僕とよっちゃん

@benzai

第1話

1


 僕は記憶にないくらい小さな時から、喘息持ちだ。と言っても、僕はまだ小学三年生。そんなに長い時間生きているわけでは無いけど、喘息ってのはほとほと嫌になる。でも、僕以上に家族が喘息を気にしてくれる。だから、僕は不幸では無い。


 それは突然だった。三年生になって、新しい学年で頑張るぞって思っていたら、お父さんが急に九州に引越ししようって言い出した。どうやらお父さんに転勤の話が出たらしい。だから、僕達も一緒に行かないかと言うことらしい。

 初めはお母さんは反対していた。でも僕の療養も兼ねてと言われて、最後は納得していた。もちろん、僕も反対する理由は無かった。そんな訳で、4月の中頃に転校することになったんだ。




2



 引っ越し先には田んぼが広がっていた。僕の勝手なイメージでは綺麗な黄金色が広がってるはずだった。でも、初めて見た田んぼは全然違っていて、茶色い土に緑の細い葉っぱが生えていて、お父さんに田んぼだって言われなかったら、分からなかった。だから、初めて見た田んぼは、物足りなかったんだ。

 新しい家には僕だけの部屋があって、畳の上に寝っ転がってみた。ほんのりと冷たくて気持ちがいい。でも、このままじゃいつまでもサボってしまうと思い、身体を起こすと荷解きを再開する。

 暫くすると来客があったらしい。玄関の方で話し声がしている。僕は気にせず、ゲーム機をダンボールから取り出してテレビ台の下になおした。

「おーい、直樹。」

 お父さんが玄関から呼んでいる。何だろう。返事と共に玄関に向かった。

 玄関にはお父さんと同じ歳くらいの男の人と男の子がいた。

「こちらは近所に住んでる高橋さん。お父さんの昔馴染み。で、息子さんの芳樹君」

「どうも山田直樹です」

 軽く頭を下げて挨拶をする。

「こっちに来たばっかりなんだろ?俺が案内してやるよ」

 芳樹君がそう言って玄関を出る。僕は困惑してお父さんを見た。

「良いんじゃないか。ただ薬は忘れずに持って行くんだぞ」

 そう言うことで、芳樹君に案内して貰う事になった。


 村の案内をするには高い所からみるのが一番と言う事で急な坂道を登っていく。

「俺のことはよっちゃんって呼んでくれ。昔からそう呼ばれてるから」

坂の途中で立ち止まって、よっちゃんは言う。

「わかった」

 僕が返事するとよっちゃんは頷き、坂の上を見る。

「身体は大丈夫そうか?」

「ちょっと、きついや」

 僕の答えに困った顔をして「後、少しなんだけど」と呟く。

「まあ、いいや。コッチに来て」

 よっちゃんは草の中に分け入る。僕は躊躇してしまう。勇気を持ってよっちゃんを追いかける。

 よっちゃんは少し進んだ先で待っていた。そこは開けた場所になっていて、遠くまで見通せた。

「ここはちょっとした広場で、俺らより小さい奴らの隠れ家的な場所なんだ。それより、見て。あっちにあるのが直樹家で、あそこにあるのが俺家」

 よっちゃんは話しながら指し示してくれる。今見ている左側に民家があって、右側には川が流れていた。

「川の近くにあるのが学校。雨で避難する時は学校じゃなくて、あっちの市民館に行くんだ。地震の時は学校だからな。覚えとけよ」

「うん」

「で、本当はこの上の神社に行くつもりだったんだけど。お社しか無いし、いいか」

僕は坂の上を見上げる。

「どんな神様がいるの?」

「龍神様だってさ。分社って言うのかな、本当はあの川の上流、湧水の所の神様らしい。ほら、あの山の頂上だ」

僕はなだらかな山の頂を見た。何だかとても厳かな空に見えた。




3



 僕とよっちゃんは放課後に遊ぶのが当たり前になっていた。オタマジャクシを捕まえたり、よっちゃん家の田んぼに素足で入ってみたり、僕には初めての経験ばかりだった。

 今日はよっちゃんと学校近くの川でザリガニ釣りをしていた。

「どう釣れた?」

「全然。本当にスルメで釣れるの?」

「本当だって」

 僕とよっちゃんはスルメを齧りながら、川の中を見つめている。糸に吊るされたスルメに魚が寄ってはくるが、ザリガニは全然見えない。

「おっかしいなぁ」

 ぼやきながら、よっちゃんは川の中に足を踏み入れて行く。深さは膝下くらいまでしか無いらしい。

「おっ、亀発見。こっち来いよ。足元に気をつければ大丈夫だって」

 僕はゆっくりと川の中に足を入れる。思ったより水温が低くて、変な声が出た。

「歩き難い」

「しっかりと足を踏み締めてから、次の足を出さないと転ぶからな」

 よっちゃんのアドバイスを聞きながら、慎重に進む。足元の石が崩れたりもしたが、転ばずにすんだ。

「これ、イシガメだ。確か、日本固有種ってやつ」

「種類が分かるって凄いね」

「慣れだよ。誰でも出来るさ」

 僕は手渡されたイシガメをまじまじと観察する。亀は僕の手から逃れようと必死に手足を動かしている。そんな姿を見ていたら、この亀にとって僕は逆らえない運命の悪戯なのかも知れないと思った。僕の考え方や気分次第で、どうとでもなってしまう。この亀自身ではどうする事も出来ない。運命の悪戯。とても嫌な言葉だ。

 僕はそっと亀を逃してあげた。亀は手を離れると凄い速さで水の中を泳いでいった。

「亀って泳ぐの速いんだね」

「意外と速いぞ。冬場は遅くなるけど」

「へえ」

 僕はここに引っ越してから沢山の経験や知らない事を知った。そのほとんどはよっちゃんといる時だ。

「僕さ、こっちに引っ越して来て良かった。よっちゃんにも会えたし」

 素直な言葉が出た。

 一瞬、よっちゃんは呆気にとられてたけど、すぐに笑顔になる。

「俺も直樹が引っ越して来てくれて良かった。一人だとつまんないからさ」

 気恥ずかしくてむず痒いけど、悪くないと思った。

「そうだ。夏休みに龍神様にお参りに行かないか?二人で」

よっちゃんの指さす先は山の頂だ。

「二人で?」

「そう。弁当とかお菓子とか持って行こうぜ。時間はかかると思うけど、大丈夫だって」

「わかった。行こう」

 こうやって僕達は冒険の旅に出る事にしたんだ。




4



 あれから、僕達は少しずつ準備をしていった。山歩きに必要な物を調べたり、チョコレートやビスケットのお菓子なんかを買ったりした。

 準備をしている時はワクワク、ドキドキしていたけど、ある問題が起こった。よっちゃんのお母さんが入院したのだ。だから、6月の上旬頃からよっちゃんと遊べなくった。

 僕も親と一緒にお見舞いに行った。よっちゃんのお母さんは元気そうにしてたけど、よっちゃんはかなり落ち込んでいた。心配だったけど、僕には何もする事ができない。それが悔しくて仕方なかった。

 夏休みに入る少し前に、よっちゃんが龍神様にお参りに行くって言い出した。

「本当に行くの?お母さんのお見舞いとかはどうするの?」

「見舞いに行ったって俺には何も出来無いからいい」

 何だか、よっちゃんは辛そうな顔をしている。

「本当に大丈夫?」

「直樹はどうする?直樹が来ないなら、俺一人で行くけど」

僕の質問には答えない。よっちゃんの意思は固いようだ。僕はよっちゃんを一人にしちゃいけないと思った。

「行くよ。僕も行く」

「じゃあ、夏休み最初の月曜日にしよう。朝九時に学校近くの川に集合だ」

「分かった」

 前みたいにワクワクはしなくなっていた。ただ、漠然と不安を感じた。




5



 朝から雲一つ無い快晴で、暑くなりそうだった。

 しっかりと準備したリュックを背負うと、僕は気持ちが引き締まる思いがした。

 集合場所にはよっちゃんが先にいて待っていた。

「ごめん。お待たせ」

「大丈夫。俺が早く来ただけだから。それより、喘息の薬は忘れてないよな?」

「大丈夫」

 そう言って、吸入器を腰のポーチから取り出してみせる。

「予備の薬もリュックに入ってるから」

 しっかりと準備して来たから心配は無い。

「それじゃあ、冒険に出かけますか」

 よっちゃんの笑顔が輝いて見えた。少し心配していたからホッとした。

 歩き出してすぐによっちゃんは山歩き用の杖を一本僕に貸してくれた。杖は凄く軽くて驚いた。

「でも、これ2本で使うんじゃないの?」

「1本でも大丈夫さ。それにサポート用だしね。絶対必要なわけじゃ無い」

 ゆっくりと川の流れに逆行しながら、僕達は歩いていく。少し進むと道は木々の中を通っていた。獣道のようなところを進んで行く。

「ねえ、よっちゃんは龍神様の所に行った事はあるの?」

「あるけど、村からじゃなくて町から行ったな。町の中通りを抜けて、山に入る道をずぅっと行けば着くんだ。でも、そのルートだと冒険にならないだろ」

 自信満々なよっちゃん。僕は声を出して笑った。

「そうだね。簡単に着いたら意味が無いや」

「だろ」

 よっちゃんも笑う。僕達は軽やかな足取りで冒険に出た。





6



 昼には自分で握ったおにぎりに食べた。持って来たおにぎりを交換した。僕は昆布、よっちゃんは梅干し。昆布も美味しかったけど、よっちゃんの梅干し入りも美味しかった。

 冷たい麦茶で喉を潤しながら、ホッと一息吐く。

「今、どれくらい来たのかな?」

「半分は来てると思う」

「結構順調だね。今のところ疲れもないし、楽しい」

「それ、分かる。進んでるって実感できるから、最高だよな」

「うん。見た事ない景色だからワクワクする」

 そんな事を言い合って、また歩き出した。


 調子が良かったのは昼までで、昼を超えると暑さにまいってきた。汗が止まらず、麦茶を飲むペースが速くなる。途中何度か立ち止まる。しかも、二時を過ぎたあたりから徐々に雲が出て来て、三時を過ぎると大粒の雨が滝のように降って来た。

 さすがに、カッパまでは用意して無かった僕達は雨に打たれながら、早足で進む。斜面の角度まで急になっていって、足を取られる。何度か足を滑らせ転けてしまう。

「痛っ」

 足を滑らせて、地面に膝を打つける。

 僕の声に振り返ったよっちゃんは、変な倒れ方をした。よっちゃんは蹲ると苦しそうな声をあげる。

「大丈夫?」

「ああ」

 そうは言うけど、痛そうに右の足首をおさえている。

「よっちゃん、肩を貸すからゆっくり行こう」

 よっちゃんは頷き、僕の肩に捕まる。一歩踏み出しては立ち止まる。一気に進むスピードは遅くなった。しかも雨のせいで、視界も悪く焦りが生まれる。はやる気持ちを隠しながら、僕達は慎重に進む。

 何度も諦めそうになる度に僕はあの日見た山の頂を思い出す。行きたい、行かなきゃ、何故かそう思う。

 どれくらい、そうやって歩いたのか分からなかった。周りを見るともう日が落ちて暗くなっている。雨は弱くなっていたが、まだ降り続けていた。

 一旦よっちゃんを座らせると、僕はリュックからライトを取り出す。暗い森の中を一筋の光が切り裂く。ライトの光を動かして周りを見てみる。ほとんど木しか見えない中、何か反射した気がした。

「よっちゃん。ちょっと休める所探してくるから、このライト点けて持ってて」

 リュックから予備のライトを取り出し渡した。

 僕は道から外れて、さっきの光が反射した所を目指す。少し進むと雨の音と草を踏み締める音しかしない。自分一人しか居ない事を実感して、急に怖くなった。一人ぼっちで寂しいような、寄るべない不安。

 僕はよっちゃんの方を振り返る。ライトの光が僕を照らしていた。それだけの事で勇気が出てくる。僕は恐怖を振り払い、闇の中へと進む。

 目を凝らすと木々の向こうに建物が見えた。薄らと闇に隠れて、そこに建っていた。目の錯覚かと思ったが確かに小屋が建っている。光の反射は窓ガラスのものだったみたいだ。窓から中を覗いたら、雑然とした室内が見えた。人が住むようなものではなく、物置のようだった。僕は建物を回って入り口を探し、扉を開けてみた。扉は何の抵抗も無くすんなり開く。少し埃っぽい匂いがするけど、それ以外に目立つ異変は何も無かった。

 僕は小屋を見つけられたのが嬉しくて、急いでよっちゃんの元へ走る。闇の中で煌めく光がよっちゃんの居場所を教えてくれる。

「よっちゃん。この先に小屋があったよ。扉も開いたから、中で休めるよ」

「本当か?」

「うん。よっちゃん、歩けそう」

「大丈夫だ。行こう」

 また、よっちゃんに肩を貸しながら、道をそれて森の中へ入った。闇の中を二人のライトの光は彷徨っていろように揺れる。僕達は何とか二人で小屋まで辿り着いた。





7




 小屋の中に入って直ぐに、僕達はリュックを下ろして、横になった。これ以上雨に濡れなくていいという事実が心を軽くする。

「よっちゃん、足は大丈夫?折れたりしてない?」

 寝転がったまま尋ねる。

「折れてはないみたい。捻挫だと思う。ちょっといてーわ」

 よっちゃんは明るく冗談めかして言う。冗談言えるくらいだから大丈夫だろうと、一安心した。

「途中であんなに雨降るとは思わなかったね。服がびしょびしょだよ」

 僕は腕時計をしたいた事を思い出して、時間を確認したけど、腕時計は雨で止まってしまっていた。

「よっちゃん、時間分かる?」

「ああ、6時15分だ」

 時間を聞くと急に空腹感が襲って来た。よくよく考えれば、3時間近く雨の中歩き続けてたんだからお腹は空くよな。

 リュックを漁ってビスケットやチョコレートを取り出すと、袋を開けて食べる。甘い味が口の中に広がって、最高に美味しい。僕は、バリバリと口の中にいっぱいに頬張った。

 よっちゃんはあんまり元気がない様で、暗い顔しながら少しずつ食べている。

「ごめんな、直樹」

「えっ?」

 唐突な謝罪に僕は虚をつかれた。

「俺が龍神様に会いに行こうとか言ったから…」

 よっちゃんは今の状況を招いたのは自分の所為だと思っているのかも知れない。でも、違うんだ。

「よっちゃんは運命って信じる?」

 変な質問かも知れない。でも、上手く言葉に出来なくても、よっちゃんに知って欲しいんだ。

 よっちゃんは困った顔をしている。どう答えていいのか分からないみたい。

「僕はね。引っ越して来るまで、絶対的な運命ってあると思ってた。じゃ無かったら、僕が喘息になるなんて、おかしいじゃないか。僕は何も悪いことしてないし、お父さんだってしてない。お母さんだって悪い事してない。なのに、病気になった。よっちゃんのお母さんだって、何も悪い事してないのに病気になったよね。不公平だよ。」

 僕は一気捲し立てたいた。一息呼吸を入れて、今度はゆっくりと伝える。

「僕は全てが決められている絶対的な運命って言葉に縛られていたんだ。でも、よっちゃんは逆みたいだ。全て自分で決められる。全て自分が変えられるって思ってるみたい。だから、何か悪い事があると自分を責めてるみたい。でもさ、絶対的な運命ってのは無いし、逆に全てを自分で決めたり変えたりなんて出来ないんじゃないかな。例えば、雨が降ることは僕達には止められない。でも、傘をさしたり、木陰で雨宿りをしたり、今日みたいに雨の中歩くって決断する事はできる。こんな風に世界はなってるんだよ。避けられない事や、凄く嫌な事はどうやってもおこる。でも、その中でどうするかは選べるし、選ばなきゃいけないんだと思う。」

 途中からよっちゃんは俯いてしまった。よく見ると、体が震えていて泣いているみたいだ。

「俺さ、母ちゃんが病気なって痛感したんだ。直樹が言う不公平。それまで、直樹の喘息のことは知ってたけど、それがどんだけ苦しいかなんて考えた事も無かった。いつも遊んでたのに、これぽっちも気付かなかった。母ちゃんが死ぬかもって思ったら、どうしていいのか分からなくなって…。自分じゃ何も出来ないんだって、痛いほど感じた。だから、無理矢理にでもお参りしようとしたんだ。他にどうしていいか分からなかったから。俺、だから直樹に謝らないと、俺の我儘だから」

 よっちゃんは「ごめん」と頭を下げる。

「気にする事無いよ。よっちゃんと龍神様にお参りに行くって決めたのは、僕自身だから。あと、ある程度の我儘は許されるんじゃないかな。と言うか、許されて欲しい。じゃないと、僕達今回の事で相当酷く怒られちゃうよ」

 そう言うと、よっちゃんは少しだけ笑ってくれる。

「俺、無意識に何でも自分でどうにかしなきゃいけないって思ってたのかな?」

 それは僕へ向けた言葉じゃなく、自分へのなげかけだった。

「何でも出来るって思ってたのかもね。僕は何にも出来ないって思ってたんだよ。僕達の考え方って、足して二で割れば丁度いいじゃないかな」

 僕はよっちゃんにそう言うと麦茶を飲み干す。

 よっちゃんは深く考え込んで、自分の考え方や思いを飲み込もうとしていた。






8




 僕はいつの間に眠っていた。目が覚めて、周りを見るとよっちゃんの姿が無い。慌てて外に出ようとして、荷物が置きっぱなしにしてあるのに気付いた。どうやら、遠くには行ってないらしい。僕は静かに外に出た。

 外は雨もあがり、満点の空に沢山の星が煌めいていた。よっちゃんは開けた場所で空を仰いでいる。

「綺麗だね」

 僕がそう声をかけると、よっちゃんは僕を振り返った。その顔は少し晴れやかな気がする。

「すげぇよな。こんな景色見れるとは思わなかった」

「思いもよらない事にも良い事ってあるね」

「ああ」

 しみじみとそう思う。

「目が覚めたんだし、食べたら出発するか」

「今、何時?」

「四時半くらい。日の出は6時くらいだからさ。涼しいうちに歩くのもありだと思う」

「そうだね。じゃあ、さっさと準備しようか」

 僕達は小屋に戻ると残っていたお菓子を食べて、リュックを背負うと小屋を後にした。

 よっちゃんは昨日よりも足は痛く無いと言って、自分で歩いている。遅いくらいのペースだけど、昨日と違って周りを観察する余裕があった。僕達がいるのは高い木が生えている森の中だ。上を見ると、白んできた空が木々の隙間から見える。もう夜が明けているようだ。

 森を抜ける頃には、僕もよっちゃんも息を切らしていた。ただ、坂は続いている。

「あの上が頂上だ」

 よっちゃんが坂の上を指さす。距離はそんなに無い。あとちょっとだと思うと元気が出る。

「あと少しだね。頑張ろ」

 僕はよっちゃんと並んで登って行く。あと少し、あと少し。何度も心の中で繰り返す。はやる気持ちが抑えられそうに無くなって、僕は拳を握りしめる。よっちゃんも段々ペースが上がってきた。


 坂の一番上に立つと、目の前に広がる景色に圧倒されて声すら出なかった。こんなに近い雲、盆地の様になっている大きな湖、まるで鏡の様に反射している水面、湖を囲む山頂、山頂越しに広がる青い空。全てが大きくて、僕達は小さくて。色んな感情が湧き上がってきて、僕は泣いていた。横のよっちゃんも泣いていた。

 涙を拭って空を見上げると、雲の隙間から光が差していた。

「よっちゃん見て。天使の階段」

 本当に天使が降りて来そうな光が、湖を照らす。光は水面に広がり湖自体が光をはっしているようだ。

 一瞬、強い風が僕達を打つ。風を受け流し目を上げると、雲の中から大きな竜の顔が現れた。顔は大きく湖と同じくらいで、身体は雲に隠され見えなかった。あっと、声を上げる間もなく竜は湖へと飛び込んでいく。なのに、水面は波風立たず、湖自体が異世界への入り口に変わった様に見えた。長い胴体がするすると湖に消えていく間、僕達は間抜けな顔をしてただ見ているしか無かった。

 どれ程経ったのか、よく覚えていない。ただ、気づいた時には竜の姿は消えていて、湖も元の鏡のような水面になっていた。

「見た?今の」

「直樹も見た?」

「うん。凄かった。音も風も無いのに、グワーって湖に飛び込んでいった」

「俺達、会えたんだ。龍神様に会えたんだ」

 僕達は口々にすごいとか、カッコよかったとか、興奮しながら話した。

「そうだ。お祈りしないと」

 僕は礼をすると、二回手を叩き、手を合わせて目を閉じる。不思議な事に僕の心には、感謝しかなかった。喘息を治して下さいって、お願いしに来たはずなのに。でも、それで満足だった。今、僕の心の中には感謝しか無いんだから。

 目を開けると、よっちゃんも祈り終わっていた。

「さあ、帰ろうぜ」

「そうだね」

 二人で一度湖を振り返ると、深く頭を下げて、その場を後にした。追い風が背中を押してくれた気がした。





9




 僕達はよっちゃんの足の具合も考えて、楽な道を帰る事にした。町に繋がる道だ。ただ、その道を探すのに少し迷った。30分程道なき道を突き進むと、神社の鳥居が見えて来て、そこを抜けるとコンクリートの道が下へと続いていた。

 僕達が村に帰り着くと、大人達が凄い形相で近づいて来た。どうやら、僕達を探していたらしい。僕もよっちゃんもこってりと説教された。説教よりもお母さんが泣いた事の方が応えた。


僕達のお参り事件から一カ月程がたった。夏休みも終わり、田んぼが黄金色に染まり出した。

「今日、よっちゃんのお母さん退院するんですって」

 お母さんが朝ご飯を食べてる僕に言う。

「急に具合が良くなって、検査したら癌が治ってたんですって」

 それを聞いて僕は言う。

「やっぱり、龍神様のおかげだよ。僕もよっちゃんもちゃんと見たんだ」

 僕の意見は今まで夢だと判断されてきた。でも、さすがによっちゃんのお母さんの不思議な話で信憑性もあるはず。

「そうかもな」

 お父さんは笑って言う。

 信じてなさそうだ。でも、良いんだ。僕達だけは知っている。

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