第四話 ありがとう

 レンガの壁で囲われた店内を暖かい色の照明が照らしている。

 黒く苦い飲み物をテーブルに置き、二人は木製の椅子に座り向かい合っていた。


「――コーヒー、飲めるか?」


 そう聞いたのは、先刻シラーから危機を救った命の恩人――スイレンだ。

 そして、コーヒーカップを持ちながら停止している瑠璃は、心の中で呟いたつもりだった筈の言葉を無意識に口にしていた。


「……それ頼んだ後に聞くことじゃなくね」

「――! そ、そうだな、すまない。……やっと喋ってくれて、嬉しいぞ」


 そうスイレンに言われ瑠璃はやっと、思っていたことを声に出していたことに気付く。

 ――騎士達が去った後、瑠璃はスイレン行き付けのカフェに向かった。

 道中にスイレンが色々瑠璃に質問していたのだが、反応は皆無であった。

 それが今、遂に口を開いたとスイレンは少し感激した。

 記憶を取り戻した直後と比べ、瑠璃は少し落ち着いていた。とは言え、まだ完全にスイレンに心を開いた訳ではない。

 コーヒーカップを置いた瑠璃は、慎重に言葉を発した。


「……今なら、少し話せます」

「おぉ、そうか。じゃあ、まず名前を教えてほしい」

「な、名前?。え、えーっと……ラピ――」


 瑠璃は、神になった時に授かった名前を言おうとした。

 しかし、その途中である一つの思いが、心の中で芽生えた。

 ――この神なら、本当の名を伝えても何も思わないかもしれない、と。

 単調に会話を進める一面のあるスイレンだが、瑠璃は彼にスミレの時と似たような感情を覚え始めた。

 スイレンになら、自分の本当の名前を伝えられる。それでもやはり抵抗感もあった。

 その名前を伝えたら、相手の自分に対するイメージが底辺まで下がってしまうかもしれない。

 ――だが、此処で成長しなければ、瑠璃は一生成長できないままだろう。

 全員が全員、その名前でイメージを下げる人物とは限らない。スミレの様に、明るく接してくれる神だって沢山いる筈だ。

 瑠璃は――覚悟を決めた。


「――瑠璃って、言うんだけど……」


 スイレンは――微笑みを見せた。

 それは決して、瑠璃を貶める笑みではない。


「瑠璃――いい名前だな」

「――!」


 ――生まれて初めて、言ってくれた言葉。

 一生を終えるまで、聞くことはないと思っていた言葉。

 ――瑠璃の思考は、停止した。


「――え? なんで、泣いてるんだ……?」


 瑠璃は自然と、涙を溢していた。

 擬似的な肉体の筈なのに、心臓の鼓動音が聞こえたり、涙が出たり――瑠璃は、つくづくこの肉体に呆れた。

 それから瑠璃は、泣きながら笑みを浮かべた。


「――ありがとう」

「……え?」

「いやその……さっき助けてもらったのに、まだお礼言えてなかったからさ」

「そ、そうか。どういたしまして……?」


 これからは、前より少しだけ――胸を張って生きられる。

 そんな気持ちが、瑠璃の心の中を埋め尽くしていた。

 そして瑠璃は、スイレンに聞こえない程、小さく呟いた。


「本物に――ありがとう」

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