第5話 疑惑

地球見学2日目。


はじめは少し早めに起きて、ゆめの部屋へ向かった。


何だかわからないけど、怒らせてしまった。話をしなくちゃ。ケンカしたまま2週間なんて、よくないよね。


祖父の部屋へ続くドアを見ると、少し開いている。

そっとのぞいてみるが、人影はない。


「ゆめ……? 起きてる?」


そろそろと入るが、やはり廊下には誰もいない。はじめは祖父の部屋の襖越しに声をかけた。


「ゆめ、僕。もう起きてる? ちょっと入っていいかな」


「……うん」


やっぱり起きてたんだ。そっと襖を開けると、もうワンピースに着替えたゆめが丸窓を背にして正座してこちらを向いていた。


「おっ……おはよ」


凛とした姿のゆめに、はじめはドキッとした。


「……うん、おはよ……」


部屋に入ってすぐのところに、はじめも座った。なんか変な緊張感だ。


「あの、きのうなんか怒らせちゃったみたいなんだけど……ごめん。なんでゆめが怒ってるかわかんなくて……」


「……いいの。私が勝手に怒っただけだから。私のほうこそ、ごめんなさい」


ゆめ、目が腫れてる。ずっと泣いてたのかな。昨日のことがそんなに怖かったのか。「もういいよ。大丈夫だから。ね、お腹すいてない? きのうから何も食べてないでしょ? 向田さんが作ってくれたオムライスが冷蔵庫にあるから、よかったら朝ごはんがわりに食べる?」


「……うん」


「じゃあ、リビング行こう」


時刻は6時30分。薄暗いリビングに電気をつける。はじめは冷蔵庫からオムライスを出すと、電子レンジに入れ、オートボタンを押した。


「はじめ、ほんとにごめんね」


はじめのうしろをついてきたゆめが、キッチンのカウンター越しに声をかける。


「いいよいいよ、僕、よく人を怒らせちゃうんだよね。何考えてるかわかんないとか、冷たいって言われたこともあるし。きのうも、話題変えようと思ったんだけど、なんか間違えちゃったみたいで」


えへへと後ろのゆめに笑いかけると、涙を溜めて震えている。えっ……また怒りスイッチが……?


「はじめは、冷たくなんかない! 優しいだけでしょ? 相手のこと考えすぎていろいろ言えないだけでしょ? はじめのこと悪く言うやつなんか許さない!! もっとはじめは怒っていいよ!!」


待って待って。なになに?


「ゆめ、ちょっと落ち着こう?」


ふーっふーっと肩で息をしているゆめ。もう訳わからん。

はじめが呆れて息をつくと、電子レンジがチーンと鳴った。ダイニングテーブルを指差してゆめに座るよう促す。

無言でゆめの前にオムライスとスプーンを置いた。


「……ごめん。私、なんか昨日からおかしくて……。ちょっと頭冷やすから、きょうは塾休むね」


「……わかった。ゆっくり食べて、僕少し勉強してくる」


そう言ってゆめに背を向けた。


「ねぇ、はじめ」


後ろから声がして、足を止める。


「なに?」


「かえでのこと、好き?」いきなり聞かれてボンっと赤くなる。

わなわなと震えながら振り返る。


「なっ、なっ、なんで……」


なんでわかったの? そんなに顔に出てたかな……。


「……ふふっ、わかりやすいね」


ゆめはスプーンを左右に振って、ニヤッと笑っていた。


「そんなの、ゆめには関係ないでしょ?」


「……関係あるよ」


「えっ!?」


「あっ、いや。あのね、ほら公園で助けてくれた男の子いるでしょ。名前がえっと……」


「夏樹のこと?」


「そうそう、夏樹。あれはかえでのこと好きだね」


なっ……なんと!? 夏樹が!?


「なんでわかるの?」


ニカっと白い歯を見せて「女のカン」と笑う。何も言い返す気にならない。


「もう、からかわないでよ。きょうは、ちょうど向田さんも用事あって休みだから、家でゆっくりして」


「わかった」


「お昼はどうする?」


「なんか、買いに行く。こんびに? だっけ? いってみたい」


「うーん……じゃあ、いまから買いに行く? 昼休憩の間に塾から戻ってきて一緒にコンビニ行って、また戻って……じゃちょっとキツイかも」


「了解。すぐ食べるからまってて。……っ!! なにこれ美味しいっ!!」


ゆめが食べ終わるのを待って、一緒に駅前のコンビニに出かける。ゆめはコンビニの入り口で立ち止まり、目を輝かせてキョロキョロあたりを見回した。きっと物珍しいのだろう。


「ゆめ、そこじゃまになるから、こっち」


背中を押して、お弁当コーナーへとゆめを連れて行く。「何がいい? サンドイッチとかもあるけど……」


「はんばーぐってどれ?」


ハンバーグ弁当を見せてあげると、それがいいと言うのでカゴに入れる。ゆめは他にももちもち大福や、ポテトチップスなどをカゴに入れていく。地球の食べ物が珍しいんだろうな。


「月の宮殿って、どんな料理が出るの?」


「んー、わしょく? みたいな」


「和食? ごはんに味噌汁に漬物的な?」


「あー、うん。そうだねそんな感じ」


「けっこう質素なんだね」


「食べ物ほとんど植物工場産だしね。ドームの畑の場所も限られるし。地球がうらやましいよ」


なかなか月というところはハイテクなのだな。ドームっていうのは酸素ドームか? 真空状態じゃさすがに生きられないよね。エネルギー問題とか、いろいろありそう。はじめの頭にいろいろな社会問題が浮かんでくる。


「私、お金払うね」


マイバッグに買ったものを入れて、コンビニをあとにし、家へ歩いていく。


ずいぶん明るくなって、日差しが照りつけて痛いくらい。


「はじめ……ありがとう」


「え?」


「なっ……なんでもない」


ありがとうって聞こえた気がするけど、しっかり聞こえなかった。ゆめはスタスタと前を歩いていく。道もずいぶん覚えたようだ。


難なく家までたどり着き、冷蔵庫に買ってきたものをしまう。少し早いが、自習室が開いているので、はじめは塾へ出かけることにした。


「いってくるね。外に出ちゃだめだよ。誰かきても居留守つかってね。なんかあったらさっき教えたみたいにスマホに電話して」


はじめは家電の使い方をゆめに教えた。もしものときは110番、119番など基本的なことも。ゆめは字も読めたので、メモ書きも添えて。その点は助かった。月と日本って同じ言葉使うのかな。


「いってらっしゃい! 待ってるね」


屈託のない笑顔を向けられて、心がほわんとする。なんだこれは……。胸がキュッと苦しくなってはじめは足早に玄関をあとにした。***


しんと静かになった玄関に、ゆめは立ち尽くしていた。


ガタンと廊下の壁にもたれかかる。いったい何をしているんだろうか自分は。このままじゃ目標達成どころか、途中で拒否されて強制帰還だってありうる。


はぁーっと大きく息をつく。ふらふらと歩いて自室に戻り、バタンとハートのクッションに倒れこんだ。


目をつぶり、勾玉をギュッとにぎると満月の慌てふためく声がする。


『月夜! ちょっと、あれからどうなったの? こっちは気が気じゃないわよ』


昨日のケンカのあと、ゆめが泣きながら想念を送ったものだから、満月はいたく心配していた。しかもその途中でゆめは寝落ちしたので、いてもたってもいられなかったのだろう。


『……、また怒っちゃった。なんか全然上手くできないよ。恋なんかしなきゃよかった。好きにならなければ、こんなに苦しいこともなかったかな』


ぐずぐずとゆめは泣き始めた。月にいる時はほとんど泣いたことなんてなかったのに、地球にきてからは毎日泣いている。


『……好きな人の前で上手くできないっていうか、怖いのよね、相手を失うのが。だからよけいに墓穴掘るのよ』


『え?』


『私もわかるよ。でもそれだけ本気ってことでしょう。すこし落ち着けば大丈夫よ』


『お姉さま、恋をしたことがあるの?』


『それは、ひみつ♡』


『なにそれ』


『でもね、月夜。言葉で伝えるのってとっても大事よ。それが上手い下手に限らず。素直な気持ちを言葉にするの。昨日みたいに嫉妬しても、いい結果にはならないでしょう?』ゆめは昨日のはじめとの会話を思い出した。かえでとお茶でもなんて言うから、あまりの鈍感具合にぶっ叩いてしまった。


さすがにあれはだめだ。自分のことながらひどいことをしたと項垂れる。短気な自分が恥ずかしく、穴があったら入りたいくらいだ。


謹慎期間が終わって月に帰れば、もう二度とはじめに会うことはない。地球鏡も取り上げられているし、記憶の中のはじめを思うしかなくなるだろう。


父親が決めた人との祝言が待っていて、その夜には夫婦の契りを交わす。そう考えると恐怖の念が押し寄せる。


『思いっきりぶつかれないもどかしさで、ぐちゃぐちゃね。月夜の心は』


何もかも、満月に見透かされて、顔がじわじわと赤くなった。


『思いを告げないってのを、条件にしてくるとは思わなかったよ』


『お父さまもお父さまだわ。あなたたちはそっくりよ。素直じゃなくて、不器用で。お父さまの御慈悲、素直に受け取りなさい。あとたった12日。されど12日。悔いのないようにね』


満月の想念はだんだん消えるように薄くなった。


はじめが好き──そう初めて思ったのはいつだったろうか。地球の様子を知るために使う地球鏡。ただの観察対象でしかなかったのに、いつの間にか心の中がぜんぶはじめで埋めつくされた。



たまたま地球人観察のための勉強で、私にあてがわれた人物。それが「はじめ」だった。


ひとりの人物を、1年間に渡って追いかける勉強。地球人はひどいという固定観念を植え付けるためのもので、見た目は良くても性格最悪みたいな人が選ばれる。


なぜはじめが選ばれたのかわからないが、最初の印象は優柔不断な臆病者。


でも、よく見ればサラサラのきれいな黒髪、端正な顔立ちに、色白の肌が美しい。


優柔不断なのは優しいから。

臆病なのは人の気持ちがよくわかるから。


それに気がついてからは、ときに傷つき、苦しみながらも一生懸命過ごすはじめの姿から、目が離せなくなった。


応援したり、共感したり。涙したり。

ゆめは、穏やかにはじめを見つめていた。


ずっと見ていると、はじめがかえでのことを好きなのが容易にわかった。


切なそうな顔、動揺した声、すぐ赤くなる体。そのすべてが、かえでに注がれているのを見て、ゆめの心に言いようのない気持ちが湧き上がる。


その気持ちは、はじめに対する嫌悪感だと最初は思っていた。かえでという高嶺の花にときめくなんて、どうかしている。バカなことだと蔑んでいた。


それが、もしかしたらかえでも、はじめのことを好きなんじゃないか。そう疑いだした頃からおかしくなった。


かえでは光るようなまぶしい笑顔を向けて、はじめにあいさつをする。はじめが困っていると、わからないようにそっと手助けする。用もないのに話しかけて他愛もない会話をする。


それを何度も見るうちに、ゆめの心に怒りにも似た、燃えるような気持ちが湧いてきた。いったいなんなのこの気持ち。胸がギュッと締め付けられて苦しい。


はじめにこっちを見てほしい。そんなことはできないのは百も承知だったが、ゆめは地球鏡に釘付けになった。それが恋だとも気がつかずに。


はじめに熱を上げているのは、すぐ大王の知るところとなった。


「地球人に恋するなど、言語道断!」


そう罵られた。地球人に恋? この私が? ああ、そうかこれを恋というのか。自覚したのはこの時だった。この気持ちに名をつけられて愕然としたと同時に合点がいく。


そこからは、あれよあれよといううちに重罪人にされてしまった。何度も本当に好きなのか、そう聞かれた。


聞かれれば聞かれるほど、思いが募る。嘘なんかつけない。悪いことなど何もしていない。


──ただ、あの人が好きなだけ。


それをなんとか諦めさせるために、地球へと送られたのだと思っていた。曽祖母さまも嫌気がさして戻ってきたのだから。私も同じことになるだろうと踏んでのことだろう。はじめの家が謹慎先だと知って、ゆめは血の気が引いた。はじめは、かえでが好き。たぶんかえでも、はじめが好きだ。


それをまざまざと見せつけて、落胆させ諦めさせようとしたのだろう。娘が傷ついて帰ってくることをもいとわない。最低な親だな。最初はそう思っていた。


最低な親と思ったが、チャンスは残されていた。2週間、やっかいになるかわりに、ひとつ願いを叶えるという交換条件。


はじめが望んでくれるのならば、また会えるかもしれない。自分のことを好きになってもらえれば……。


それもみこして今年家ここを謹慎先に大王は選んだのだろうか。


でも、そんなの無理だ。今日だってケンカしてしまうし、うまく言葉で伝えられないし、はじめの気持ちはかえでに向いているし。


そう思ったらゲラゲラと笑いがこみ上げてきた。


「なんだ、最初からお父さまの手の中で転がされてたんだ」


ゴロンと体を横にして、大きな丸窓からよく手入れされた庭を見た。日はもうずいぶん高くなって、じりじりと暑さが部屋に充満する。


なんとも言えない焦燥感に頭がぼうっとする。でも、せっかく地球にきたし、はじめにも会えた。それは喜ぶべきことなんじゃないのか。


はじめにとって、この2週間が楽しく、素晴らしい時間だった。そう思ってもらえるよう、努力することだってできる。


いつか、曾祖母さまも帝からそう思われたように。


そう思って、ゆめは自分を奮いたたせる。泣いても2週間、笑っても2週間。それなら笑って過ごしたい。


どうせ帰ったら祝言が待っている。このまま、はじめへの気持ちを引きずっているのも、相手に失礼。


帰る日にはちゃんと好きだって言って、地球を去ろう。最後の日なら条件を破ってもきっと大差ない。せめてこの気持ちを昇華させたい。好きという単語を使えなくても、それを匂わせることぐらいはできるだろう。


叶わないと知っていても、自分勝手だとしても、相手を困惑させたとしても。自分の気持ちにケリをつけてあげたい。


不本意だけど、かえでとのことも何か協力できたらいいな。はじめが嬉しそうだと、私も嬉しいし。


ゆめは自分の気持ちを全て整理し終えると、大きく息をつき、すっと丸窓の方に体を向けて座り直す。


その顔からは迷いが消えて、凛とした顔つきになっていた。


時計を見ると11時40分。ウサギになるまであと1時間。暑いかもしれないけど、少し外に出てみようかな。

ゆめは、広い庭を散策しようと、和室の縁側から庭へと降りた。今年家の庭は広い。青々とした芝生と、季節の草花。イングリッシュガーデンを彷彿させるかわいらしい庭だ。


うわーっと、ゆめは思わず声が出た。地球鏡で見るより、実物のほうがよっぽど素晴らしい。咲き誇る花々にあいさつをしながら歩いていると、さすがに暑くなって、頭がくらっとする。


少し、休ませてください。

ゆめは庭でいちばん大きな木、クスノキにもたれかかって、そう話しかけた。


月の住人の特徴のひとつは、木々や草花と想念を通じて話ができること。昨日も、公園の木々としゃべっていて時間を忘れた。


『こんにちは、はじめまして。月からきた月夜美谷之命です。2週間お世話になります』


さわさわと、木が揺れて声が頭の中に直接聞こえてくる。


『はじめまして。こちらこそ、よろしくお願いいたします。これはこれは、よくお姉さまに似ていらっしゃいますね』


ゆめは昨日眠れなかったせいで、意識を手放す寸前だった。


『お姉さま……満月ですか? 会ったことが……ある……の……??』


ゆめは疑問に思ったが、眠気に耐えきれず首をガクンともたげて、眠りに落ちる。


クスノキは眠っているゆめに、話の続きを語りかけたが、ゆめの心には届かなかった。***


今年家の庭は、生垣に囲まれて入るものの、近づけばその隙間から中が覗ける。


庭のすぐ外側の道路を、昨日ウサギのゆめとあそんでいた女の子とその母親が、公園からの帰り、手をつないで歩いてきた。


ちょうどそこへ母親の知り合いが通りかかって、ふたりが立ち話を始める。女の子は手持ちぶさたになって、生垣のすき間から今年家の庭をのぞいた。


──あれ、昨日のお姉さん? この家の人だったんだ。気持ちよさそうに寝てる。うさちゃんもどこかにいるのかな?


女の子は、木陰で寝ている人が昨日のトイレに入って出てこなかった女性だと気づいた。


「ねぇねぇ、雪ちゃん」


そこで母親に話しかけられて、後ろを振り向いた。学校のことなどを少し話して、また生垣をのぞく。


んんっ!? 先ほどまで木陰で寝ていた女性の姿はなく、かわりにかわいい昨日の白ウサギがそこにちょこんといるだけ。まるで変身でもしたかのようだ。


女の子はあわてて母親に告げた。


「ねえ、お母さん! やっぱり昨日のお姉さんはウサギかも!?」


「え? もう、何言ってるの? すみません、ときどき変なこと言うもんだから」


母親は、知り合いの女性に申し訳なさそうに謝った。


「……雪ちゃん、その話もうちょっとよく聞かせてもらえないかな」


雪の母の知り合いの女性、西野弥生にしのやよいはスマホの録音アプリを起動させながら、雪に話しかけた。***


同じ頃、塾は昼休みの時間。はじめは昨日のゆめのことを改めて考えれば考えるほど、気になってイライラし始めていた。なんであんなに怒ったんだろう。ケーキじゃなくて大福の方がよかったかな。だとしても殴ることないよね。


惣菜パンを噛む音が、ブリブリと音をたてる。怒りのあまり、近づいてきた人物に気がつかなかった。


「今年、あのさ」


斜め上から降ってきた声。びっくりして弾かれたように顔を上げると、夏樹の姿があった。


「あっ……ごめん。ぼうっとしてた。どうしたの?」


はじめは慌てて言葉を拾う。昨日のこともあって、変に緊張した。


「あのさ、かえでのことなんだけど」


えっ? かえで? ゆめのことじゃなくて? なんだろう。ふと教室の前の方に目をやると、かえでは女友達とランチタイムを楽しんでいるようだった。


夏樹ははじめの前の席に座ると、じっとはじめの目を見た。なに? 決意のようなものが目の奥にある。そんな不思議な目つきだった。


「俺、かえでのこと好きなんだ」えーーーっ!!

きっ、昨日ゆめが言ってたとおりだ。えっでもなんでそれを僕に? 相手間違えてない? はじめはわかりやすくうろたえた。


「昨日、かえでに告白したらさ」


なっ……なに? 告白? かえでに? あまりのことに思考がついていかない。


「他に好きな人がいるから、ごめんなさいって断られた。大学合格するまでは彼氏も作らないって決めてるらしい」


ほーっ。そうなんだ。って感心してる場合か。かえで好きな人がいるんだ。


はじめは自分でボケてツッコむ脳内コント状態に陥り、正常に思考ができない。


「そっ……そうなんだ。でもなんで僕にそれを……」


夏樹はしばらくうつむいて黙っていたが、ゆっくり顔を上げた。


「かえでが好きなのは、お前じゃないかと思ってる」


「はっ……? かえでが僕のことを?」


もう思考は完全に停止した。なぜ? なぜそう思う? どこらへんが?


「俺は一度フラれたからって、簡単にかえでをあきらめるつもりはない。お前がかえでのことを好きなのも知ってる。だからこれは宣戦布告だ。手加減なんて、しないから」


なっ、えっ、ちょっ……待って、僕の思考を返して。


「ちなみに、俺はH大の獣医学部志望。意味、わかるよな」


かえでの家は動物病院。夏樹の志望校はH大の獣医学部。まさか、そこまで……? 思考の歯車が回り出す。


「つまり、かえでのことが好きだから? その先まで見据えて……?」


一度回り出した歯車は速度を上げて、ドクドクと夏樹の言葉を体全体に走らせ、ビリビリと手足が痺れる。


「まさか。そこまでじゃない。そばにいたいとは思うけど」


夏樹は切なそうな顔をして「じゃ」と立ち上がる。「そうだ」


何か思い出したのか、もう一度ストンと座り直した夏樹。いったいどうしたんだろう。


「昨日、一緒にきたおまえの親戚の、えっと……」


「あ……うん。ゆめのこと? どうした?」


「お前の家に住んでるの?」


はぇ? なんで知ってるの? まあ隠す必要もないけど……。はじめが口を開く前に、夏樹が切り出す。


「今朝、塾に来る途中で、お前と家に一緒に入ってくのたまたま見かけたんだ。お前が、何しようと俺には関係ないけど、かえでを傷つけるなら許さないから」


「僕は、ゆめのこと親戚の子としか思ってないよ。それにゆめだって僕のことなんとも思ってないし」


はじめは夏樹に、昨日ゆめに殴られたこと、今朝また怒鳴られたことを話した。夏樹の目がどんどん丸くなっていく。


「……お前はニブチンだな」


はぁーっと大きく息をついて夏樹は足を組み、頬杖をついて窓の方に目をやる。


「にっにぶちん? なんで?」


顔を真っ赤にして怒ると、夏樹は窓の方を向いたまま「それ、お前のこと好きだから怒ったんだろ。それぐらいわかってやれよ」と言って立ち上がると、小さく息をついて教室を出て行った。夏樹の後ろ姿を見送ってしばらくたっても、はじめはまだぼうぜんとしていた。


今度はかわいらしい天使の声が斜め上から降ってきた。


「はじめくん、あのね」


バッと時速160キロの豪速球並みに顔を上げると、かえではびっくりしてのけぞった。


「ああ、ごめん。なに?」


さっきからみんななに? どんどん俺にたたみかけてくる。思考を整理させてくれー!! はじめの頭はショート寸前だった。


「ウサギ、大丈夫だった? もしまだ出血があるようなら、お父さんが消毒に来なさいって言ってたから……」


「あぁ、うん。ありがとう。もうすっかりいいみたい。傷も浅いし、心配かけちゃってごめんね」


「ううん、それならよかった。またこんどおうちに遊びに行かせて」


「うん。また予定みとくね」


さっきの夏樹の言葉が頭を巡る。変なドキドキが止まらない。相変わらずの透き通る美しい顔に、息が止まりそうになる。


はじめの混乱をよそに、かえではにこっと笑って自分の席に戻って行った。


半分食べかけの惣菜パンを袋にしまうと、はじめは大きく息をついて机に突っ伏した。


頭の中を整理する。

夏樹はかえでがすき。

あくまで仮定だけど、かえでは僕のことが好き。

あくまで仮定だけど、ゆめは僕のことが好き。

僕は、かえでが好き。

かえでは大学合格が決まるまで誰とも付き合う気はない……。


なにこれ。複雑。

整理した反面、自分はどうしたいのだろうと考える。


かえでと付き合いたいとか、恋人になりたいとか。はじめはそんなこと考えたこともなかった。かえでは高嶺の花で、みんなのアイドル。自分みたいなのがそう思うことすら憚られるように感じていた。


告白するなんて、もってのほか。ただ遠くから見ているだけで十分。心の中でそっと応援したり、ときどき話してもらえるだけで嬉しい。


かえでにはこういう人がお似合いだなとか、その人はやめた方が……とはよく思った。


かえでに特定の人がいたことは、はじめの記憶ではないけれど、噂の煙はあちこちであがる。そのたびに心の中で、ああでもない、こうでもないと考えていた。


たしかに、かえでのことは好きだ。この気持ちに名をつけるとすれば「好き」だろう。でもかえでが誰かと付き合って、恋人同士になったとしても、きっと素直に祝福できる。


嫉妬にまみれて、自分を見失うことはたぶんない。


こうしてあらためて考えるとこれは「恋」なのだろうかという疑問が浮かぶ。かえでを独占したいとか、押し倒したいとか、いわゆる思春期的悩みもそういえばないことに気づく。


あれ、なんかよく理解できない。はじめは自分が、かえでのことを好きだけど、恋愛対象として見ていないのでは、というところまで考えて思考を止めた。


そんなことって……。うそだろ?


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