第13話 鍵穴くん 4

 僕は、この病室の隅で一人、透明な幽霊の体でうずくまっている。

 結局、何もかもが無駄だった。

 お母さんに思いを伝えても、もう何もかも遅かった。


 夜、人の気配のないこの病室は、ただただ寒くて、暗かった。


 やっぱり、僕が弱いからいけなかったんだ……。

 僕は一人でそう思う。


 もう、僕を見てくれる人は誰もいない。


 それでも、僕は誰かに助けを求めてしまう。学校の用具入れの奥に隠れていて、ぼーちゃんが助けに来てくれたみたいに、誰かが手を差し伸べてくれないか、ずっと叶いもしないことを願い続けている。


 僕からはもう、この場を動くことが出来ない。


 ぼーちゃんの所へ行きたいのに、怖くてどこにも行けないせいで、僕はずっと一人で泣いている。


 僕はこんな日を、何日も繰り返した。




 昼は、夜と違って明るく、優しい日の光が差し込んでくる。

 僕はその優しさに包まれ、安心しきって、眠り込んでしまう。




 僕は、ある夢を見た。

 ぼーちゃんが出てくる夢だった。

 ぼーちゃんは学校のベランダに一人立っていた。


 雨上がりなのか、緑色のフェンスが濡れていて、水滴が夕日を反射していた。

 その輝きとは正反対に、ぼーちゃんは、ぼーちゃんとは思えないほどの暗い表情をしていた。


 ぼーちゃんはゆっくりとフェンスの上に立ち、そして、ベランダから落下した。




 僕は、はっと目を覚ます。

 恐怖が、自分の身を包んでいた。悪寒が、全身を駆け巡った。


 今のは、一体なんだ?

 ぼーちゃんが、自殺?


 自殺という言葉が頭に浮かんだ瞬間、居てもたってもいられなくなって、僕は病室を抜け出していた。




 病院の中を、僕は息を切らして走っている。


 僕の足音は、病院の通路に響かない。周りを歩いている人たちは、幽霊になった僕が見えず素通りして、誰も僕を止めようとしない。


「はあ……、はあ……」


 どこに向かえばいいのか分からず、けれども僕はぼーちゃんの所へ向かわなければという思いに駆り出され、必死に走っている。


 暗い階段をつまずきそうになりながら飛ぶように降り、やがて病院の開けた場所に出た。


 そこには点滴をつけた小さい子供や、車いすに運ばれる年老いた人まで、さまざまな人が行き交っていて、僕は人の多さに階段の上で一瞬足を止めた。


 さっきまで少ししか聞こえていなかった、がやがやとした人たちの声がはっきりと聞こえてきて、僕は少しの間、階段の上で圧倒されていた。


 左側を見ると、大きなガラスを隔てて、駐車場と僕の知らない住宅街が見えた。


 でも違う、僕が行きたいのは外じゃない、と、僕は思う。


 僕は絵本でウォーリーを探すみたいに、人ごみの中に目を凝らした。


 すると、左側に、人の流れが乱れている場所があった。


 その場所をよく見ると、何人もの大人たちが、何かを運びながら走っているのが見えた。


 運んでいるものによく目を凝らす。

 僕は息を呑む。

 運ばれているのは、血だらけのぼーちゃんだった。


 追いかけないと! 僕はそう思い、階段を飛び降り、大人たちに向かって走る。


 僕に触れた人たちは、僕の体をすり抜けていく。


 僕は、ぼーちゃんを運んでいる大人たちが建物の奥に走っていき、手術室に入っていくのを見た。


 間に合って! 間に合って!


 僕は何も恐れることなく、機械だらけの部屋に飛び込んだ。




 これはまずい。回復は難しい。そんな声を、周りの大人たちが発する。


 僕はぼーちゃんの乗せられた台の横にしゃがみ込んで、そんな大人たちを見回す。お願い、僕の友達を助けてと叫びながら。


 僕はぼーちゃんの血まみれの体を見て、その手に触れる。


 お願い、お願いだから助かって……。


 手術室の明かりが、まるで僕たちが悲劇の登場人物であるかのように、スポットライトのように僕たちを照らす。


 ぼーちゃんは、自殺したくなってしまうほどに、追い詰められてしまっていた。


 僕は、なんてことをしてしまったのだろうと、更に後悔の感情に駆られる。


 何とか、何とか、ぼーちゃんを助けたい。


 そう思っていると、僕に、ある考えが浮かんだ。




 ぼーちゃんの体に、僕が入れば、ぼーちゃんの意識が戻るんじゃ……。




 大人たちが何とか手術を始める中、僕はずっとぼーちゃんの手を握る。


 冷静に考えている余裕なんてなかった。


 僕は、このぼーちゃんの体が治ってほしいという感情だけを込めて、ぼーちゃんの体に意識を移した。

 



 僕は、ぼーちゃんの体に意識を移したまま、手術の後、ずっと眠り続けていた。

 そして、僕の意識がぼーちゃんの体に適応するまで、一年ほど眠り続け、ようやく目を覚ました時には、ほとんどの記憶を無くしていた。




 僕の手は、膝の上で震えていた。


 長野昂輝のお母さんが作ったジェノベーゼを食べて、その後、長野昂輝が死んでしまう直前の話を、僕は聞いた。


 長野昂輝のお母さんの話で、僕の疑問が、すぐに腑に落ちた。あの夢は現実だったのだと理解した。


 僕は頭の中で、僕についての真実をまとめる。


 櫂房令斗と長野昂輝という二人の小学生がいた。長野昂輝は心臓に病を抱えていて、小学四年生の年齢で学校に入り、そこで櫂房令斗と出会った。二人はどこかで遊び、お互いにあだ名で呼び合うほどに仲が良くなった。しかし、長野昂輝は引っ越すことになり、更に心臓の病が悪化してしまう。長野昂輝は自分が嫌になり、自分と友達にならない方が良かったと言って、櫂房令斗を傷つけた。その後、入院中にお母さんに櫂房令斗に謝りたいと打ち明けた後、後悔を残して死んだ。ここまでが、長野昂輝のお母さんが話した内容だ。


 その後、幽霊となった長野昂輝は、病院の中で緊急搬送されている櫂房令斗を見つける。長野昂輝は運ばれている櫂房令斗を追いかけ、手術室の中で、自分の意識を櫂房令斗の体へと乗り移した。その後、記憶がなくなるほどに病院のベッドで眠り続けた。


 ここまで来たら、もうわかる。


 この自分。櫂房令斗と呼ばれている自分は、一体誰なのか。




 この体の中にいる本当の自分は、今こうして動いているこの意識は、櫂房令斗のものではない。僕が、僕こそが、長野昂輝だったのだ。




 目の前で話していた人物は、僕の本当のお母さんだった。


 僕のお母さんの話を聞き終わり、その後を思い出し、真実にたどり着いた。どうして、どうしてこんなに大切なことを忘れてしまっていたのだろうと、僕はそう思う。


 それでも、あと一つ、疑問が残っていた。


 鍵穴くんという存在だ。


 突然家にやってきて、僕の悩みを解決したいと言い出して、僕の部屋に住みだした鍵穴くん。鍵穴くんは、いったい何者なのか、まだはっきりとわかっていない。


 それでも、僕はうっすらと気づき始めている。


「すみません……、昂輝の使っていた計算ドリルとか、ノートとか、残っていますか?」


 僕はお母さんにそう訊く。


「……あるかもしれないわ、少し待っててね」


 お母さんは席を立ち、自室であろう部屋に入っていった。


 僕の記憶の中に、うっすらと鍵穴くんの存在がいる。それはきっと、小さい頃に書いた落書きだ。


 きっと、秘密基地で宿題をしている中、僕はその落書きを書いて、令斗に見せたのだ。


 部屋からガサゴソと音がして、少しすると、お母さんがリビングに戻ってきた。緑色の、算数のノートを手にして。


「これで、いいかしら?」


 そう言って、僕の隣に来てノートを机に置く。


「はい……」


 僕はノートに手を触れ、めくる。僕はどんどん、記憶の欠片に触れていく。


 三角形の計算、分数の計算、円の計算、距離の計算……、ページをめくるたびに、方眼の上に走る拙い字が目に入ってくる。横から、お母さんはその様子を見下ろしている。


 そして僕は、ページを何枚もめくって、やっと見つけた。


「あ、あった……」


 鍵穴のような形、二本の縦線で書かれた目、にこっとした口、ネコ型ロボットのような腕。鍵穴くんの落書きが、計算の横に添えられ、消しゴムで消された跡として残っていた。


「落書きの、鍵穴くん……」

 僕はそう言葉をこぼす。


「ああ、それね」


 後ろで、柔らかく明るい口調で、お母さんが反応する。


「昂輝が学校に行く前に、私が勉強のノートの横にいつも書いてたの。そしたら、昂輝は気に入っちゃって。きっと、その頃の、唯一の友達だったのかもね」


 お母さんはそう言う。


 この鍵穴くんを知っているのは、僕とお母さんと、あと一人、本当のぼーちゃんしかいない。


 そうだ……。鍵穴くんは、本当の櫂房令斗なんだ。


 僕はそう確信した。


 横にいるお母さんを見上げると、頬に涙が伝っていた。




「なんだこれえええっ⁉」


 朝、秘密基地の中で、小さい鏡を覗き込みながら俺は叫んだ。鏡の中に映った俺は、こうちゃんの描いた落書きにそっくりで、声はヘリウムガスを吸ったときみたいに高くなっていた。


 こうちゃんは確か、この落書きを鍵穴くんとか言っていたっけ……。


 俺はこうちゃんと一緒に遊んでいたころを思い出す。


 そして、俺がこうちゃんを傷つけてしまっていたのだということも。


 こうちゃんは僕と友達にならない方が良かったと言った。それくらい、本当は俺と一緒に過ごすのが苦痛だったのだ。俺はこうちゃんに、みんなと同じように楽しんでもらいたかった。でもそれは、こうちゃんにとっては、みんなへの憧れを強め、自分がみじめに思えてくるだけだったのだと、こうちゃんの言葉を聞いて分かった。


 こうちゃんがいなくなってしまって、俺はずっと自分を責めてきた。先生にも、お母さんにも、心配の目を向けられた。


 こうちゃんが死んだと聞いたときは、ただただ絶望した。


 本当に俺が悪かったのだと、何度も何度も心の中で謝った。


 俺は、俺が許せなかった。どうにかして償いたかった。


 だから、学校のベランダから飛び降りた。


 俺は幽霊になって、砂利の上の、血まみれの死体を見下ろした。


 周りの大人たちが駆けつけてくる中、俺はなんてバカなことをしたのだろうと思った。


 こんなことをしても、なんの意味もないじゃないか。




 俺が生きていたころのことを思い出していると、二人の名前の知らない子供たちが、木々の奥からやって来た。


「ねえ、あれなに?」

 と、女の子が言う。

「小屋かな?」

 と、男の子は返す。


 秘密基地に向かおうとする二人を見て、俺は焦る。来ちゃダメ、ここは、俺とこうちゃんの場所だ。


 何とかしてこの子供たちを返さなきゃ。

 そう思って俺は、机の上にある鏡を落とした。


「え? 何か動いた?」

「え⁉ ポルターガイストだよ! 逃げよう?」


 そう言って、子供たちは出口に向かって走り始めた。

 ふう、と、俺は息を吐いた。


 俺は何回、こんなことをしているのだろう。




 昼、俺は眠っていた。

 すると、俺はこんな夢を見た。


 知らない学校の中で、俺が過ごしている。それでも、これは俺じゃないと、俺は思っている。


 俺の姿をした誰かは、きっちりと制服を着て、友達と会話をしている。それでも、心の中では、叫び声をあげている。


 助けて。誰か、助けて……。




 その声に、俺ははっと目を覚ました。

 今のは、忘れるわけない、こうちゃんの声だった。


 こうちゃんが助けを求めている?

 俺の体から、こうちゃんの意識が?


 分からない。漠然とした疑問が、頭にどんどん浮かんでくるが、俺はただ直感的に、こうちゃんはこの町のどこかにいる、こうちゃんは何かに悩んでいると思った。もう、死んだはずなのに。


 居てもたってもいられなくなって、俺は秘密基地を抜け出そうとする。すると、また、木々の向こうから誰かが歩いてくる音がした。


 俺はその方向に目をやる。


 そこにいたのは、美香だった。


 何とも言えない気分に俺はなる。あの時、俺は美香を突き放した。でも、俺は美香でもいいから、助けを求めるべきだったのかもしれない。


「いつも令斗君、ここに入ってたけど、本当は、大切な場所だったんだよね……」


 美香は一人、秘密基地の前でそう言う。


 引きずり込まれるみたいに、美香は秘密基地に入っていく。俺はそれを止めることはできない。


 美香は中に入って、俺が落とした鏡を拾う。


「鏡……」


 そう美香は言って、机の上に鏡を置き、俯いた。


「令斗……」


 美香はそう言って、泣き始めた。ごめんなさい……。届くはずもないのに、俺はそう思う。


 俺はこの雰囲気に耐えられなくなって、秘密基地から抜け出した。ずっと、秘密基地にこもっているわけにはいかない。そう思った。




 高台の公園の端っこで、土砂降りの中、俺は突っ立っていた。


 どんなにいろんな家のインターホンを探しても見つからず、俺は半ばこうちゃんを探すのを諦めかけていた。


 俺は住宅街の道路を見下ろす。


 すると、右手からゆっくりとレインコートを着た自転車が雨の中、へとへとになりながら走ってきた。


 何気なく、レインコートのフードの中を覗く。


 俺はその時、息を呑んだ。


 顔はそのまま、俺が生きていた頃の形をしていた。よく見れば、身長も体格も、俺の体とそっくりだった。だけど、あの人の中身は俺じゃないと俺は確信する。


 きっとあいつは、こうちゃんだ。間違いない。どういう経緯でこんなことになっているのか、俺には分からなかったが、俺は高台から歩道に飛び降り、自転車を追いかけた。




 自転車が停まった場所は、俺の家だった。こうちゃんを探すとき、俺は自分の家に帰りたくなくて、いつも素通りしていた。そりゃあ、今まで見つからなかったわけだ。


 俺は後ろから、玄関への階段を上っているこうちゃんを見る。こうちゃんはなんだか、足取りが重かった。


 こうちゃんが家の中に入り、俺は玄関のドアの前でぽつんと立った。こんな時に、俺は迷ってしまう。


 インターホンを押すべきなのだろうか。


 もし押して、こうちゃんが出たとしても、俺を見ることはできるのだろうか……。


 こうちゃんは、俺のことが分かるだろうか。


 何十分も悩んで、俺はあることを思いついた。


 俺はこの鍵穴くんの姿でここにいる。こうちゃんが俺をぼーちゃんだと分からなくてもいいように、俺は俺の思う鍵穴くんを演出しようと思った。


 俺は背を伸ばしてインターホンを押す。


 どうか、どうか出てきて……。


 そう待っていると、奥からゆっくりと足音が聞こえた。


 そして、ゆっくりとドアが開けられる。


 そこにいたのは、俺の姿をしたこうちゃんだった。


 俺の姿をしたこうちゃんは、俺と目を合わせる。


 こうちゃんは俺を見て、おどおどと戸惑った様子になる。


 間違いない、この戸惑いの表情はこうちゃんだ。俺はそう信じて疑わない。


 俺は、俺の思う鍵穴くんのキャラクターを思い浮かべる。


 元気溌剌で、後先を考えず行動したりして、ちょっとおっちょこちょいなところがある、かわいらしいキャラクター。


 俺は、言う。


「えっ、もしかして、僕のことが見えてる?」


 そう言うと、こうちゃんは分かりやすく、え? と驚いた後に、こくりと頷いた。


 よっしゃ! 俺は心の底から喜んだ。


「ねえ、君は、令斗君って名前で合ってる?」

 俺はそう訊く。

「えっと、そう、だけど……」

 こうちゃんはそう答える。


 俺は一度、こうちゃんと一緒にいて、間違えてしまった。こうちゃんの心を考えずに行動してしまった。だから次はちゃんとした形で、こうちゃんと接してあげたい。こうちゃんの悩みだってきちんと聞いて、解決する。俺はそのためにここにやって来たんだ!


 俺は、今度こそこうちゃんを助ける。


「やったあ! あ、ぼ、僕の名前は鍵穴くん! ずっと君を探してたんだ!」


 まるで何かの物語の始まりみたいに、無邪気な高い声で、俺はこうちゃんとやっと出会えたことへの喜びをこぼしながら言った。




 僕は、お母さんの住むアパートの部屋から出た。時間はもう、五時半に差し掛かっていた。


「今日は、ありがとうございました……」


 この真実を知って、そのうえで、この後にどうしたらいいのか、見当もつかないまま、僕は玄関で立っているお母さんにそう言った。僕はずっとここにいるわけにはいかない。


 お母さんは優しい表情で言った。

「今日、あなたが来てくれて、とてもよかったわ。」

 そう言って、涙を浮かべていた。


 その涙を見て、僕は、すべてをさらけ出したい気分に駆られた。お母さん! と、叫びたくなった。違うよ、僕、本当は昂輝なんだよと。お母さんの温かさを思い出した僕は、ずっとここに居たかった。お母さんに僕を認識してほしかった。お母さんはこれからもずっと、この部屋で、無機質な場所で一人ぼっちだなんて……。


 でももう、本当のお母さんの愛情を受けられることはない。


 けれど。


「あの、また、いつか、ここに来てもいいですか?」


「うん、いいわよ。昂輝だって喜ぶわ……」


 涼しい外の空気が、温かいお母さんのいる場所から離れていくのだと、僕に実感させた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る