第4話


「それで、綾音ちゃんは大丈夫なの?」

 取っ手の細いティーカップを手に尋ねてきたのは、私の母だ。突然かかってきた電話で綾音の様子を訊かれ、いまの状況を簡単に説明した。

 学校で倒れたこと、給食を食べていないこと、それから……いろいろと。

 そんな話をしたら心配で、いてもたってもいられなくなったんだろう。母は2時間も電車に揺られ、ここまで飛んできたのだ。


「大丈夫、だと思う。多分」

 不安そうな表情でこちらを見る母に、ボソリと答える。 

「多分って……よくわかってないってこと?」

 母は深いため息をついたあと、ガチャリと音を立ててティーカップを置いた。そして食い気味にそう言った。

 なんだか急に頭が混乱してきた私は、「うーん」と唸りながら記憶を辿ってみる。


「あいつ――靖と別れたあとから、私を避けるようになったんだよね。わざと時間をずらしたりして」

「そう……やっぱり、そこが原因なのかしらね」 

 母はまたため息をつきながら、「靖さん、ねぇ……」と小声で呟いた。


 

 なんとなくつけていたテレビの声、ティーカップを上げ下ろしする音。部屋に音はそれしかなく、母も私も言葉を発さなかった。いや、発せなかった。

 少しうつむいたままの母は、手のひらでディーカップを包んだり、お茶請けのクッキーをつまんだり。どこか手持ち無沙汰な様子に見える。

 ここはなにか話したほうがいいのだろうけれど……かっちり閉じた口が動かない。

 そうやってただ時間が過ぎるのを待っていると、耐えきれなくなったのか母が声を出した。


「ほんとう、変わってないのね。昔から、言いたいことがあっても言えなくて。そうやって口を閉じちゃって」 

 考えようによっては嫌味にも受け取れる。でも母の声は優しく、さらに続いた。

「きっと、綾音ちゃんもそうなんじゃない? 親子なんだし。ねえ、アタシが離婚したの、いつだったか覚えてる?」

「えっと……中学、2年のとき、だっけ」 

 ぼんやりとした記憶を頼りに呟く私を見て、母はクスリと笑った。

「同じでしょう? 綾音ちゃんと。そのとき、どう思ってたか覚えてる?」

 目元を緩ませた母は、静かに目を閉じながらティーカップに口をつけた。 



 あのころ、どう思ってたか?

 そんなの、思い出すのも嫌だ。


 いつもいがみ合っている両親と、愚痴しか言わない母。最初は逃げ場だと思っていた学校もなぜか辛くなって……あのころの思い出は、重くて、痛い。だから胸のずっと奥のほうに閉じ込めてあるというのに。


「すごく、イヤだったな」

 静かにこちらへ向けられている眼差しへ、ボソリと言った。するとふふふっと笑った母が言った。

「辛い思い、させたわよね。でもアタシも必死で、あなたの気持ちを考える余裕もなくて。今さらかもしれないけど……ごめんなさいね」

 ソーサーのわずか上。空になったティーカップを持つ母の手が、小さく震えているのが見えた。

 



 私は綾音の気持ちを考えたことがあっただろうか?

 気分を悪くさせて、「ごめんなさい」と言ったことはあっただろうか?


 体中の空気を全部吐き出すようなため息をついたあと、母の目を見る。

「私も、同じことしちゃってたね。綾音に」

 母はなにも言わない。ただ優しい視線で私を見ているだけだ。

「あー、もう。『親』なのに、なんにもわかってないなんて……ほんと、バカ」

 そんな自分が恥ずかしくて、情けなくて、声が震えだす。でも一度開いた口は閉じることなく、言葉がどんどん溢れてくる。


「たとえば、さ。ピアノならピアノ教室、泳ぎを覚えるならスイミングスクール、勉強だったら塾……みたいに、習いに行くじゃない? それじゃあ子どもの気持ちを知りたければ、どこに勉強しに行けばいいんだろうね」

 ティーカップを手に取り、中身を飲み干す。

「私、綾音のこと……なにもわかってないから」 

 すっかり冷えた紅茶が苦かったせいだろうか。それとも……。鼻の奥が、妙に痛かった。



「あのねぇ……」

 間を置いてから聞こえた母の声は、少し呆れたようだった。慰められるのを期待していたわけじゃないけれど、思わず身構える。

「『子どもの気持ちがわかる親』なんて、いるわけないじゃない」

 緊張した私をよそに、母の声は妙に優しかった。だから思わず「へ?」なんて声を出してしまって、首をかしげて母を見ていた。

 

「多少はね、わかるわよ。生まれたときから、ずっと見てるんだから。でもアタシ、いまでもあなたのこと、半分もわかってないと思うわよ」

「半分、も?」

「そう、半分も。でもそのときの声とか様子を読み取って、どうにかわかろうとして……。ねえ、あなたもそうなんじゃない?」

 どくん、と胸が鼓動する。

 確かにそうだ。私には綾音がなにを考えているのかなんてわからない。でも家にいるときの様子を見ながら、わかろうと思っていただ。


「はぁーっ……。いまさらながら、親って大変だ」

「そうよ、大変なの。でも仕方ないじゃない。親子って血が繋がっているだけの、いちばん近い他人なんだから」

「いちばん近い、他人」

 ぎこちなく復唱すると、母はニコリと笑った。

 

「そう、だから『わからない』で当然なの。いまだから言えるけど、何度突き放そうとしたことか! でも、ね」

「でも?」

 尋ねると、母はもったいぶるようにうつむく。しばらくそうやって黙ったあと、肩をすくめてフフッと声を漏らした。

「いつでも側にあなたのきらきら輝く笑顔があってね。『かけがえのない存在に、そんなことできるわけないじゃない!』って思って……って、どうして泣いてるの?」

 母の言葉で、自分が泣いているのに気付いた。

 鼻の奥が妙に熱い。目に浮かんだ涙がこぼれ落ち、頬を伝う。それがとてもあたたかくて。あのとき後部座席で泣いていた綾音を思い出して、溢れる勢いを加速させた。


「お母さん。私、綾音とちゃんと話し合ってみる。ちゃんと言ってくれるかわからないけど。でも、このままモヤモヤしてるのは嫌だし。それに……」 

「それに?」

「あのころの私も、お母さんと話したいことがたくさんあったから。もしかしたら綾音も……って思って」

 なんだか照れくさくてモジモジしている私に、母は優しい声で「そう」と言って微笑んだ。その顔がベランダで見上げた月みたいに優しくて、不思議と心が落ち着いた。




 母を車で駅まで送り届け、家路につく。目の前の信号が赤になったタイミングで、助手席に目をやった。そこにはいちごのショートケーキの入った箱がある。綾音の大好物だけれど、喜んでくれるだろうか?

「私にもあんな顔、できるのかな……」

 母の微笑みを思い出し、息が漏れる。少なくとも鏡と向き合って、あんな顔をしたことはない。それでも。綾音と話をすることはできるはずだ。

 もしかしたら、辛い思いをさせるかもしれない。

 あのころの私と同じように口をつぐんでしまうかもしれない。

 

 でも、だ。月が満ち欠けるように、夜空の星が移り変わるようにゆっくり、自分のペースで話してくれればいい。そう思った。

 

「笑顔が、見たいの」

 信号が青に変わって、前の車がゆるゆると前進を始める。私もアクセルを軽く踏んで、車を走らせていく。

 こんなふうに、ゆっくりと。綾音も心を開いてくれますように。

「だってあなたは、私のステラなんだから」

 もういちど、キラキラと輝く笑顔を見せてほしい。そう願いながら、家まで続く道を駆け抜けた。

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わたしのステラ 文月八千代 @yumeiro_candy

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