第4話 言い訳

バタバタ。タッタッタ……


一階から足音がする。あぁ、向田さんがもう来てるんだ。きょうは早いな……もう起きなきゃ……。


向田さん……、向田さんっ!?


スマホをみれば時刻は8時20分。

はじめは脱兎のごとく駆け出して、階段を駆け落ちた。


ドッカン、ドンドンドドーン!!!


いたたた……。激しく打ちつけた腰をさすっていると、キッチンからバタバタと足音がする。なんだろう、何人もいるみたいな音……。


「はじめっ!? 大丈夫?」

「ぼっちゃま、お怪我は?」


心配そうに見つめるゆめと向田さん。ゆめは母親の洋服を着ていた。和室のタンスにあったのだろう。昔よく着ていたワンピースだ。


あれ、もう……ふたりはお知り合いに?


「あ……大丈夫です」


腰をさすりながら立ち上がって、リビングへいき、ダイニングテーブルにつく。

ゆめは向田とキッチンに立って、あれこれ話している。なに? いったいどういうこと?


「ぼっちゃま、親戚のお嬢さまがいらっしゃるならお声かけてくださいませ」


「へぇっ!?」


なんで……。はじめはあまりのことに口をパクパクさせてうろたえた。


「坂井のお嬢様でしょう? ずいぶんご無沙汰でびっくりしましたが、東京へ受験勉強の武者修行にいらしたとか」


ゆめは、気まずそうに肩をすくめて、こちらを見ている。


「あっ……ああ、うん。そうなんだ。僕の塾に一緒に行くことになってて。ね?」


「はい、突然おじゃまして申し訳ありません。昨日は塾で夜遅くなってしまって……。二週間、よろしくお願いします」


「こんなにお菓子もいただいて」


仏壇の前には大量のお供物。なるほど、向田さんをうまくまるめこんだんだな。

「さ、ゆめさんもお座りになって。急いで食べないと遅刻ですよ」


あわてて向田が用意した食事をかけ込むと、着替えて出発する。ゆめの分のノートや筆記用具も持って。


ていうか、勉強なんかして、どうするんだ?


「はじめ、早く!!」


ゆめはもう準備をして玄関で待っていた。向田がパタパタとかけてくる。


「ゆめお嬢さま、ちょっと前のですけど履けるかしら?」


向田は、見たことのない靴を持ってきた。白色のかわいらしいサンダル。古そうだが、状態はきれいだ。


「わぁ、すてき。ありがとうございます」


ゆめはうれしそうに笑って、サンダルを受け取るとさっそく履いた。


革紐が編まれたデザインで、3センチほどヒールがある。パチンとボタンを止めると、ピッタリだったようで、ゆめの顔がぱあっと明るくなる。


「やっぱり! よくお似合いです」


「ありがとうございます、いってきます」


そういってゆめは玄関のドアを開けた。はじめもあわてて向田にあいさつをすると、ゆめのあとを追う。


「待ってよ、塾の場所わかるの?」


ゆめはハッとして立ち止まった。


「ははっ、そうだった。ごめん教えてくれる?」


そう笑いながらゆめは、はじめが来るのを待って、半歩うしろをついていった。「お金、持ってきた?」


「うん、ほら」


はじめの母親の使っていないショルダーバッグの中に、これでもかとお札をつめてきたゆめ。道の真ん中でファスナーを開けると、お札が二、三枚飛び出した。


「わぁ! わかったわかった。早くしまって!!」


あわててお札を拾い集め、ファスナーを閉める。ざっと三十万はあっただろうか。お金は十分だ。


「お金って大事なんだよ。人に見せちゃダメだよ、悪い人につかまるよ?」


「子どもじゃあるまいし、大丈夫よ」


はじめの心配をよそに、ゆめはそ知らぬ顔で歩ついてくる。


「そうだ、朝。ごめんね、起きるのが遅くなって」


はじめは申し訳なさそうに目を伏せた。


「いいよ、勝手に向田さんが勘違いしてくれて助かった」


祖父の離れに続くドアが開いているのを不審に思った向田が、野球のバットを持って和室に殴り込んできたらしい。


もう起きて母のワンピースに着替えていたゆめは、腹をくくって三つ指ついて挨拶をしたそうだ。


向田は、以前遊びにきたことのある、遠い親戚の女の子と勘違いしたのだとか。さすがにバットで殴りかかってきたときには肝が冷えたと、ゆめは笑った。


「それならよかった。向田さんはもう大丈夫だね。そうだ、道覚えながら行かないと。帰り、ほんとにひとりで大丈夫?」


「たぶん」


「たぶん? 心配だな、じゃあ休憩時間に急いで送るよ」


家から塾までは道もそう難しくないが、ゆめはまるで知っているかのようだ。はじめの後ろを、上を見ながらキラキラ目を輝かせて歩いていきた。塾に着くと、はじめと同じ講座を二週間分ゆめは申し込んだ。医学部受験用コースなのに、ほんとにいいのかな?


「ゆめ、きっとつまんないと思うよ?」


「なんで? まだ受けてもないのに? 最初から決めないでよ」


ツンとするゆめをみて、はじめは小さく息をつく。思ったことが、すぐ言えるゆめがうらやましかった。


心の中にモヤがかかって、言葉すらうまく出てこないのことのあるはじめは、夏の青空のようなスカッとしたゆめの心に羨望の眼差しを向けた。


教室のいちばん後ろの窓際の席にゆめとふたりで座る。ややあって、かえでが声をかけてきた。


「はじめくん、おはよう。あれ? その子……」


「おっ……おはよう! あぁ、この子親戚の子。きょうから二週間こっちで勉強するんだ」


急に話しかけられて、はじめは声がうわずった。かえでの美しさはきょうも健在だ。


「紅葉かえでといいます。よろしくお願いします」


相変わらずのかわいさで笑顔をゆめにもむけたかえで。ゆめはじっとかえでを見ると目を机に落として「はじめまして……」と消え入るように言うと、プイッと横を向く。人見知りか?


「えええっと、こちらはうちの遠い親戚で、坂井ゆめさん」


はじめは慌てて紹介をする。一言くらい話したらいいのに!


「よろしくお願いします。じゃあ」


色白の手を小さく振って、かえでは教室のいちばん前の席についた。塾での席は模試の成績順になっている。


50人ほどの生徒が入る教室。上位40位まで成績順、ビリがわからないようワースト10位は自由席。


もちろん自由席のはじめは、いつも後ろの方で縮こまって授業を受けていた。


「どうしたの? 人見知り?」


まだプイッとして窓の外を見ているゆめにはじめは声をかけた。


「別に。なんでもない」


へんなの。はじめは小さく息をつく。授業が始まって、教室が静かになりペンが走る音だけが聞こえてくる。


日本史の授業。ゆめはどうだろう。


──っ!!


なんだ、この高揚感に満ち溢れた顔は。

体が流星の放射点にでもなったように、美しく輝いた光の粒が、ゆめをとりまく。


喉から手が出るほど知りたかったことを、知った喜び。もっと、もっと知りたいという前のめりの姿勢。黒板に注がれる熱い視線が、はじめの目を釘付けにする。


学ぶことに対して、これほどまでに真摯であったことが自分にあっただろうか。


いつからだろう、勉強に対して興味がなくなったのは。やらなくてもわかった小中学生。適当に勉強してもそこそこの順位にはいた。


高校生になって、そのツケが回ってきた。都内有数の進学校、なんとかそこへ入学したものの、泣かずの飛ばずの下の方の順位。


中学までは上の方にいたので、精神的ダメージがずんと重くのしかかった。


まるで自分が勉強ができなくなったよう。焦って闇雲に勉強しはじめるも、そもそも興味すらないので、頭に入ってこない。


それでも必死にやり続けてきた。

自主性などなく、すべては親の目、友達の目、教師の目からなんとか自分が外れないようにするため。


死んだ魚のような目になって、それでも手を動かし続けた。


ゆめのように、こんなに情熱を持って勉強する人がこの世にいたんだ。僕の知らない感情をいま体中で感じているのだろう。自分が情けなくてたまらない。

知識というものに、恋焦がれているようなゆめの顔は、はじめの心に影を落とした。


90分の授業が終わる。ゆめはずっと流星の放射点のままだった。


「どうだった?」


きくまでもないが、訊いてみる。


「私、日本の歴史に興味があったの。だからいろいろわかって嬉しかった。勉強がこんなに楽しいとは知らなかった。……そろそろ時間だし、帰るね」


「家まで送るよ」


休憩は15分。今から往復しても次の授業に間に合うだろう。


「はじめくん、先生からこれ預かってきたわ」


立ち上がろうとすると、かえでが次の授業のテキストの資料を持ってきた。


「ありがとう、えっと……」


慌てて確認するが、項目が多い。先に見ておかないとバタバタしそうだ。


「私、帰るね」


ゆめは静かに立ち上がって鞄を肩からかけた。


「ええっ!? ちょっと待って」


「いいの。じゃ」


目も合わせずに、教室を出ていくゆめ。顔色も悪かったような?


「ゆめさん、どうしたの? 調子悪いの?」


慌ててかえでも声をかけた。


「やっぱり送ってくよ」


「いいよ、ホテルすぐ近くだし、ありがとう。少し休む。また明日ね」


ホテル? なんだ? どういうことだ?


頭が混乱している間にゆめはさっと行ってしまった。


「大丈夫かしら? ゆめさん……あっ、はじめくん!?」


はじめは慌てて玄関まで走っていったが、もうゆめの姿はなかった。次の授業が終わって、昼休み。やっぱりゆめのことが心配だ。はじめは一度家に帰ろうと荷物をまとめていると、教室の入り口から声が聞こえた。


「わぁ、青山あおやまそのウサギどうした? 泥だらけだし」


なに? ウサギ? 泥だらけ? 人だかりの方を見るがウサギがいるかまでわからない。


「かわいい、ペット? 勾玉首飾りなんてさすがお金持ち!」


はじめは驚いて人だかりの方に走った。青山夏樹なつき、彼の周りから聞こえてくる情報は、泥だらけで、首に翡翠の勾玉の首飾りをしたウサギがいるということ。……ゆめに間違いない。


「ごっごめん、ちょっと通して!?」


人並みをかき分けて、夏樹のところまで来ると、タオルで巻かれ、夏樹の腕に抱かれてぷるぷると震えた白いウサギ。いまは汚れて茶色のブチのウサギ。


「ええっ!! ちょっ……どうしたの? こんなに泥だらけで……!?」


ガクガクと慌てて、顔が青くなる。何があったんだ!?


「あ、これお前の家の? いま隣の公園通ったらちびっこに追っかけられてて。泥の中に突っ込んで、ついでに足ケガしたみたいだから拾ってきた」


夏樹はちょうど良かったと言わんばかりに、はじめにタオルごとゆめを渡す。ゆめの足にはすり傷があり、少し血が出ていた。


「あっ、ありがとう。すぐ帰って洗わなきゃ……手当もしないと……このままこのタオル借りていい?」


夏樹は無言でコクンとうなづいた。


「はじめくん、私何かお手伝いできることある?」


かえでがすっと前に出て申し出る。


「あっえっと、僕のリュック持ってきてくれる? 肩からかけてくれたら嬉しい」


かえではサッとはじめのリュックを持ってきた。


「行きましょ」


「ええっ!? 行くってどこへ?」


「いいから早く!!」


あまりの剣幕に驚いて、かえでのうしろをついていくのがやっとだった。

「かえで! どこ行くの?」


かえでは、はじめの家とは逆方向に向かって歩いて行く。駅のすぐ隣にある動物病院。その病院の正面玄関にかえでは向かった。


午前中の診察終了の札がかかっているが

、かえでは臆することなく、ドアを開ける。


「ただいま、シャワーかりるね」


受付の人にそう言いながらずんずんと病院の奥へ進む。トリミング施設も併設した部屋のシャワー台へと向かう。


「早く、洗ってあげて。シャンプーこれ。お父さん呼んでくる」


かえではシャワーをザーッと出して温度を確かめると、手をパッパッと振ってハンカチで拭きながら行ってしまった。


はじめは、あまりのことに唖然としているが、腕の中で震えたウサギがいることを思い出し、あわててシャワー台に下ろした。


「ごめんね、ゆめ……いま洗ってあげるから」


シャンプーを泡立てて、そっと体を洗う。すごく冷たい。いったいなにがあったの? きょうの月の出は22時13分。それまで話が聞けないのか……もどかしい。


耳の中まで入っている泥を近くにあった綿棒でかき出す。


「ごめんね、やっぱり一緒に帰ればよかった」


そういいながら、洗い終わるとすっかり白ウサギに戻ったゆめはプルプルと身震いをした。


「ちょっと、冷たいって!」


元気はありそうだ。あははと笑っていると、かえでがバタバタと父親を連れてやってきた。「お父さんはやく、足から血がでてるの、診てあげて!」


「なんだなんだ、まだメシの途中だったのに」


かえでの父、通称クマ先生は、クマのように大柄で優しい笑顔の先生だ。慌てて連れてこられて少々機嫌が悪そう。


「クマ先生、こんにちは」


はじめはシャワーを止めて挨拶をした。


「はじめくん、久しぶり。ハルは天国にいったんだって? かえでに聞いたよ」


ハルは前に飼っていたシバイヌ。何度もこの病院にお世話になった。


「はい……」


「それで、今度はウサギを飼ったんだね。きれいな白ウサギだ。どれ、診察台に乗せてみて」


かえでが持ってきたタオルでゆめを拭いて、診察台に乗せた。ゆめは怖いのかガタガタ震えている。


「大丈夫、クマ先生はとってもやさしいよ。足、診てもらおう」


寄り添ってそう声をかけると、ゆめの震えが少しおさまったような気がした。


「んー、骨は大丈夫だと思う。消毒だけしておこうか。もし腫れるようなら早めに受診して」


クマ先生は、消毒を取り出してゆめの足に当てた。ビクッとするゆめを支える。


「わかりました。ありがとうございます」


はじめは深々とお辞儀をした。


「はじめくん、よかったね」


かえではやさしい笑顔を向ける。


「ありがとう、助かったよ。僕、一度帰るね。様子みて、また塾行けそうなら行くよ」


「わかった。じゃあまたあとで」


お会計をと受付に寄ったが、きょうはいいと断られてしまった。ゆめを腕に抱きながら、深々と頭を下げて家路を急ぐ。守るって言っといてこれじゃ全然だめだ。自分の不甲斐なさに下唇を噛んだ。「ただいま、向田さん、いるー??」


玄関を片手で開け、そう声をかける。奥の方から向田がパタパタと廊下を走ってきた。


「向田さん、もういい年なんだから、走らなくても……」


「ありがとうございます、つい癖で。あら? ウサギ。どこへ行ったのかと思ってました」


「家抜け出してたみたい。ちょっと足擦りむいてるみたいだから、おじいちゃんの部屋に寝かせるね」


「あら? でもそこはお嬢様が……」


はじめは体をギクッとさせた。そうだったえっと……えっと……


「あの、ウサギが好きみたいでさ、一緒に寝たいって言ってたんだ。だからいいと思うよ」


「わかりました」


はじめはなんとか繕うと、向田の隣をすり抜けて祖父の部屋へいき、そっとゆめを下におろした。


ゆめはくるくるっとその場で回ってみせた。大丈夫と言っているようにも見える。


「ゆめ、ほんとに大丈夫?」


ゆめはお尻をフリフリっとこちらにむけて、おどけてみせる。


「ふふっ、わかった。でもきょうはもう家にいなよ」


ふんふんと首を振る。こっちの言葉は、わかってるみたいだな。


「じゃあ、塾に戻るね」


時間は13:05。授業はもう始まってしまったが、まだ冒頭。急いで戻ろう。


「おぼっちゃま、歩きながらじゃ行儀が悪いですが、おにぎりお持ちください」


向田は大きめのおにぎりをひとつ渡してきた。


「ありがとう、向田さん何かあれば、すぐ連絡してください」


「わかりました」


玄関で靴を履きながらそう告げて、はじめは慌てて塾へ戻っていった。


おにぎりをむしゃむしゃと口に放り込むと、はじめは走って教室に戻った。もうすでに始まっている授業、後ろのドアからそろそろと入り、すぐ近くの席へ静かに座った。


かえでに目をやると、向こうも心配そうに見ている。指で丸を作ってオッケーの合図をする。かえでがニコッと笑って前を向くと同時に、かえでの隣の席に座る夏樹もこちらを向いたので軽く会釈をした。


夏樹は高校こそ違えど、そっちも優秀な進学校。医学部コースの二番手で、なかなかかえでには勝てないので、永遠の二番手と周りには言われている。


二番手でもなれればすごい。ましてやずっとそこにいるなんて羨望しかない。

飄々として、掴みどころがないと思っていたが、ゆめを拾ってきてくれたってことは少しはやさしさもあるのだろうか。


あの三白眼に? はじめは首をひねったが、すぐその集中が途切れる。


「おい、今年。おまえやる気をなくしたか?」


相変わらずの物理講師、橘のいびりが飛んでくる。ワースト10位組への声かけは辛辣だ。毎回、毎回いやんなる。


「そんなぼけっとしてるから、成績上がらないんだ。今からでも遅くない、進路考え直したらどうだ」


シーンとした、教室。こう言われるのももう何度目だろうか。諦めきれない医学部への執着を見透かされているようだ。


「せんせ、早く進めて」


夏樹がボソッとそういうと、橘は授業を進めた。はじめも、気を取り直して黒板を見つめるがどうにも集中できない。──ゆめは、大丈夫だろうか。

頭のなかを心配ばかりが支配する、泥だらけで震えたゆめの姿。追いかけられてきっと怖かっただろう。

あのまま夏樹に見つけてもらえなければ死んでいたのかもしれない。


そう思うとゾクっと体から熱が放出されるのを感じた。帰ったらきちんと話を聞いてみないと。


そこまで考えると無理やり頭を切り替えて、黒板に目を向ける。苦手な物理の授業はちょっとでも集中を切らすと途端にわからなくなる。


好きな古文や漢文と違って、疲労度は半端ない。90分も受けたあとは、頭から湯気がもうもうと立っているのではないかと思うほどだった。


その後もうひとつ授業をこなしたはじめは、慌てて教室を飛び出したが、玄関を出るところで、物理の橘につかまった。


「今年、ちょっといいか」


「すみません、きょう急いでて……」


「手短に言うわ、志望校かえたほうがいい。考え直せ」


突然そう言われてびっくりした。


「えっ……なっ……」


「5分だけ」


橘は面接室にはじめを誘った。

「志望校変えろって……もう僕には無理ってことですか!!? 講師のくせに、匙投げるんですか!?」


面接室に入るなり、はじめは声を荒げて橘にくってかかった。


「そうじゃない。たしかに親御さんも医者だから、医学部志望なのは当然だよな」


ぶっきらぼうに話しながら、橘はガタンとイスに座る。足を組み、机に右ひじをついてはじめのほうを見て大きく息をつく。


「……志望校選びは自由でしょう。それに、もし合格できれば、塾としてもいいのでは」


毎年3月末にもなると、塾の壁に「A大学現役合格〇〇名!」というデカデカとした宣伝文句が並ぶ。難関校合格者は1人でも多いほうがいい。


頭が良くて、とくに志望校のない子は、難関大学を有無を言わさず受験するよう仕向ける傾向があるように、はじめは感じていた。


「そう。塾としてはいいよ。でも君はどうなんだい?」


またそれか。この人もそう言うのか。


「古文や漢文の時のお前の目つき。すごくいいぞ」


立ったまま項垂れていたはじめは、弾かれたように顔を上げた。


「好きなんだろ? 古文や漢文が。廊下の窓越しにみただけでも伝わるくらいだ」


好き……? 古文や漢文が? たしかに他の教科よりも成績はいいけど……。


「お前がそれでも医学部志望ならそれでいい。ただ、その先は? 医者になる気が本当にあるのか? その覚悟は? 考えている時間はあまりないもしれない。でもお前の人生だ。よく考えろ。以上だ」ぎゅっと拳を握りしめたはじめの隣を、バタバタと橘は出ていった。


なんで……、なんで。医学部目指すのがそんなに悪いのかよ。


医学部のその先は……医者になった自分の姿は……。それが全く想像できない。できないというより、したくないのかもしれない。


頭を片手でぐしゃぐしゃとかきむしりながら面接室を出ると、ちょうど通りかかったかえでと目があった。


「あれ、今日面接だったの?」


キョトンとして立ち止まり、首を傾げる。


「あ、うん。少しだけ」


かえでの目なんか、到底見れない。きょうはほっといてくれ。そう思って目を伏せる。


「そう……」


かえではそれ以上何も言わなかった。

そうだ、せめてきょうのお礼くらいは言わないとと、無理やり笑顔を作ってかえでの方を向いた。


「あのさ、きょうありがとう。すごく助かった」


ひくひくと頬を引きつらせながらも、なんとか笑顔。きっと違和感満載だろう。


「いいの、それくらいしかできることないから」


かえではどこか寂しそうに笑って、手を振って去っていった。

なんだろう、あんな顔するなんて。はじめは、自分も帰ろうとすると後ろから左肩を叩かれた。


振り返ると、左頬にムニッと人差し指が当たる。三白眼の夏樹が無表情で立っていた。


「ひいぃっ!!」


はじめは思わず後退りして、廊下の壁に背中をぶつけた。今朝の階段駆け落ちで痛めた背中に、電気が走ってその場に座り込む。


「大丈夫か?」


冷たい声が上から降ってくる。


「ああ、うん。夏樹、今日ありがとう。ウサギを助けてくれて」


よっこいしょと立ち上がって、リュックを背負いなおす。


「いや……いいんだ」


「もしかしたら、ウサギ死んでたかもしれないから。本当にありがとう」


「なぁ、お前、姉ちゃんいるか?」


「えっ!? 姉? いないよ兄はいるけど……」


急にそう聞かれて目が泳ぐ。何が言いたいのか、はじめにはわからなかった。


「俺がウサギを見つけて、抱きかかえてるところへ、小学校低学年くらいの女の子がきてさ。この子の飼い主はお姉さんだって。トイレに入って出てこないって言ったんだ」


はじめはゴクンと唾を飲み込んだ。


「その子の母親にトイレを確認してもらったけど、"お姉さん"は見当たらなくて。とりあえずかえでに頼んで、動物病院連れて行こうと思って塾に連れてきたんだけど。


てっきり俺は、飼い主はそのお姉さんかなと思ってたから、お前が飼い主だって言うからびっくりして。って……疑ってるわけじゃないぞ。ただそんなことがあったってだけだから、報告。ペットの誘拐もよくあるっていうし……」


「わかってるよ、ありがとう。実はあのウサギ、迷いウサギでね。うちで預かってるだけなんだ」


夏樹は「へぇ」と言って腕を組む。


「もっ……もしかしたら、そっ、その女の人が飼い主なのかな? あっ……明日、公園にウサギも連れてってみるよ。またその人くるかもしれないし」


これ以上早くなったことがないくらいのスピードで、鼓動を打ち続ける心臓は、口から飛び出そうなくらいだった。平然と素知らぬふりがやっとだ。


「きょうはありがとう。さよなら」


夏樹に一方的な別れの挨拶をして、塾を飛び出した。家までの道を全速力で駆け抜ける。


「ただいま!! ゆめーっ、調子どう?」


靴を放り投げるように脱いで、祖父の部屋へと急ぐ。向田はもう帰ったようで、玄関と廊下以外の電気は消えている。


長い廊下を走って、祖父の部屋から声をかけたが返事はない。「ゆめ? 開けるよ?」声をかけて、そっと襖を開ける。


向田が準備したのだろうか、ハートのクッションの上で、かわいらしい白ウサギが、穏やかな顔で寝転がっていた。──良く寝てる。しばらくそっとしておこう。


はじめはシャワーを浴びて、落ち着いた浅葱色の着流しに着替える。向田が用意した夕食のオムライスを食べて2階に上がり、勉強をはじめた。


塾講師の橘に、好きであろうといわれた古文にとりかかる。文法の基本、受験に必要なレベルの単語はほぼ完璧。ときどきイレギュラーな文法や単語が出てくることもあるが、前後の文脈から判断すれば、難なく訳せた。漢文も同様。


言われてみれば、好きだ。

模試でもほぼ満点に近い。

現代文も、古文ほどではないが、好きだ。


はじめの国語の模試の成績は、全国トップテンに入る。ネックは数学と物理。

完全なる文系であるのは、模試の結果からしてもあきらか。


それを理系の医学部目指しているのだから、側から見れば志望校を変えたほうがいいと思うのは当然だろう。


でもいまさら医学部志望をやめていったい何をすれば良いんだ。

はじめは、はぁーっと大きく息をついて、机に突っ伏す。


何がしたいかなんて、わからない。何をしたくないのかもわからない。


八方塞がり、四面楚歌、自縄自縛。

もうお先は真っ暗だ。


コンコン──


急に部屋のドアがノックされて、ビクッと体が跳ねた。誰? 


パッと時計を見ると、22時53分。

今日の月の出は22時46分。ゆめはもう人間になっているだろうから、ゆめ……だと思うけど……。

はじめは念のため、バッドを片手にそっとドアを開けた。


「わぁぁぁぁ……っ!! なになに? 私、わたしだよっ!!」


あわてふためくのは、やっぱりゆめ。母親のタンスから出したのか、今日は白地に大柄の朝顔の浴衣姿。目鼻立ちがはっきりしたゆめは、柄にも顔が負けず、良く似合っていた。


「ああ、ごめん」


はじめは振りかざしていたバッドを引っ込めて、申し訳なさそうな顔をした。


「あのさ、ちょっと話したいことがあって……」


ゆめはうつむいて、胸の前で手を組んでいる。


「うん、僕も。部屋入る?」


「いいの?」


ゆめは心なしか頬が赤い。熱でもあるのか? 和室、暑かったかな?


「リビングじゃ、エアコン効いてないし。ここなら涼しいから」


ここならそのまま涼しい。あんまり電気の無駄遣いもしたくない。


「おっ……おじゃまします」


ゆめはそろそろと部屋に入ってきた。

はじめの部屋は、入り口から左手にベッド、奥の窓際に祖父が買い付けたアンティーク調の机に本棚。

右手には3畳ほどのウォークインクローゼット。部屋の真ん中にはベージュのラグと、丸いローテーブルがある。


きちんと整頓されて、清潔感もある。もちろん向田の掃除のおかげもあるが、見えるところはきれいな方が過ごしやすかった。


「やっぱりきれいね」


ゆめがぼそっと何か言う。


「きれい?」


「うん、よく整頓してある」


ニコッと笑って、ゆめはローテーブルの前に座った。はじめは勉強机のイスに腰かけ、ぐるっとゆめの方へ向きを変える。

「話って、昼間のこと?」


ゆめは黙ってうなづいた。


「僕の方こそ、ごめんね。ゆめが無事でよかった。怪我はどう?」


ゆめは浴衣の裾を少しめくってスネをみせる。すり傷になってはいるが、たいしたことなさそうだ。


「ちょうどぬかるみにつっこんじゃって。恥ずかしいよ」


困ったような顔ではははっと笑う。なんか……変? 笑ってるのに、泣いてるみたい。


「やっぱり明日からは僕が家まで送ってくよ。明日の月の入りは12:35だから、ちょうどお昼の休憩時間だし安心して」


ゆめは目を伏せたまま、コクンとうなづいた。


「公園でなにしてたの?」


「のんびり散歩しながら帰ってて。ほら、まだ家と塾にしか行ってなかったし。公園の木々にも挨拶してたんだ」


ニカっと歯を見せて笑っているが、やっぱりおかしい。悲しい顔をしたり、笑顔になってみたり。気分がジェットコースターに乗ってるみたいに、上がったり下がったりする。


「それでね、公園の時計を見たらもう11時21分だったから、あわててトイレに駆け込んで……ウサギになる姿は見られてないと思うんだけど……」


なるほどそういうことか。夏樹の言っていたことの合点がいく。見られなかったのは不幸中の幸いだったのかも。「見られなくてよかったね。」


「ほんと、ここで終わりじゃ来た意味ないもの」


小さく息をつくゆめ。せっかくの地球見学。いっぱい楽しみたいよね。


「ウサギになって、トイレから出たら小さい女の子がいて一緒にあそんでたんだけど、急に男の子たちが追いかけてきて、ビックリしちゃった」


あははと笑ってこめかみをぽりぽりかく手が、カタカタ小さく震えている。笑顔が消えて項垂れた。


「ゆめ?」

はじめはイスから立ち上がると、ゆめの隣に座って顔をのぞきこんだ。

やっぱり泣いてる。


「……ごめっ……目にゴミ入ったみたい」


ぐずぐず鼻水も出てきて、ずいっと吸いながらの笑顔は見ているこっちの胸が締め付けられるほど。


「……怖かった?」


ピクッとゆめの動きが止まる。小さく小さくコクンとうなづいた。


「ゆめ、ほんとごめんね。必ず、二週間楽しんでもらえるようサポートするから」


「はじめ……」


ゆめは涙を目にいっぱい溜めて、こちらを見る。よっぽど怖かったんだな。なんか話題変えてあげないと。


「あのね、かえでが今度うちにあそびに来たいって言ってたんだ。せっかくだし、地球で友だちできたら楽しいだろ? ケーキ買って、うちで一緒にお茶でも……」


バチーーーーンッ!!──えっ……な、なんで……。


はじめはゆめに平手打ちをくらって、床にドカンと倒れ込む。ゆめは、ボタボタと大粒の涙を流しながら立ち上がった。


「はじめのバカ! おたんこなす! すっとこどっこい! 鈍感男ー!!!」


わあわあ泣きながら、部屋を出て階段を駆け降りていった。えっ……なに? どこらへんがそんなに怒るポイントだった?


「ちょっ……ゆめっ!?」


はじめはあわてて追いかけたが、もうゆめは祖父の部屋に戻ったようで、一階は静寂に包まれていた。


はじめは訳がわからず混乱した。祖父の離れへ続くドアをドンドン叩いたが、ゆめが鍵をかけてしまって中には入れない。何度も問いかけたけど、反応はなかった。


もう、いったいなんなの?

お姫様の気持ちなんてわかんないな。

そう思って息をつくと、二階に戻り、中断していた勉強を再開させた。



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