第24話 「初めてのハグはシャンプーの匂い」

 画面には、先輩の姿が映っていなかった。

 嘘だと思いたくて、慌てて顔を上げる。


「浅葱くん?」


 そこには心配そうな顔をした深瀬先輩がいた。

 さっきまでと同じように制服を着て椅子に座っている。自分の姿がカメラに捉えられていなかったなんて、微塵も気が付いていないみたいだ。


「先輩 ……?」

「なんか凄い汗かいてるけど暑いの?」


 そう言われて、自分の額に汗が伝ってるって気が付いた。まだ春だってのに、背中や足までぐっしょりと湿っている。


「いえ、ちょっと真剣になりすぎて……」

「それは光栄だね」


 えへへ、と笑う先輩が心なしか透けてる気がした。

 でも、先輩は自覚してないみたいだ。校門前で消えたときは、ちゃんと分かっていたはずだ。

 もしかしたら僕の見間違いとか、カメラのバグだったのかもしれない。いや、そうあってほしい。

 けれども、一瞬とはいえ見えなくなったという記憶は消えない。僕の記憶の奥底にこびりついて恐怖を植え付ける。

 先輩自身も気が付かないまま、空気に溶け込んでしまったら。僕が先輩のことを見えなくなってしまったら。そんな、もしもが怖くて仕方ない。


「先輩、また消えたりしませんよね?」


 芽生えた不安を押しとどめることなんて出来なくて、そんなことを聞いてしまう。


「怖くなっちゃったの?」

「そうですよ」


 怖くなったなんて陳腐な言葉じゃ言い表せない。

 あんな体験二度としたくない。

 もし、お別れしなければいけなくなったら「さよなら」の言葉を送りたい。何も知らずにいなくなるなんて受け入れられないから。


「浅葱くんって案外子供っぽいねぇ」


 笑われたって構わない。

 本当に心臓が止まりそうなくらい苦しかったんだから。


「私は、ここにいるからね」


 なだめるような声だった。それだけじゃ足りないって思ったのだろう、先輩は立ち上がり僕の方に近づいてくる。

 少し背伸びをして、僕の頭に手を伸ばす。髪を押しのけながら、ゆっくりと頭を撫でる。

 それがとても安心した。

 髪越しに伝わる体温が、目の前に存在するって証明してくれている。


「深瀬先輩」

「どうしたの?」

「抱きしめて良いですか?」


 もっと彼女の体温を感じたかった。

 ちゃんといるって、自分に言い聞かせたかった。


「ダメだよ」

「なんでですか?」

「ビデオついてるから」

「止めます」


 録画停止ボタンを押して、近くの机の上に置いた。

 未来へ残すための思い出よりも、今の不安を払拭したいって思いが強かったから。


「即答だね、そんなにしたいの?」

「したいです」

「……ちょっとだけだよ」


 そう言って先輩は頭の上に乗せていた手を首に回してくる。

 一歩踏み出し、僕に寄り添う。ふわりと石鹸の香りが漂った。

 僕から願ったけど、動悸が止まらない。

 先輩はそんな僕を知ってか知らずか、上体を押し付ける。僕の首筋に顔をうずめるようにもたれかかる。

 さらさらの黒髪が僕の頬をくすぐる。不思議とうっとおしいとか邪魔だとか微塵も思わななくて。むしろ、シャンプーの匂いが心地よくて。


 僕は支えるように、先輩の背中に手を回した。

 暖かくて、細くて、柔らかくて。それは全部、僕の知らなかった女の子の感触で、今初めて知る多幸感だった。

 僕の方が体は大きいはずなのに、包み込まれてるみたいで安心した。

 ちょっとと言わず、ずっとこうしていたかった。


「どう、落ち着いた?」

「もう少しだけ」

「今日だけ特別だよ」


 先輩の抱き着く力が強くなる。

 ドクンドクンと胸の鼓動が、肌を伝って僕の心臓まで届いてくる。脈も呼吸も体温も全部混ざり合って、まるで先輩の一部になったみたいで、とても心地よかった。


「浅葱くん。やりたいこと見つけたよ」


 先輩は僕の耳元で囁いた。

 いつもと違うところから聞こえる声は新鮮で、少しだけこそばゆかった。


「なんですか?」

「あのね私、観覧車乗りたいな」

「いいですね。近くだと、どこありましたっけ」

「葛西臨海公園とか大きいよ」

「行きましょうか」


 そういうと先輩は一歩下がる。

 僕らの間に距離が生まれた。顔全体がギリギリ見えるくらいの僅かな隙間。


「うん、行こう」

 

 先輩は優しさをたっぷり含んだ笑顔を見せる。


 この人がずっと笑ってくれればいいな、なんて思った。

 そう願った、そんな夢を持った。

 夢は叶わないものだと答えた、この僕が。

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