじめはまた橘につかまる。もう、きょうはそれどころじゃないのに。


「あ、はい。自分でも古文や漢文が好きなのは自覚しました。でもそれがその先の就職に、どう結びつくかまでは考えられなくて……」


ふむ……と顎を右手でつかんで考える先生。


「お前、教えるのもうまいだろ?」

「教える……ですか」

「教師とかどうなんだ?」


教師……僕が? たしかに人に教えるのは好きだけど。


「お前のレベルなら、専門的に学んで大学の教授にもなれるとは思うが」


「教授……」


そんな選択肢、考えたこともなかった。大学の教授になれば、寝ても覚めても研究に明け暮れることになる。それは……願ってもないこと。


そんなこと、許されるの?


「はい……考えてみます」

「医学部コースが悪いってわけじゃない。お前の人生だからな。でも文系科目の方が得意だろ? それが生かせる学部でもいいんじゃないか」


そう告げて、先生は職員室へ戻っていった。


教師……、大学教授。文系の学部!? 降って沸いた自分の新たな選択肢に揺れ動く。

自分がやりたいことってなんだろうと問いかけながら塾をあとにした。

頭がぼーっとする中、なんとか商店街でお弁当を、買って家路に着く。


──ガチャ


「ただいま……」


消えそうな声で中へと声をかける。ずいぶん静かだ。


「ゆめー?」


薄暗い家の中へ入る。リビングにゆめはいない。祖父の離れのドアは開いていて、そろそろとのぞくと風が吹いてくる。


どこかの窓が開いているらしい。祖父の部屋の前で声をかけるが返事がない。

そっと開けると、縁側の窓が空いていて、白くて長い耳がピョンと跳ねては消え、ぴょんと跳ねては消えているのが見える。


「ゆめ?」


低い音で「プゥプゥ」と鳴き声がする。え? ウサギって鳴くの?

慌てて縁側に駆け寄ると、庭の青い芝生の上で美しい白ウサギがちょこんと座ってこちらを見ていた。


「ちょっと、ゆめ。何してるの?」


おおかた、また外にいるうちに月が隠れてしまったのだろう。はじめは呆れながらゆめを抱き上げて、リビングへ連れて行き、足をウェットティッシュで拭いてから下へおろした。


「ゆめ、どうしたの。外に出ているうちに時間になっちゃったの?」


こくこくと、かわいい顔を上下させてうなづいている。


「誰にも見られなかった? 生垣はのぞけば中も見えるんだから」


少し厳しくはじめが言うと、しゅんとして動かなくなったゆめ。

いまここにいられるのなら、見られてはいないのだろう。月の出は、日がかわって0時13分。話をするには時間が遅い。明日の朝にでも話を聞こうと、はじめは息をつく。


「お腹すいた? 晩ご飯食べようか」


ゆめは嬉しいのか、ピョンピョン部屋の中を駆け回った。水を皿に出すと、勢いよくペロペロ飲む。ずっと外にいたのならさぞ喉が渇いただろう。


冷蔵庫を開けると、今朝コンビニで買ったハンバーグ弁当がそのままになっているので、昼も抜いたのだとわかる。


多めにエサを盛り付けて、ゆめの前に置くと、ガツガツと音を立てて食べ始めた。ウサギになってる時の気分ってどんな感じかな。考えれば考えるほど不思議。


はじめは自分も夕食をとると、庭の隅にある倉庫へいって、祖父の趣味だったDIY用具の中から、適当な幅の木の板を持ってきた。


後ろからゆめもちょこちょこついてきて不思議そうに見つめている。器用にスロープを作ると、それを祖父の部屋の縁側にかけて、部屋と庭の行き来ができるようにした。


「ゆめ、ちょっと上ってみてよ。これなら行き来できるでしょ?」


ゆめはそろそろと、スロープを上ったり下りたりする。問題はなさそうだ。「さっきも、ウサギのままじゃ縁側に上がれなくて困ってたんだよね? 行き来これで自由にできると思う。

そのかわり、雑巾絞って縁側に置いとくから、ちゃんと足を拭いてから入ってきてよね」


こくこくと、かわいらしくうなづく。

まったく、心配ばっかりかけて。はじめはしゃがみこんで、ゆめの背中をそっと撫でる。

ゆめも気持ちいいのか、するすると僕に擦り寄ってきた。なんか癒されるな。


縁側にから中に入って戸締りをする。


「ゆめ、疲れたろ。ゆっくり休んで……」


振り返ると、ゆめはハートのクッションでもう寝息をたてていた。昼間、何があったんだろう。なんか毎日怖い思いしてるんじゃないかな。

昨日は小学生に追いかけられて、今日は部屋へ戻れなくなって。


地味に怖いことだったに違いない。熱中症にならなかったのは不幸中の幸い。

はじめはゆめの背中を撫でると、そっと部屋を出て行った。


2階へ上がり、自室のベッドに倒れ込む。はじめの心の中を今日あったことがぐるぐると頭を駆けめぐり、橘が言ったことを思い返していた。


古文を専門にした大学教授。好きなことを勉強し続けられるなんて。そんな嬉しいことがあるだろうか。


医学部進学は? 親は? 何もなければそうしたい。でも、期待されている以上、それを口にする勇気も湧いてこない。

枕に顔を突っ伏していると、スマホが震えた。画面を見ると兄のれいだった。


「はい、もしもし」


「あ、はじめ? おれ俺。お兄たまですよ♡」


「ちょっと、いま人生の大事なところだから切るね」


「ちょっ……待て待て。人生の大事なところってなんだよ。好きな子に告白するのか?」


「あのね、零にとったらそうかもしれないけど、僕は進路について真剣に考えてるの!!」


声を荒げてそう言うと、零も黙っている、ややあって、零が口を開く。


「なぁ、お前がもし、置かれている環境になんの制約もなかったとしたら、どんな未来を選ぶ?」


「なんの制約も?」


「家族のこと、お金のこと、やるべきだと思って疑わなかったすべてのことが、何もなくなって、お前の自由に選べるとしたら? お前は何がしたい?」


目の前がぱあっと明るくなる。自分の自由に未来が選べる? 無限の可能性を自分で選べるとしたら? 周りを塞いでいた壁がすべて取り除かれて、広い草原の真ん中に立っているような気がした。


「僕、古文の勉強がしたい。大学で専門的に研究してみたい」


考えるより早く、言葉が出てきた。そんな気持ちがあったんだ……。「いいじゃん! それ。お前昔から百人一首とか、万葉集とか好きだったもんな。……本気でそうなりたいと思う?」


「そうだね、何も制約なければね」


「制約なんか、ないよ。お前の人生だろ。やりたくないものなんか、やるなよ」


「……」


「あさって日本に帰るから、ちょっと話そうぜ。といっても彼女の家に泊まるから、家には泊まらないけど。話ししよう」


なになになに? いろいろぶっこんできた零の話についていけない。


「あっ……あさって? なんでそんな急に!?」


イギリスこっちも夏休みなんだよ。彼女に会いに帰るつもりだったけと、お前の顔も見たいからさ。父さんと母さんは学会でアメリカだろ? 帰ってきたタイミングで家族会議やろうぜ。根回ししとく。俺は今月中にイギリスに帰ればいいから」


ルンルンで話す零のテンポが早すぎる。はじめが、あの、えっ? とうろたえている間に「じゃ、そういうことで」と電話は切られてしまった。なっ……えっ? 心強い? 強引? 無茶苦茶? 変わらない竹を割ったような兄の言動にびっくりする。スマホを布団の上にボスっと置くと、ゲラゲラと笑いがこみ上げてきた。


いままでずっと苦しかった気持ちが、あっという間になくなっていた。

壁は取り払われて、自分の足で歩いていけることに快感すら覚える。


こんなに簡単だったんだ。

グズグス悩んでいたのが馬鹿らしい。いまの自分なら親に話もきちんとできそう。殴られても、罵られても、自分に正直でいよう。


塾のコースも夏休み中はこのままでも問題ないだろう。話し合ってから、文系コースにかわればいい。


なんかやる気がみなぎってくる。

金色のオーラに包まれて机に向かうと、はじめはガリガリと音を立てて勉強をはじめた。

気がつくと、時計はもう深夜2時を指していた。


5時間も……。かつてこんなに集中していたことがあっただろうか。自分の中にあるエネルギーが放出されるとは、恐ろしいものだ。


うーんと伸びて、はじめはシャワーを浴びようと下へ降りていく。祖父の離れからは物音もなく静かだ。ゆめがきてから不思議なことばっかり起こる、そんな気がしていた。シャワーを浴びて、リビングでお茶を飲んでいると、カタンと音がする。


外から聞こえたようだ。はじめはリビングの窓を開けて、あたりを見回すと、ゆめが縁側にすわってぶらぶらと足を揺らして空を仰いでいる。


はじめも空を見上げる。きれいな三日月がのぼってきていた。


「はじめ? まだ起きてたの?」


こちらに気がついたゆめと目が合う。屈託ない笑顔に、心臓がドキンと跳ねた。


「うん……勉強してた」


「おつかれさま」


「ゆめは? 眠れない?」


「うーん、そんな感じ。ねぇ、こっちくる?」


気怠く誘う声に、なぜか心臓がバクバクと音を立てたので、はじめは驚いた。


なんだろう。この鼓動。リビングの窓からそっと外へ出て縁側まで行くと、紺地に金魚の柄の浴衣姿のゆめが、ニコッと笑う。


えっ、なに……。かわいい。

はじめは思わず右手で口を押さえる。


「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

「どうぞ」

「うん」


すすすっと、ゆめは横にずれる。空いたところに、はじめはちょこんと座った。


「ねえ、はじめ」

「なに?」

「願いごとってもう、決めた?」

「ああ、ゆめが帰るときに叶えてくれるってやつ?」


コクコクとゆめはうなづく。「あの朔さん? だっけ。あの人に会ったときは医学部に合格させてほしいって思ってたんだけど。もうそのお願いは必要なくなっちゃったんだ。だから他のお願いを考えようと思ってる」


「いがくぶ……。お医者さんはもういいの?」


「うん。もういいんだ。実はさっき兄と話してね、お前の人生なんだからやりたくないことなんかするなって言われた。

そしたら、バーンと目の前がひらけたみたいになってさ。医学部目指さなくてもいいんだって思ったらすごくうれしくて。おかしいよね、物心ついてからずっと医者を目指してきたのに。たった一言でやめちゃうんだから」


ゆめはじっとはじめを見つめて、話を聞いている。


「でも、いいんだこれで。もし両親に怒られたとしても、呆れられたとしても、こんな気持ちで医学部なんかいけない。お医者さんなんか、到底なれないよ。

それなら、自分の好きな分野の勉強をとことんしたい。研究や、発見をできれば幸せ。そうじゃなくても、自分の気持ちに正直でいたいって思ったんだ」


はじめは三日月を眺めながら、そう話した。最近では、進路の話になると全然声が出なかった。医学部に行きたい。そう絞り出すことが精一杯のことだってあった。


本当にこれが自分なのかと思うくらい、どんどん言葉が出くることに、はじめは驚いていた。自分の好きなことに挑戦する。それがどれだけ自分にとって力をくれることなのだろうか。

「……はじめ、よかったね。すごくいい顔」


そう言われて、はじめはゆめに目を落とす。穏やかで、美しい笑顔にボンっと顔が赤くなる。


「まだ、問題は山積みだけどね。両親も説得しなきゃいけないし。兄がもうすぐ日本に帰国するから一緒に話してくれることになってるんだ」


「そっか、お兄さんいるんだっけ」


「うん、いつも優しくて頼りになる兄だよ。変人だけどね」


「ふふっ、会ってみたいな」


「そうだね。家にも少し来るって……ああっ!?」


はじめは大きな声を出して、ハッと深夜だということに気づきあわてて口を押さえた。


兄は明後日帰国する。家に寄ると言っていた。え、ゆめのことをどう説明するんだ?


「……わたしのこと?」


「うん……。兄になんて説明しようか。少し寄るだけで、泊まりはしないと思うから、ここでじっとしててもらってもいいし。でも、ゆめは兄に会いたいんだよね? うーん……」


「そうだね。友だちでいいんじゃないかな」


「え、友だち……?」


「うん、はじめの友だち。だめかな?」


吸い込まれそうな目でそう言われて、はじめは息をのんだ。


「そう……だね。友だちならいっか。じゃあそうしよう」


「やった! お兄さんに会うの楽しみ」


素直に喜ぶゆめの姿を見ていたら、はじめはズキンと胸が痛んだ。


えっ、なにこれ。痛い。


初めての感情に、戸惑ってしまったはじめは、ゆめにおやすみと告げてさっさとリビングの窓から部屋に入り、二階へと引き上げていった。



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