第12話 鍵穴くん 3

 夏休みが終わり、二学期も、そろそろ終わろうとしている。


 学校へと歩く足は遅く、心臓の鼓動は早かった。


 どうしよう、どう、ぼーちゃんに伝えよう……。何回も、頭の中でそんなことを反芻している。


 僕は昨日の朝、お母さんに言われたのだ。仕事の都合で、引っ越しすることになったから、転校しなければならないこと。


 その日の夕方、僕は引っ越す場所がどんなところなのか、車に乗せて連れて行ってもらった。


 次に僕が住む場所は、線路沿いの綺麗なアパートで、駅にとても近かった。車内でお母さんは、電車に乗れば、すぐ今通っている学校の近くの駅まで行けることを教えてくれた。


 お母さんに乗る駅と降りる駅の名前を教えてもらい、僕はその駅の名前を心に留めておいた。登校している今でも、駅の名前は言えると思う。


 だけど、お母さんにとってはそこまで遠くない距離だったとしても、僕にとってはとても長い距離のように思えた。少しでも自分の生活する場所が変わってしまったら、僕が世界を通して見る目は全く別物になってしまうということを、小学校に初めて入ったときに僕は思い知らされた。


 最後に見せてくれた、僕がこれから通う小学校は、まるで異世界のもののように思えた。


 学校の中に入り、すのこの上で靴箱から上靴を取り出す。上靴と靴箱の木が擦れる音や、みんなの話声、誰かが砂利の上を掛ける音。そんな音を、気づけば僕は無意識のうちに遮断してしまっている。僕の心はまだ、昨日の夕方の時間の、車の中に取り残されている。


「おーい、こーちゃーん」


 その時、後ろからぼーちゃんに名前を呼ばれ、意識が現在に引き戻される。


「あ、ぼーちゃん……」

 僕は無理に明るく返そうとする。

「どしたの?」


 そう訊いて、ぼーちゃんは僕の目を覗き込む。僕の気持ちの全てが見透かされてしまいそうで、僕は目を逸らした。


「ま、また拓海になんかされたら言ってね。俺がまた成敗してやるから!」


 ぼーちゃんはいつもの明るさでそう言う。誰も悪くないことなのにと、僕は思う。




 昼休みが終わり、僕は正門の中の玄関で掃除をしていた。正門の向こうの運動場を、僕は無意識に眺めてしまう。


 どう伝えよう、どうやって、どうやって……。


 ずっと僕は迷っていた。ぼーちゃんが授業で手を上げているときも、体育で見学しながらぼーちゃんのサッカーの動きを見ているときも、給食でぼーちゃんが楽しそうに話しているときも。


 この掃除場所にはぼーちゃんはいない。そのことが僕にとって、気持ちの整理をする時間になるはずだった。それなのに、心はどんどん焦っていく。


 どうやって、どうやって、どうやって……。


 そう思っていると、いつの間にか心臓の鼓動が速くなっていた。


 僕の呼吸は荒くなっていって、必要以上に箒を握りしめる手の力が強くなる。体中に嫌な汗をかき始め、全身をかきむしってしまいたくなるほどに鳥肌が立つ。胸が重苦しくなっていく。頭が沸騰しそうなくらいに熱くなる。


「はあ……、はあ……」


 僕はやっと、体の異常に気付き始める。


 もうここに立っていられない。運動場で掃除をしている人たちを見ながら微かに思う。みんなは正しい形で掃除を続ける。正しい形ではない僕は、置き去りにされた気分になって、玄関のマットの上に倒れこんでしまう。


 女子の助けを呼ぶ声が、微かに聞こえた。




「うっ……、はぁ……」


 僕は、夕焼けの日が差し込む秘密基地への雑木林の道を、体を無理やり動かしながら進んでいる。


 落ち葉や枝を踏んで進んでいくたびに、お前はこれ以上進むなと言われている気分になる。


 あの後、僕は保健室へ行き、お母さんと一緒に病院へ連れていかれた。以前僕を診てくれた男の先生からは、入院が必要だと告げられた。


 僕は一体、何回自分の弱さを恨んだのだろう。


 僕はお母さんに家に戻って落ち着きたいと頼み、お母さんが入院の手続きをしている間に、僕は密かにアパートを出て、秘密基地へと向かった。今日は五時間目に帰れる、平日で唯一秘密基地へ行ける日だった。


 きっと、ぼーちゃんは秘密基地にいるはずだ。


 僕は、ぼーちゃんに謝りたかった。


 自分の体が弱いせいで、ぼーちゃんを悲しませてしまう。僕はみんなのようにはなれないくせに、みんなのように友達を作って、強がって普通の人みたいにふるまった。秘密基地にいたときの、笑顔で過ごしていた僕が、今になっては馬鹿らしく見えた。


 僕は結局、弱いままの僕だった。


 小屋の屋根が見えてくると、聞き覚えのある、ぼーちゃんのものではない声が聞こえ、ぼーちゃんのものではない背中が見えた。


「だから、こういうのよくないと思うんだけど……」


 この声は、確か美香のものだ。それが分かったとき、僕はとっさに茂みへ隠れた。


「美香には関係ないだろ。今日でもう、この小屋は使わないし……。それでいいんだろ?」


 そして、ぼーちゃんの声がする。どうやら、小屋の中にいるぼーちゃんに、美香は話しかけているようだった。


 僕は、美香とぼーちゃんの言葉を思い起こす。この小屋でぼーちゃんといることが、美香にばれてしまったのか? それに、もうこの小屋は使わない、って……。


 嫌な考えが僕の頭を過るたび、茂みの枝の、僕の背中をチクチクと刺す痛みが強くなっていく。


「ねえ、それと、ここで令斗君は、昂輝君と何をしてたの?」


 そう美香の声が聞こえて、茂みの中で、僕の心臓が跳ねた。


「やめろ! あいつの事だって、美香には関係ないんだよ……」


 ぼーちゃんの叫び声に、僕は体を竦める。ぼーちゃんは今、僕のことをどう思っているのか、そのことを考えるだけで、僕は恐ろしくなる。


「……ごめん……。もう、帰る……」


 しばらくして美香がそう言い、美香の足音がこちらに近づいてくる。僕は目をぎゅっと瞑りながら、気づかないでと祈る。


 美香が茂みの横を通り過ぎ、僕は目を開ける。そこには遠ざかっていく美香の背中が微かにあり、やがて日差しや草木に遮られ、姿が見えなくなった。


「……こーちゃん、隠れてるんでしょ? 見えてた……」


 躊躇いがちなぼーちゃんの声がして、僕はぴくっと反応する。


 茂みの中から出ようと、僕は動く。シャツやズボンに引っかかる枝を離して立ち上がり、小屋の方を向いて、僕はぼーちゃんに近づく。


 ぼーちゃんは暗がりになった秘密基地の中で、ランドセルに、オセロや漫画本を詰め込んでいた。ぼーちゃんの暗い表情に、僕は胸が締め付けられる思いがした。ごめんなさい、僕がいるせいで、と。


「無理してここに来なくてもよかったのに……。全部、先生に教えてもらったよ……」


 そう言って、ぼーちゃんは僕を見る。ぼーちゃんは、複雑な感情の混じった、それでいて優しい表情をしていた。


「ねえ、ここの小屋は使わないって言ってたけど、本当?」


 僕はぼーちゃんに訊く。


「ああ。こうちゃんはもう、ここには来れないんだろ? だったら、俺にはここに来る理由なんてないし……」


 ぼーちゃんはそう言って、机の木目に目を落とす。影になった小屋の中で、ぼーちゃんの表情は一層暗くなる。僕は、いつも明るい表情でいるぼーちゃんが、そんな顔をしているのが耐えられなかった。僕がいるせいで、僕が弱いせいで、ぼーちゃんは悲しんでいるんだと、僕はまた自分を責めた。僕は、自分の存在がどれだけ周りに影響を与えてしまっているのか、そのぼーちゃんの表情を見て分かった。


「ぼーちゃん……。ごめん……」

「こ、こうちゃんが謝ることなんてねーよ……」

 ぼーちゃんは眉を八の字にして困った顔になる。

「違う……、僕が、弱かったから……」


 僕は俯いて、目を瞑って言う。ぼーちゃんの前で泣きたくなくて、それでも涙を流してしまう。


 枯葉が、僕の涙を優しく受け止める。


「大丈夫だよ、そんなに自分を責めなくても。ほら、たまに手紙とか書いてさ、それに、会えない距離でも……」


「そうじゃなくて……!」


 僕は、無理に明るく話そうとするぼーちゃんの言葉を遮った。


「僕なんか、友達にしない方が良かったんだよ! こんな僕と友達になったから、みんなが悲しむことになっちゃう! 僕が、僕がいないほうが、みんな幸せだったんだ! 僕みたいなやつ、居ない方が良かった!」


 僕はこの胸にたまった弱みを、全部吐き出してしまった。こんな言葉、言ってはいけないのだと、心では分かっている。


「あああああああっ……」


 僕は泣きながらしゃがみ込み、ぼーちゃんを見上げる。小屋のシルエットも枝木も差し込む夕日も、僕の視界の中で感情とともにぐちゃぐちゃに混ざっていく。


「ごめん……」


 しゃがんで泣いていると、僕の前で、確かにぼーちゃんはそう言った。


 違うよ、悪いのは僕なのに。どうして謝るの……。


 僕は立ち上がって、俯いたぼーちゃんを見る。


「ごめん……」


 ぼーちゃんは嗚咽混じりにそう言う。もう、もう嫌だ。僕はそう思う。もう僕に謝るほどの勇気も、体力もない。僕は泣きだしそうになるぼーちゃんを見たくなくて、雑木林の出口へと走り、逃げてしまう。


 僕は道路に出て、田んぼの中、一人でアパートへと走る。


 ありえないぐらいにはねる心臓をおさえながら、息もできなくなるほどに走る。稲穂が夕焼けに包まれていく中、僕だけがここにいることが間違いであるような気がしてならなかった。


 ぼーちゃんは追ってこなかった。


 ……ああ、これだから僕は、誰とも仲良くできないんだ。


 住宅街の建物や赤い空の輪郭がぼやけていく中、僕はそんなことを思った。


 今まで歩んできた人生の中で、一番心臓が苦しかった。




 なんだか、今までのことがすべて夢だったみたいな気分だ。


 病院の個室で、ベッドに一人でいる感覚は、まだ忘れていなかったみたいだ。また、あの時の生活に逆戻り。でも、前に入院していた時より、胸が苦しかった。


 あの時、病院でいたときは、無感情でいることに慣れていたはずだったのに、今ではもう、ぼーちゃんがそばにいないことへの寂しさが僕を支配している。


 一人でいるときはふいに涙が出て、大人の人がやって来た時はばれないように涙を隠した。


 ぼーちゃんをあの時突き放してしまったこと。そのことを後悔していること。僕はそれを、誰にも話せなかった。


 僕はこの病室を抜け出してでも、ぼーちゃんに謝りたかった。


 でもそんなこと、僕の胸に抱えた爆弾が許してくれなかった。


 僕の体はもう、完全に弱り切っていた。


 僕は動けない体の中で、とてつもなく焦っていた。謝りたいという気持ちと、正直に話せない気持ちが、今頃になってもせめぎあっていた。




 ある日、お母さんが病室にお見舞いに来たときのことだった。


「ごめんね、今日も遅くなっちゃって」


 お母さんは、引き戸を開けて中に入りながら言った。


 お母さんがお見舞いに来たのは、夜の六時だった。相当、お母さんの仕事は忙しいのだろう。これでも早く帰ってきた方なのだと、僕は分かっている。


「ううん……、全然、大丈夫……」


 ごめんねと謝りたいのは、僕の方だった。こんな病気の僕がいるせいで、お母さんの邪魔になってしまう。


 お母さんはベッドの隣に座って、僕を優しい表情で見ていた。


「体は、大丈夫?」

 僕は小さく首を左右に振る。

「そう……」

 お母さんはゆっくりと落ち込む。

「ごめんね……。もしかしたら、私が昂輝に無理をさせてしまっていたのかもしれないわ……」


 お母さんの手が、ゆっくりと僕の頬に触れる。お母さんの手は、いつも温かい。


 お母さんは、また謝る。

 違う、と僕は反発したくなる。


「違う……、お母さんは、悪くない……。僕が、悪いの……」

「どうして? どうしてそんなこと……。誰も、昂輝を悪いだなんて思っていないわよ?」

「でも! ……でも、僕が、こんな病気だから、みんなを傷つける。みんなに、悲しい思いを、させちゃう……。僕がいないほうが、みんな幸せだった……」


 僕は、お母さんに一度も言ったことのない思いを吐き出した。


 お母さんは、急激に悲しい顔へと表情を変えて、ぎゅっと、僕を抱きしめた。


「そんなこと、私は思わない……。昂輝がいなかったら、だなんて、考えたくない……」


 僕は、抱きしめられながら、お母さんの肩に涙を落とす。


「昂輝が病気だって分かって、とても悲しい思いはしたわ……。それでも私は、昂輝といられるだけでとても幸せなの……。誰かがいないほうがいいなんてこと、私は考えて生きていたくない。いちゃいけない人間なんて、誰もいないのよ……」


 僕は、お母さんの後ろの白い壁を目に入れながら、思う。


 僕は、大きな間違いをしてしまったのだと、はっきり思った。


 僕は今すぐ、ぼーちゃんに謝らなきゃいけない。


 あの時、ぼーちゃんは僕を助けてくれたのに、それなのに、僕はぼーちゃんを突き放してしまった。友達にならない方が良かったなんて、僕はなんて失礼なことを……。


 いちゃいけない人間なんて誰もいない。お母さんのその言葉が、僕の胸の中でずっしりと響いた。


 僕は、お母さんに言った。


「お母さん……」

「なに?」

「僕に、ぼーちゃんっていう、友達がいるって前、言ってたよね……」

「うん……」

「僕、ぼーちゃんに、ひどいこと、言っちゃった……」

「……」

「僕と一緒にいたら、悲しくなる。僕と友達になっちゃ、いけなかった、って……」

「……」

「でも、僕は、ぼーちゃんといて、とても楽しかった……。友達がいるって、とてもいいことなんだって、初めて思った。僕は、その時の僕に嘘をついた……」

「……」


 秘密基地で楽しく過ごしていた日々を、僕は思い返す。


「僕、ちゃんと会って、ぼーちゃんに謝りたい……」


 僕は、この気持ちをやっと言うことが出来た。全身の力が抜けて、お母さんの抱きしめる力だけに支えられていた。


「わかったわ。そのお友達の名前は、何て言うの?」

「令斗君……」


 僕はそう言うと、お母さんは僕を抱きしめる手を放し、ゆっくりとベッドに寝かせた。


「わかったわ。明日、先生に頼んでみるわね……」


 お母さんは優しく僕を見下ろして言った。




 けれど、僕の願いは果たせなかった。

 次の日の朝、僕は激しい動悸に襲われ、その日のうちに息を引き取った。

 僕はこの世界に後悔を残したまま、死んでしまった。

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