第7話 嫉妬

地球見学3日目


昨日あまり眠れなかった。はじめは眠たい目をこすりながらリビングへ降りてきた。塾は休みなので焦る必要はない。


「ぼっちゃま、おはようございます」


いつもの向田の優しい声がして、顔をそちらに向ける。


「おはよう向田さん。いつもありがとうございます」


「朝ごはん、お召し上がりになりますか? 塾はお休みでしょう?」


はじめの起きてきた時間から推測したのだろう。向田は無理やり起こすことはしない。遅刻してもあらあらなんて言ってにこにこ笑っている。


ある意味すべては自己責任。そう言われているような気がして、自分のスケジュール管理は失敗を繰り返しつつもきちんとできるようになった。これは向田のおかげだ。


「はい、いただきます」


「お嬢さまは、まだ寝ていらっしゃるのかしら」


心配そうに言うので、見てきましょうかと声をかけて、祖父の部屋へ向かう。

離れに続くドアを開けようとすると、スカイブルーの爽やかなワンピースに身を包んだゆめがちょうど出てきたところだった。「あ、おはよう」


にこりと笑うゆめ。なんだか天使のようにも見える。


「おっ、おはよう。今日はゆっくりなんだね」


「うん。はじめも?」


「今日は塾休みなんだ。どうする? 今日の月の入りは……」


月の入りの話をしようとすると、しーっとゆめは自分の口に人差し指をあててこっちこっちと手招きする。


なんだろうと思いながらドアの向こうへ進むと、ゆめはドアを閉めた。


「はじめ、向田さんに聞こえたらまずいよ。監視されてるんだし」


そう言って、息をつく。そっか監視されてるんだったっけ。


「ねぇ、その監視ってどうやってやるの?」


「地球鏡っていうものがあってね。それで見るの。声も聞こえるよ」


「超能力みたいなもの?」


「うーん……そうだね。でも人じゃなくて自動監視システムが作動してる時間もあるけど。これでもかって監視がついてるはずだから」


「自分は外で2回も変身したくせに、よく言うよ」


「……そうでした。ごめんなさい。でもせっかくだから、ちゃんと地球を楽しみたいの。私ももう少し慎重になるようにする。とりあえずここにいられるってことは、見られてはないと思うから」


「わかった。僕も気をつけるね。話の続き、していい?」


「うん」


「今日の月の入りは14時46分。塾の自習室で勉強してもいいんだけど、よかったら図書館に行ってみない?」


「としょかん?」

「うん、本がいっぱいあるところだよ。ゆめの好きな歴史に関する本もたくさんあるから楽しめると思う。電車で10分くらいのところに、気に入ってる図書館があって。そこに行ってみない? 14時に家に帰ってくる予定にしてさ」


「わぁ、うん。行ってみたい。でんしゃ? も乗りたい!」


ゆめがキャッキャと喜ぶ姿を、はじめは目を細めて見つめた。素直でとてもかわいらしく思える。


「じゃあ、朝ごはん食べたらすぐ行こう」


そう言ってリビングへ行き、ふたりで朝食をとると身支度をして図書館へ出かける。


「向田さん、いってきます」

「はい、気をつけて。お嬢さま、きょうはお部屋のお掃除いかがいたしましょう」

「あー……」


ゆめは困ったように俯いた。

向田はウサギがいなかったら、怪しむかもしれない。そう思っているのだろうか。


「向田さん、お部屋の掃除は今日はけっこうです。ウサギなんですけど、どうもちょっと凶暴で……。向田さんが噛まれてもいけませんので、ケージに入れたままにしてあります。帰ってきたら私が世話をしますので部屋には入らないようお願いします」


うまいような、ちょっと無理やりのような断り方をしたゆめ。それでも向田には伝わったらしい。

急にちゃんとした言葉遣いでしゃべるものだから、見違えて見えた。


「気をつけて、いってらっしゃいませ」

「お昼はどこかで食べてきます。夕食の用意だけお願いします」

「わかりました」


向田にそう告げて、駅へと歩いていく

。夏らしい快晴で蝉の鳴き声がうるさいくらい。

駅について切符を買おうと、券売機に並んでいると後ろから声をかけられた。


「あれ? はじめくんとゆめちゃん? おはよう!」


透き通るようなきれいな声。それはかえでだった。


「おはよう。かえでもでかけるの?」


「うん、M区の図書館で勉強。あそこが一番落ち着くから」


「僕らもだよ。やっぱりあそこがいいよね。一緒に行こうよ」


ゆめは気に入らない顔でもまたするのだろうか、と思ったが穏やかに笑っている。


「うん、私初めていくから楽しみ。一緒にいきましょう」


かえでにそう話しかけている姿を見て、少しずつ慣れてきたのだなと、はじめは思った。


「じゃあみんなで行こう。電車すぐ来るよ」


ゆめに切符を渡して、乗り方を教える。かえでは少々不思議がっている様子だったが、そうもいっていられない。


「ここに入れると、こっちから出てくるから取ってちゃんと持ってて。降りる時もいるから」


「わかった」


おっかなびっくり改札機を通って電車に乗り込む。通勤ラッシュはもう過ぎて、空いた車内にゆめ、はじめ、かえでの順で座った。


「ゆめちゃんって、どこ出身なの?」


かえでが当たり前のように話しかける。


「ああ、えっと……三重県の伊勢市です」


えっ伊勢市? なんか突拍子もない所選んだな。不思議に思ってゆめを見つめる。ゆめは任せてと言う感じの目でチラリとはじめを見て、かえでと話を続けた。



「実はちょっと理由があるんです……」


「理由?」


「あ、ね、ゆめはけっこうなお嬢さまで、電車に乗ったことほとんどなくて」


慌ててはじめもフォローする。


「そうなんだ。何か困ったことあったら私にも声かけてね」


「ありがとう、うれしいです」


はじめは違和感でいっぱいだった。1日目はあんなにかえでと話すのを嫌そうにしていたゆめ。今の姿とは別人のようだ。


無理しているような、そんな顔つきがきになりながらも、図書館の最寄駅について三人で歩き出す。


「学習室あいてるといいね」


「そうだね、ちょっと遅くなったから」


ゆめは、はじめとかえでの話を聞きながらも黙っている。やっぱり何か変。


図書館につくと、ゆめはぱあっと顔を明るくして目を輝かせた。


M区の図書館は、ヨーロッパの図書館を思わせる豪華な造りが特徴。シックな内装の館内に、扇形に本棚が美しく並んでいる。ステンドグラスの窓から光が入ってきて美しい。


「はじめ、ここすごくすてきね」


ゆめはそう言って上を見上げていた。

学習室の利用申請をしようとすると。あと二人分しか空いていないと言われて、顔を見合わせる。


「どうしよっか、順番にする?」


「はじめ、私はいいよ。歴史の本が読みたいだけだし。本棚の近くにイスもあるよね?」


ゆめがそう言って遠慮する。


「ゆめちゃん、でも……」


「かえでさん、大丈夫です。私はちょっと東京見物にきただけなので」あれ? たしか、かえでには勉強しにきたって話したはず……辻褄が合わなくなるじゃん!? 


「ちょっ、ゆめ……!!」


はじめがそう言っても、ゆめは知らん顔で話を続ける。怪しまれても知らないよ!?


「じゃ、あとでね。何時集合?」


「12時に、ここでどうかしら。お昼も食べるでしょ?」


かえでが腕時計を見る。昼も? 一緒に食べるの?


「わかった。じゃ」


ひらひらと手を振って、図書館の奥へと消えていくゆめ。大丈夫かなほんとに。心配しながらも、はじめはかえでと学習室へ向かった。


学習室は、館内とは違って勉強しやすいよう明るい照明、机は少し斜めになっていて勉強しやすい。


扇形で木製の長机がいくつもあって、大きく渦を巻くように配置されている。いっぺんに100人くらいは入れる大きな部屋。


前を見ると、向こう側で勉強している人が見える。集中が切れてもハッとしてまた勉強できるのも、はじめは気に入っていた。


はじめとかえでは指定された番号の席を探す。B-95とB-96。通路を間に挟んで、隣の席に2人で座った。


はじめは英語、かえでは物理の参考書を取り出して勉強を始めた。

学習室は静かでカリカリとペンの走る音だけが聞こえてくる。


はじめは、最初こそ集中していたもののゆめが心配になってきた。

集中がぶつぶつ切れる。


ふと前の方から鋭い視線を感じで顔を上げると、夏樹が鬼の形相でこちらをにらんでいた。夏樹!? 夏樹もここの図書館使ってたんだ。はじめはそう思いながらも鬼の形相をくずさない夏樹に背筋がゾッとする。


はじめが、ぎこちない笑顔で小さく手を振ると、夏樹はやれやれという雰囲気で目を下に落として勉強を続けた。


恐ろしすぎる。あんなに燃えるような嫉妬を向けられたのは初めてだ。


そう思うとあらためて、自分のかえでへのきもちは、恋ではないということを自覚する。


多分この場でかえでと夏樹が一緒に勉強していたとしても、あんな嫉妬はしないだろう。仲良いんだ、付き合ってるのかな、なんてのんきに考えるだけ。


だとすれば、恋愛感情なんて知らなかったことになる。独占したいとか、守ってあげたいとか、僕のことだけ見て欲しいとか。特別な存在になりたいとか。


それが恋だとすれば、かえでへの想いは芸能人を応援するような気持ちだ。目の前に芸能人が現れて、ドキドキしていただけ。今更そう気がついて、胸の中が静かになる。

そうか、僕はずっと勘違いしてきただけだったんだ。少し悲しくなったが仕方ない。


途切れ途切れの集中をなんとか維持しながら時計を見ると11時58分。ふとかえでに目をやると、もう机の上をきれいに片付けていた。


「お手洗いに行ってくるね。そのまま入り口いってるから」


そう小声で告げて、学習室を出て行った。夏樹の方を見ると、姿はなく机の上もきれい。いつのまに退席したんだろう。はじめは首を傾げながら、自分も片付けをして、図書館の入り口へと向かった。


入り口に向かう途中、窓から見えた外のベンチに、ゆめが座っているのが見えた。


「ゆめ……!?」


ニコニコ笑って誰かと話している。隣に座った三白眼のイケメン。夏樹だった。


え? なんで? 思わず足が止まる。ゆめと夏樹は知り合いだったんだろうか。塾だってまだ1日しか行ってないし、面と向かって紹介した覚えもない。


はじめの心がズシンと重たくなる。なんで夏樹がゆめと話してるんだ。だいたい話すようなことある? 僕だってそんなにまだ話してないのに。


声は聞こえないが、楽しそうな雰囲気が伝わってはじめはイライラした。夏樹が時計に目を落とし、何か声をかけて2人で立ち上がる。


そのひょうしにゆめがつまづいた。夏樹はおもわずゆめを抱きとめて、顔を覗き込む。ゆめもニコッと笑って姿勢をなおすと、ふたりでこっちに歩いてきた。


心臓が痛いくらいにドキドキする。なんだこれ。考えるより先に体が動いて、はじめはふたりの前に仁王立ちで立ち塞がった。「あ、はじめ! ごめん待った?」


ニコニコ笑いながらこっちにかけてくるゆめ。


「ううん、今来たとこ」


「夏樹と話してたんだ。そこでたまたま会ってね。夏樹は動物のお医者さんになりたいんだって、すごいよね」


ニコニコしながらそう話すゆめの顔が、とても嬉しそうで心臓がギュッとなった。夏樹……もう呼び捨てなんだ。


「そう……よかったね」


そう絞り出すのがやっとだった。


「ちょうど昼飯行こうと思ったら、そこで会ったんだ。喉乾いたって言うから、自販機に案内がてら、ちょっと話してた」


夏樹の言葉が耳の中に残る。どっちから話しかけたの? 話してたのってそれだけ? さっきは抱きとめてたじゃん?


どんどん湧き上がる感情に頭がついていかない。


「あれ、青山くんも来てたんだ」


後ろからかえでの声がして振り返る。


「ああ、かえでも来てたんだな」


何となく気まずい雰囲気が流れる。ゆめは困ったような顔で三人の顔を交互に見つめた。


「えっと……せっかくだし、みんなでごはん行く?」


ゆめが雰囲気の悪さをみかねてか、口を開く。


「そうね、いきましょうか。ゆめちゃんはどこか行きたいお店とかある?」


かえでがゆめに訊くと、目をキラキラさせて「ふぁみれす!!」とリクエスト。


「ファミレス!?」


三人の声が合わさる。


「うん。どりんくばー? やりたい」


かえでと夏樹には、ゆめがとんでもない箱入り娘に見えたに違いない。駅の近くにあるイタリアン系ファミレスに入り、4人で席に着いた。ボックス席は、右手奥からゆめと夏樹。左手奥からかえでとはじめという組み合わせで座った。


少し夏樹が遠慮したように見えたのは気のせいだったか……。


「ゆめちゃん、どれにする?」

「うーん、オムライスある?」

「オムライスあるよ、トマトソースかデミグラスソースか選べるわ」

「でみぐらす? とまと?」


ゆめ以外の三人それぞれの頭に、それぞれの疑問が浮かんでは消えていく。それくらいみんながみんな困惑した表情だった。


あれこれ説明しながら注文をし、みんなで話しこむ。

「へぇ、夏樹ってうちの近くに住んでるんだ」

「小学校は隣の校区になるけどな」

「そうなんだ、知らなかったわ」

「ねぇねぇ、どりんくばーって、おかわりできる?」


このメンバーで話すのはもちろん初めて。はじめと夏樹はほとんど話したこともなかった。


三白眼で怖いイメージだった夏樹。話してみれば、みんなの話もよく聞いて、ツッコミまでする。そのコミュニケーション能力の高さに驚く。


かえでに本当に告白したのだろうか。そう思うくらいかえでとも普通に会話をしている。それぞれ注文した料理を食べながら、ゲラゲラ笑っていると楽しくて時間を忘れた。

「僕、コーヒー持ってくる」

「こーひー?」

「ゆめも飲んでみる?」


月にはコーヒーはないのかな。そう思いながら席を立つ。


「俺も飲み物取りに行くわ。かえでは? なんか飲む?」

「えっ? ああ、ありがとう。じゃあサイダーで」

「さいだー? はじめ、私もさいだー欲しい」

「コーヒーとサイダー? まあいいけど」


しぶしぶ返事をしてドリンクバーへ夏樹と向かう。


「お前さ」


夏樹がサイダーのボタンを押しながら声をかけてきた。はじめはコーヒーカップを取り出しながら「なに」と短くこたえる。


「本当に、かえでのこと好きなの?」


ドキッ。痛いところをつかれて手元が狂う。カップを落としそうになったが、なんとか持ち直して、抽出口の下にカップを置いた。


コーヒーが出てくるのをじっと見つめながら「よく、わからなくなった」と消えそうな声でつぶやく。


「そっか」


夏樹はそれだけ言うと「ゆめの分のサイダーも、一緒に持ってくな」と、席へ戻っていった。


ゆめ? なんでもう呼び捨て? はじめの中で何かが蠢いた。さっきから、何か変だ。

コーヒーをふたつ持って席に戻る。サイダーを置いたであろう夏樹とすれ違う。はじめはコーヒーをゆめの前に置きながら、かえでの隣に座った。


「はじめ、ありがとう。さいだーってなんかしゅわしゅわして変だね」

「ゆめちゃん、ほんとに初めてなの?」

「うん。ほんと。あぁ、ちょっと慣れてきた」


不思議そうなかえでとのやりとりがおかしくて、笑いを堪えるのに必死だった。


ふとスマホに目を落とすと、もう13時20分になっている。やばいっ、早く帰らないと!!


「ああ、ゆめ。オンラインの英会話の授業14時半からだったよね。そろそろ帰る?」


「えっ? あっ、あぁ、そうだった。うん、もう帰ろうかな」


「そう、じゃあそろそろ出ましょうか」


夏樹もジュース片手に戻ってきたが、「俺も出る」と一気に飲み干して、みんなで席を立つ。

ゆめもコーヒーをガブっと飲んだが苦いっ!! と目を丸くしていた。


「楽しかったー!!」

ゆめがそう言いながらファミレスのドアを開ける。すぐ階段になっているのだが、気づかなかったのかバランスを崩してつまづいた。本日二回目。「おいっ……バカっ!!」


先に出ていた夏樹が、ゆめの手を引っぱり腰を支える。


「んだよ、よく見ろよ」

「へへっ、ごめんごめん。私よく転ぶんだ──」


パシッ。思わずはじめは手をつないでいる夏樹の手を離して、ゆめの手を握った。


「……えっ。はじめ? どうしたの?」

「……お前、どうした?」


えっ……なんだろ。体が勝手に……。


「ああ、ごめん。なんか助けるの遅くなった!!時間差? 意味ないよね。ごめん」


あははと乾いた笑いをしながら、ゆめの手を離す。みんなの顔が見られなくて、1番前を歩いて、図書館と駅方面への別れ道までやってきた。


「みんなありがとう。またね!」


まだ勉強していくという、かえでと夏樹に挨拶をして、ゆめは駅の方へあるいていく。


「じゃあ、また明日!」


慌ててゆめを追いかけながらふたりに手を振った。なんか、変な時間だったな。


勉強ばっかりで、友だちとファミレスに行くのなんかものすごく久しぶり。でも、ずっと前から仲良しだったみたいな、不思議な感覚だった。駅に向かって歩いていくと、なんだか構内が騒がしい。なんだろうと思って電光掲示板を見ると、事故により列車が止まっているとの表示。再開の目処も立っていない。


嘘でしょ……。どうしよう。


「はじめ? どうしたの?」

「ああ、事故で電車が止まってるみたい。バスでも帰れるけど……。時間もないしタクシーで帰ろう」


慌ててタクシー乗り場へ行くと、みんな考えることは同じ。長蛇の列ができていた。これでは間に合わない。とにかくタクシーを拾おうと、大通りへ出ることにした。


大通りに出ると、タクシーはたくさん走っている。一台すぐに止まってくれて、なんとか乗ることができた。


「どちらまで行かれますか?」

「N駅に向かってください」

「わかりました」


なんだか、聞いたことのある声。ルームミラーを見ると「朔!!」とゆめの嬉しそうな声。


「姫さま、お元気そうでなによりです」

「こんなところにいたのね」

「はい、車が好きでしたので、タクシー運転手として、働いています」

「ええっ、免許とかは?」

はじめは驚いて前のめりになって訊いた。

「月の魔法でなんとか」


ニヤリと笑う朔。月の魔法ってなに? 運転スキルは大丈夫なの? いろいろなら疑問が浮かぶ。話を聞くと、朔はタクシードライバーとして会社の寮にいるらしい。なんか、ついていけない。


「急ぎますが、時間はギリギリです。お代はけっこうですので、はやく姫さまを室内にお連れしてください」


朔はそう告げると、速度を上げた。「きゃっ!!」


急ハンドルで、ゆめがはじめのほうへガタンっと寄りかかる。あわてて受け止めると、ゆめの華奢な肩幅に胸がトクンと小さく跳ねた。


「だっ、大丈夫?」

「うん、ありがとう。朔、もう少し何とかならないの?」

「すみません、気をつけます」


それでも最大限急いでくれたようで、なんとか月の入りまでに、家に戻って来られた。

「朔、ありがとう!!」

ゆめは走って家の中へ入っていく。


「ありがとうございます、助かりました」

「いえ。引き続き、姫をよろしくお願いします。あの……はじめさま」

「はい?」

「条件の3。覚えておいてください。節度のある態度を希望いたします」


条件の3……。はじめは思い出すとボンっと顔を赤くした。朔はニヤリと笑ってタクシーのドアを閉めて走り去って行った。


朔も自分たちを監視してるのだろうか。はじめはそう思いながら、タクシーを見送った。

家に入ると、向田がパタパタと走ってくる。「おかえりなさいませ。お嬢さま、英語のお勉強があるとかで先にお部屋へ行かれました」


「ああ、うん。わかった。向田さんもう晩ご飯ってできてますか?」


「ええ、きょうはカレーにしました。あとルーを入れるだけです」


「じゃあ、あとやっときます。こう暑いと疲れるでしょう? 少し早いですけど帰って体を休めてください。いつも、ありがとうございます」


「ぼっちゃま……」


向田はもう78になる。元気とはいえど毎日の仕事は大変なことだろう。小さい頃から、忙しい両親にかわって、いつも一緒にいてくれた、家政婦以上の存在。向田には、少しでも長生きしてもらえたらと、はじめは思っていた。


「ではお言葉に甘えて、これで失礼します」

「はい、またよろしくお願いします。そうだ、明日、零が帰ってくるみたいです。そのうち顔出すと思います」


「まあ、零さまがお帰りになるのですね。楽しみにしています」


身支度をすると、向田は挨拶をして帰っていった。ゆめはどうしただろう。

離れに続くドアを開けると、祖父の部屋の襖が開けっぱなしになっている。


「ゆめー? 大丈夫?」


もうウサギの姿になったゆめがちょこんと部屋の真ん中で座っていた。


「何とか間に合ってよかった。朔さんにも会えたし。元気そうだったね」


コクコクとゆめはうなづく。鼻がヒクヒクしてかわいい。


「僕、二階で勉強の続きするね。向田さんはもう帰ったから。ゆっくりして」


ゆめにそういうと、はじめは自室に入って勉強の続きを始めた。

7.鈍い人


地球3日目ゆめside「すげぇな、神か? 仏かお前は」

あははと夏樹は笑い出した。


「えっ!? なんで笑うの」


ゆめはキョトンと不思議そうに首を傾げた。


「お前はすごいよ。俺はそんな境地まで行ってない。はじめとかえでがふたりでいれば、嫉妬でおかしくなりそうだし、かえでにこっちを見て欲しい、特別な存在になりたいって思う。キスしてそれ以上もしたいって考えるよ……あぁ、ごめん。お嬢さまには刺激が強すぎだな」


「ううん……わかるよ。私もそう思ってた。うまく思ってることが言えなくて怒らせちゃうし。かえでと一緒にいるのを見るとなんか辛い。


でも、どうせ気持ちも伝えられないままで帰るのなら、はじめと楽しい想い出いっぱい作りたいと思って」


「本当に気持ち伝えないで帰るつもりか?」


「ちょっと家的な問題で、いまは言えなくて……。でも帰る直前には伝えるつもり。うまく伝わるか、わかんないけど」


「そっか。お嬢さまはいろいろあるんだな。にしても、鈍い人って罪だよな、ほんと」「かえでも鈍いの?」


「ニブチンもニブチンだよ。俺がありったけのほめ言葉をかけても、そんなことないって謙遜して笑うだけ。顔色ひとつかえずに、いつもの透き通る笑顔のままだしさ。こっちはどんな気持ちで褒めてると思ってたんだっての」


「なるほど。夏樹はかえでに好きって言わないの?」


「言ったよ、一昨日。でもかえでは告白だって気がついてなくて」


「ええっ!? 告白に気がつかなかった?」


そんなことあるのだろうか。ゆめはあまりのことに夏樹が気の毒になる。


「かえでが好きだって言ったら、私も好きだよなんて言うから、これは絶対伝わってないなと思ってさ。


俺は異性として好きなんだって言ったら、やっと分かってくれたんだけど。他に好きな人がいるからごめんなさいってハッキリ言われたよ。素直につらい」


はぁーっと息をついてベンチの背もたれにドカンともたれかかり、夏樹は天を仰ぐ。


「そうだよね、簡単にあきらめられたら、好きになってないよね。……ねぇ、かえでが誰のことを好きなのか、分かってて告白したんじゃない?」


「けっこう鋭いな。当たり」


夏樹は目だけこっちをみて、困ったように笑った。


「なんかそんな気がして。そうでもしなけりゃ、自分のことに気がついてもらえないもんね。私は自分の気持ち言えないけど、はじめの視界に少しでも入っていたいと思う」「俺はここであきらめるつもりはないよ。志望校に合格したらもう一回告白する」


「すごいね。なんか怖いくらい」


「怖いって……俺はストーカーじゃねえぞ」


「すとーかーってなに?」


「知らねぇのかよ」


ゲラゲラと笑いあう。つらい気持ちなのは自分だけじゃない。そう思ったら少し気持ちが楽になった。


「夏樹は将来何になるの?」

「獣医になりたいと思ってる」

「じゅーい?」

「動物を診る医者のことだよ」

「すごいね」


ほぉーっと思わず息をついた。やりたいことが決まっている人のまっすぐな目。昨日のはじめと似てる。


「お前は? 医学部行くんだろ?」

「わたし? ううん、東京は見学にきただけだから。塾も経験のひとつっていうか……帰ったら結婚するんだ」

「は?」

「そういう家だから」

「結婚って……それでいいのかよ」

「そう。いいなりになるしかないね」

「つまんねぇな」


つまらない。そう言われて、自分がはじめに言った言葉と重なる。


「その家、出るわけにはいかねぇの?」

「家を出る?」

「どうせ結婚もしたくてするんじゃねぇんだろ?」

「うん……」

東京こっちに出てくることも、できるだろ。いやなら」

「あ、いやその……。もう日本には戻ってこられないというか、その……」

「なんだよお前、外国から来たの?」

「あわわ……」


畳みかける夏樹の圧力に、思わず負けそうになって口を噤む。


家を出る。そんなこと考えたこともなかった。全部捨てて平民になる。そうすれば心は自由かもしれないな。「あ、そろそろ12時だぞ」


夏樹が時計に目を落とす。このまま話していると、いろいろしゃべりそうだったので助かった。


「そっ、そうだね。ふたりも入り口に来ると思うから。一緒にごはん行こうよ」


そう言って慌てて立ち上がると、バランスを崩してつまづく。夏樹がちょうどよく受け止めてくれたので転ばずにすんだ。夏樹、いい人。


入り口に向かって歩いていくと、はじめの姿が見えた。


「あ、はじめ! ごめん待った?」


仁王立ちのはじめ。なんか怒ってる?

顔が怖い。


「ううん、今来たとこ」


声は普通かな。気のせいだったのかも。


「夏樹と話してたんだ。そこでたまたま会ってね。夏樹は動物のお医者さんになりたいんだって、すごいよね」


「そう……よかったね」


はじめはスッと目をそらす。やっぱりなんか変?


「ちょうど昼飯行こうと思ったら、そこで会ってさ。喉乾いたって言うから、自販機に案内がてら、ちょっと話してたんだ」


夏樹が話すと、そっちを見る目が心なしが怖い。どうしたんだろう。


かえでもきて三人が気まずい雰囲気に包まれる。


「えっと……せっかくだし、みんなでごはん行く?」


雰囲気を変えるのに精一杯。それでも行きたかったふぁみれすに行けることになって嬉しかった。どりんくばーは、魔法みたいだと思ってたから。

オムライスを食べて大満足。はじめと夏樹がドリンクを取りに行ったのでテーブルにかえでとふたりになった。


「ゆめちゃん、ごめんね学習室譲ってもらっちゃって」

「いいの。あそこの図書館で本読まなかったら損だから」

「損?」

「読書することを楽しむために作られた空間なんだよね。すごくすてきだった」

「そっか、喜んでくれたならよかった。私もあそこの建築すきなの。実は尊敬する建築家のデザインで……」


目を輝かせて話すかえでの姿に驚く。あれもしかして。


「ねえ、かえでって、ほんとに医者志望?」

ビクッと体を動かして「えっ?」と短くこたえる。


「ううん。実はね、建築家志望なの」

「建物を立てる人になりたいんだ」

「うん、希望はね」

「なんで塾は医学部コースなの?」

「それは……」


なるほど。はじめがいるからか? 賢いかえでなら、どこの大学でも余裕で入れるんだろうな。


「実はね、イギリスの建築学で有名なK大学に行きたいの。お父さんからは日本の大学にしろって言われてるんだけど、諦めきれなくて食い下がったら、日本で1番難しいT大医学部に受かったら、行かせてやるって。だから医学部コース」


「はぁ……」


よくはわからないが、とにかくすごいことなのだろうということは理解できた。「すごいね、自分のやりたいことがあって」

「ゆめちゃんは?」

「うーん、ヒミツ」

「えーっ、なんで……」

「それより、私来週には家に帰るから、心配しないで!」


えっ? というかえでの言葉と同時に夏樹が戻ってきてサイダーをテーブルに置いた。


「はい、サイダー」

「夏樹、ありがとう。わぁ、緑?」

「メロンソーダって言うんだ。お嬢様には面白いだろ? かえでは普通のサイダーな」

「あ、ありがとう」


かえではずっと普通のサイダーを飲んでた。夏樹は細かいところも気がつくんだな。さすがのかえでも少し顔が赤い。


はじめも戻ってきた。コーヒーを飲んだところで腕時計に目を落とすとビックリした様子。時間、もしかしてやばい?


「ああ、ゆめ。オンラインの英会話の授業14時半からだったよね。そろそろ帰る?」


おんらいん? なんだかよくわからないけど、まずいのはよく分かった。


「えっ? あっ、あぁ、そうだった。うん、もう帰ろうかな」


「そう、じゃあそろそろ出ましょうか」


あわててコーヒーをがぶ飲みしたが、この世にこんな不味いものがあるのかってくらいまずかった。はじめは美味しそうに飲んでたのにな。


「楽しかったー!!」

本当にそう思った。浮かれてすぐ階段になっていることに気がつかず、バランスを崩してつまづいた。本日二回目。「おいっ……バカっ!!」


先に出ていた夏樹に体を支えてもらって、落ちるのは免れた。


「んだよ、よく見ろよ」

「へへっ、ごめんごめん。私よく転ぶんだ──」


そう話すと、急にはじめが私の手を取った。あまりのことに石になる。


「……えっ。はじめ? どうしたの?」


はじめは何も言わない? えっ、どういうこと?


「ああ、ごめん。なんか助けるの遅くなった!! 時間差? 意味ないよね。ごめん」


あははと乾いた笑いをしながら、手を離して前を歩いていく。なんだったの?

モヤモヤが膨らむ。


駅と図書館の分かれ道でかえでと夏樹に挨拶をして別れ、駅へと向かう。


電車が動かないとかで、はじめは慌てていたけれど、ちゃんとどうするか考えてくれて、たくしーに乗って帰れることになった。


朔に会ったのは、偶然か必然か。とにかく元気そうで安心した。あれは朔も監視してるな絶対に。地球にいて地球鏡使えるのかな。


時間もギリギリだったので、家に着くなり玄関へと走り込んだ。向田さんに簡単に挨拶と授業があるからと伝えて部屋に入った途端に変身が始まる。


じわじわと体が温かくなってだんだん目線が低くなる。気がつくとウサギになっているのだから、不思議だ。なんだか今日はすごく楽しかった。宮殿に友だちはいないから、すごく新鮮に感じた。


また喋る機会あるかな。そう期待するくらい、楽しい時間だった。


はじめは二階で勉強するといって、部屋へ戻った。急に眠たくなってハートのクッションの上に乗ると、すぐ意識が遠のいた。


***


ゆめとはじめと別れ、夏樹「応援されたの、初めて。誰かに言ってもほとんど否定されたから」


そう言って悲しそうな顔をする。たしかにイギリスの大学行って、戻ってこないなんて言われたら、親はびっくりするだろうな。


「そうか? かえでならできると思ったけど? 見た目とは違うだろ、心の中は」


そこまでいうつもりじゃなかったけど、かえでの悲しそうな顔を見たら、言わずにはいられなかった。


勉強する姿勢をみていると、なにか他の目的があるような気がしていた。目先の目標なんかじゃない、もっと大きな将来の夢のために勉強をやっているのだろうと。貪欲で、燃えるような決意が、あのかわいらしい体から溢れている。


天使の見た目とは違う。心の中は幕末の志士みたい。それに気がつくと、もっとかえでのことが知りたくなって、いつのまにか好きになってた。だからはじめのことを好きなことに、すぐ気がついた。


隣の席で見ていると、痛いほどそれを感じる。俺のことなんかまったく視界に入っていない。だから告白はきっかけにすぎなかった。フラれるのは当たり前。でもこうして今の状況になったのだから、告白はある意味成功だったと思う。「青山くん、ありがとう」


かえでは少し涙を浮かべていた。


「やりたいこと、やろうぜ。失敗したとしてもさ」


「私、失敗しないので」


どっかで聞いたようなセリフを吐いて、スタスタ歩いていく。他のみんなには見せない一面が見られたような気がして、嬉しくなってかえでを追いかけた。


「俺も志望校変えようかな」

「どこに?」

「イギリスのK大学。獣医学部あるだろ?」

「獣医学部ならAレベル(イギリスの大学受験用統一試験)受けなきゃ。なんだかんだ準備に2年はかかるよ」

「やるよ、かえでが行くなら」

「勝手にしたら」


かえでの顔がまたちょっと赤くなる。ダメとは言わなかったな。図書館にきたかいはあった。

***


今日は、はじめは起きるのが遅い。塾、行かなくていいのだろうか。


そう思いながら、はじめの母親のタンスから洋服を取り出す。毎回かわいいのを選んでいるはずなのに、はじめは何も褒めてくれない。これがかえでだったら、ボンって顔赤くするんだろう。


そう思うと悲しくなってまた息をつく。スカイブルーのすてきなワンピースに着替えてリビングへ行こうと、廊下の先のドアを開けた。すぐそこにはじめの姿があってびっくりした、


「あ、おはよう」


はじめを見るだけですごく嬉しくて、顔が笑顔でいっぱいになる。朝からカッコいいな。


「おっ、おはよう。今日はゆっくりなんだね」


私は特に予定もないし。はじめが起こしに来てくれるのを待っていたなんて、とても言えない。


「今日は塾休みなんだ。どうする? 今日の月の入りは……」


ちょっと、向田さんに聞こえちゃうよ! 

バレたら月に帰らなきゃいけないんだよ。もうちょっと慎重に……。そう言いたくて、自分の口に人差し指をあて、ドアの中に入り、はじめに手招きする。


「はじめ、向田さんに聞こえたらまずいよ。監視されてるんだし」月の宮殿の監視は執拗だ。地球からの侵略になぜかものすごく怯えた民族なので、監視に余念がない。


地球人は悪い人ばかりだと教わったけど、ここにはそんな人なんて皆無のように思える。


みんな優しくて、すてきな人ばかりだ。月に帰ったら地球人は優しいってみんなに教えなきゃ。


はじめの提案で、としょかんというところへ行くことになった。なんでも歴史の本がたくさんあるらしい。でんしゃにも乗れることになり、嬉しくて仕方がなかった。


「あれ? はじめくんとゆめちゃん? おはよう!」


きっぷを買おうとしたところで声をかけられてビクッと震える。

楽しかった気分も、かえでの天使の声でそれも台無し。相変わらずのかわいさ。こりゃはじめが好きになるのも仕方ない。



「おはよう。かえでもでかけるの?」


「うん、M区の図書館で勉強。あそこが一番落ち着くから」


私のモヤモヤをよそに、一緒に行こうよなどと話すはじめ。まあそうなるよね。はじめはかえでのことが好きだし、かえでも、きっとはじめのことが好き。いっそのことくっついてくれた方が、あきらめられるのかもしれない。


裏を返せば、かえでは自分と同じ気持ちを抱えているだろうから、意外と気が合うのかも。そう思ったら不思議と笑顔になった。


「うん、私初めていくから楽しみ。一緒にいきましょう」


自分でもびっくりするくらい、素直な言葉だった。はじめも嬉しそう。


電車の乗り方はいろいろ手順があってややこしい。何とか教えてもらいながら、三人で電車に乗り込んだ。


「ゆめちゃんって、どこ出身なの?」


月からきましたって言ったらおしまいだからえっと、ほかに知ってる地名っていえば。


「ああ、えっと……三重県の伊勢市です」


えっ?? とはじめとかえでが同じような顔をしてこちらを見た。だって、神様のいるところくらいしか知らないもの。



「あ、ね、ゆめはけっこうなお嬢さまで、電車に乗ったことほとんどなくて」


はじめがフォローしてくれたのが素直に嬉しかった。


「そうなんだ。何か困ったことあったら私にも声かけてね」


何も疑いのないその美しい瞳が怖い。はじめに好かれているかえでが、心底羨ましかった。


「ありがとう、うれしいです」


ちょっと無理して笑顔を作る。かえでの素直さが心に刺さってチクチク痛む。美しい清らかなかえでの心。もう自分はこんな風にはなれないな。


はじめのすべてを自分のものにしたい。特別な目で見てほしい──

いまさらどうすることもできないくらい大きくなった気持ちを抱いて、図書館へと歩いていく。


目的地の図書館は、ものすごく素敵だった。月には絶対にない建築様式。建物自体が芸術作品であるかのよう。

ステンドグラスの美しさに、思わず立ち止まる。


学習室は二席しか空いていないようなので、遠慮してそそくさと歴史書コーナーへ歩き出した。


勉強も楽しいけど、せっかくならここの蔵書をよんでみたい。はじめと、かえでもふたりのほうがいいだろうし。協力できたかな少しは。

そう思いながら、ゆめ歴史書のコーナーへ足を運んだ。

歴史書のコーナーは、中二階へ上がってすぐのところにあった。めぼしい本を一冊手に取り、近くのソファに腰掛ける。


本を読む。その行為そのものを楽しむようにできたこの建物。雰囲気を楽しみながらも、歴史書の世界に入りこんで読みふけった。


どのくらい読んでいたのだろう。はっと顔を上げ時計を探すと、11時40分をさしていた。


本を元のところに戻すと、喉の渇きを覚え、何か飲み物が売っていないかとキョロキョロ探しながら、集合場所の図書館の入り口へ向かって歩いていた。


「あれ?」


後ろから小さい声がした。振り返ると、昨日助けてくれた人がそこに立っていた。かっこいいけど、目つきが悪いな。


「今年の親戚の子だっけ?」

「はい、えっと……」

「あぁ、突然ごめん。青山夏樹です。今日は勉強?」

「坂井ゆめです。はじめとかえでと三人で一緒に来たんですけど、ちょっと読みたい本があって別行動してました」

「そうなんだ。今から昼メシ?」

「はい」

「いいよ、タメ口で。同い年でしょ? はじめたちとは? 一緒に?」


話し方や仕草を見ると、夏樹は見た目よりもいい人そうにみえた。


「12時に入り口で待ち合わせ。喉が渇いたから、なにか飲み物買おうと思って」

「外に自販機あるよ。こっち」


そう言って、夏樹は手招きをした。

入り口を出てすぐのところに飲料の自動販売機があった。買い方がわからず戸惑っていると、夏樹が買い方を教えてくれた。「お嬢さまなの?」

「はは、ほんと。世間知らずでごめんなさい」


夏樹と木陰のベンチにふたりで座る。ここなら入り口も見えるしはじめとかえでが来たら気がつくだろう。お茶を買ったはいいが、開け方がわからない。


「……これ、どうやって開けるの?」

「はあ? すごい箱入り娘だな」


夏樹は文句を言いつつも、蓋を開けてくれた。ゴクゴク飲むと、冷たさが喉を通って渇きが癒えていく。


「ぷっはぁ! 便利な入れ物だね」


続けてゴクゴク飲んでいると、夏樹にじっと見つめられた。


「どうかした?」

「いや、お前も俺と同じかなと思って」


同じ? と聞き返すと、

「鈍い人を好きになると辛いよな」とこたえた。


「えっ……なんで……」

「お前は、はじめのこと好きなんだろ? ニブチンのあいつにヤキモキしてんじゃねぇの?」


なんで分かったんだろう。まだ夏樹とはほぼ初対面なのに。


「俺はかえでが好きなんだ。あいつの鈍さも天下一品だから」


少々の脳内混乱を乗り越えつつ、話についていく。


「そうだね。辛いこともある……かな。でもはじめが、嬉しそうにしてたら私も嬉しい。どうせ来週には家に帰るから、少しの間だけだし。夏樹には悪いけど、せっかくならかえでとの仲も協力してあげたいと思ってる」


ニコッと笑いながら夏樹を見ると、驚いたような顔をしていた。「応援されたの、初めて。誰かに言ってもほとんど否定されたから」


そう言って悲しそうな顔をする。たしかにイギリスの大学行って、戻ってこないなんて言われたら、親はびっくりするだろうな。


「そうか? かえでならできると思ったけど? 見た目とは違うだろ、心の中は」


そこまでいうつもりじゃなかったけど、かえでの悲しそうな顔を見たら、言わずにはいられなかった。


勉強する姿勢をみていると、なにか他の目的があるような気がしていた。目先の目標なんかじゃない、もっと大きな将来の夢のために勉強をやっているのだろうと。貪欲で、燃えるような決意が、あのかわいらしい体から溢れている。


天使の見た目とは違う。心の中は幕末の志士みたい。それに気がつくと、もっとかえでのことが知りたくなって、いつのまにか好きになってた。だからはじめのことを好きなことに、すぐ気がついた。


隣の席で見ていると、痛いほどそれを感じる。俺のことなんかまったく視界に入っていない。だから告白はきっかけにすぎなかった。フラれるのは当たり前。でもこうして今の状況になったのだから、告白はある意味成功だったと思う。「青山くん、ありがとう」


かえでは少し涙を浮かべていた。


「やりたいこと、やろうぜ。失敗したとしてもさ」


「私、失敗しないので」


どっかで聞いたようなセリフを吐いて、スタスタ歩いていく。他のみんなには見せない一面が見られたような気がして、嬉しくなってかえでを追いかけた。


「俺も志望校変えようかな」

「どこに?」

「イギリスのK大学。獣医学部あるだろ?」

「獣医学部ならAレベル(イギリスの大学受験用統一試験)受けなきゃ。なんだかんだ準備に2年はかかるよ」

「やるよ、かえでが行くなら」

「勝手にしたら」


かえでの顔がまたちょっと赤くなる。ダメとは言わなかったな。図書館に来たかいはあった。


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