Apricot's Brethren

首輪に従う黒狗-3-

　第四隊舎を後にして十分くらいしたところだろうか。一つの大きなドアの前で男の足がぴたりと止まったのは。厳かな造りをした扉は、先まで冷やかしの単語を飛ばすガヤの跋扈する一帯とは異なり、森閑とした浩蕩たる廊下の内壁に聳え立つ。それは如何にも向こうにお偉方が着座していると思わせる、荘厳っぷりであった。

　護衛や監視などの人目がない、ひっそりと静まり返る門前。その様を目の当たりにして、僕は漸くここが終着点なのだと深く息を飲む。己の罪状がここで暴かれ、判決が下るものだと思うと、心臓が早鐘を打った。

「もう喋ってもいいぞ、ハチ」

　右肩から僕を降ろすと、男は発声の許可を出した。長らく無音声を強要された反動から「ふうー」と息を吐いているところ、男が飼い犬を褒める飼い主の如く「グッドボーイ」と頭を撫で回してくる。突然のことで何をされているのか一瞬訳が分からなかったが、顕著に馬鹿にされていると理解した瞬間、未だ掻い撫でる男の手をバシッと叩き落とした。彼としては少し茶化したつもりなのだろうが、不機嫌を露わにする僕に「つれねえな」と一笑して済ませようとする姿は、何とも憎らしく見えた。

　地に足を付けた瞬間、例の銃撃で負傷した太腿の弾痕が酷く痛み、ふらりと足元が覚束ないことに気が付く。そうだ。応急処置をされたとは言え、一応自分は大怪我を負った重傷患者であった。そう思い出すと同時、怪我を負った瞬間アドレナリン放出のお陰で我慢に堪え得る痛みであったものが、今となっては立っていることすら酷く辛いほどの疼痛に苛まれるものへと変移した。このまま総括官様にお目に掛かるのは困難なのではないかと感じる程度には、両足が上手く機能しない。それを察知した男が、無言で左肩を貸してくれたのは、何より幸いであった。

　その男の真横で、今一度【名前（ハチ）】について考える。どうやらこの名称は固定のようだ。もっと実用に堪える渾名であればと、名付け親たるコールマン大尉に内心毒突くものの、男の認識は既にハチで固着されているのでどうしようもない。大体何であの時秋田犬の面をさせられていたのか、それさえなければこんな屈辱的な命名などされなかったはず。と不本意に彼辺此辺（つべこべ）言っても後の祭り。何より自身が名無しの権兵衛（ジョーン・ドゥ）のままでは不便だと思っていたから、ハチと呼ばれることは半ば諦めに近い心持ちで了承していた。

「何笑ってんですか。あんただって名高い狼【ルディ】なんですからね！」

　しかし、笑われ者となったことを許した訳でないため、男に「他人（ひと）のことを言えるものか」と透かさず噛み付くことも忘れない。――が。

「ルディの意味まで分かるとは博識じゃねえの。ま、でも俺にはお前と違って本名があるからな。ハチしか名前を持たないお前に比べたら大したことじゃない。名付けてくれたコールマンに感謝しろよ」

　まあ実際、本名を持つ持たないの大きな差が付けられている事実を突き付けられ、ぐうの音も出ない状況に追い込まれるのだが。苦虫を噛み潰したように渋い顔をする隣で、男は一人からりと笑っていた。僕の表情が見えないにも拘らず、僕が顰（しか）めっ面をしているのだと想像してのことなのだろう。

「さて、ここから先は総括役直々の尋問だ。俺みたいな拷問染みた暴力は発生しないが、適当な強弁が通用する相手でもない。無論一つでも発言を失敗（しくじ）ればお前自身の首を絞める形となるだろう。これから行われるのは最高裁判だ。後には引けない」

　冷静に忠告する男の言葉一つ一つに重みを感じる。控訴が通用しない、最終判決が下る場。気を引き締めて臨まなければ。

「無実を証明し切るとは言いませんが、何としても生き延びて見せますよ」

「そうか。その腕前のほど、篤と拝見させてもらおうかね」

　二人して顔に付けた面とガスマスクを外し、入室の準備を整える。ギイ、と古めかしく軋む音を立てて、儼乎たる開き戸が動き出した。その向こうには豪華絢爛な執務室が広がっている。そして、その部屋の一角にある重厚な執務机には、こちらに背を向けて座す男性の後ろ姿があった。

「失礼します、桐生（きりゅう）閣下。本日〇八〇〇（まるはちまるまる）、ラナンキュラ遠征任務より帰投致しましたルベルロイデ少佐であります。加えて先ほど確保した第一級接触禁忌種厳重管理区域の侵入者をご命令通りお連れ致しました」

「やあ。先の遠征任務はお疲れ様だ、少佐。そして――」

　くるりと座椅子を回してこちらを向いた壮健な初老の男性が、柔やかな笑みで僕達二人を迎え入れた。手を組み机に肘を付く――その細部に至るまでの所作は、まるでどこかで見たことのある紳士そのもの。

「初めましてだね、子犬のような坊や」