第3話


 検査結果は養護教諭の見立てどおり、貧血とのことだった。軽い脱水症状もあるらしく、点滴を受けてから帰宅した。

「給食、食べてないんだって?」

 帰るなり、制服のままベッドに潜り込んだ綾音に声をかける。でも、返事はない。

 しばらく待ってみても状況は同じで、こちらに向けられた背中から言葉は聞こえてこなかった。


「家でもあんまり食べてないじゃない。それに給食も……なんて。佐藤先生も慌ててたし、『倒れた』なんて連絡がきて、ビックリしたんだからね」

 相変わらずリアクションはなかったけれど、私は続けた。 

「凄く心配だったし……職場にだって、迷惑かけちゃったし」

 でも、大事がなくてよかった。そんな安堵に納得するように、ほぅ……と息を吐く。


「これから仕事に行かなきゃだけど、なにか食べたいものがあったら……」

「……さい」

 膨らんだ布団から、小さな声が聞こえた。

「えっ? なに?」

 うまく聞き取れなくてそう返すと、綾音がムクリと起き上がった。そしてキッとこちらを睨みながら、口を開いた。



「だから、うるさい! 食べたくないんだから、食べなくたっていいでしょ! ほっといてよ!」

 そうやって言い終えると、バタンと音を立ててまたベッドに横たわる。

「寝る……から。さっさと仕事行けば?」

 今度はちゃんと聞き取れた。冷たい、声。

 時計を見てみると勤務開始時間が迫っていて、「あっ」という声が漏れた。それに綾音はなにも言わず、頭から布団をかぶってじっとしている。

 

「遅番と交換してもらって……遅くなるから。冷蔵庫に作り置きがあるけど、食べたいものがあったら買って食べなさいね。お金はテーブルに置いておくから」

 綾音の部屋とリビングを仕切るドアを締めながら言ったけれど、返事はなかった。



 傾いてきた太陽を正面に見ながら、職場である介護施設に車を走らせた。頭のなかは綾音のことでいっぱいだったものの、モヤモヤを仕事に持ち込みたくなくて、大音量で音楽をかけていた。

 ロッカールームで仕事着に着替えているとき、ちょうど休憩に入っていた郁美さんが、こちらに近づいてきた。


「ねえ。娘さん、大丈夫?」

 きっと上司が「笹原さんは娘さんの用事で」とでも言ったのだろう。郁美さんは深く刻まれたほうれい線を歪ませ、にやけ顔で訊いてきた。

 私はポロシャツの襟元を正し、口を開く。

「あ、はい。ちょっと熱さに負けちゃったみたいで。エアコンがあるとはいえ、夏は気をつけないとダメですね。ご迷惑おかけしてすみません」

 深々と下げた頭を正すと、相変わらずニヤつく郁美さんがこちらを見ていた。


「そぉ、よかったわね。ほら、笹原さんのトコ、いろいろあったじゃない?」

 ねっとりとした口調。そして舐め回すような視線で私を見ながら、ひとりで納得するように「そうよねぇ」と何度も呟く。

 なんだか急にムカムカとした気持ちがこみ上げてきたけれど、我慢してぐっと飲み込んだ。



 考えないようにしよう……と思っていても、郁美さんの言葉が脳内でループする。


――笹原さんのトコ、いろいろあったじゃない?


 決して間違いじゃない。この数ヶ月、我が家は修羅場だったのだから。

 郁美さんやほかの同僚に愚痴ったこともあった。でもそれは「いろいろ」なんかじゃなくて、理由はたったひとつだけ。

 家庭を顧みずに浮気を続けていた夫を、家から追い出すという話だ。 


 そもそもの発端は、綾音の一言だった。

「見ちゃった。お父さんが女の人と会ってるの」

 ドラマのワンシーンのようなセリフをサラッと言われ、思わず「冗談でしょ」と笑い飛ばした。しかし綾音は私にスマホの画面を突きつけ、証拠写真を見せつけてきた。


 手のひらサイズの画面。あまりにも小さなものだったけれど、そこから飛び出した火種は、私の心に火をつけた。そしてごうごうと音を立てて燃える、疑惑の炎になってしまって……。

 綾音もいる。できるだけ穏便に済ませたいと思ったものの、つい先日、限界が訪れた。


「浮気を続けるか、家から出ていくか。好きなほうを選んで」

 私が出ていってもよかったけれど、考えてみたら夫はほとんどこの家にいない。おまけに綾音の学校のこともある。これが最適だと思ったし、もしかしたら考えを改めて、浮気相手との関係を精算してくれるかもしれない、という希望も。

 結果、そんな希望は簡単に握りつぶされて、夫は舌打ち混じりに「わかったよ」と吐き捨て家を後にした。


 それがひと月前。

 綾音が給食を食べなくなった時期と重なっていた。


 

 結局郁美さんの声が頭から離れないまま、仕事終わりの時間を迎えた。 

「いろんなこと、職場で話したのは失敗だったな……特に、郁美さん」 

 たはは、と苦笑いしながら、我が家のドアを開けると、部屋は真っ暗でシンと静まり返っていた。


「綾音は……」

 自室のドアの隙間から、うっすらと光が漏れている。部屋の電気をつけて確認すると、テーブルのお金が動いた様子はなかった。シンクや冷蔵庫を見ても同様だ。

 私はため息をつきながら冷蔵庫のドアをバタンと閉め、リビングのガラス戸を静かに開けてベランダに出た。


 日中とは違う、湿気を纏った涼しい風が頬を撫でる。手すりに手を添えながら見上げた夜空は雲ひとつなくて、優しい光を放つ月と名前も知らない星たちが、チカリチカリと輝いていた。

 爽やかな気持ちになれそうなのに、心はどんよりと重いままだった。


「やっぱり、あのこと……」

 ふたたび郁美さんの言葉は脳内を駆け巡り、車内で涙を流していた綾音の姿が蘇る。

「わかってあげられなくて、ごめんね」 

 やりきれない気持ちと肺に溜まった重い空気を吐き出したあと、もういちど空を見上げてみる。そこにはやっぱり星が瞬いていて、妙に眩しい。それが私の胸をキリキリと締め付けた。


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