練兵に倣う灰滅-4-

「さてさて、治療を始めるよ」と促したテオさんの言葉に、やっと治療が始まる、と一安心したところ。テオさんが「はーい、傷口見せてね」と触れたたったそれだけの仕草にも拘らず、ビリッとした痛みが迸って僕は少し唸る。肩の方はまだマシなのだが、如何せん両腿の断裂面が激しい疼痛を生んでいる。


「ハルちゃんさあ、この子の肩ゼロ距離で発砲したでしょ? 傷口周囲の皮膚に火薬による焼け焦げ跡が残ってる。あと炸裂弾だけど、ざっと見合わせて両足に五十箇所は断片が残ってて、これ全部を取り除くとなると一時間弱は掛かるからその点は覚悟しておいてよね」


「まあ、抑々そもそもその傷を負わせたのは俺自身だしな。治療にそれなりの時間がかかるのは仕方ないが、お前のできる範囲内で手早い処置を頼みたい」


 果たして治療に要する時間が一時間というのが長いか短いかはよく分からないが、通常で考えたら非常に短いのだろうことは何となく察した。自分で自分の傷口を見て思うのは、これを一時間で処置し切るというのが難題であろうことが自ずと分かってしまうのである。見るからにグロテスクな銃創に剥き出しの骨。これを治療し切るとなると数時間は掛かるのではないかと思われるが、それを小一時間で処置するとなると相当の手際の良さと的確な措置が求められるに違いない。


「治療って一時間で終わるものなんですか?」


「え? うん。異物の摘出後、患部を可及的に洗浄して、他の部位はデブリと創縫合した後、定期的に感染症予防のために抗生剤を投与すれば何とかなるかな。あっと、デブリっていうのはデブリードマンの省略で……」


「いやもういいです。専門用語を羅列されてもよく分からないので、とりあえず治療をお任せします」


「ん? ああ、そう?」


 傷口にイソジンと思われる茶色の液体を打ち撒けて、躊躇いなく処置に取り掛かる光景を見るにあたって、ああこの人は本物の医師なんだなと漸く確証を得たところ。テオさんは不可解な面持ちで首を傾げ、手を止めた。


「ハルちゃん、これ本当に応急処置だけしかしてない……?」


「ああ、やっぱり俺の見間違いじゃねえよな」


 二人して神妙な顔付きで向かい合う。テオさんが言うには、今朝八時半頃に負った外傷にしては傷の治りが早過ぎるとのこと。時刻で言えば現在午前十時。素人目には治癒速度がどうのこうのと分かる訳もないのだが、玄人の目によれば通常の数十倍で治癒反応が進行しているらしい。あの時レンさんが怪訝そうに荒事の跡を見据えて、眉根を寄せながらこちらに手を伸ばしていたのは、僕の尋常ならざる治癒能力の真相を確かめるためか、と漸く確証を得る。治療の手を止めずにテオさんは僕の損傷痕を眺めるが、二人が頭を悩ませた疑問が解決することは到頭なかった。


「実はもう一つ、テオさんのお知恵を拝借したい問題があるんですが」


「ん、何? 治療のついでだから聞いてあげるよ」


 沈思黙考する彼を他所よそに、ここで僕は自身が記憶喪失になった理由について医学的視点からの知見を得ようと有識者たるテオさんに尋ねてみた。無論記憶喪失より以前の僕がどんな人物だったか興味はあるが、それは医学者と一緒に考えたとて無意味というもの。医学を修めた者に聞くべきは、記憶喪失になった根拠そのものである。


「僕、記憶喪失みたいで、その記憶を取り戻すことがレンさん達第一部隊に同行する理由の一つなんですけど。記憶喪失になった原因を探る手立てとかって、医学的方面から見て何かないですかね?」


「いや、記憶障害や健忘症にも色々と種類があるから、どれに該当するか探求の余地はあると思うけど。え、何。ハッチ記憶ないの?」


「恥ずかしながら。一応レンさんの見立てでは意味記憶が保持されたままエピソード記憶が障害された逆行性健忘症らしいんですけど、これに関してもいまいちよく理解できていないので補足説明して頂けると助かります」


「オーケー了解。まずは記憶障害について説明しようか」


 テオさんの講義は、記憶障害とは何か? から始まった。

 曰く、記憶とは記銘・符号化・想起の三つの過程からなり、これらのいずれかでも害されると記憶障害が発生するという。また記憶は継続時間により二つに分類され、短期記憶:意識的に数分間覚えているものと、長期記憶:睡眠後や他のものに長時間集中した後でも覚えているものから構成される。更に記憶は内容により分類することもでき、エピソード記憶:時間・空間的な個人生活史の記憶所謂いわゆる思い出を指すもの、意味記憶:教科書的な知識の記憶で単語の意味、数学・科学など公式、法則などを例とするもの、手順記憶:ピアノの演奏や自転車運転の技能など意識に上らず言語的・視覚的に表現することが難しいものが挙げられる。

 健忘症とは主にエピソード記憶が障害されたものを言い、記銘障害とされる前向性健忘と想起障害とされる逆行性健忘に二分される。これら症状の発現に寄与するものとして、疾患性、外傷性、薬剤性、心因性などが挙げられるとのこと。


 脳に重大な疾患がないか、薬物の過量投与の痕跡がないか、画像検査と血液検査を通じて、テオさんは手を尽くしてくれた。結果として判明したのは、脳腫瘍や脳梗塞等の脳疾患や薬物乱用の可能性が極めて低い点から疾患性・薬剤性の筋が消えた点、視診と触診から外傷性の線が消えた点であり、つまりは心因性の健忘症である可能性が高いという結論であった。


「ハルちゃんに捕獲される前の記憶が一切ないってことは、それ以前に重大な心因性ショックになり得る事件があったということになる。『それが何か』までは、医学で証明し切れないけどね」


「つまり僕の記憶障害は心因性の逆行性健忘症に該当して、レンさんとのイベントが生じる前に何か枢要な精神的ショックを受けたことが切欠なんですね。何が因果関係にあるのかまでは分かりませんが、少なくとも身体検査の結果でこの身が五体満足の健康体であることが分かっただけで、生きていく上での問題点が一つ消えました」


 記憶は欠失してしまったものの、身体は健康そのもの。記憶探しに支障は来さないものと考えた僕は、これが俗に言う不幸中の幸いなのだろうと前向きに物事を捉えることにした。

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